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'''フラウィウス・バウト'''('''{{lang-la|Flavius Bauto}}'''? - [[388年]]以前)は[[4世紀]]の[[フランク人]]で、[[ローマ帝国]]の政治家および軍人。[[385年]]の[[執政官]]。
 
== 生涯 ==
 
フラウィウス・バウトは[[ライン川]]の東岸で育ったとされる[[4世紀]]の[[フランク人]]で、[[ローマ帝国]]の政治家および軍人として活躍した。
 
[[ウァレンティニアヌス1世]]の没後は、同じくフランク人であった[[メロバウデス]]や[[リコメル]]らとともに幼少な2人の皇帝[[グラティアヌス]]と[[ウァレンティニアヌス2世]]の後見人として政務を代行した。
 
[[377年]]頃から、蛮族との争いに苦しむ東ローマ皇帝[[ウァレンス]]を支援するため皇帝[[グラティアヌス]]によって東方へ派遣され、東西の連合軍を指揮して幾度となくゴート族の集団と戦った<ref name="南川2013p166">[[#南川2013|南川2013]]、p.166。</ref>。[[378年]]には[[ラエティア]]においても[[アラマンニ人]]を相手に勝利を収めている。ウァレンスが378年に[[ハドリアノポリスの戦い]]で戦死した後もバウトはウァレンスの後任として西の宮廷より派遣されてきた[[テオドシウス1世]]を支えて各地を転戦し、[[382年]]頃まで東方の混乱の収拾に努めた。[[380年]]、バウトは[[西ローマ帝国|帝国西半]]の[[マギステル・ミリトゥム]]に任命された<ref name="南川2013p175">[[#南川2013|南川2013]]、p.175。</ref>。
 
[[383年]]に[[ブリタンニア]]の[[ローマ軍団]]が[[マグヌス・マクシムス]]を[[ローマ皇帝]]として宣言してグラティアヌスを殺害すると、バウトはテオドシウスの軍団を率いてマキシムスと対陣した。しかしマクシムスと旧知の間柄であったテオドシウス1世にはマクシムスと争う意思がなかったようで<ref name="尚樹1999pp75">[[#尚樹1999|尚樹1999]]、pp.75-76。</ref>、テオドシウスは[[ミラノ]][[司教]][[アンブロシウス]]を調停役としてマクシムスと和議を結んだ。さらに翌[[384年]]にはテオドシウス自らイタリアへと赴き、マクシムスを共同皇帝と認めるようウァレンティニアヌス2世を説得した<ref name="尚樹1999pp75" />。テオドシウス1世がマキシムスと講和した後は、バウトは西の宮廷に戻ってウァレンティニアヌス2世の後見人として西方の防衛に専念した。[[385年]]に[[執政官]]に任命されたが、まもなく(遅くとも[[388年]]までには)死亡した<ref name="南川2013p175" />。
 
バウトは古代ローマの伝統宗教の熱心な信者であった。[[ミラノ]][[司教]]の[[アンブロシウス]]とは友人であったが、アンブロシウスが[[382]]にグラティアヌスを威迫して[[元老院 (ローマ)|元老院]]から古代ローマの祭壇を撤去させたときにはバウトはアンブロシウスに反対している。また、[[384年]]には首都長官{{仮リンク|クィントゥス・アウレリウス・シュンマクス|en|Quintus Aurelius Symmachus}}らとともに、祭壇を元老院に帰すようウァレンティニアヌス2世に働きかけている。
 
== 一族 ==
バウトの妻は、[[リコメル]]の姉妹だったとされる。バウトの娘{{仮リンク|アエリア・エウドクシア|en|Aelia Eudoxia}}は、[[395年]]にテオドシウス1世の長男[[アルカディウス]]と結婚し、[[401年]]に後の東ローマ皇帝[[テオドシウス2世]]を生んだ<ref>[[#佐藤1995|佐藤1995]]、p.134。</ref>。{{仮リンク|アンティオキアのジョンヨハネス|en|John of Antioch (chronicler)}}によれば、{{仮リンク|[[アルボガスト (軍人)|en|Arbogast (general)|label=アルボガスト}}]]もバウトの子であったとされるが、現代の歴史家たちは疑わしいとしている。
 
== 脚注 ==
バウトの妻は、[[リコメル]]の姉妹だったとされる。バウトの娘{{仮リンク|アエリア・エウドクシア|en|Aelia Eudoxia}}は、[[395年]]にテオドシウス1世の長男[[アルカディウス]]と結婚し、[[401年]]に後の東ローマ皇帝[[テオドシウス2世]]を生んだ<ref>[[#佐藤1995|佐藤1995]]、p.134。</ref>。{{仮リンク|アンティオキアのジョン|en|John of Antioch (chronicler)}}によれば、{{仮リンク|アルボガスト (軍人)|en|Arbogast (general)|label=アルボガスト}}もバウトの子であったとされるが、現代の歴史家たちは疑わしいとしている。
 
==脚注==
<references />
 
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=[[佐藤彰一]]|authorlink=佐藤彰一|editor=樺山紘一|editor-link=[[樺山紘一]]|year=1995|title=世界歴史大系 フランス史 1|publisher=[[山川出版社]]|isbn=4634460904|ref=佐藤1995}}
* {{Cite book|和書|author=[[南川高志]]尚樹啓太郎|authorlink=尚樹啓太郎|year=20131999|title=新・ローマビザンツ帝国衰亡史|publisher=[[岩波書店東海大学出版会]]|isbn=97840043142644486014316|ref=南川2013尚樹1999}}
* {{Cite book|和書|author=[[松原國師]]南川高志|authorlink=南川高志|year=20102013|title=西洋古典学事典新・ローマ帝国衰亡史|publisher=[[京都大学学術出版会岩波書店]]|isbn=97848769892569784004314264|ref=松原2010南川2013}}
* {{Cite book|和書|author=松原國師|authorlink=松原國師|year=2010|title=西洋古典学事典|publisher=[[京都大学学術出版会]]|isbn=9784876989256|ref=松原2010}}
 
== 関連項目 ==
*{{仮リンク|[[アルボガスト (軍人)|en|Arbogast (general)|label=アルボガスト}}]]
 
{{DEFAULTSORT:はうと}}
[[Category:ローマ帝国の執政官]]
[[Category:古代ローマの将軍]]
[[Category:4世紀ヨーロッパの軍人]]
[[Category:4世紀の古代ローマ人]]
[[Category:フランク人]]
[[Category:4世紀年不明]]
[[Category:380年代没]]
[[Category:生没年不詳]]