マレーシアの漫画
本項ではマレーシアの漫画(マレーシアのまんが)について述べる。マレーシアは主にマレー人と中国人、次いでインド人からなる多民族国家であり、漫画はそれぞれの集団の多様な言語で出版されてきた。隣接するシンガポールの漫画とは歴史的に関係が深い。
歴史
発祥: 19世紀-第二次世界大戦まで
マレーシアは1963年にいくつかの旧英国植民地が連合して成立した国家だが、この地域の漫画出版は19世紀の英領マラヤに起源を求められる。マラヤの貿易拠点だったシンガポールとペナンは出版業も盛んであり、後年まで漫画文化の中心だった[1]。1938年にシンガポールに設置された南洋芸術学院では漫画家が育成されていた[1]。クアラルンプールやジョホールバルで漫画出版が行われるようになったのは20世紀半ばのことで[1]、東マレーシアでは21世紀になるまで地域の漫画が発展しなかった[2]。
近代的な漫画 (一コマ漫画) は植民地主義とともに到来した。1868年に英国商人のために創刊された英字紙『ストレーツ・プロデュース』は、本国の『パンチ』誌にならって風刺漫画を紙面の中心にしていた。同種の出版物としては日本で刊行された『ジャパン・パンチ』(1862)、中国の『チャイナ・パンチ』(1867) に続いてアジアで3番目だったと考えられている[3]。
英領マラヤに流入した移民労働者はそれぞれの母語で新聞を発行した。シンガポールの華字紙『中興日報』は1907年に最初の一コマ漫画を掲載した[3]。革命家孫文の支持派が出版する新聞で、初期の漫画作品はいずれも清王朝を攻撃する内容だった[4]。この時期の中国語漫画は主に中国本国の政治を題材としており、1937年の盧溝橋事件以降は日本の中国侵略に激しい批判が向けられた。しかし1942年に英領マラヤが占領されると、それらの漫画の作者は日本軍によって処刑されることになった[3][5]。
マレー語の風刺漫画は中国語よりも遅れて発展した。その理由としては、手本とされていたアラブ諸国の新聞がイラストレーションを使用していなかったためだという説や[2]、マレー人が植民地の民族集団の中で特権的な地位におかれていたため政治風刺の動機が弱かったという説がある[3]。Warta Jenaka のようなマレー語新聞では1930年代にようやく読者投稿の素朴な作品が載るようになった[2]。1939年、マレー人が所有する最初の新聞であった Utsan Zaman にマラヤ初のコマ漫画 Wak Ketok(→叩くおじさん)が連載された。「マレー語ジャーナリズムの父[6]」と呼ばれたアブドゥル・ラヒム・カジャイが原作を書いていた[2]。初期のマレー語漫画には伝統演劇のバンサワンや影絵芝居のワヤン・クリの影響があり、韻文のパントゥンやことわざを取り入れた文章が特徴だった[7]。
日本占領期には、英国支配のもろさを目撃したことでいずれの民族も独立意識を高めた[3]。後に建国の父と言われるトゥンク・アブドゥル・ラーマンは反日的・民族主義的な漫画を描いていた[7]。その一方で、水彩画家アブドゥラ・アリフは日本軍が発行したペナン新聞に親日的なプロパガンダ漫画を描いた[3][7]。アブドゥラ・アリフの作品は1942年に Perang Pada Pandangan Juru-Lukis Kita(→私たちの漫画家が見た戦争)としてマレー語・中国語・英語の文章をつけて書籍化された[3][7]。
戦後: 1940-1950年代
第二次世界大戦が終結した直後の政治的空白期には共産ゲリラによるマラヤ危機が勃発し、民族間の対立が高まった。マレー人と中国人の漫画家は社会や政治を風刺する作品を描き、民族宥和と進歩主義を唱えた。『ザ・ストレーツ・タイムズ』の社説漫画家Tan Huay Pengはその代表で、英国からの独立を訴えるシンボリックな作品を残した[3]
マラヤ連邦は1957年に英国からの独立を果たし、その後シンガポールなどの地域の加盟と脱退を経て現在のマレーシアが成立した。表現の自由を尊重していた植民地政府と異なり、独立政府はマスメディアを統制して統治の道具にしようとした。各言語の新聞から政治風刺漫画が姿を消し、その代わりに冒険ものやユーモアものの海外産コミックストリップが多数掲載された[8]。子どもの読者に科学と進歩への憧れを説いていた『フラッシュ・ゴードン』のほか[8]、『ターザン』、『マンドレイク・ザ・マジシャン』、『聖者サイモン・テンプラー』のような作品は新聞各紙の売り物となった[9]。マレー人漫画家による一コマ漫画も掲載された。ラジャ・ハムザ、レジャブハッド、ミシャーらは家族関係やマレー文化を扱ったコマ漫画を描いていた。ラジャ・ハムザは戦後期の重要な漫画家で[10]、『ブリタ・ハリアン』紙の Mat Jambul’s Family は英国の『ザ・ガンボルズ』を手本にした家族もののユーモア作品だった[8]。ハムザはそのほか『ウトゥサン・ムラユ』紙の Dol Keropok & Wak Tempeh など、村落生活や古典文芸を題材にした連載を多数持ち[10]、後進のラットに影響を与えた[8]。
コミックブック(小冊子型式の出版物)が初めてマラヤに入ってきたのは1930年代のことで、英国から雑紙として売られてきた『ザ・ビーノ』、『ザ・ダンディ』、『ザ・ビーザー』、『ザ・トッパー』のような週刊誌だった。1940年代にラジャ・ハムザらがマレー民話や古典文学を翻案した民族主義的なマレー語の作品を描き始め、1960年代までにシナラン・ブラザーズを始めとするコミックブック出版社数社が成立した[10]。
黄金期: 1960-1970年代
1960年代から1970年代にかけてはマレーシア漫画の黄金時代だとされている[11]。1970年代以降、国民的なアイデンティティを育成しようという文化政策によって自国産の漫画が増え始めた。マレーシア経済の成長によって漫画の市場も拡大していった[8]。1973年には漫画家・イラストレーター協会(漫画家やイラストレーターの協会(PERPEKSI、Persatuan Pelukis Komik Kartun dan Ilustrasi)が設立され、労働条件の向上を業界に訴えた[12]。同年に漫画家が主体となってスアラサ社が設立され、マレー文化教育を主眼とする児童向けコミックブック数誌を刊行して3万部のヒットを生み出した。同じく1973年にはマレーシアの国立美術館がアジア各国の一コマ漫画作品の展示を初めて行った[13]。
この時期にはまたラット、メオール・シャリマン、ジャーファー・タイブ、ザイナル・ブアン・フッシンのような新しい世代の漫画家が登場した[11]。ラットは1970年ごろからコマ漫画の Si Mamat や一コマ風刺漫画 Scenes of Malaysian Life を数十年にわたって新聞に連載し[11]、一般社会によく知られる存在となった[8]。マレー伝統文化や、マレーシア社会の民族間関係を描いた『カンポンボーイ』などの著書は国際的にも広く読まれている[14]。1980年代以降はフリーとして自作のマーチャンダイジングを行い、マレーシア漫画界ではまれな経済的成功を収めた[11]。
ユーモア雑誌とコミックブック: 1980-1990年代
この時期に特筆すべきなのは、1978年に漫画家のミシャーらが設立したクリエイティヴ・エンタープライズから発刊されたユーモア誌『ギラギラ』である。誌面は米国『MAD』誌のひな形にならっており、マレー語文学、民話、歴史、映画のパロディから構成されていた。同誌は発行部数20万部まで拡大してマレーシア最大の雑誌となった。若い漫画家を育成し、漫画家の相互交流や地位向上を促す役割も果たした。大手出版社による Gelihati など後発のユーモア誌が現れ、2003年までに50誌以上が乱立した[15]。『ギラギラ』出身の漫画家ウジャンは80年代前半に Aku Budak Minang(→僕はミナンの子ども)や Atuk(→おじいちゃん)がアニメ化され、マレーシア漫画界を活性化させた。ウジャンは自身でもティーン向けユーモア誌『ウジャン・コミックス』(1993) などを創刊した[16]。20世紀末までにユーモア誌の市場は飽和し、アジア通貨危機で景気が後退したこともあって、各誌は宗教テーマの Lanun、芸能界テーマの Mangga などジャンルを細分化することで生き残ろうとした。マレー語ではなく英語で出版したり、サイレント漫画に特化する雑誌も現れた。最初の女性向け雑誌 Cabai は希少な女性漫画家 Cabai (Sebariah Jais) を看板としていた[16]。
コミックブック形式の出版物は英国、米国、香港、台湾から大量に輸入されていたが、国内作品の出版はどの時代も不安定であり、版元は数社を数えるのみで、ほとんどのタイトルが短命だった。1984年時点で月刊タイトルの発行数は1万5千部程度で、ジャンルは歴史や冒険ものが多かった。米国のコミックを真似てマレーシア風味を加えた多様なジャンルの作品を出す出版社や、フォトコミックを専門とする出版社もあった[17]。1980年代にニュー・ストレーツ・タイムズ紙は国内外のコミックブックを紹介するコラムを連載し、コミックの社会的認知を高めた。著者のダニエル・チャンは1984年にマレーシア初のコミック・コンベンションを開催した。それをきっかけに、マレーシア人のファンによって米国マーベル・コミックス風の同人誌がAPA方式で出版され始め、またクアラルンプールを中心に米国コミックの専門店が置かれるようになった[17]。
日本・台湾・香港の作品の海賊版は1980年代から大量に出回っており、地元産漫画にとっては発展の妨げとなってきた。海賊版はいくつかの出版社から公然と刊行されていたが、市場が小さいことで政府当局や海外の著作権者から黙認されていた。主な販路は中国系の貸本屋(漫画喫茶にも近い)だった[18]。
成熟とグローバル化: 2000年代
20世紀末のアジア通貨危機以降、地域の漫画文化にもグローバリゼーションの波が及び始めた。若い世代は伝統文化や歴史よりもSFやファンタジーのようなジャンルに関心が高く、日本をはじめとする海外の作品から強く影響されている[19]。1990年代前半以前の作品はほとんど復刻されず[20]、ラットやレジャブハッド、ジャーファー・タイブらが発展させた伝統的な作風はあまり継承されていない[20][21]。
このころコミックブック出版はビジネスとして成熟し始め[17]、2000年代には漫画とアニメーション、芸能、ゲーム、広告、グッズ販売の連携が進んだ[22]。1998年設立の新興出版社アート・スクウェア・グループは、隔月刊誌『ゲンパック (Gempak)』など、漫画とアニメやゲームの情報を組み合わせた雑誌をヒットさせて頭角を現した[8][17]。同社は雑誌連載作品を単行本化するモデルを取り入れ、海外漫画の正規翻訳版のほか地元作品を数多く出版してマレーシア人作家に活躍の場を作り出した[23]。また韓国の学習漫画を出版して学校関係者や親世代にアピールしたり、デジタル展開や新人賞を設立して漫画の普及を推し進めた[22]。多くのアート・スクウェア作品は、フラットなカラーリングの絵柄、キャラクター設定・プロットなどに日本漫画からの影響が明らかだった[24]。代表的な作家には、高校生活を描いた4コマギャグ[25]『ラワック・キャンパス(秀逗高校)』を描いたキース(張家輝)や[23]、少女漫画の第一人者で『メイド・メイデン』など日本の流行を取り入れた作品で知られるカオルがいる[26][27]。米国のスーパーヒーロー・コミックに影響を受けた作家も多く、DCコミックスにスカウトされた陳永発などがいる[8]。
2001年に発刊された『アーバン・コミックス』はインディー・コミック出版の先駆けである[28]。同誌の出版者ムハマド・アザール・アブドゥラは2007年に国の助成を受け、漫画家の相互交流と漫画文化の振興を目的とした団体PeKomik(Persatuan Penggiat Komik Malaysia、マレーシア漫画家協会)を結成した[29]。PeKomikは2012年に他の団体と共同でゲームと漫画の大規模なコンベンションMGCCon (Malaysian Games and Comic Convention) を開催し、コミックファンダムの存在をマレーシア社会に周知させた[30]。
2000年代以降には米国式のコミックブックに代わるオルタナティヴな出版形式として グラフィックノベル(一般書店で売られる単行本)にも関心が寄せられている[30]。国の出版助成金を受けてグラフィックノベルを出すインディー作家もいる[31]。
現代: 2010年代以降
2010年代以降には韓国のウェブトゥーンのようなデジタル配信手段が登場したことで新世代の漫画家が数多く活動するようになった[33]。Twitter(現X)やFacebookのようなソーシャル・ネットワーキング・サービスで発表した作品が書籍化される流れもある[34]。マレーシアではほかのアジア国家と同じく伝統的に女性漫画家が少なく、2010年代までにある程度の成功を収めたのは7人に過ぎなかったが[35]、近年ではインディー出版やデジタル出版で作品を発表する女性が登場している[36]。
2022年には書籍形式の漫画が一般書店で販売される中でもっとも人気の高いジャンルに成長した。主要な出版社はゲンパックとイスラム系のKomik Mで、自国産と日本の作品が若い世代の人気を二分している。Bekazon のようなユーモア誌も出版が続けられている[37]。カドカワ・ゲンパック・スターツは2015年にアート・スクウェア社が日本のカドカワの出資を得て社名変更した会社で、漫画のほかアニメーション、ゲーム、小説などのマルチメディア・コンテンツ事業や周辺諸国への展開[38]、アニメーター学校の設立も行っている[39]。同社の学習漫画シリーズ「どっちが強い⁉」は日本で翻訳出版されて累計190万部を超えるヒットとなった[40][41]。
作品の特徴
『ギラギラ』(1978) の流れを汲むユーモア誌は70~80ページ前後で、読者は男女どちらもいた。性別や民族による違い、職場、マレー文化、歴史などをテーマにしたセクションからなり、多くの漫画家が1ページずつ描いていた[43]。言語は公用語のマレー語がほとんどで、描き手もマレー人が多かった[17]。 作品の特徴としては、
- 過激さを避けた穏当なユーモア
- 愚か者が賢いふりをするがなぜか上手くいく
- 文化的ステレオタイプを笑いの種にする
- 実在人物ではなく類型的なキャラクターをパロディ化する
などが挙げられている。マレーの文化ではユーモアが重要な地位を占めており、漫画家は伝統的な演劇や文芸から笑いを取り入れていた[43]。
その一方で、ユーモア誌が持つ批判精神は一般のマレー社会にあまり見られないものだった[17]。『ギラギラ』が登場する1970年代以前には漫画で自由な社会批判は行われておらず、政府高官の描写や、センシティブな題材(公用語の呼称問題、マレー人の法的優位、スルタン特権など)は避けられていた[44]。80年代に風刺漫画の表現の自由が拡大した理由としては、
- マレー人が政治的に優位な地位を占めていたから
- 漫画がマレー伝統芸能から権威への不満を解放する役割を受け継いだから
- 漫画は幼稚なメディアだと考えられていたため、政府から政治的脅威と見なされなかった
のような説がある[45]。1983年に『ギラギラ』でデビューしたズナール(Zulkiflee Anwar Haque)はユーモア誌の基準でも厳しい社会批判で知られており、2010年ごろに当局から単行本が発禁にされたり、安全保障法に基づいて身柄を拘束されたことがある[44]。
コミックブック形式の出版物は政府によって児童向けメディアという観点からの規制が行われている。体の線が露わになるタイトな服装や、男女間のキス、銃を人間に突きつける描写は許可されていない[44]。
脚注
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- ^ リム 2010, p. 179.
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参考文献
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- リム, チェンジュ 著、中垣恒太郎 訳「歴史的記憶のメディアとしてのマンガ/コミックス.シンガポールとマレーシアのコミック」、ジャクリーヌ・ベルント 編『世界のコミックスとコミックスの世界 : グローバルなマンガ研究の可能性を開くために』京都精華大学国際マンガ研究センター〈国際マンガ研究1〉、2010年。ISBN 978-4-905187-02-8 。2024年9月13日閲覧。
外部リンク
- 渡部宏樹 (2023年8月4日). “東南アジア最大のアニメ・マンガ・ゲームのイベント クアラルンプール「コミック・フィエスタ(Comic Fiesta)」レポート”. Media Arts Current Contents. 2024年9月16日閲覧。