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| 引退 = [[2011年]]7月場所<ref name="meiretsu28"/>
| 引退後 = [[浅香山部屋]]師匠
| 他の活動 = [[日本相撲協会]] 理事(1期)<br/>2024年3月 -
| 趣味 = [[ラジコン]]
| 備考 = [[金星 (相撲)|金星]]6個([[曙太郎|曙]]2個、[[貴乃花光司|貴乃花]]3個、[[花田勝|若乃花]]1個)
| 作成日時 = [[20112024年]][[732025日]]
}}
'''魁皇 博之'''(かいおう ひろゆき、[[1972年]](昭和47年)[[7月24日]] - )は、[[福岡県]][[直方市]]出身で[[友綱部屋]]に所属していた元[[大相撲力士]]。最高位は東[[大関力士]]。本名は'''古賀 博之'''(こが ひろゆき)で、。最高位は東[[大関]]。愛称はキンタ、ゴリラ<ref>朝日新聞2000年7月26日付朝刊スポーツ面。「ゴリラ」と名付けたのは[[花田虎上|若乃花]]で、魁皇自身は大いに不本意だという。</ref>、[[ど根性ガエル#登場人物|ゴリライモ]]<ref>[[朝乃若武彦|朝乃若]]が呼び始めたあだ名。</ref>。[[ABO式血液型|血液型]]は[[ABO式血液型|A型]]。
 
得意手は左四つ、寄り、上手投げ、小手投げ<ref>{{Cite web|和書|url=https://spaia.jp/column/sumo/9419|title=相撲の決まり手の「基本技」と「投げ手」珍技を解説|publisher=【SPAIA】スパイア|date=2020-01-12|accessdate=2020-11-16}}</ref>。好物は[[ステーキ]]<ref>福岡県民栄誉賞・直方特別市民文化栄誉賞の授賞式(後述)に出席するべく2011年8月に地元の直方市へ帰郷した際市内の企業である明治屋産業を訪れ、その明治屋産業が展開する事業「びっくり市」で販売される「レンガステーキ」4kgを軽々平らげた。</ref><ref name="meiretsu28"/>。
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3人兄弟の末っ子として生を受けた。出生時の体重が4250グラムの巨体であった<ref name="hito">「ひと 魁皇博之さん」朝日新聞2000年5月22日付朝刊総合面</ref>。[[直方市立直方東小学校]]時代は空手を習っており、小学4年のころから福岡県の相撲大会に出場していた<ref name="asaspo">朝日新聞2000年7月26日付朝刊スポーツ面</ref>。直方市立第二中学校2年生の時に、友人からの誘いで[[柔道]]をはじめ、中学3年生時点で握力は85キロあったという。その巨体から、相撲部顧問の教師に相撲を勧められ、町内の相撲大会に出場していたが、実力的にはまだまだ取り立てて強かったわけでもなく相撲を取るのが楽しかったという思い出もなかったという<ref name="ref34">[http://hrd.php.co.jp/shainkyouiku/cat21/1-3.php がんばったぶんだけ成長1〜浅香山博之] PHP人材開発 2013年1月11日更新</ref>。
 
入門前は、元大関[[北天佑勝彦|北天佑]]の大ファンだったと言われている<ref>[https://web.archive.org/web/20001204114700/http://www.fsinet.or.jp/~sumo/profile/1/19930501.htm 「大相撲記録の玉手箱→力士名鑑→魁皇博之」]</ref>。北天佑も魁皇も、共に上手からの強烈な投げ技が持ち味の「怪力大関」と言われた。
 
中学時代、友綱部屋の後援者が相撲大会を観戦しており、勧誘されたことがきっかけで卒業後に友綱部屋に入門した<ref name="ref34" /> 。進路に迷っていた際に友綱部屋の稽古を見学に行き、[[ちゃんこ]]を食べさせてもらい[[本場所]]のチケットももらった。「なんとなく断れない状況だった。おれって、嫌と言えない性格だから」<ref name="asaspo"/>と後に振り返っている。古賀少年の「俺、九重部屋にでも見学に行こうかな」という何気ない一言を聞いた周囲の大人が、角界入りする意志があるのだろうと早とちりして入門を根回ししたという話もある。
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(2021年7月21日閲覧)</ref>。
 
2023年2月1日付で審判部副部長に昇格。委員から役員待遇委員となり、理事会に出席する立場となった<ref>[https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/202301260001130.html 元魁皇の浅香山親方が審判部副部長に昇格 元安美錦の安治川親方が審判部入り] 日刊スポーツ 2023年1月26日20時32分 (2023年1月28日閲覧)</ref>。2024年1月26日に、2月2日に開催される理事選が無投票となることが決定したため、立候補した浅香山は改選により理事に新任することが決定<ref>[https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/202401260001135.html#goog_rewarded 日本相撲協会、3期連続の無投票で理事候補と副理事候補決定 八角理事長続投なら実質5期目] 日刊スポーツ 2024年1月26日20時8分 (2024年1月27日閲覧)</ref>。同年3月25日の評議員会で理事就任が承認された<ref>{{Cite news |和書 |title=日本相撲協会の八角理事長が続投決定、実質5期目 暴力問題の撲滅などを誓う |newspaper=日刊スポーツ |date=2024-03-25 |url=https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/202403250000579.html |access-date=2024-03-25}}</ref>。
 
2024年1月場所の職務は、体調不良のため12日目から休場<ref>[https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/202401240001533.html 審判部の浅香山副部長(元大関魁皇)が12日目から休場 佐渡ケ嶽部長(元関脇琴ノ若)も休場中] 日刊スポーツ 2024年1月24日21時57分 (2024年1月25日閲覧)</ref>。
 
貴闘力が2024年3月場所中に公開した談話によると、宮城野部屋閉鎖が決定的となった情勢で、同場所中に元白鵬の宮城野が協会が処遇を再考するように協会を説得してほしいと浅香山に頼んだという<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=V9USe8rXADM 【急変】魁皇が宮城野部屋存続を嘆願!その理由は!?] 貴闘力部屋 2024/03/13 (2024年3月14日閲覧)</ref>。
 
== 取り口 ==
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強引な投げで鮮やかな勝ちを収める相撲スタイルの代償として、大関昇進後は腰痛など怪我に悩まされることが多くなった。場所ごとの好不調の波が激しく、好調な時は横綱をも負かしてしまうが、不調な時は平幕にあっけなく負けることもあった。また、若いころには精神的に脆い面があり連敗癖があって、上位に定着しながら大関になかなか上がれなかった理由の一つでもある。ことに小心さは大関昇進前から広く知られていて<ref name="hito"/>、「気が優しくて力持ち」と言われる反面、「怪力だが気が弱い」「蚤の心臓」と揶揄されることもあった。
 
若い頃からスピード型力士に手を焼き、そうした力士との取組では廻しを取れずにスピードに攪乱されて黒星を喫するパターンが多かった。若手時代は琴錦が、ベテランの域に入ってからは日馬富士が苦手であった。
現役最晩年では怪我や加齢による衰えも顕著となり、立合いの鋭さ・重さに欠け、握力も70キロ台にまで落ちていた<ref>[http://www.sponichi.co.jp/sports/flash/KFullFlash20091117127.html 幕内800勝達成の魁皇 史上3人目も無関心貫く(相撲) ― スポニチ Sponichi Annex ニュース] 2010年3月10日閲覧</ref><ref>[http://www.nishinippon.co.jp/nsp/sumo/kaiou/2006/20061119001817.shtml 魁皇 (福岡出身) / 大相撲 どすこい!郷土力士 / 西日本スポーツ] 2010年3月10日閲覧</ref>。左四つに組むことが難しくなり、組んでも左四つ得意の若手([[稀勢の里寛|稀勢の里]]、[[琴奨菊和弘|琴奨菊]]など)や、もろ差しがうまい[[豊ノ島大樹|豊ノ島]]には分が悪くなっていた。太ももの故障を抱えてからは、左右の動きが激しい相手に対処できずあっけなく土俵を割ることが増え、また上手投げが難しくなり叩きが増える相撲も多かった。
 
現役最晩年では怪我や加齢による衰えも顕著となり、立合いの鋭さ・重さに欠け、握力も70キロ台にまで落ちていた<ref>[https://web.archive.org/web/20091123062402/http://www.sponichi.co.jp/sports/flash/KFullFlash20091117127.html 幕内800勝達成の魁皇 史上3人目も無関心貫く(相撲) ― スポニチ Sponichi Annex ニュース] 2010年3月10日閲覧</ref><ref>[http://www.nishinippon.co.jp/nsp/sumo/kaiou/2006/20061119001817.shtml 魁皇 (福岡出身) / 大相撲 どすこい!郷土力士 / 西日本スポーツ] 2010年3月10日閲覧</ref>。左四つに組むことが難しくなり、組んでも左四つ得意の若手([[稀勢の里寛|稀勢の里]]、[[琴奨菊和弘|琴奨菊]]など)や、もろ差しがうまい[[豊ノ島大樹|豊ノ島]]には分が悪くなっていた。太ももの故障を抱えてからは、左右の動きが激しい相手に対処できずあっけなく土俵を割ることが増え、また上手投げが難しくなり叩きが増える相撲も多かった。
 
30代も半ばを過ぎた2007年7月場所から2010年9月場所まで20場所連続で二桁勝利を上げられず、休場と角番が増えた。この頃には、両差しから体格を利して一気に寄るという相撲も見せてはいるが、一方で立合いの駆け引きや変化・引き技に頼り、長年の経験と勝負勘の貯金で取っている相撲も増え、「勝っても首を捻る」光景がしばしば見られた。それでも守勢に回った際、手繰りや小手投げでしのぎつつ、時折左四つや突き押しを放ち豪快な相撲も見せていた。右上手を掴んだ際に沸き起こる観客の声援は非常に大きく、魁皇の相撲の型が広く知られていることを示していた。
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[[ファイル:Kaio Hiroyuki statue.jpg|250px|right|thumb|直方駅前に設置されている魁皇の銅像]]
2014年には地元直方市の[[直方駅]]前に銅像が設置され、同年10月26日に除幕式が行われた<ref>[https://web.archive.org/web/20141027044125/http://www.yomiuri.co.jp/kyushu/local/fukuoka/20141027-OYS1T50029.html 元大関魁皇の銅像 JR直方駅前に完成] - 読売新聞西部本社、2014年10月27日</ref>。この銅像は除幕2日後に落書きが見つかり、同年10月から11月にかけてにさがり2本が計7回折られるなど相次ぐいたずらに見舞われ、これを受けて市は被害届を提出し、12月に防犯カメラ2台を設置するという対応に追われた<ref>[http://www.nishinippon.co.jp/nnp/f_chikuhou/article/138226 受難続きの魁皇銅像 直方市、ステンレスで補強へ 福岡県] 西日本新聞 2015年01月09日(最終更新 2015年01月10日 00時21分)</ref>
 
=== 特急列車「かいおう」 ===
[[2001年]]10月に[[九州旅客鉄道]](JR九州)[[筑豊本線]]・[[篠栗線]]([[福北ゆたか線]])[[博多駅]] - [[直方駅]]間で運行を開始した[[特別急行列車|特急列車]]の名称「[[かいおう]]」にも採用された。人名、しかも存命中(さらに言えば、運行開始時に現役で活動中)の人物の名前が[[JR|JRグループ]]の列車名に採用されることは極めて異例で、出発式には魁皇本人も出席し、[[テープカット]]を行った。「かいおう」の運行決定は、魁皇が3度目の優勝をした[[2001年]]7月場所後だったが、翌9月場所は途中休場していた。魁皇の引退後も、JR九州は「かいおう」の名称について「(現時点では)改称の予定はない」とコメントしている<ref>{{Cite news |title=特急「かいおう」残った JR、大関引退後も名称変えず |newspaper=[[朝日新聞|asahi.com]] |date=2011-07-21 |url=httphttps://www.asahi.com/travel/aviation/SEB201107210037.html |agency=[[朝日新聞社]] |accessdate=2017-02-15}}</ref>。
 
=== 妻との関係 ===
妻は元[[プロレスラー]]の[[西脇充子]]。出会いは充子が[[卵巣がん]]の闘病生活を送る頃、「力士と会うと元気になるから」と病状を心配する知人に紹介されたのが、当時小結の魁皇だった。魁皇は充子との初対面の印象を「どんなに弱々しい女性が来るかと思ったら、[[美容師]]の友人が染めてくれたという金髪の頭で、すごい元気なんですよね。おまけに後輩の[[アジャ・コング]]までいるし(笑)。『騙された~』と思ったくらいでしたよ」と振り返る<ref>[https://jisin.jp/sport/1773496/ 元大関・魁皇の妻 親方と弟子の愛で二度目のがんを乗り切る!]女性自身</ref><ref>[https://toyokeizai.net/articles/-/154872 元大関「魁皇」の妻が歩む波瀾万丈すぎる人生 相撲部屋の女将になった元女子プロレスラー]東洋経済ONLINE</ref>。意気投合した二人はやがて交際を始め、魁皇が大関昇進前の1999年6月に結婚している。充子のほうが5歳年上の「[[姉女房|姉さん女房]]」で、「ミッちゃん」「ヒロくん」と呼び合う仲だが、当初より「奥さんのほうが強そうだ」「(魁皇は)酒に強く妻に弱い」<ref name="asaspo"/>と評されるほどで、なかなか大関昇進がかなわない魁皇を叱咤激励し続けた。結婚式で充子は「浮気をするなら私にばれないように、責任をもって。自分でケツがふけるならばどうぞ」<ref name="asaspo"/>とくぎを刺し、魁皇は「絶対しません」と答えるしかなかった。夫妻の間に子供はいないが、これはそもそも充子が卵巣がんにより卵巣を摘出して子供を産めなくなったため
 
西脇は現役時代の魁皇の身体のケアが大変だったと魁皇の引退後に振り返っており、現役終盤は腰痛が悪化していたためおちおち電球の交換も頼めなかった。「魁皇を買い物なんかに連れだしてんじゃねぇ」と相撲ファンに反発されるのを恐れ、当時は買い物もろくに一緒に行ったことが無かった。2人のデートも治療院と病院の2パターンのみであった。魁皇の引退後、引退相撲開催を巡る労力的負担が原因で2回ほど離婚危機があった<ref>[https://number.bunshun.jp/articles/-/861177 「出ていったこともあった」夫・魁皇と“2回の離婚危機”…女子プロレスラーから相撲部屋の女将になった西脇充子が明かす“夫婦の関係性”(1/3ページ)] Number Web 2024/04/07 17:02 (2024年4月8日閲覧)</ref><ref>[https://number.bunshun.jp/articles/-/861177?page=2 「出ていったこともあった」夫・魁皇と“2回の離婚危機”…女子プロレスラーから相撲部屋の女将になった西脇充子が明かす“夫婦の関係性”(2/3ページ)] Number Web 2024/04/07 17:02 (2024年4月8日閲覧)</ref>。
 
=== 他の力士との関係 ===
[[高砂 (相撲)|高砂]]部屋の弓取り力士に、「弓取り関取」で話題となった[[皇牙篤|皇牙]](元十両、2007年5月場所直前に引退。十両昇進後も引退直前まで弓取り式を務めた)がいたが、皇牙も直方市出身でしかも出身[[中学校]](直方第二中学校)の5学年後輩であり、四股名は魁皇から一字拝借したものである。さらに、[[田子ノ浦部屋|鳴戸部屋]]出身の元前頭・[[力皇猛|力櫻]]が、プロレス転向後「力皇」と改名したきっかけも、大相撲では同期入門だった魁皇にあやかったものと言われた。
 
2015年6月20日、先輩大関だった貴ノ浪こと19代[[音羽山 (相撲)|音羽山]]親方が43歳で急病死。学年は魁皇が1年後輩で、幕内では51回対戦した(魁皇の24勝27敗、優勝決定戦で1敗)。[[青森県]]出身の貴ノ浪は、かつて現役時代の九州場所について「魁皇にとってはホームゲーム、こちらはアウェーゲームみたいなものだ」と発言していた。一方魁皇は貴ノ浪を「スケールが大きくて豪快」と振り返り、「明るく周りを和ませてくれる人柄だった」とコメント。「心臓が悪いと聞いていたが、最近は元気だと思っていたからまだ信じられない。体調が悪くても人に見せなかったから、本当はしんどかったのかも。これからお互い協会の為に頑張ろうと思っていたのに…」と早過ぎる死を惜しんでいた<ref>[https://web.archive.org/web/20150621222031/http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2015/06/21/kiji/K20150621010581700.html 元魁皇・浅香山親方「最近は元気だった。信じられない」] スポニチ 2015年6月21日</ref>。
 
さらに1年後の2016年7月31日、「昭和の大横綱」こと千代の富士・13代九重親方が61歳で逝去。「九重親方の1000勝は私と比べるものではない。あの体で大きな相手を倒したのは凄いしレベルが違う。本当に悲しい」と追悼のコメントを述べていた<ref>[http://www.asahi.com/articles/ASJ706V9SJ70UTQP02X.html 「戦友」の親方たち、早過ぎる死を悼む 九重親方死去] 朝日新聞 2016年8月1日記事</ref>。
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35歳の時に買った愛犬は病弱なため日頃からいたわっていたが、その経験から親方になってからは弟子にも体調が悪い時にはすぐに病院へ行くよう促すようになった。本人は「おかげで丸くなったかな」と笑っている。2023年の1月頃に愛犬は死去しており、その後も「夢でも良いから会いたい」と思うことがある。2023年9月時点で飼っているのはその愛犬の息子。「失うのはもう辛いからね。飼うのはこれが最後かな」<ref>[https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/202309050000135.html 浅香山親方の癒やしは愛犬 シェビーと昨年末別れ「夢でもいいから会いたい」/親方衆の癒やし] 日刊スポーツ 2023年9月6日5時0分 (2023年9月9日閲覧)</ref>。
 
{{Seealso|宮城野部屋#不祥事発生による宮城野部屋の処遇問題}}
 
弟子に学生相撲出身者や外国人力士がいないことについて、そもそものルートがないと前置きしたうえで「あとからすごい人が入って、あっという間に番付を抜かれると、コツコツ頑張っている子のやる気に影響してしまう」とコメントしている。浅香山部屋は2024年2月に表面化した不祥事により閉鎖する宮城野部屋の受け入れ先と報じられていた<ref>{{Cite web |title=宮城野部屋の暴行問題 師弟一括で浅香山部屋受け入れへ調整 大島親方「理事の下でまた勉強」/デイリースポーツ online |url=https://www.daily.co.jp/general/2024/03/16/0017436097.shtml |website=デイリースポーツ online |date=2024-03-16 |access-date=2024-03-29 |language=ja}}</ref>が、受け入れ先とならなかった要因の一つともみられる<ref>{{Cite web |title=【イチロー大相撲〈17〉】解説=宮城野部屋はなぜ閉鎖になるのか - 大相撲 : 日刊スポーツ・プレミアム |url=https://www.nikkansports.com/premium/sports/news/202403280001275.html |website=nikkansports.com |access-date=2024-03-29 |language=ja |last=佐々木一郎 |date=2024-03-28}}</ref>。
 
=== 記録 ===
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** 3月場所 - 13日目を終えて6勝7敗と追い込まれるも、14日目、千秋楽と連勝して勝ち越し。再び大関昇進に向けての橋頭堡を築く。
** 5月場所 - 自身初の幕内最高優勝(14勝1敗)
** 7月場所 - 11勝4敗で10回目の殊勲賞(歴代1位タイ)、大関昇進を決め大関推挙伝達式での口上は「大関の地位を汚さぬよう稽古に精進します」、花の六三組では曙、貴乃花、若乃花に次ぐ4人目の大関。なお戦後に大関昇進を果たした力士のうち、十両での休場と、幕内からの十両以下への陥落の双方を経験したのは[[大麒麟將能|大麒麟]][http://sumodb.sumogames.de/Rikishi.aspx?r=4022&l=j]、[[旭國斗雄|旭國]][http://sumodb.sumogames.de/Rikishi.aspx?r=4061&l=j]、千代の富士、[[琴風豪規|琴風]][http://sumodb.sumogames.de/Rikishi.aspx?r=4112&l=j]、魁皇 [http://sumodb.sumogames.de/Rikishi.aspx?r=7&l=j] の45人のみ(大麒麟と千代の富士、琴風は[[幕下]]までの陥落を経験)。
** 9月場所 - 新[[大関]]、直前の稽古で親指を骨折しながらも終盤まで優勝を争い11勝4敗
** 11月場所 - 大関として九州に凱旋(11勝4敗)、[[武蔵丸光洋|武蔵丸]]との一番で珍しい「[[一本背負い]]」を決める(魁皇は中学校時代まで[[柔道]]の経験がある)
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** 7月場所 - 初の[[角番]]、3度目の幕内最高優勝(13勝2敗)
** 9月場所 - 2度目の綱獲り場所、腰椎椎間板ヘルニア及び左腰神経根麻痺が再発のため4日目から途中休場
** 10月6日 - [[福北ゆたか線]]電化開業、特急[[かいおう]]の運行開始<ref>{{Cite book|和書|title=JR気動車客車編成表 '02年版|chapter=JR年表|date=2002-07-01|page=191|publisher=ジェー・アール・アール|isbn=4-88283-123-6}}</ref>
** 11月場所 - 2度目の角番、千秋楽結びで武蔵丸に勝利した際に会場から祝福の座布団が舞う
* [[2002年]]
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{{Sumo record box end}}
 
=== 主な力士との幕内対戦成績 ===
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