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[[ファイル:District Railway at Charing Cross.JPG|thumb|1914年からロンドン地下電気鉄道が発行したポスターの中には、地下にあるディストリクト鉄道のエンバンクメント駅が{{仮リンク|サウス・イースタン・アンド・チャタム鉄道|en|South Eastern and Chatham Railway}}の[[チャリング・クロス駅]]の下にある様子が描かれている]]
'''メトロポリタン・ディストリクト鉄道'''(メトロポリタン・ディストリクトてつどう、{{Lang|en|Metropolitan District Railway}})、通称'''ディストリクト鉄道'''は、[[1868年]]から[[1933年]]まで[[ロンドン]]で運行されていた旅客鉄道である。ロンドンの地下鉄であるインナー・サークル([[サークル線]])を完成させる目的で[[1864年]]に設立され、最初の区間は[[ガス灯]]で照明された木造客車を[[蒸気機関車]]が牽引する形で開通した。ディストリクト鉄道では、[[1871年]]に自社で列車を運行するようになるまで、[[メトロポリタン鉄道]]が全列車の運行を担当していた。まもなく、[[アールズ・コート駅|アールズコート]]から[[フラム]]、[[リッチモンド (ロンドン)|リッチモンド]]、[[イーリング]]、[[ハウンズロー]]へと西側へ延長された。インナー・サークルが完成し[[ホワイトチャペル]]まで1884年に到達した後、ロンドン東部の[[アップミンスター]]まで[[1902年]]に延長された。
 
20世紀初頭に[[鉄道の電化|電化]]の費用を調達するために、アメリカの資本家{{仮リンク|[[チャールズ・ヤーキス|en|Charles Yerkes}}]]が買収して、彼の傘下の[[ロンドン地下電気鉄道]]の一部となった。[[1905年]]に電化され、その年末からすべての列車が[[電車]]で運行されるようになった。[[1933年]][[7月1日]]に、ディストリクト鉄道とその他のロンドン地下電気鉄道の各社はメトロポリタン鉄道および各路面電車・バス運営会社などと合併して[[ロンドン旅客運輸公社]]となった。
 
かつてディストリクト鉄道だった路線と駅は、こんにち現在の[[ロンドン地下鉄]][[ディストリクト線]]、[[ピカデリー線]]、[[サークル線]]となっている。
{{TOC limit|3}}
 
== 歴史 ==
=== 創業 1863年 – 1886年 ===
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メトロポリタン鉄道が成功を収めたことで、1863年の議会には、似たような経路でロンドンに鉄道を建設する複数の提案がにわかに提出されることになった。議会の下院([[庶民院 (イギリス)|庶民院]])は特別委員会を立ち上げ、この委員会は都市における主要な鉄道のターミナルのほぼすべてを連絡する路線を推奨した。1864年の会期において、この推奨に合致するいくつかの鉄道計画が提案され、上下両院の議員で構成される合同委員会が提案の検討を行った{{sfn|Horne|2006|p=5}}{{#tag:ref|1863年11月、[[タイムズ]]が報じたところによれば、次の議会会期には約30のロンドンにおける鉄道計画が議会に提出されるとしている。その多くは「短時間で準備されたものであり、建設費や運行の現実性に関して計画作成の段階であまり検討されたとは思われない」としている<ref>{{cite news |date=30 November 1863 |title=Metropolitan Railway Projects |work=[[タイムズ]] |issue=24729 |page=7 |url=http://find.galegroup.com/ttda/infomark.do?&source=gale&prodId=TTDA&userGroupName=kccl&tabID=T003&docPage=article&searchType=BasicSearchForm&docId=CS117874046&type=multipage&contentSet=LTO&version=1.0 |format=Subscription required |accessdate=2012-05-07}}</ref>。|group="注"}}。
 
パディントンから西へ、そして南へサウスケンジントンまでと、ムーアゲートから東へタワーヒルまでの延長を行う提案は承認され、1864年7月29日に女王裁可を得た{{sfn|Day|Reed|2008|p=18}}。路線を完成させるために、委員会ではケンジントンとシティ・オブ・ロンドンの間を異なる経路で建設する2つの計画を統合することを推奨し、この日メトロポリタン・ディストリクト鉄道の名で統合された建設計画を承認した{{sfn|Day|Reed|2008|p=18}}{{sfn|Horne|2006|pp=5–6}}{{#tag:ref|これらの法案は、「メトロポリタン鉄道(ノッティングヒル・アンド・ブロンプトン延長)法」および「メトロポリタン鉄道(タワーヒル延長)法」であり、また「メトロポリタン・ディストリクト鉄道法」によりメトロポリタン・ディストリクト鉄道が設立された{{sfn|Day|Reed|2008|p=18}}。|group="注"}}。当初は、ディストリクト鉄道とメトロポリタン鉄道は緊密に連携しており、そのうちに合併するだろうと意図されていた。メトロポリタン鉄道の会長およびそのほかの3人の重役は、ディストリクト鉄道の取締役となっており、また両社の技師長は{{仮リンク|[[ジョン・ファウラー|en|Sir John Fowler, 1st Baronet}}]]で、延長工事のすべては単一の契約として発注された{{sfn|Day|Reed|2008|p=20}}{{sfn|Horne|2006|p=7}}。ディストリクト鉄道は、メトロポリタン鉄道とは独立して資金を集められるようにするために別会社として設立された{{sfn|Day|Reed|2008|p=20}}。
 
1863年にメトロポリタン鉄道が開通した時と異なり、既存の道路の下を通るような簡単な路線ではなく、地価の高い地区を通るために補償費用は高くついた。換気を確保するために、グロスターロードの西側では路線は切通しにされており、それ以外の区間は幅25[[フィート]](7.6メートル)、深さ15フィート9[[インチ]](4.8メートル)の[[開削トンネル]]とされていた。また駅では、プラットホームの端は天井が開けられていた。建設費用と補償費用は高騰し、ディストリクト鉄道の最初の区間であるサウスケンジントンと[[ウェストミンスター]]の間の区間は、より路線長が長かったメトロポリタン鉄道の当初区間のおよそ3倍の費用が掛かり、約300万ポンドに達した{{sfn|Wolmar|2004|p=72}}{{sfn|Horne|2006|pp=7–8}}。1868年12月24日にディストリクト鉄道はサウスケンジントンとウェストミンスターの間を開業し、駅は[[サウス・ケンジントン駅]]、[[スローン・スクエア駅]]、[[ロンドン・ヴィクトリア駅|ヴィクトリア駅]]、[[セント・ジェームズ・パーク駅 (ロンドン地下鉄)|セント・ジェームズ・パーク駅]]、ウェストミンスター・ブリッジ駅(現在の[[ウェストミンスター駅]])が開設された。同日、メトロポリタン鉄道がブロンプトンから東へ、共同使用する駅となるサウス・ケンジントンまで開通した{{sfn|Rose|2007}}。
 
[[ファイル:Circle Line (1872).svg|thumb|570px|1871年にインナー・サークルの運行が開始された。マンション・ハウス駅からサウス・ケンジントン駅およびパディントン駅を経由してムーアゲート・ストリート駅まで運転した。ハイ・ストリート・ケンジントン駅とサウス・ケンジントン駅の間では、両社がそれぞれ複線の線路を保有していた]]
ディストリクト鉄道は、ブロンプトン(グロスター・ロード)駅から西への延長許可を得ており、1869年4月12日に{{仮リンク|ウェスト・ロンドン鉄道|en|West London Railway}}の[[ウェスト・ブロンプトン駅]]まで[[単線]]の路線を開通させた。この区間に途中駅はなく、当初はシャトル列車が運転されていた{{sfn|Day|Reed|2008|p=24}}{{sfn|Horne|2006|p=9}}。1869年夏までに、サウス・ケンジントンからブロンプトン(グロスター・ロード)の区間と、ケンジントン(ハイ・ストリート)から分岐点までの区間の追加の線路が敷設された。1870年7月5日の夜に、ブロンプトン(グロスター・ロード)とケンジントン(ハイ・ストリート)の間を結ぶ、議論になっていた{{仮リンク|クロムウェル・カーブ|en|Cromwell Curve}}が建設された{{sfn|Jackson|1986|pp=54–57}}。ウェストミンスターの東では、[[テムズ川]]北岸に沿って{{仮リンク|[[首都公共事業土木委員会|en|Metropolitan Board of Works}}]]が新たに建設した{{仮リンク|ヴィクトリア堤防|en|Victoria Embankment}}の中にディストリクト鉄道の次の区間が建設された。ウェストミンスターからブラックフライアーズまでの区間は1870年5月30日に開通し{{sfn|Day|Reed|2008|p=24}}、駅はチャリング・クロス駅(現在の[[エンバンクメント駅]])、ザ・テンプル駅(現在の[[テンプル駅]])、[[ブラックフライアーズ駅]]が置かれた{{sfn|Rose|2007}}。
 
メトロポリタン鉄道は当初、すべての列車を運行し、一定の列車運行水準に対して、総収入の55パーセントを受け取っていた。臨時列車の運行があればさらに費用を追加請求され、ディストリクト鉄道の受け取る収入の割合は約40パーセントにまで減少した。ディストリクト鉄道の債務の水準から、メトロポリタン鉄道にとっては合併することは魅力的ではなくなり、メトロポリタン鉄道の重役たちはディストリクト鉄道の取締役を辞任した。ディストリクト鉄道は財務を改善するために、メトロポリタン鉄道に対して運行協定を終了すると通告した。高い建設費用の重荷に苦しんだ結果、ディストリクト鉄道はタワー・ヒルまで建設するという最初の計画を続行することができなくなり、最後の路線延長として、ブラックフライアーズ駅から1駅だけ東へ、当初計画されていなかったシティにおける終点となる[[マンション・ハウス駅]]まで開通させた{{sfn|Day|Reed|2008|pp=25–26}}{{sfn|Horne|2006|pp=11–12}}。
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[[ファイル:Hounslow Branch (1890).svg|thumb|450px|19世紀末のハウンズローにおけるディストリクト鉄道、1886年にハウンズロー・タウン駅はヘストン・ハウンズロー駅に代替された]]
1866年に、[[ハウンズロー]]地区の地主に対してハウンズロー・アンド・メトロポリタン鉄道を設立して、当時計画中であったアクトン・アンド・ブレントフォード鉄道に接続する許可が出た。この路線が実際に建設されることはなかったが、しかしディストリクト鉄道がいまやアクトン駅まで伸びてきたので、代わりとなりえた。ミル・ヒル・パーク駅からハウンズロー・バラックス駅まで5.5マイル(約8.9キロメートル)の路線の許可が1880年に得られ、途中駅はサウス・イーリング駅、ボストン・ロード駅、スプリング・グローブ駅とされた。またこの路線の営業をディストリクト鉄道に委託することで合意された。1883年5月1日から[[ハウンズロー・タウン駅]]までディストリクト鉄道が列車の運行を開始し、途中[[サウス・イーリング駅]]、ボストン・ロード駅(現在の{{仮リンク|[[ボストン・メイナー駅|en|Boston Manor tube station}}]])、オスタリー・アンド・スプリング・グローブ駅(現在の{{仮リンク|[[オスター駅|en|Osterley tube station}}]])に停車した。ハウンズロー・タウン駅の近くの分岐点からハウンズロー・バラックス駅(現在の[[ハウンズロー・ウェスト駅]])までの単線が翌1884年に開通した。この区間は輸送量が少なかったため、当初はハウンズロー・タウン駅とミル・ヒル・パーク駅を結ぶオフピークの列車にオスタリー・アンド・スプリング・グローブ駅で連絡するシャトル列車が運行された。ハウンズロー・タウン駅は1886年に廃止され、ヘストン・ハウンズロー駅(現在の[[ハウンズロー・セントラル駅]])が開設された{{sfn|Rose|2007}}{{sfn|Horne|2006|pp=20–21}}。
 
1883年3月1日から1885年9月30日まで、イーリングにおけるグレート・ウェスタン鉄道への連絡線を通じて、ディストリクト鉄道は{{仮リンク|ウィンザー・アンド・イートン・セントラル駅|en|Windsor & Eton Central railway station|label=ウィンザー}}までの列車を運行していた{{sfn|Horne|2006|p=23}}。
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==== サークル線の完成 ====
[[ファイル:Completing the Circle.svg|thumb|300px|left|青で示された接続路線により1884年にインナー・サークルが全通し、またメトロポリタン鉄道とディストリクト鉄道の両社の路線からイースト・ロンドン鉄道への連絡ができるようになった、メトロポリタン鉄道のタワー・オブ・ロンドン駅は、路線開通後まもなく廃止となった、ディストリクト鉄道の列車は1902年から{{仮リンク|ホワイトチャペル・アンド・ボウ鉄道|en|Whitechapel and Bow Railway}}を経由してホワイトチャペル駅より東側まで運行するようになった{{sfn|Bruce|1983|p=46}}]]
メトロポリタン鉄道とディストリクト鉄道の間での紛争と、建設費の問題により、インナー・サークルの全通は遅れていた。いらいらさせられていたシティの資本家たちは1874年に、路線を完成させる目的でメトロポリタン・インナー・サークル・コンプリーション鉄道を設立した。この会社はディストリクト鉄道に支援され、議会の承認を1874年8月7日に得たが{{sfn|Horne|2006|p=24}}<ref>{{London Gazette |startpagepages=3966 |endpage=-3967 |date=11 August 1874 |issue=24121 |accessdate=2012-05-12}}</ref>、資金調達で苦しんだ。1876年に建設期限が延長された{{sfn|Horne|2006|p=24}}。ディストリクト鉄道とメトロポリタン鉄道の会合が1877年に開かれ、メトロポリタン鉄道は[[イーストロンドン線|イースト・ロンドン鉄道]]経由で{{仮リンク|サウス・イースタン鉄道 (イギリス)|en|South Eastern Railway, UK|label=サウス・イースタン鉄道}}へと連絡する希望を持っていた。そこで両社は議会に働きかけて、1879年に路線を延長してイースト・ロンドン鉄道へ連絡する許可を得た。この法律ではまた、将来的に両社が環状線全体を運行できるようにする協力をすることを保証していた{{#tag:ref|1879年メトロポリタン・アンド・ディストリクト鉄道(シティ・ラインズおよび延長線)法は、1879年8月11日に女王裁可を得た<ref>{{London Gazette |startpage=4899 |endpagepage=4899 |date=1879-08-12 |issue=24751 |accessdate=2012-05-16}}</ref>。|group="注"}}。当局からは、道路や下水の改良の点で多大な協力がなされた。1882年にメトロポリタン鉄道は、[[アルドゲイト駅]]から仮駅の[[タワー・オブ・ロンドン駅]]まで路線を延長した{{sfn|Jackson|1986|pp=104–109}}。接続路線を建設するために2件の契約が結ばれ、まず1882年にマンション・ハウス駅からタワー・オブ・ロンドン駅までの契約が、そして1883年にアルドゲイト駅北側からホワイトチャペル駅までと、イースト・ロンドン鉄道への接続線の契約が結ばれた。1884年10月1日からディストリクト鉄道とメトロポリタン鉄道では、{{仮リンク|セント・メアリーズ(ホワイトチャペル・ロード)駅|en|St. Mary's (Whitechapel Road) tube station}}から、イースト・ロンドン鉄道への接続線を通じてサウス・イースタン鉄道の{{仮リンク|ニュー・クロス駅|en|New Cross railway station}}までの普通列車を運行し始めた{{sfn|Jackson|1986|p=109}}{{#tag:ref|イースト・ロンドン鉄道は現在では[[ロンドン・オーバーグラウンド]]の一部となっている。ディストリクト鉄道の列車がセント・メアリーズ駅とニュー・クロス駅の間で停車するのは、{{仮リンク|シャドウェル駅|en|Shadwell railway station}}、{{仮リンク|ワッピング駅|en|Wapping railway station}}、1843年完成の[[テムズトンネル]]で[[テムズ川]]をくぐってさらに{{仮リンク|ロザーハイス駅|en|Rotherhithe railway station}}、デプトフォード・ロード駅(現在の{{仮リンク|サリー・キーズ駅|en|Surrey Quays railway station}})であった{{sfn|Rose|2007}}。|group="注"}}。9月17日に公式開業式典が行われ、さらに試運転を行って、1884年10月6日月曜日から環状運転が開始された。この日からディストリクト鉄道は自社の列車をホワイトチャペル駅へ、そしてイースト・ロンドン鉄道経由でニュー・クロス駅まで延長し、途中新しく設置された共同駅の{{仮リンク|アルドゲイト・イースト駅|en|Aldgate East tube station}}とセント・メアリーズ駅に停車した{{sfn|Jackson|1986|p=109}}{{sfn|Rose|2007}}{{sfn|Horne|2006|p=26}}。またサークル線上には共同駅として[[キャノン・ストリート駅]]、イーストチープ駅(1884年11月1日から[[バンク駅・モニュメント駅|モニュメント駅]])、[[マークレーン駅]]が設置された。メトロポリタン鉄道のタワー・オブ・ロンドン駅は、ディストリクト鉄道がこの駅への乗車券を発売することを拒絶したため、1884年10月12日に廃止された{{sfn|Jackson|1986|p=110}}。ニュー・クロス駅からのディストリクト鉄道の列車が運転開始後、1時間に4本の列車がハマースミス駅とパットニー駅へ交互に運転されるようになったが、輸送需要が少なかったため、1か月後にイーリング駅まで1時間に2本の運転に削減された。ホワイトチャペル駅からは1時間に4本の列車が運転され、2本がパットニー駅へ、1本がハマースミス駅へ、1本がリッチモンド駅へとされた。ミドル・サークルとアウター・サークルの列車はいずれもマンション・ハウス駅から1時間に2本ずつの運転が継続された{{sfn|Horne|2006|p=26}}。当初はインナー・サークルの列車は1時間に8本の運転で、13マイル(約21キロメートル)の環状線を81分から84分程度かけて走っていたが、このダイヤを維持することは不可能であるとわかり、1885年に1時間に6本の列車に削減されて70分で走るようになった。当初は、車掌は勤務中に休憩時間がなかったが、1885年9月以降は20分間の休憩が3回設定されるようになった{{sfn|Jackson|1986|pp=110–112}}。
 
==== 南のリッチモンド駅へ、東のイースト・ハム駅へ ====
パットニー・ブリッジでテムズ川を越えて、ギルドフォード、サービトンまたはウィンブルドンへと鉄道を伸ばすいくつかの提案があり、議会からの承認も得ていたが、ディストリクト鉄道は必要な資金を調達できずにいた。1886年にロンドン・アンド・サウス・ウェスタン鉄道は、[[ウィンブルドン駅]]の西側を出てテムズ川を渡り、ディストリクト鉄道のパットニー・ブリッジ駅に合流するウィンブルドン・アンド・フラム鉄道の計画を代替として出した。途中駅は[[ウィンブルドン・パーク駅]]、[[サウスフィールズ駅]]、[[イースト・パットニー駅]]で、イースト・パットニー駅のすぐ北側にある分岐点でロンドン・アンド・サウス・ウェスタン鉄道の{{仮リンク|[[ウォータールー-レディング線|en|Waterloo to Reading Line}}]]に接続していた。ディストリクト鉄道はこの路線での運行権を持ち、パットニー駅までの列車の一部を1889年6月3日からウィンブルドン駅まで延長した{{sfn|Horne|2006|p=22}}。
 
1897年に、名目上は独立会社であったホワイトチャペル・アンド・ボウ鉄道が、ディストリクト鉄道のホワイトチャペル駅から、{{仮リンク|ロンドン・ティルベリー・アンド・サウスエンド鉄道|en|London, Tilbury and Southend Railway}}の{{仮リンク|ブロムリー・バイ・ボウ駅|en|Bromley-by-Bow tube station|label=ブロムリー駅}}の西側にある、{{仮リンク|ボウ (ロンドン)|en|Bow, London|label=ボウ}}の地上分岐点まで結ぶ路線の建設許可を得た。翌年、ロンドン・ティルベリー・アンド・サウスエンド鉄道とディストリクト鉄道は共同でこの会社を買収し、路線は1902年6月2日に開通して、新しく{{仮リンク|ステップニー・グリーン駅|en|Stepney Green tube station}}、[[マイル・エンド駅]]、{{仮リンク|ボウ・ロード駅|en|Bow Road tube station}}に設置された。ディストリクト鉄道の一部の列車がホワイトチャペル駅から{{仮リンク|イースト・ハム駅|en|East Ham tube station}}まで延長され、朝晩に1列車ずつが[[アップミンスター駅]]まで直通した{{sfn|Horne|2006|pp=28–29}}{{#tag:ref|ロンドン・ティルベリー・アンド・サウス・エンド鉄道の列車が停車したのは、ブロムリー駅(現在のブロムリー・バイ・ボウ駅)、{{仮リンク|ウェスト・ハム駅|en|West Ham station}}、{{仮リンク|プラーストウ駅|en|Plaistow tube station}}、{{仮リンク|アプトン・パーク駅|en|Upton Park tube station}}、[[バーキング駅]]、ダゲナム(現在の{{仮リンク|ダゲナム・イースト駅|en|Dagenham East tube station}})、{{仮リンク|ホーンチャーチ駅|en|Hornchurch tube station}}、アップミンスター駅であった{{sfn|Rose|2007}}。|group="注"}}。1902年7月に、1時間に4本の列車がボウ・ロード駅から(2本から3本はイースト・ハム駅から)イーリング駅またはウィンブルドン駅まで運行され、またニュー・クロス駅から1時間に2本の列車がハマースミス駅またはリッチモンド駅まで運行された。アウター・サークルの列車はマンション・ハウス駅からの運行を続け、グレート・ウェスタン鉄道のミドル・サークルの列車は1900年からアールズ・コート駅発になった{{sfn|Horne|2006|p=30}}。
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==== 電気運転の準備 ====
[[ファイル:Experimental Train.jpg|thumb|1900年に6か月間運行された、共同所有の試験旅客列車]]
20世紀の初頭になると、ディストリクト鉄道とメトロポリタン鉄道ではロンドン中心部において、新しく建設された電気運転の地下深くを走る地下鉄「チューブ」との競争がますます激しくなってきた。1890年に[[シティ・アンド・サウス・ロンドン鉄道]]が開通すると、大きな成功を収めていた。1900年に[[セントラル・ロンドン鉄道]]がシェパーズ・ブッシュとシティの間で2ペンスの均一運賃で開通すると、ディストリクト鉄道とメトロポリタン鉄道は合わせて400万人の旅客を1899年下半期から1900年下半期にかけて失った{{sfn|Jackson|1986|pp=158–160}}。[[蒸気機関車]]で運転していたことで、駅も客車も煙に覆われており、旅客からとても不評を買っており{{#tag:ref|1897年の商務報告によれば、エッジウェア・ロード駅とキングス・クロス駅の間には平日1日に528本の旅客列車と14本の貨物列車が運転されており、ピーク時にはベーカー・ストリート駅とキングス・クロス駅の間に片道19本の列車が走っていて、760キログラムの石炭が燃やされ、7,500リットルの水が使用されて、水の半分は[[復水器]]で凝縮され残りは蒸発していた{{sfn|Jackson|1986|pp=119–120}}。|group="注"}}、電化することが解決手段であるとみなされるようになった{{sfn|Horne|2003|p=28}}。しかし、当時はまだ電気鉄道は創始期であり、インナー・サークルを共同で運行していたメトロポリタン鉄道との協定が必要であった。共同で所有した6両編成の試験旅客列車はアールズ・コート駅とハイ・ストリート・ケンジントン駅の区間を1900年の6か月間成功裏に運行した。そこで入札が行われ、1901年にメトロポリタン鉄道とディストリクト鉄道の合同委員会は[[ガンツ (企業)|ガンツ]]製[[架空電車線方式]][[三相交流]]のシステムを推奨した。当初はこの提案を両社が受け入れた{{sfn|Green|1987|p=24}}。
 
ディストリクト鉄道は1901年に、この改良工事への出資を、投資家でアメリカ人の{{仮リンク|[[チャールズ・ヤーキス|en|Charles Yerkes}}]]に仰ぐことになった。1901年7月15日にヤーキスはメトロポリタン・ディストリクト電気鉄道会社を設立して自身が社長に就任し{{sfn|Badsey-Ellis|2005|p=118}}、発電所の建設および新しい車両の購入を含めた電化の実行のために100万ポンドを集めた。ヤーキスは間もなくディストリクト鉄道の支配権を握り{{sfn|Horne|2006|p=37}}、彼のアメリカ合衆国での経験から、シティ・アンド・サウス・ロンドン鉄道やセントラル・ロンドン鉄道で使われているのと似た、[[第三軌条方式]]の[[直流電化]]を望むようになった。{{仮リンク|[[商務 (イギリス)|en|Board of Trade|label=商務省}}庁]]による調停を経て、直流電化が採用されることになった{{sfn|Green|1987|p=25}}。
 
ディストリクト鉄道は、アールズ・コート駅からマンション・ハウス駅までの地下深くのチューブを建設する許可を得ており、また1898年にサウス・ケンジントン駅からピカデリー・サーカス駅までのチューブの許可を持っているブロンプトン・アンド・ピカデリー・サーカス鉄道を買収していた。こうした計画は、グレート・ノーザン・アンド・ストランド鉄道が持っていたストランド駅({{仮リンク|オールドウィッチ駅|en|Aldwych tube station}})から[[フィンズベリー・パーク駅]]までの建設許可と組み合わせられて、[[グレート・ノーザン・ピカデリー・アンド・ブロンプトン鉄道]]となった{{sfn|Horne|2006|pp=38–40}}。ヤーキスはまた、[[パディントン駅]]から[[エレファント&キャッスル駅]]までのチューブを建設中であった[[ベイカー・ストリート・アンド・ウォータールー鉄道]]と、[[チャリング・クロス]]から[[ハムステッド]]や[[ハイゲート]]へのチューブを計画していた[[チャリングクロス・ユーストン・アンド・ハムステッド鉄道]]を所有していた。1902年4月にヤーキスを会長とする[[ロンドン地下電気鉄道]]が発足し、これらの会社を傘下に収めて計画中の建設工事の管理を行うようになった。1902年6月8日にロンドン地下電気鉄道はトラクション・カンパニーを買収して、その株主に現金とロンドン地下電気鉄道の株式の形で精算を行った{{sfn|Badsey-Ellis|2005|p=118}}{{#tag:ref|ヤーキスのアメリカ合衆国における多くの事業と同様に、ロンドン地下電気鉄道の財務構造は非常に複雑で、将来の収入をあてにした斬新な財務手法を用いていた。輸送需要を過剰に見積もっていたため、多くの出資者は期待していた利回りを得られなかった{{sfn|Wolmar|2004|pp=170–172}}。|group="注"}}。
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発電所が建設中に、ディストリクト鉄道はイーリングとハーロウを結ぶ未開通の路線の電化工事を行った。この路線は[[軌道回路]]を用いた自動信号と空気圧動作式の腕木式信号機を備え、2本の7両編成の列車で試運転が行われた{{sfn|Horne|2006|pp=37–40}}。1903年8月に420両の車両が発注され、新しい補修基地がミル・ヒル・パーク(現在のアクトン・タウン)の西側に建設された{{sfn|Horne|2006|pp=41–42}}。
 
試運転の後、サウス・ハーロウまでの路線は1903年6月に開通し、この年の王立農業ショーに向けてパーク・ロイヤル・アンド・トワイフォード・アビー駅(現在の{{仮リンク|[[パーク・ロイヤル駅|en|Park Royal tube station}}]])との間で6月23日からシャトル列車が運転された{{sfn|Horne|2006|p=39}}。サウス・ハーロウまでの路線の残りは翌週6月28日に開通し、駅は[[ノース・イーリング駅]]、パーク・ロイヤル・アンド・トワイフォード・アビー駅、ペリヴェール=アルパートン駅(現在の{{仮リンク|アルパートン駅|en|Alperton tube station}})、{{仮リンク|サドベリー・タウン駅|en|Sudbury Town tube station}}、{{仮リンク|サドベリー・ヒル駅|en|Sudbury Hill tube station}}、{{仮リンク|サウス・ハーロウ駅|en|South Harrow tube station}}が開業した{{sfn|Rose|2007}}。
 
==== 電気運転の開始 ====
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==== ピカデリー線延長 ====
1912年11月に、ピカデリー線をハマースミス駅から延長して、ロンドン・アンド・サウス・ウェスタン鉄道のリッチモンド支線へ連絡するという法案が提出された<ref name="LER_Bill_1912">{{London Gazette |date=22 November 1912|issue=28665|startpagepages=8798|endpage=-8801|accessdate=2009-04-14}}</ref>。この法律は1913年[[ロンドン電気鉄道]]法として1913年8月15日に成立したが<ref name="LER_Act_1913">{{London Gazette|date=19 August 1913|issue=28747|startpagepages=5929|endpage=-5931|accessdate=2009-04-14}}</ref>、[[第一次世界大戦]]の勃発のために延長工事ができなくなった{{sfn|Horne|2006|p=56}}。
 
[[ファイル:Sudbury Town stn main entrance.JPG|thumb|left|サドベリー・タウン駅の駅舎は1931年7月に建て替えられ、ホールデンの建築様式を発展させるプロトタイプとなった]]
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ロンドン地下電気鉄道が1912年から所有していた{{仮リンク|ロンドン総合路線バス会社|en|London General Omnibus Company}}はとても利益が上がっており、収入をプールすることで、バス会社からの利益をあまり利益の出ていない鉄道に対して内部補助することができていた{{#tag:ref|バス事業を実質的に独占していたため、ロンドン総合路線バス会社は巨額の利益を上げ、地下鉄各社がかつて実現したことのないような高い配当を出していた。ロンドン地下電気鉄道が買収する前年の1911年には、配当は18パーセントであった{{sfn|Wolmar|2004|p=204}}。|name=note16|group="注"}}。しかし1920年代始めから多くの小さなバス会社が競争をしかけてきたため、ロンドン総合路線バス会社の利益は侵食され、グループ全体の収益性に悪影響を与えていた{{sfn|Wolmar|2004|p=259}}。
 
ロンドン地下電気鉄道グループの収益を守るため、会長の{{仮リンク|アルバート・スタンリー (初代アシュフィールド男爵)|en|Albert Stanley, 1st Baron Ashfield|label=アルバート・スタンリー}}(アシュフィールド卿)は政府に対してロンドン地域での交通事業を規制するように働きかけを行った。1923年からこの方向で進められ、アシュフィールドと[[労働党 (イギリス)|労働党]]のロンドン郡議員で後に庶民院議員そして運輸大臣を務める{{仮リンク|[[ハーバート・モリソン|en|Herbert Morrison}}]]が議論の先頭に立って、どの程度の規制を行いどの運輸事業が公共管理下に収められるべきかが検討された。アシュフィールドは、ロンドン地下電気鉄道グループを競争から守り、そしてロンドン郡の路面電車網を支配下に収められるような規制を望んでいたが、モリソンは完全に公共管理下に置くことを望んでいた{{sfn|Wolmar|2004|pp=259–262}}。7年に渡る出だしの躓きの末、ロンドン地下電気鉄道、メトロポリタン鉄道およびロンドン旅客運輸地域として指定される範囲内すべてのバス・路面電車事業者を買収する公社として[[ロンドン旅客運輸公社]]を設立する法案が1930年末に発表された<ref>{{London Gazette |date=1930-12-09 |issue=33668 |startpagepages=7905 |endpage=-7907 |accessdate=2010-03-30 }}</ref>。この公社は妥協であり、公共的な所有とされたが完全な国有化ではなかった。公社は1933年7月1日に発足した。この日、ディストリクト鉄道やその他の地下鉄各社の資産はロンドン旅客運輸公社に移管された{{sfn|Wolmar|2004|p=266}}。
 
=== ディストリクト鉄道線のその後 ===
ディストリクト鉄道の路線は、ロンドン地下鉄のディストリクト線となった。1933年10月23日から、ピカデリー線の列車がハーロウとアクスブリッジの間のシャトル列車を置換えた{{sfn|Horne|2006|p=65}}。1923年に、[[ロンドン・ミッドランド・アンド・スコティッシュ鉄道]]がロンドン・アンド・ノース・ウェスタン鉄道のアウター・サークルのアールズ・コート駅からの運行を引き継ぎ、[[第二次世界大戦]]までにアールズ・コート駅とウィルズデン・ジャンクション間の電車によるシャトル運行に変わった。ウェスト・ロンドン線が1940年に爆撃された後、ロンドン・ミッドランド・アンド・スコティッシュ鉄道とメトロポリタン線のアディソン・ロード駅への運行は中止された。戦後、ケンジントン展示ホールへの輸送を行うために、ディストリクト線の列車でアールズ・コート駅とアディソン・ロード駅の間のシャトル運行が始まり、アディソン・ロード駅は現在ではケンジントン・オリンピア駅に改称されている{{sfn|Horne|2006|p=73}}。
 
ディストリクト鉄道ハウンズロー支線における閑散時間帯のサウス・アクトン駅までのシャトル運転は1935年4月29日に廃止され、アクトン・タウン駅とサウス・アクトン駅の間のシャトル列車に置き換えられた{{sfn|Horne|2006|p=60}}。このシャトル列車は1959年2月28日に廃止され、ピーク時のディストリクト線からハウンズロー駅までの直通列車も1964年10月9日に廃止された{{sfn|Horne|2006|p=88}}。1970年代にハウンズロー支線は[[ロンドン・ヒースロー空港]]まで延長されてヒースロー支線となった。1975年7月19日にまず{{仮リンク|[[ハットン・クロス駅|en|Hatton Cross tube station}}]]まで延長され、1977年12月16日に[[ヒースロー・ターミナルズ1,2,3駅|ヒースロー・セントラル駅]]が開業した{{sfn|Rose|2007}}。
 
== 鉄道車両 ==
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蒸気機関車時代の客車は4輪式で、バッファー間全長が29フィート2インチ(約8.89メートル)であった。一等・二等・三等の三等級制で、一等車には4室、それ以外は5室のコンパートメントを備えていた{{sfn|Bruce|1983|pp=17, 19}}。照明は当初は屋根上の袋に貯められていた石炭ガスを燃やしており、後に圧力をかけて貯留された石油ガスのシステムになった。当初はチェーン式のブレーキを備えていた。後に[[ウェスティングハウス・エア・ブレーキ|ウェスティングハウス]]式の直通空気ブレーキになり、そして自動空気ブレーキに置き換えられた{{sfn|Bruce|1983|p=19}}。
 
当初は列車は8両編成であったが、1879年以降は9両編成が標準となった{{sfn|Bruce|1983|pp=17, 19}}。1905年末にディストリクト鉄道は395両の客車を電車に置き換えた{{sfn|Bruce|1983|p=19}}。{{仮リンク|ケント・アンド・イースト・サセックス鉄道|en|Kent and East Sussex Railway}}で保存されている客車は、ディストリクト鉄道の一等車であると考えられてきたが、現在ではメトロポリタン鉄道の8輪客車を切り詰めたものではないかとされるようになっている<ref>{{cite web | url=http://www.cs.vintagecarriagestrust.org/se/CarriageInfo.asp?Ref=1084 | title=Metropolitan District Four (eight??) wheel First (body) built 1864 | work=Vintage Carriage Trust | accessdate=2012-06-01}}</ref><ref>{{citeCite web | url=http://www.kesr.org.uk/stock-register/coaching-stock/no-100.html | title=No 100 London Underground Coach | publisher=Kent and East Sussex Railway | work=Coaching Stock Register | accessdate=2012-06-01 | archiveurl=https://web.archive.org/web/20120510021803/http://www.kesr.org.uk/stock-register/coaching-stock/no-100.html | archivedate=2012-05-10 | url-status=dead|url-status-date=2017-09 }}</ref>。
 
=== 電車 ===
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== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"|colwidth=30em}}
 
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== 参考文献 ==
{{refbegin}}
*{{cite book |last=Badsey-Ellis |first=Antony |title=London's Lost Tube Schemes |publisher=Capital Transport |isbn=1-85414-293-3 |year=2005|ref=harv}} [httphttps://books.google.comco.jp/books?id=zTUeAQAAMAAJ&redir_esc=y&hl=ja Snippet view] at google.com, retrieved 20 August 2012
* {{cite book|last=Bruce|first=J Graeme|year=1983|title=Steam to Silver. A history of London Transport Surface Rolling Stock|publisher=Capital Transport|isbn=0-904711-45-5|ref=harv}}
*{{cite book |first=J Graeme|last=Bruce |title=Workhorses of the London Underground
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* {{cite book |last=Horne |first=Mike |title=The Metropolitan Line |year=2003 |publisher=Capital Transport |isbn=1-85414-275-5 |ref=harv}}
* {{cite book |last=Horne |first=Mike |title=The District Line |year=2006 |publisher=Capital Transport |isbn=1-85414-292-5 |ref=harv}}
* {{cite book|title=London's Metropolitan Railway|last=Jackson|first=Alan|year=1986|publisher=David & Charles|isbn=0-7153-8839-8|ref=harv}} [httphttps://books.google.comco.jp/books?id=x4ZPAAAAMAAJ&redir_esc=y&hl=ja Snippet view] at google.com, retrieved 20 August 2012
* {{cite book|title=The Railway Dictionary: An A-Z of Railway Terminology|last=Jackson|first=Alan|year=1992|publisher=Sutton Publishing|isbn=07509-00385|ref=harv}}
* {{cite book|title=The Metropolitan District Railway|last=Lee|first=Charles E.|publisher=The Oakwood Press|year=1956|asin=B0000CJGHS|ref=harv}}
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{{Commonscat|Metropolitan District Railway}}
 
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:ていすとりくとてつとう}}
[[Category:ロンドン地下鉄の母体となった鉄道会社]]