ステパン・マカロフ
ステパン・オーシポヴィチ・マカロフ(ロシア語:Степа́н О́сипович Мака́ровスチパーン・オースィパヴィチュ・マカーラフ;ラテン文字転写の例:Stepan Osipovich Makarov、ユリウス暦1848年12月27日(グレゴリオ暦1849年1月8日) - ユリウス暦1904年3月31日(グレゴリオ暦4月13日))は、ロシア帝国の海軍軍人、海洋学者。ロシア帝国海軍中将。ロシア帝国科学アカデミー会員。
概要
ユリウス暦1848年12月27日(グレゴリオ暦1849年1月8日)は、ロシア帝国の領土だったウクライナのヘルソン県ニコラエフ(現在のムィコラーイウ)で海軍准士官の家庭に生まれる。父の転属に伴いニコラエフスク・ナ・アムーレに移り、1858年、ニコラエフスク航海士学校に入学する。1865年、航海士学校を首席で卒業したが、父の希望により航海士ではなく、海軍士官候補生となる。
1867年、太平洋艦隊に配属される。1872年にバルト艦隊、1876年に黒海艦隊勤務となる。1877年、露土戦争に水雷艇母艦「ヴェリーキー・クニャージ・コンスタンチン」の艇長として従軍する。マカロフは、ロシア海軍における水雷艇運用・戦術論に関する第一人者のひとりであり、露土戦争において、自分の水雷艇戦術理論を実践に移した。すなわち、1877年1月16日トルコの仮装巡洋艦「インティバフ」に対して魚雷による世界最初の対艦攻撃を行った。1880年から1881年、アハルテキンの中央アジア探検隊に参加。1881年から1882年には蒸気船「タマーニ」、1885年にはフリゲート「クニャーシ・ポジャールスキイ」の艦長を務めた。
1886年にはコルベット「ヴィーチャシ」の艦長に就任し、1886年から1889年と、1894年から1896年の2回に渡って世界一周航海に出ている。2度に渡る航海では、総合的な海洋調査を実施し、研究の成果を『ヴィーチャシ号と太平洋』にまとめて発表した。
1890年、少将に昇進し、バルト艦隊最年少の提督となり、1891年、海軍砲術主任監察官となる。1894年、戦艦「ニコライ1世」に座乗し、1895年、極東に赴任、艦隊司令長官に就任する。1899年と1901年に北極探検を実施し、この時砕氷船を構想し、世界最初の砕氷船「エルマーク」の建造を命じている。
1904年、日露戦争が起こると、旅順に奇襲攻撃を受けた責任を追及されて解任されたスタルク司令長官の後任として、2月24日、太平洋艦隊司令長官に就任した。「マカロフ爺さん」と将兵にあだ名され、ロシア海軍随一の名将と名を馳せていたマカロフの着任は日本側にとってはひとつの脅威であった。しかし、3月31日、連合艦隊による旅順封鎖作戦で封鎖のため敷設した機雷によってマカロフが座乗していた戦艦「ペトロパヴロフスク」は爆沈し、マカロフは避難しようとしたが間に合わず、将兵500人と共に戦死した。
マカロフを顕彰する記念碑が、生地であるウクライナのムィコラーイウやロシアのウラジオストクにある他、いくつかの艦船にはアドミラル・マカロフ(マカロフ提督)の船名がつけられている。