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| 名前 = 魁皇 博之
| 画像 = [[ファイル:Kaio Hiroyuki 2008 May.jpg|180px]]
| 説明 = 二
| 四股名 = 魁皇 博之
| 本名 = 古賀 博之(こが ひろゆき)
| 愛称 = キンタ、ゴリライモ
| 生年月日 = {{生年月日と年齢|1972|7|24}}
| 出身 = [[福岡県]][[直方市]]
| 身長 =
| 体重 =
| BMI =
| 所属部屋 = [[友綱部屋]]
| 得意技 = 左四つ、寄り
| 現在の番付 = 引退
| 最高の番付 = 東[[大関]]
| 生涯戦歴 = 1047勝700敗158休(140場所)
| 幕内戦歴 = 879勝581敗141休(107場所)
| 優勝 = 幕内最高優勝5回
| 賞 = [[三賞#殊勲賞|殊勲賞]]10回<br>[[三賞#敢闘賞|敢闘賞]]5回
| 初土俵 = [[1988年]]3月場所<ref name="meiretsu28"/>
| 入幕 = [[1993年]]5月場所<ref name="meiretsu28"/>
| 引退 = [[2011年]]7月場所<ref name="meiretsu28"/>
| 引退後 = [[浅香山
| 他の活動 = [[日本相撲協会]] 理事(1期)<br/>2024年3月 -
| 趣味 = [[ラジコン]]
| 備考 = [[金星 (相撲)|金星]]6個([[曙太郎|曙]]2個、[[貴乃花光司|貴乃花]]3個、[[花田勝|若乃花]]1個)
| 作成日時 = [[
}}
'''魁皇 博之'''(かいおう ひろゆき、[[1972年]](昭和47年)[[7月24日]] - )は、[[福岡県]][[直方市]]出身で[[友綱部屋]]に所属し
得意手は左四つ、寄り、上手投げ、小手投げ<ref>{{Cite web|和書|url=https://spaia.jp/column/sumo/9419|title=相撲の決まり手の「基本技」と「投げ手」珍技を解説|publisher=【SPAIA】スパイア|date=2020-01-12|accessdate=2020-11-16}}</ref>。好物は[[ステーキ]]<ref>福岡県民栄誉賞・直方特別市民文化栄誉賞の授賞式(後述)に出席するべく2011年8月に地元の直方市へ帰郷した際市内の企業である明治屋産業を訪れ、その明治屋産業が展開する事業「びっくり市」で販売される「レンガステーキ」4kgを軽々平らげた。</ref><ref name="meiretsu28"/>。
引退後は[[年寄]]・[[浅香山 (相撲)|浅香山]]を襲名し、[[浅香山部屋]]を設立している。
== 来歴 ==
=== 入門まで ===
3人兄弟の末っ子として生を受けた。出生時の体重が4250グラムの巨体であった<ref name="hito">「ひと 魁皇博之さん」朝日新聞2000年5月22日付朝刊総合面</ref>。[[直方市立直方東小学校]]時代は空手を習っており、
入門前は、元大関[[北天佑勝彦|北天佑]]の大ファンだったと言われている<ref>[https://web.archive.org/web/20001204114700/http://www.fsinet.or.jp/~sumo/profile/1/19930501.htm 「大相撲記録の玉手箱→力士名鑑→魁皇博之」]</ref>。北天佑も魁皇も、共に上手からの強烈な投げ技が持ち味の「怪力大関」と言われた。
中学時代、友綱部屋の後援者が相撲大会を観戦しており、勧誘されたことがきっかけで卒業後に友綱部屋に入門した<ref name="ref34" /> 。進路に迷っていた際に友綱部屋の稽古を見学に行き、[[ちゃんこ]]を食べさせてもらい[[本場所]]のチケットももらった。「なんとなく断れない状況だった。おれって、嫌と言えない性格だから」<ref name="asaspo"/>と後に振り返っている。古賀少年の「俺、九重部屋にでも見学に行こうかな」という何気ない一言を聞いた周囲の大人が、角界入りする意志があるのだろうと早とちりして入門を根回ししたという話もある。
=== 入門後 ===
[[1988年]]3月場所で、「古賀」の[[四股名]]で初土俵を踏んだ。同期には[[曙太郎|大海]](後に64代[[横綱]]・曙)、[[貴乃花光司|貴花田]](後に65代横綱・貴乃花)、[[花田虎上|若花田]](後に66代横綱・3代若乃花)、[[和歌乃山洋|和歌乃山]](後に[[小結]])、[[力皇猛|力櫻]](後に[[幕内]]、プロレスラーに転向)など有望な新弟子がおり、「[[花の六三組]]」とも称された。貴乃花・和歌乃山・力櫻とは同い年・同学年であった<ref name="100retsu">北辰堂出版『昭和平成 大相撲名力士100列伝』(塩澤実信、2015年)176ページから177ページ</ref>。なお、入門当初は力士の名前をほとんど知らず、勧誘を受けるまで[[相撲部屋]]の存在すら知らなかった(当時はインターネットなど存在しなかったので相撲について気軽に知ることはできなかった)<ref name="asaraireki">[https://www.asahi.com/articles/ASM3833DMM38TIPE004.html 嫌で仕方なかった相撲、一度スカした魁皇 父は見守った] 朝日新聞DIGITAL (聞き手・谷辺晃子) 2019年3月17日07時22分(朝日新聞社、2019年3月18日閲覧)</ref>。
初めて[[番付]]に載った同年5月場所では負け越すなど滑り出しは良くなく<ref>その後も、[[序二段]]、[[三段目]]、[[幕下]]、[[十両]]、[[幕内]]のデビュー場所はすべて[[負け越し]]ている。</ref>、相撲嫌い<ref>自著『嫌いなことでも好きになれる。』によると「内臓検査で不合格になれば地元に戻れるだろう」とまで祈るほど入門を嫌がっていたという。</ref> と慣れない上京生活に苦しみ、入門半年後に脱走を試みたが、脱走先が後援者の家であったためすぐに連れ戻されてしまい、本人も脱走という行為に後悔を感じて部屋に戻る<ref name="ref34" /><ref name="asaspo"/>。その後は、花田兄弟や曙のような超特急の昇進とはいかないもののスピード出世を果たし、幕下時代の[[1991年]]九州場所で5勝2敗と勝ち越した。
[[1992年]]初場所で十両昇進。親方の「頂点を極めてほしい」との希望から四股名を「'''魁皇'''」と改名<ref>ただし、角界入門時の発表では郷土の名山・[[福智山]]にちなんで「福智山」という四股名を名乗る予定であった。1988年(昭和63年)2月29日付[[西日本新聞]](筑豊版)より。</ref>。[[1993年]]5月場所で新[[入幕]]となり、若手の有望株として注目を集めた<ref name="100retsu"/>。
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新入幕場所は4勝11敗と大きく[[負け越し]]十両に陥落したが、同年11月場所に再入幕し10勝を挙げ、[[1994年]]3月場所には対横綱戦初挑戦で曙を下し、初[[金星 (相撲)|金星]]を獲得したほか、若ノ花、[[武蔵丸光洋|武蔵丸]]の2大関を下すなど、初の[[三賞]]となる殊勲賞を受賞した。翌5月場所には[[小結]]に昇進し、[[1995年]]1月場所の新[[関脇]]場所から13場所連続で関脇に在位した([[豪栄道豪太郎|豪栄道]]に次ぐ歴代2位)。
その後も度々三役に上がり、大関候補として期待を寄せられたが、[[1997年]]5月場所11日目の[[貴ノ浪貞博|貴ノ浪]]戦で左[[太股]]を故障し、怪我の回復が遅れて3場所連続休場するなど、足踏みする時期が長く続いた。大関昇進までに2度の優勝同点、4度の優勝次点、史上3位の15回の三賞受賞などを記録し、強豪力士の一人として曙・貴乃花全盛の[[1990年代]]の土俵に在った<ref name="100retsu"/>。1999年5月場所では終盤8連勝で12勝し敢闘賞を受賞したが、次の場所は8勝で終わり、11月場所では終盤9連勝で11勝し敢闘賞を受賞したが、次の場所で7勝と負け越した。この2000年1月場所は千秋楽7勝7敗で、初優勝を狙う武双山を相手に負けて優勝を献上し、自身は負け越しで6場所ぶりに関脇から陥落しただけに、後に本人も「あれほど屈辱的なことはなかった」と悔いている。周囲からもここまで言われるのかと思うほどきついことを言われた魁皇は、それまで全くしてこなかったウエイトトレーニングを導入し、左腕や体の前面の筋肉の弱さを補った<ref>[https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/202306290000079.html 元魁皇の浅香山親方「あれほど屈辱的なことは」最強大関への分岐点の一番/歴代大関の昇進場所] 日刊スポーツ 2023年6月29日8時17分 (2023年6月29日閲覧)</ref>。
小結で迎えた[[2000年]]5月場所では、14勝1敗で幕内初優勝を果たす<ref name="meiretsu28"/>。福岡県出身力士としての優勝は[[1932年]]3月場所の小結[[沖ツ海福雄|沖ツ海]](9勝1敗)以来2人目で、68年ぶりの快挙であった。「賜杯は重い。優勝の重さを感じた。何回も夢に見たんだ」と悲願の初優勝の感想を語った<ref name="hito"/>。
次の翌7月場所は通算7回目の大関
=== 大関時代 ===
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[[2009年]]頃からは満足な稽古もままならず、千代大海と共に角番を繰り返す状況を見かねた横審が「累積5回の角番で降格や引退勧告」なる具体案まで出すほどの風当たりの厳しさとなった<ref>[http://number.bunshun.jp/articles/-/11998 大関陣の不甲斐なさを示す意外な数字・〜カド番大関・千代大海らの罪〜] SportsGraphic NuberWeb 2009/05/22 06:01</ref>。1月場所は千代大海と並んで1位タイとなる、12度目の大関角番となった。進退を賭けて場所入りし、12日目に前頭3枚目[[豪風旭|豪風]]を破って角番脱出、同時に引退危機も乗り越えた。その後3連敗したため場所を8勝7敗で終えた。その場所直後に[[虫垂炎]]で緊急入院、手術はせず薬で治療したが協会の公式行事は休場した。
[[2009年]]11月場所で幕内在位が98場所となり、元関脇・[[高見山大五郎|高見山]]の97場所を超える大相撲史上第1位の記録を達成した。同場所3日目に関脇・[[把瑠都凱斗|把瑠都]]を破って史上3人目の通算800勝を果たし、[[九重 (相撲)|九重]]親方(58代横綱・[[千代の富士貢|千代の富士]])は「私の幕内807勝(史上1位)を超えて欲しい」とエールを送った。さらに同場所10日目、大関琴欧洲を[[押し倒し]]ての勝利で幕内805勝を達成、55代横綱[[北の湖敏満|北の湖]]
=== 幕内(808勝)・通算(1,046勝)各最多勝利更新 ===
[[2010年]]1月場所2日目に前頭2枚目[[豪栄道豪太郎|豪栄道]]に勝ち、19年ぶりに横綱・千代の富士の持つ幕内通算白星807勝に並んだ。3日目にはその千代の富士の愛弟子である千代大海(当時・関脇)に対し、豪快な[[送り投げ]]で勝利し、幕内通算808勝を達成して史上単独1位になった(千代大海はこの取組を最後に引退)。10日目には[[引き落とし]]で日馬富士戦の連敗を8で止め、さらに13日目には2006年3月場所以来23場所ぶりに横綱白鵬を破り、白鵬戦での連敗を17で止めた。白鵬はこの敗北の翌日から63連勝を記録している。14日目には[[稀勢の里寛|稀勢の里]]を[[上手投げ]]で破って勝ち越しを決め、千秋楽でも同4枚目[[垣添徹|垣添]]を[[送り倒し]]で勝利し、8場所ぶりの9勝6敗で終えた。
[[ファイル:26kenshou4.jpg|サムネイル|[[2010年]][[4月26日]]、[[総理大臣官邸]]での[[内閣総理大臣顕彰]]式で[[鳩山由紀夫]]内閣総理大臣から盾を授与される]]
2010年3月場所で幕内通算在位が100場所を迎え、この場所も8勝7敗と勝ち越した。[[3月30日]]、幕内在位100場所達成及び幕内通算勝利数を更新した功績を称え、[[日本政府]]は[[内閣総理大臣顕彰]]を魁皇に授与することを決定し、[[4月26日]]に[[総理大臣官邸]]で顕彰式が執り行われた<ref>[ 2010年5月場所で十両以上の関取在位場所数が、史上単独1位である111場所となった。さらに千秋楽にて琴欧洲を破り、大相撲史上二人目となる'''通算1,000勝'''を達成した。2010年7月、場所前に大関琴光喜が解雇されたため、大関以上の日本人力士は魁皇のみとなり、同時に幕内最高優勝経験を持つ唯一の現役日本人力士ともなった。翌9月場所に13回目の大関角番を迎えたが14日目に勝ち越して角番を脱出した。
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=== 現役引退 ===
2011年7月場所10日目の琴欧洲戦は、押し出されて3勝7敗となり、負け越しがほぼ確定的となった時点で、10日目の取組後記者懇談で「気力が出なくなった」と漏らし、宿舎に戻り師匠と話し合った末、現役を引退することを決めた。翌11日目の引退会見での魁皇は「最高の相撲人生でした。もう悔いも後悔も一切ありません」と安堵の笑みを浮かべながらインタビューに応えていた<ref>[
角番制度を利用すれば大関在位記録を歴代1位の66場所に伸ばすことができたが、戦友・千代大海への配慮からあえてそれをせず大関在位65場所で打ち止めた<ref name="hairyo">[https://number.bunshun.jp/articles/-/854550?page=2 「魁皇さんは、僕の涙腺を2回も崩壊させた男です」元大関・千代大海46歳がいま明かす友情秘話と、親方としての哲学「弟子に学ぶことのほうが…」(2/4ページ)] NumberWeb 2022/09/10 11:02 (2022年9月12日閲覧)</ref>。
初土俵以来23年以上の長きに渡る現役生活、また[[2000年]]9月に大関に昇進して以来、10年以上に渡り関脇に一度も陥落することなく大関の座を守り続けた。また2007年9月場所の番付で、35歳の大関となり戦後最高齢記録を更新、2010年3月場所には昭和以降の最高齢大関在位記録をも更新した(2011年7月場所引退時で38歳11か月、従来は[[1932年]]10月場所、[[能代潟錦作|能代潟]]の37歳6か月)。2011年版[[ギネス世界記録]]に「幕内通算846勝」「幕内在位103場所」として掲載された<ref>これにより角界で史上唯一ギネス記録を複数保持する力士となった。</ref>。
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[[福岡県知事一覧|福岡県知事]]・[[小川洋]]は2011年[[8月20日]]に、魁皇の長年の功績を讃えて「福岡県民栄誉賞」を故郷の直方市で贈った。また直方市も魁皇に「'''特別市民文化栄誉賞'''<ref>直方市は2000年11月に魁皇の初優勝に対し、「市民文化栄誉賞」を既に贈っていたため、新しい賞を魁皇に贈るために創設された賞である。</ref>」を贈った。
[[断髪式]]と[[引退相撲]]は[[2012年]][[5月27日]]に[[両国国技館]]で行われ、同期の貴乃花や曙ら、約340人がはさみを入れた。「正直に言えば、いろんなところでこみあげてくるものがあった。親の時は、がまんできなかった」と述べた<ref>[
=== 年寄:浅香山として ===
[[File:Kaio-Hiroyuki20160522.jpg|thumb|土俵下で審判を務める浅香山親方(2016年5月22日撮影)]]
引退相撲後の[[2013年]]3月から[[スポーツニッポン]]紙上で「我が道」を連載。また2013年2月の日本相撲協会役員改選に伴う人事異動では、地元である[[九州場所]]担当年寄に指名された<ref>[
2013年10月、[[2014年]]中に友綱部屋から独立して、[[東京都]][[墨田区]]内に浅香山部屋を創設する意向であることを明かした<ref>[
2014年4月に発表された新たな職務分掌では委員に昇進し、審判部に配属された<ref>[
[[2019年]]7月場所後の番付編成会議で[[魁勝旦祈]]が浅香山部屋初の関取昇進を果たした。奇しくも元魁皇の47歳の誕生日に発表された。
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[[2020年]]1月場所12日目には幕下の取組における勝負審判の職務中に土俵下に落下した幕下力士に直撃して右の股関節付近を痛め、車いすで両国国技館内の相撲診療所に直行した。「足を開いていたのを閉じようとしたら、その上に落ちてきた。右の股関節。音がしたので切れたと思う。右はやったことない。紋付きで(診療所に)行くなんて」と本人は痛みをこらえながら苦笑い<ref>[https://hochi.news/articles/20200123-OHT1T50104.html 浅香山親方(元魁皇)、落下力士の直撃受け負傷…「紋付きで行くなんて」と車いすで診療所へ] 2020年1月23日 14時9分スポーツ報知(2020年1月23日閲覧)</ref>。
[[2021年]][[3月31日]]、[[照ノ富士春雄]]の大関復帰昇進の伝達式では、同じ一門の[[高望山大造|高島]]理事に同行し、使者を務めた<ref>{{Cite news |title=照ノ富士、大関復帰決定 最長ブランク21場所ぶり 「謹んでお受け致します」と口上 |newspaper=スポニチアネックス |date=2021-3-31 |url=https://
(2021年7月21日閲覧)</ref>。
2023年2月1日付で審判部副部長に昇格。委員から役員待遇委員となり、理事会に出席する立場となった<ref>[https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/202301260001130.html 元魁皇の浅香山親方が審判部副部長に昇格 元安美錦の安治川親方が審判部入り] 日刊スポーツ 2023年1月26日20時32分 (2023年1月28日閲覧)</ref>。2024年1月26日に、2月2日に開催される理事選が無投票となることが決定したため、立候補した浅香山は改選により理事に新任することが決定<ref>[https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/202401260001135.html#goog_rewarded 日本相撲協会、3期連続の無投票で理事候補と副理事候補決定 八角理事長続投なら実質5期目] 日刊スポーツ 2024年1月26日20時8分 (2024年1月27日閲覧)</ref>。同年3月25日の評議員会で理事就任が承認された<ref>{{Cite news |和書 |title=日本相撲協会の八角理事長が続投決定、実質5期目 暴力問題の撲滅などを誓う |newspaper=日刊スポーツ |date=2024-03-25 |url=https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/202403250000579.html |access-date=2024-03-25}}</ref>。
2024年1月場所の職務は、体調不良のため12日目から休場<ref>[https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/202401240001533.html 審判部の浅香山副部長(元大関魁皇)が12日目から休場 佐渡ケ嶽部長(元関脇琴ノ若)も休場中] 日刊スポーツ 2024年1月24日21時57分 (2024年1月25日閲覧)</ref>。
貴闘力が2024年3月場所中に公開した談話によると、宮城野部屋閉鎖が決定的となった情勢で、同場所中に元白鵬の宮城野が協会が処遇を再考するように協会を説得してほしいと浅香山に頼んだという<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=V9USe8rXADM 【急変】魁皇が宮城野部屋存続を嘆願!その理由は!?] 貴闘力部屋 2024/03/13 (2024年3月14日閲覧)</ref>。
== 取り口 ==
握力・腕力が非常に強く、入門して
最も得意としたのは右からの豪快な'''[[上手投げ]]、[[小手投げ]]'''で、魁皇の代名詞となった。一度右上手を取れば230kgを超える曙や武蔵丸ですら転がり、貴乃花に至っては土俵中央から土俵外へ吹っ飛んだほどである。小手投げに関しては、手繰りを活かして相手の肘を極めながら両手で抱え、力任せに横へ向かって打ち、[[浪乃花教天|浪之花]]、[[栃乃洋泰一|栃乃洋]]、[[琴龍宏央|琴龍]]、[[栃東大裕|栃東]]、[[玉乃島新|玉乃島]]、豪栄道、豊ノ島ら多くの力士がこれを受け、それぞれ左の肩、肘を負傷した。中でも浪之花は引退の直接的な原因となるほど深い負傷であり、玉乃島は怪我をして以降左腕が泣き所となってしまい、長期に渡り苦しんだ。数々の力士の腕を怪我させたことから、四股名をもじって「'''破壊王'''(魁皇)」と呼ばれ、重戦車と比喩されることも多かった。
1995年頃はまだ相撲の技術も発展途上で力任せで粗削りな取り口であった。取りこぼしが多かったのもまだ技術的に未熟な為であった。右上手を狙うといってもガバっと脇を開けて横から取りにいくため、体が右に傾き、相手に付け込まれる隙があった<ref name="asa0727"/>。
強引な投げで鮮やかな勝ちを収める相撲スタイルの代償として、大関昇進後は腰痛など怪我に悩まされることが多くなった。場所ごとの好不調の波が激しく、好調な時は横綱をも負かしてしまうが、不調な時は平幕にあっけなく負けることもあった。また、若いころには精神的に脆い面があり連敗癖があって、上位に定着しながら大関になかなか上がれなかった理由の一つでもある。ことに小心さは大関昇進前から広く知られていて<ref name="hito"/>、「気が優しくて力持ち」と言われる反面、「怪力だが気が弱い」「蚤の心臓」と揶揄されることもあった。
若い頃からスピード型力士に手を焼き、そうした力士との取組では廻しを取れずにスピードに攪乱されて黒星を喫するパターンが多かった。若手時代は琴錦が、ベテランの域に入ってからは日馬富士が苦手であった。
現役最晩年では怪我や加齢による衰えも顕著となり、立合いの鋭さ・重さに欠け、握力も70キロ台にまで落ちていた<ref>[https://web.archive.org/web/20091123062402/http://www.sponichi.co.jp/sports/flash/KFullFlash20091117127.html 幕内800勝達成の魁皇 史上3人目も無関心貫く(相撲) ― スポニチ Sponichi Annex ニュース] 2010年3月10日閲覧</ref><ref>[http://www.nishinippon.co.jp/nsp/sumo/kaiou/2006/20061119001817.shtml 魁皇 (福岡出身) / 大相撲 どすこい!郷土力士 / 西日本スポーツ] 2010年3月10日閲覧</ref>。左四つに組むことが難しくなり、組んでも左四つ得意の若手([[稀勢の里寛|稀勢の里]]、[[琴奨菊和弘|琴奨菊]]など)や、もろ差しがうまい[[豊ノ島大樹|豊ノ島]]には分が悪くなっていた。太ももの故障を抱えてからは、左右の動きが激しい相手に対処できずあっけなく土俵を割ることが増え、また上手投げが難しくなり叩きが増える相撲も多かった。
30代も半ばを過ぎた2007年7月場所から2010年9月場所まで20場所連続で二桁勝利を上げられず、休場と角番が増えた。この頃には、両差しから体格を利して一気に寄るという相撲も見せてはいるが、一方で立合いの駆け引きや変化・引き技に頼り、長年の経験と勝負勘の貯金で取っている相撲も増え、「勝っても首を捻る」光景がしばしば見られた。それでも守勢に回った際、手繰りや小手投げでしのぎつつ、時折左四つや突き押しを放ち豪快な相撲も見せていた。右上手を掴んだ際に沸き起こる観客の声援は非常に大きく、魁皇の相撲の型が広く知られていることを示していた。
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土俵上で制限時間一杯になると、最後の塩を撒いて締め込みを3回叩いた後、柏手を打って、もう1回叩いて仕切っていた。
==
=== 四股名 ===
四股名に入っている「皇」の文字は出身の直方市がかつて「皇方」と表記されていたことに由来し、これをとって師匠の友綱がつけた。
=== 現役時代の人気 ===
現役当時の力士の中では、[[高見盛精彦|高見盛]](最高位・小結)を凌ぐほどの、一番人気の高い力士の一人であった。福岡県出身だけに、福岡市で開催される九州場所での館内での声援は絶大で、11月場所(九州場所)での声援は他の力士を圧倒していた。
[[モンゴル国|モンゴル]]でも人気が高く、白鵬の父である[[ジグジドゥ・ムンフバト]]が魁皇の大ファンで、白鵬を通じて魁皇に[[薬膳料理]]の食材を贈ろうとした。魁皇は、仕切り中に咳をすることが多いが、それを見た白鵬の父が魁皇を心配してのことで、白鵬は当時まだ関脇で、「大関の魁皇関に対して、関脇の分際でそんなことをすれば失礼になる」と言って、難色を示した。「平成の大横綱」となった白鵬は、魁皇の引退に「まさかだよね。場所前はそういう雰囲気ではなかった」と驚きながらも「名大関と対戦した事を誇りに思う。一番横綱に近い大関だった」と振り返っていた<ref name="100retsu" /><ref>[https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2011/07/20/kiji/K20110720001245850.html 白鵬“魁皇魂”を引き継ぐ「託された分を…」] スポニチ、2011年7月20日</ref>
=== 郷土力士として ===
魁皇の現役時代、地元の直方市では魁皇が勝利した場合、取り組みが終わった直後に[[花火]]が打ち上げられていた<ref>[http://www.tv-asahi.co.jp/nanikore/contents_pre/collection/100623.html 『ナニコレ珍百景』2010年6月23日OA 【珍百景No.646】みんなで勝利を祝う町]</ref>。当初は花火の打ち上げ免許を持つ男性が花火の打ち上げを担当していたが、2011年1月にその男性が亡くなってからは、地元の魁皇後援会の若者たちが花火の打ち上げを引き継いでいた(最後には、魁皇が引退した翌日の2011年7月20日に、魁皇と花火の打ち上げを行っていた男性に向けた感謝の花火打ち上げが行われた<ref>[http://www.tv-asahi.co.jp/nanikore/contents_pre/collection/110810.html 『ナニコレ珍百景』2011年8月10日OA 【その後の珍百景】「勝利の祝砲の結末」]</ref>)。また、直方市の銘菓「[[成金饅頭]]」でも、地元出身の力士である魁皇を応援するため、11月場所の時には魁皇の焼印を押したものが販売されることもあった。
[[ファイル:Kaio Hiroyuki statue.jpg|250px|right|thumb|直方駅前に設置されている魁皇の銅像]]
2014年には地元直方市の[[直方駅]]前に銅像が設置され、同年10月26日に除幕式が行われた<ref>[https://web.archive.org/web/20141027044125/http://www.yomiuri.co.jp/kyushu/local/fukuoka/20141027-OYS1T50029.html 元大関魁皇の銅像 JR直方駅前に完成] - 読売新聞西部本社、2014年10月27日</ref>。この銅像は除幕2日後に落書きが見つかり、同年10月から11月にかけてにさがり2本が計7回折られるなど相次ぐいたずらに見舞われ、これを受けて市は被害届を提出し、12月に防犯カメラ2台を設置するという対応に追われた<ref>[http://www.nishinippon.co.jp/nnp/f_chikuhou/article/138226 受難続きの魁皇銅像 直方市、ステンレスで補強へ 福岡県] 西日本新聞 2015年01月09日(最終更新 2015年01月10日 00時21分)</ref>
=== 特急列車「かいおう」 ===
[[2001年]]10月に[[九州旅客鉄道]](JR九州)[[筑豊本線]]・[[篠栗線]]([[福北ゆたか線]])[[博多駅]] - [[直方駅]]間で運行を開始した[[特別急行列車|特急列車]]の名称「[[かいおう]]」にも採用された。人名、しかも存命中(さらに言えば、運行開始時に現役で活動中)の人物の名前が[[JR|JRグループ]]の列車名に採用されることは極めて異例で、出発式には魁皇本人も出席し、[[テープカット]]を行った。「かいおう」の運行決定は、魁皇が3度目の優勝をした[[2001年]]7月場所後だったが、翌9月場所は途中休場していた。魁皇の引退後も、JR九州は「かいおう」の名称について「(現時点では)改称の予定はない」とコメントしている<ref>{{Cite news |title=特急「かいおう」残った JR、大関引退後も名称変えず |newspaper=[[朝日新聞|asahi.com]] |date=2011-07-21 |url=https://www.asahi.com/travel/aviation/SEB201107210037.html |agency=[[朝日新聞社]] |accessdate=2017-02-15}}</ref>。
=== 妻との関係 ===
妻は元[[プロレスラー]]の[[西脇充子]]。出会いは充子が[[卵巣がん]]の闘病生活を送る頃、「力士と会うと元気になるから」と病状を心配する知人に紹介されたのが、当時小結の魁皇だった。魁皇は充子との初対面の印象を「どんなに弱々しい女性が来るかと思ったら、[[美容師]]の友人が染めてくれたという金髪の頭で、すごい元気なんですよね。おまけに後輩の[[アジャ・コング]]までいるし(笑)。『騙された~』と思ったくらいでしたよ」と振り返る<ref>[https://jisin.jp/sport/1773496/ 元大関・魁皇の妻 親方と弟子の愛で二度目のがんを乗り切る!]女性自身</ref><ref>[https://toyokeizai.net/articles/-/154872 元大関「魁皇」の妻が歩む波瀾万丈すぎる人生 相撲部屋の女将になった元女子プロレスラー]東洋経済ONLINE</ref>。意気投合した二人はやがて交際を始め、魁皇が大関昇進前の1999年6月に結婚している。充子のほうが5歳年上の「[[姉女房|姉さん女房]]」で、「ミッちゃん」「ヒロくん」と呼び合う仲だが、当初より「奥さんのほうが強そうだ」「(魁皇は)酒に強く妻に弱い」<ref name="asaspo"/>と評されるほどで、なかなか大関昇進がかなわない魁皇を叱咤激励し続けた。結婚式で充子は「浮気をするなら私にばれないように、責任をもって。自分でケツがふけるならばどうぞ」<ref name="asaspo"/>とくぎを刺し、魁皇は「絶対しません」と答えるしかなかった。夫妻の間に子供はいないが、これはそもそも充子が卵巣がんにより卵巣を摘出して子供を産めなくなったため。
西脇は現役時代の魁皇の身体のケアが大変だったと魁皇の引退後に振り返っており、現役終盤は腰痛が悪化していたためおちおち電球の交換も頼めなかった。「魁皇を買い物なんかに連れだしてんじゃねぇ」と相撲ファンに反発されるのを恐れ、当時は買い物もろくに一緒に行ったことが無かった。2人のデートも治療院と病院の2パターンのみであった。魁皇の引退後、引退相撲開催を巡る労力的負担が原因で2回ほど離婚危機があった<ref>[https://number.bunshun.jp/articles/-/861177 「出ていったこともあった」夫・魁皇と“2回の離婚危機”…女子プロレスラーから相撲部屋の女将になった西脇充子が明かす“夫婦の関係性”(1/3ページ)] Number Web 2024/04/07 17:02 (2024年4月8日閲覧)</ref><ref>[https://number.bunshun.jp/articles/-/861177?page=2 「出ていったこともあった」夫・魁皇と“2回の離婚危機”…女子プロレスラーから相撲部屋の女将になった西脇充子が明かす“夫婦の関係性”(2/3ページ)] Number Web 2024/04/07 17:02 (2024年4月8日閲覧)</ref>。
=== 他の力士との関係 ===
[[高砂 (相撲)|高砂]]部屋の弓取り力士に、「弓取り関取」で話題となった[[皇牙篤|皇牙]](元十両、2007年5月場所直前に引退。十両昇進後も引退直前まで弓取り式を務めた)がいたが、皇牙も直方市出身でしかも出身[[中学校]](直方第二中学校)の5学年後輩であり、四股名は魁皇から一字拝借したものである。さらに、[[田子ノ浦部屋|鳴戸部屋]]出身の元前頭・[[力皇猛|力櫻]]が、プロレス転向後「力皇」と改名したきっかけも、大相撲では同期入門だった魁皇にあやかったものと言われた。
2015年6月20日、先輩大関だった貴ノ浪こと19代[[音羽山 (相撲)|音羽山]]親方が43歳で急病死。学年は魁皇が1年後輩で、幕内では51回対戦した(魁皇の24勝27敗、優勝決定戦で1敗)。[[青森県]]出身の貴ノ浪は、かつて現役時代の九州場所について「魁皇にとってはホームゲーム、こちらはアウェーゲームみたいなものだ」と発言していた。一方魁皇は貴ノ浪を「スケールが大きくて豪快」と振り返り、「明るく周りを和ませてくれる人柄だった」とコメント。「心臓が悪いと聞いていたが、最近は元気だと思っていたからまだ信じられない。体調が悪くても人に見せなかったから、本当はしんどかったのかも。これからお互い協会の為に頑張ろうと思っていたのに…」と早過ぎる死を惜しんでいた<ref>[https://web.archive.org/web/20150621222031/http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2015/06/21/kiji/K20150621010581700.html 元魁皇・浅香山親方「最近は元気だった。信じられない」] スポニチ 2015年6月21日</ref>。
さらに1年後の2016年7月31日、「昭和の大横綱」こと千代の富士・13代九重親方が61歳で逝去。「九重親方の1000勝は私と比べるものではない。あの体で大きな相手を倒したのは凄いしレベルが違う。本当に悲しい」と追悼のコメントを述べていた<ref>[http://www.asahi.com/articles/ASJ706V9SJ70UTQP02X.html 「戦友」の親方たち、早過ぎる死を悼む 九重親方死去] 朝日新聞 2016年8月1日記事</ref>。
==== 戦友・千代大海 ====
また、20代[[佐ノ山]](2011年当時・現九重)の千代大海も「古い戦友としてお疲れさまと言いたい。この日の一番と雰囲気を見て最後になると感じたが、ファンのために一日でも長く土俵に上がる姿勢には感動していた。今まで本当に立派だった」と称賛している。なお千代大海と幕内での取組は通算で54回も対戦したが、これは当時で大相撲史上2位<ref>当時の幕内取組回数・史上1位は武蔵丸-貴ノ浪の58回。現在の史上1位は[[琴奨菊和弘|琴奨菊]]-[[稀勢の里寛|稀勢の里]]の60回。</ref> の記録だった。対戦成績は魁皇の34勝20敗(内1勝は不戦勝)。2010年1月場所、大関から関脇に陥落した千代大海は、同場所の3日目で魁皇に敗れたこの一番(魁皇の勝利で史上最多の幕内808勝を記録)が現役最後の相撲となり、翌4日目に千代大海は引退を表明した。魁皇も取組前から千代大海とはこれで最後と感じ取っており、勝ったにも関わらず悲しそうな顔をしていた。幕内最多勝記録達成という事もあってNHKのインタビュールームに呼ばれたが、魁皇は「俺と千代大海の関係を知ってるだろう。今日で引退するかもしれないのに、勝利者インタビューなんて行けるわけないじゃないか」と拒否した。
2022年に千代大海が語ったところによると、魁皇は千代大海の涙腺を2回崩壊させたという。1度目は千代大海を破って千代大海の師匠である千代の富士の幕内白星記録(807勝)を破った後に、歴代最多勝のインタビューを断ったという話の後で前述の言葉を聞いた時に風呂場で<ref>[https://number.bunshun.jp/articles/-/854550 「魁皇さんは、僕の涙腺を2回も崩壊させた男です」元大関・千代大海46歳がいま明かす友情秘話と、親方としての哲学「弟子に学ぶことのほうが…」(1/4ページ)] NumberWeb 2022/09/10 11:02 (2022年9月12日閲覧)</ref>、2度目は千代大海への配慮で前述のように敢えて大関在位記録を破らず引退した時である<ref name="hairyo"/>。
=== 取組に関するエピソード ===
2003年9月場所5日目の高見盛戦、左差しを使われ、あっさり土俵外へ出されてしまう(決まり手は押し出し)。魁皇は同年5月場所に11勝(次点)、7月場所に12勝(優勝)を挙げており9月場所に綱取りをかけていたが、結果的には7勝8敗で終え、綱取りから一転角番に追い込まれた。魁皇は高見盛が普段から稽古場で手抜きをしていることに対して批判している立場であったため、この結果に激怒。敗戦の直後憮然としながら土俵を下り、直後の[[インタビュー]]で「けいこ場では力を出さないのに、こんな時だけ力を出す。あいつは相撲取りとして、許せない」という意味のコメントを、声を荒らげながら口にした<ref>朝日新聞 2003年9月19日</ref>。
大関昇進前、優勝決定戦にも2度出場(いずれも敗退)しているが、5人の決定戦と<ref>1996年(平成8年)11月場所、当時西関脇で11勝4敗、優勝は西大関1の武蔵丸、他の相手は西横綱の[[曙太郎|曙]]、東大関1の若乃花、東大関2の貴ノ浪であった。東横綱貴乃花の休場のために乱戦になった。</ref>、4人の決定戦であった<ref>1997年(平成9年)3月場所、当時東前頭筆頭で12勝3敗、優勝は東横綱の貴乃花、他の相手は西横綱の曙、西大関の武蔵丸。</ref>。ここに記した貴乃花、曙、武蔵丸、若乃花、貴ノ浪という横綱大関陣は古今有数の強力布陣との評価もあり、[[千代大海龍二|千代大海]]がチャンスをうまく掴んで大関に昇進したが、魁皇・[[武双山正士|武双山]]・[[栃東大裕|栃東]]らはこの5人衆+千代大海の影響で大関昇進に苦労した。
=== 引退に際してのエピソード ===
引退記者会見で魁皇は思い出の取組に、2000年1月場所千秋楽で当時関脇の武双山(現・[[藤島 (相撲)|藤島]]親方)に敗れて7勝8敗と負け越し、また武双山の幕内初優勝も献上した一番を挙げ「その時の悔しさがあったから、自分も大関に上がれた」とコメント。さらに「意識した対戦相手は?」との質問には「武双山は年も近いし[[ライバル]]と言われていたので、常に負けたくないと思っていた。最近では千代大海(現・14代[[九重 (相撲)|九重]]親方)。同じように怪我で苦しんでお互い引き際を無くして、どうしようかと話したこともある」と語っていた。
=== 親方として ===
1998年7月場所の第66代横綱・若乃花勝以来、2017年3月場所に日本出身力士として19年振りに誕生した第72代横綱・[[稀勢の里寛|稀勢の里]]は、新横綱の場所13日目の第70代横綱・[[日馬富士公平|日馬富士]]戦で、左肩周辺の筋肉を部分断裂する大怪我を負いながらも優勝。だがその後も相次ぐ故障に泣かされて、横綱昇進以降途中休場5回・全休4回も繰り返し、進退を掛けた2019年1月場所も初日から3連敗の成績不振で現役引退を表明。その報道に関して浅香山親方は「けがは(力士にとって)付き物で、皆すること。ケガとどう向き合うかでその先の人生が変わる」と指摘した上で、「稀勢の里は負傷の直後から徹底的に治して、稽古をしっかり出来るように成ってから本場所に出るべきだった。試す場もないまま、延々と中途半端に場所へ出たように見える。横綱だから番付は落ちないし、半年位堂々と休めば良かった」と、結局在位12場所の短命横綱に終わった事を悔やんでいる<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO3998911014012019000000/ けがしても休めぬ 稀勢の里追い詰めた使命感] 日本経済新聞 2019年1月16日記事</ref>。
35歳の時に買った愛犬は病弱なため日頃からいたわっていたが、その経験から親方になってからは弟子にも体調が悪い時にはすぐに病院へ行くよう促すようになった。本人は「おかげで丸くなったかな」と笑っている。2023年の1月頃に愛犬は死去しており、その後も「夢でも良いから会いたい」と思うことがある。2023年9月時点で飼っているのはその愛犬の息子。「失うのはもう辛いからね。飼うのはこれが最後かな」<ref>[https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/202309050000135.html 浅香山親方の癒やしは愛犬 シェビーと昨年末別れ「夢でもいいから会いたい」/親方衆の癒やし] 日刊スポーツ 2023年9月6日5時0分 (2023年9月9日閲覧)</ref>。
{{Seealso|宮城野部屋#不祥事発生による宮城野部屋の処遇問題}}
弟子に学生相撲出身者や外国人力士がいないことについて、そもそものルートがないと前置きしたうえで「あとからすごい人が入って、あっという間に番付を抜かれると、コツコツ頑張っている子のやる気に影響してしまう」とコメントしている。浅香山部屋は2024年2月に表面化した不祥事により閉鎖する宮城野部屋の受け入れ先と報じられていた<ref>{{Cite web |title=宮城野部屋の暴行問題 師弟一括で浅香山部屋受け入れへ調整 大島親方「理事の下でまた勉強」/デイリースポーツ online |url=https://www.daily.co.jp/general/2024/03/16/0017436097.shtml |website=デイリースポーツ online |date=2024-03-16 |access-date=2024-03-29 |language=ja}}</ref>が、受け入れ先とならなかった要因の一つともみられる<ref>{{Cite web |title=【イチロー大相撲〈17〉】解説=宮城野部屋はなぜ閉鎖になるのか - 大相撲 : 日刊スポーツ・プレミアム |url=https://www.nikkansports.com/premium/sports/news/202403280001275.html |website=nikkansports.com |access-date=2024-03-29 |language=ja |last=佐々木一郎 |date=2024-03-28}}</ref>。
=== 記録 ===
2007年(平成19年)1月場所で、小結以上在位71場所の新記録を樹立した<ref>当該場所終了時の在位場所数は大関39、関脇21、小結11。それまでの最高記録は横綱[[北の湖敏満|北の湖]]([[日本相撲協会]]理事長)と、横綱武蔵丸の2人が達成した小結以上在位70場所。北の湖は横綱63、大関3、関脇2、小結2で、武蔵丸は横綱27、大関32、関脇9、小結2(出典=[[読売新聞グループ本社|読売新聞東京本社]]発行・[[大相撲 (雑誌)|大相撲]]・2007年2月号、pp. 134-135)</ref>。
昭和時代に初土俵を踏んだ最後の関取経験者である(力士全体では[[華吹大作]])。
=== その他 ===
2009年11月9日に自伝「怪力」([[ベースボール・マガジン社]])が発売された。発売前々日の7日には[[紀伊国屋書店]]福岡本店でサイン会が行われた。同年12月18日には、[[文化放送]]の正月特番「新春スポーツスペシャル 工藤公康・魁皇 新春ビッグ対談〜生涯現役!」で、[[埼玉西武ライオンズ]]に復帰した[[工藤公康]]との対談に臨み、「生涯現役」にこだわることを宣言。魁皇と工藤はこのとき初対面だった。対談の様子は翌年1月2日に放送された。
2019年10月、[[内閣総理大臣顕彰]]受賞者として、[[徳仁|今上天皇]]の[[即位の礼]]に大相撲界から唯一招待された<ref name="BBMsumo201912p093">{{Cite journal |和書|title=相撲部屋聞き書き帖 |publisher=[[ベースボール・マガジン社]] |journal=[[相撲 (雑誌)|相撲]] |issue=2019年12月号 |pages=93 }}</ref>。10月22日の[[即位礼正殿の儀]]には紋付袴の正装で臨み、同月29日の饗宴の儀にも出席した<ref name="BBMsumo201912p093" />。
酒豪かつ酒癖の悪い人物として有名で、酒に酔って暴れた逸話もいくつかある
== 略歴 ==
204 ⟶ 238行目:
** 3月場所 - 13日目を終えて6勝7敗と追い込まれるも、14日目、千秋楽と連勝して勝ち越し。再び大関昇進に向けての橋頭堡を築く。
** 5月場所 - 自身初の幕内最高優勝(14勝1敗)
** 7月場所 - 11勝4敗で10回目の殊勲賞(歴代1位タイ)、大関昇進を決め大関推挙伝達式での口上は「大関の地位を汚さぬよう稽古に精進します」、花の六三組では曙、貴乃花、若乃花に次ぐ4人目の大関。なお戦後に大関昇進を果たした力士のうち、十両での休場と、幕内からの十両以下への陥落の双方を経験したのは[[大麒麟將能|大麒麟]][http://sumodb.sumogames.de/Rikishi.aspx?r=4022&l=j]、[[旭國斗雄|旭國]][http://sumodb.sumogames.de/Rikishi.aspx?r=4061&l=j]、千代の富士、[[琴風豪規|琴風]][http://sumodb.sumogames.de/Rikishi.aspx?r=4112&l=j]、魁皇 [http://sumodb.sumogames.de/Rikishi.aspx?r=7&l=j] の
** 9月場所 - 新[[大関]]、直前の稽古で親指を骨折しながらも終盤まで優勝を争い11勝4敗
** 11月場所 - 大関として九州に凱旋(11勝4敗)、[[武蔵丸光洋|武蔵丸]]との一番で珍しい「[[一本背負い]]」を決める(魁皇は中学校時代まで[[柔道]]の経験がある)
213 ⟶ 247行目:
** 7月場所 - 初の[[角番]]、3度目の幕内最高優勝(13勝2敗)
** 9月場所 - 2度目の綱獲り場所、腰椎椎間板ヘルニア及び左腰神経根麻痺が再発のため4日目から途中休場
** 10月6日 - [[福北ゆたか線]]電化開業、特急[[かいおう]]の運行開始<ref>{{Cite book|和書|title=JR気動車客車編成表 '02年版|chapter=JR年表|date=2002-07-01|page=191|publisher=ジェー・アール・アール|isbn=4-88283-123-6}}</ref>
** 11月場所 - 2度目の角番、千秋楽結びで武蔵丸に勝利した際に会場から祝福の座布団が舞う
* [[2002年]]
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<td style="background-color:#CCE">'''八百長問題<br />により中止'''</td>
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=== 主な力士との幕内対戦成績 ===
{| class="wikitable" style="text-align: center;"
|-
!力士名!!勝数!!負数!!力士名!!勝数||負数!!力士名!!勝数||負数!!力士名!!勝数||負数
|-
|[[蒼樹山秀樹|蒼樹山]]||4||1
|[[安芸乃島勝巳|安芸乃島]]||25||6
|[[曙太郎|曙]]||6||25
|[[朝青龍明徳|朝青龍]]||12||25
|-
|[[朝赤龍太郎|朝赤龍]]||11||5
|[[朝乃翔嚆矢|朝乃翔]]||1||2
|[[朝乃若武彦|朝乃若]]||0||2
|[[旭豊勝照|旭豊]]||7||2
|-
|[[安美錦竜児|安美錦]]||18||8
|[[阿覧欧虎|阿覧]]||6||1
|[[岩木山竜太|岩木山]]||11||0
|[[皇司信秀|皇司]]||1||0
|-
|[[隠岐の海歩|隠岐の海]]||0||2(1)
|[[小城錦康年|小城錦]]||6||2
|[[小城ノ花昭和|小城ノ花]]||2||0
|[[海鵬涼至|海鵬]]||2||1
|-
|[[垣添徹|垣添]]||10||2
|[[鶴竜力三郎|鶴竜]]||6||10
|[[春日王克昌|春日王]]||0||1
|[[春日富士晃大|春日富士]]||2||2
|-
|[[巌雄謙治|巌雄]]||2||2
|[[稀勢の里寛|稀勢の里]]||12||16
|[[北勝鬨準人|北勝鬨]]||2||0
|[[北太樹明義|北太樹]]||2||0
|-
|[[旭天鵬勝|旭天鵬]]||34||5(1)
|[[旭道山和泰|旭道山]]||1||2
|[[鬼雷砲良蔵|鬼雷砲]]||1||2
|-
|[[霧島一博|霧島]]||2||0
|[[久島海啓太|久島海]]||1||0
|[[剣晃敏志|剣晃]]||6||5
|[[豪栄道豪太郎|豪栄道]]||5||6
|-
|[[五城楼勝洋|五城楼]]||1||0
|[[黒海太|黒海]]||6||8(1)
|[[琴稲妻佳弘|琴稲妻]]||8||1
|[[琴欧洲勝紀|琴欧洲]]||12||16
|-
|[[琴奨菊和弘|琴奨菊]]||16||12(1)
|[[琴錦功宗|琴錦]]||12||16
|[[琴ノ若晴將|琴ノ若]]||22||8
|[[琴富士孝也|琴富士]]||1||1
|-
|[[琴別府庸陛|琴別府]]||5||1
|[[琴光喜啓司|琴光喜]]||17(1)||25(1)
|[[琴龍宏央|琴龍]]||9||0
|[[小錦八十吉 (6代)|小錦]]||2||1
|-
|[[敷島勝盛|敷島]]||5(1)||0
|[[霜鳳典雄|霜鳳]]||5||1
|[[翔天狼大士|翔天狼]]||1||0
|[[大至伸行|大至]]||3||0
|-
|[[大翔鳳昌巳|大翔鳳]]||3||1
|[[大翔山直樹|大翔山]]||0||1
|[[大善尊太|大善]]||3||1
|[[貴闘力忠茂|貴闘力]]||21||11
|-
|[[貴ノ浪貞博|貴ノ浪]]||24||27*
|[[貴乃花光司|貴乃花]]||12||27*
|[[隆乃若勇紀|隆乃若]]||8||1
|[[高見盛精彦|高見盛]]||6||3(1)
|-
|[[隆三杉太一|隆三杉]]||2||1
|[[豪風旭|豪風]]||6||3
|[[玉海力剛|玉海力]]||1||0
|[[玉春日良二|玉春日]]||9||4
|-
|[[玉乃島新|玉乃島]]||19||5(2)
|'''[[玉鷲一朗|玉鷲]]'''||1||1
|[[千代大海龍二|千代大海]]||34(1)||20
|[[千代天山大八郎|千代天山]]||5(1)||0
|-
|[[出島武春|出島]]||25||15
|[[寺尾常史|寺尾]]||7||2
|[[闘牙進|闘牙]]||9||3
|[[時津海正博|時津海]]||4||1
|-
|[[時天空慶晃|時天空]]||7||5(1)
|[[徳瀬川正直|徳瀬川]]||1||0
|[[土佐ノ海敏生|土佐ノ海]]||30||10
|[[栃東大裕|栃東]]||22(1)||13(1)
|-
|[[栃煌山雄一郎|栃煌山]]||9||1
|[[栃栄篤史|栃栄]]||1||0
|[[栃ノ心剛史|栃ノ心]]||6||2
|[[栃乃洋泰一|栃乃洋]]||25||12(1)
|-
|[[栃乃花仁|栃乃花]]||1||3
|[[栃乃和歌清隆|栃乃和歌]]||5||4(1)
|[[智乃花伸哉|智乃花]]||1||1
|[[豊ノ海真二|豊ノ海]]||1||1
|-
|[[豊ノ島大樹|豊ノ島]]||7||8
|[[豊響隆太|豊響]]||1||0
|[[浪之花教隆|浪之花]]||5||0
|[[白馬毅|白馬]]||1||0
|-
|[[白鵬翔|白鵬]]||6(1)||27(1)
|[[白露山佑太|白露山]]||1||0
|[[濱ノ嶋啓志|濱ノ嶋]]||5||1
|[[追風海英飛人|追風海]]||3||1(1)
|-
|[[把瑠都凱斗|把瑠都]]||8||7
|[[日馬富士公平|日馬富士]]||12||16(1)
|[[肥後ノ海直哉|肥後ノ海]]||9||4
|[[普天王水|普天王]]||3||1
|-
|[[豊真将紀行|豊真将]]||8||2
|[[北勝力英樹|北勝力]]||9||2
|[[舞の海秀平|舞の海]]||3||2
|[[水戸泉眞幸|水戸泉]]||5||1
|-
|[[湊富士孝行|湊富士]]||5||1
|[[雅山哲士|雅山]]||31(1)||15(1)
|[[武蔵丸光洋|武蔵丸]]||20||26
|[[武双山正士|武双山]]||30(2)||18
|-
|[[嘉風雅継|嘉風]]||2||1
|[[露鵬幸生|露鵬]]||5||4
|[[若荒雄匡也|若荒雄]]||0||1
|[[若翔洋俊一|若翔洋]]||2||1
|-
|[[若の里忍|若の里]]||21||13
|[[若乃花勝|若乃花]]||14(1)||15
|[[若ノ鵬寿則|若ノ鵬]]||2||1
|[[和歌乃山洋|和歌乃山]]||7||0
<!--|||||-->
|}
*他に[[優勝決定戦 (相撲)|優勝決定戦]]([[巴戦]]も含む)で、貴ノ浪・貴乃花に各1敗がある。
(カッコ内は勝数・負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数。
== 改名歴 ==
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== 脚注 ==
{{
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}
== 関連項目 ==
590 ⟶ 718行目:
[[Category:浅香山部屋]]
[[Category:スポーツに関する日本のギネス世界記録保持者]]
[[Category:日本相撲協会の役員]]
[[Category:1972年生]]
[[Category:存命人物]]
|