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「デンジャラス (アルバム)」の版間の差分

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== エピソード ==
前作『[[バッド (アルバム)|Bad]]』以来4年ぶりとなるスタジオ・アルバム。前作までの[[クインシー・ジョーンズ]]とのコンビを解消し、[[テディー・ライリー]]を新たなサウンド・プロデューサーに迎えた。それまでのポップ・ロック・ソウルをミックスさせた路線から、ライリーの提唱するスタイル「'''[[ニュージャックスウィング]]'''」にジャンルを変更している。オリジナル版の歌詞カードの最初に「{{lang|en|DANCE}}」と書かれているように弾けるような爽快な曲が多い一方で、CDに収められる制限時間いっぱいを使っているアルバムであり、多様な楽曲が収められている。発売直後から売上を伸ばし6週目にして1,000万枚を突破した。アルバム『[[スリラー (アルバム)|Thriller]]』以後では最大のヒット作となり、現在<!--3200万枚超を記録した具体的な時期を明記の事-->までの全世界での売り上げは3,200万枚以上を記録しているが、<ref>[http://hochi.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20090626-OHT1T00207.htm マイケル総売り上げは7億5000万枚以上] スポーツ報知, 2009年6月26日, 2009年7月3日閲覧</ref>。日本国内での売り上げ枚数は前作『Bad』を下回っている。
 
このアルバムで共同プロデューサーとなったテディはクリフォードから、『Dangerous』は時代を先取りしていた、と後に評されている。
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7月には[[NBA]]の[[マイケル・ジョーダン]]とMJ同士で共演する「[[ジャム (マイケル・ジャクソンの曲)|JAM]]」が発表された。
これらの作品では多くの有名人が出演しており、マイケルの交友の広さが窺える。7月には自らの詩や写真、絵などを紹介する本「ダンシング・ザ・ドリーム」を発表した。
[[ファイル:Michael Jackson sculpture.jpg|thumb|right|220px|HIStoryのプロモーションのためにヨーロッパ中に置かれた多くのマイケル・ジャクソン銅像の一つ]]
 
[[1992年]]から[[ペプシ]]がスポンサーになり、2度目のワールドツアー「[[Dangerous World Tour]]」をスタート。[[ユーコ・スミダ・ジャクソン]]も参加した。収益金はマイケルが設立したヒール・ザ・ワールド基金に寄付された。[[1993年]]1月には、クリントン大統領の「アメリカン・リユニオン:第52回大統領祝賀会」での就任コンサートで「[[ゴーン・トゥー・スーン|Gone Too Soon]]」「[[ヒール・ザ・ワールド|Heal The World]]」を披露した。2月にはTVの人気トーク番組「[[オプラ・ウィンフリー・ショー]]」にネバーランドでのライブインタビューという形で出演した。そこでは[[ムーンウォーク]]のやり方を実際にマイケルが見せてくれたり、即興で「[[フー・イズ・イット|Who is it]]」をアカペラで歌った(翌日からラジオで同曲のリクエストが全国的に殺到する“事件”が起きた)。彼が皮膚病の[[尋常性白斑]]に罹患していることを公表したのも、この番組の中であった。