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{{出典の明記|date=2020年12月}}
{{観点|date=2020年12月}}
{{独自研究|date=2020年12月}}
 
{{Infobox 力士
| 名前 = 魁皇 博之
| 画像 = [[ファイル:Kaio Hiroyuki 2008 May.jpg|180px]]
| 説明 = 二口に戻る魁皇
| 四股名 = 魁皇 博之
| 本名 = 古賀 博之(こが ひろゆき)
| 愛称 = キンタ、ゴリライモ
| 生年月日 = {{生年月日と年齢|1972|7|24}}
| 没年月日 =
| 出身 = [[福岡県]][[直方市]]
| 身長 = 185cm184cm
| 体重 = 175kg172kg
| BMI = 5150.1374
| 所属部屋 = [[友綱部屋]]
| 得意技 = 左四つ、寄り、叩き、上手投げ、小手投げ<ref name="meiretsu28">ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(4) 立浪部屋』p28</ref>
| 現在の番付 = 引退
| 最高の番付 = 東[[大関]]
| 生涯戦歴 = 1047勝700敗158休(140場所)
| 幕内戦歴 = 879勝581敗141休(107場所)
| 優勝 = 幕内最高優勝5回<ref name="meiretsu28"/><br />幕下優勝1回<br />三段目優勝1回
| 賞 = [[三賞#殊勲賞|殊勲賞]]10回<br>[[三賞#敢闘賞|敢闘賞]]5回
| 初土俵 = [[1988年]]3月場所<ref name="meiretsu28"/>
| 入幕 = [[1993年]]5月場所<ref name="meiretsu28"/>
| 引退 = [[2011年]]7月場所<ref name="meiretsu28"/>
| 引退後 = [[浅香山 (相撲)|浅香山親方部屋]]師匠
| 他の活動 = [[日本相撲協会]] 理事(1期)<br/>2024年3月 -
| 趣味 = [[ラジコン]]
| 備考 = [[金星 (相撲)|金星]]6個([[曙太郎|曙]]2個、[[貴乃花光司|貴乃花]]3個、[[花田勝|若乃花]]1個)
| 作成日時 = [[20112024年]][[732025日]]
}}
'''魁皇 博之'''(かいおう ひろゆき、[[1972年]](昭和47年)[[7月24日]] - )は、[[福岡県]][[直方市]]出身で[[友綱部屋]]に所属していた元[[大相撲]][[力士]]。本名は'''古賀 博之'''(こが ひろゆき)。最高位は東[[大関]]。愛称はキンタ、ゴリラ<ref>朝日新聞2000年7月26日付朝刊スポーツ面。「ゴリラ」と名付けたのは[[花田虎上|若乃花]]で、魁皇自身は大いに不本意だという。</ref>、[[ど根性ガエル#登場人物|ゴリライモ]]<ref>[[朝乃若武彦|朝乃若]]が呼び始めたあだ名。</ref>。[[身長]]185cm、[[体重]]175kg、[[ABO式血液型|血液型]]は[[ABO式血液型|A型]]。

得意手は左四つ、寄り、上手投げ、小手投げ<ref>{{Cite web|和書|url=https://spaia.jp/column/sumo/9419|title=相撲の決まり手の「基本技」と「投げ手」珍技を解説|publisher=【SPAIA】スパイア|date=2020-01-12|accessdate=2020-11-16}}</ref>。最高位は東[[大関]]。現在は[[年寄]]・[[浅香山 (相撲)|浅香山]]を名乗り、[[浅香山部屋]]師匠である。好物は[[ステーキ]]<ref>福岡県民栄誉賞・直方特別市民文化栄誉賞の授賞式(後述)に出席するべく2011年8月に地元の直方市へ帰郷した際市内の企業である明治屋産業を訪れ、その明治屋産業が展開する事業「びっくり市」で販売される「レンガステーキ」4kgを軽々平らげた。</ref><ref name="meiretsu28"/>。
 
引退後は[[年寄]]・[[浅香山 (相撲)|浅香山]]を襲名し、[[浅香山部屋]]を設立している。
 
== 来歴 ==
=== 相撲界入門まで ===
3人兄弟の末っ子として生を受けた。出生時の体重が4250グラムの巨体であった<ref name="hito">「ひと 魁皇博之さん」朝日新聞2000年5月22日付朝刊総合面</ref>。[[直方市立直方東小学校]]時代は空手をっていたというだけでおり小学4年のころから福岡県の相撲の関わりはなかっ大会に出場してい<ref name="asaspo">朝日新聞2000年7月26日付朝刊スポーツ面</ref>しかし直方市立第二中学校2年生の時に、友人からの誘いで[[柔道]]をはじめ、中学3年生時点で握力は8585キロあったという。ある日その巨体から、相撲部顧問の教師に相撲を勧められる。中学生になっても町内の相撲大会に出場していたが、実力的にはまだまだ取り立てて強かったわけでもなく相撲を取るのが楽しかったという思い出もなかったという<ref name="ref34">[http://hrd.php.co.jp/shainkyouiku/cat21/1-3.php がんばったぶんだけ成長1〜浅香山博之] PHP人材開発 2013年1月11日更新</ref>むしろ人前で廻し姿になって尻を見せることを嫌がっていた。入幕前、寒い冬場で蛇口が凍って硬くて廻らないのを無理に回そうとした所、怪力のあまり壊してしまったことがある。入門前は、元大関[[北天佑勝彦|北天佑]]の大ファンだったと言われている<ref>[http://www.fsinet.or.jp/~sumo/profile/1/19930501.htm 「大相撲記録の玉手箱→力士名鑑→魁皇博之」]</ref>。北天佑も魁皇も、共に、上手からの強烈な投げ技が持ち味の「怪力大関」と言われた
 
中学時代のあるときに友綱部屋の後援者が相撲大会を観戦しており、その時勧誘された<ref name="ref34" /> ことで中学校卒業後に友綱部屋に入門し、[[1988年]](昭和63年)3月場所で初土俵を踏んだ。同期には[[曙太郎|大海]](後に64代[[横綱]]・曙)、[[貴乃花光司|貴花田]](後に65代横綱・貴乃花)、[[花田虎上|若花田]](後に66代横綱・3代若乃花)、[[和歌乃山洋|和歌乃山]](後に[[小結]])、[[力皇猛|力櫻]](後に[[幕内]])など有望な新弟子がおり、「[[花の六三組]]」とも称された。貴乃花・和歌乃山・力櫻とは同い年・同学年であった<ref name="100retsu">北辰堂出版『昭和平成 大相撲名力士100列伝』(塩澤実信、2015年)176ページから177ページ</ref>。なお、入門当初は力士の名前をほとんど知らず、勧誘を受けるまで[[相撲部屋]]の存在すら知らなかった(当時はインターネットなど存在しなかったので相撲について気軽に知ることはできなかった)<ref name="asaraireki">[https://www.asahi.com/articles/ASM3833DMM38TIPE004.html 嫌で仕方なかった相撲、一度スカした魁皇 父は見守った] 朝日新聞DIGITAL (聞き手・谷辺晃子) 2019年3月17日07時22分(朝日新聞社、2019年3月18日閲覧)</ref>。
入門前は、元大関[[北天佑勝彦|北天佑]]の大ファンだったと言われている<ref>[https://web.archive.org/web/20001204114700/http://www.fsinet.or.jp/~sumo/profile/1/19930501.htm 「大相撲記録の玉手箱→力士名鑑→魁皇博之」]</ref>。北天佑も魁皇も、共に上手からの強烈な投げ技が持ち味の「怪力大関」と言われた。
 
中学時代、友綱部屋の後援者が相撲大会を観戦しており、勧誘されたことがきっかけで卒業後に友綱部屋に入門した<ref name="ref34" /> 。進路に迷っていた際に友綱部屋の稽古を見学に行き、[[ちゃんこ]]を食べさせてもらい[[本場所]]のチケットももらった。「なんとなく断れない状況だった。おれって、嫌と言えない性格だから」<ref name="asaspo"/>と後に振り返っている。古賀少年の「俺、九重部屋にでも見学に行こうかな」という何気ない一言を聞いた周囲の大人が、角界入りする意志があるのだろうと早とちりして入門を根回ししたという話もある。
 
=== 入門後 ===
[[1988年]]3月場所で、「古賀」の[[四股名]]で初土俵を踏んだ。同期には[[曙太郎|大海]](後に64代[[横綱]]・曙)、[[貴乃花光司|貴花田]](後に65代横綱・貴乃花)、[[花田虎上|若花田]](後に66代横綱・3代若乃花)、[[和歌乃山洋|和歌乃山]](後に[[小結]])、[[力皇猛|力櫻]](後に[[幕内]]、プロレスラーに転向)など有望な新弟子がおり、「[[花の六三組]]」とも称された。貴乃花・和歌乃山・力櫻とは同い年・同学年であった<ref name="100retsu">北辰堂出版『昭和平成 大相撲名力士100列伝』(塩澤実信、2015年)176ページから177ページ</ref>。なお、入門当初は力士の名前をほとんど知らず、勧誘を受けるまで[[相撲部屋]]の存在すら知らなかった(当時はインターネットなど存在しなかったので相撲について気軽に知ることはできなかった)<ref name="asaraireki">[https://www.asahi.com/articles/ASM3833DMM38TIPE004.html 嫌で仕方なかった相撲、一度スカした魁皇 父は見守った] 朝日新聞DIGITAL (聞き手・谷辺晃子) 2019年3月17日07時22分(朝日新聞社、2019年3月18日閲覧)</ref>。
 
初めて[[番付]]に載った同年5月場所では負け越すなど滑り出しは良くなく<ref>その後も、[[序二段]]、[[三段目]]、[[幕下]]、[[十両]]、[[幕内]]のデビュー場所はすべて[[負け越し]]ている。</ref>、相撲嫌い<ref>自著『嫌いなことでも好きになれる。』によると「内臓検査で不合格になれば地元に戻れるだろう」とまで祈るほど入門を嫌がっていたという。</ref> と慣れない上京生活に苦しみ、入門半年後に脱走を試みたが、脱走先が後援者の家であったためすぐに連れ戻されてしまい、本人も脱走という行為に後悔を感じて部屋に戻る<ref name="ref34" /><ref name="asaspo"/>。その後は、花田兄弟や曙のような超特急の昇進とはいかないもののスピード出世を果たし、幕下時代の[[1991年]]九州場所で5勝2敗と勝ち越した。
 
初めて番付に載った同年5月場所では負け越すなど滑り出しは良くなく<ref>その後も、[[序二段]]、[[三段目]]、[[幕下]]、[[十両]]、[[幕内]]のデビュー場所はすべて負け越している。</ref>、相撲嫌い<ref>自著『嫌いなことでも好きになれる。』によると「内臓検査で不合格になれば地元に戻れるだろう」とまで祈るほど入門を嫌がっていたという。</ref> と慣れない上京生活に苦しみ入門半年後に脱走を試みたが脱走先が後援者の家であったためすぐに連れ戻されてしまい、本人も脱走という行為に後悔を感じて部屋に戻る決心をした。<ref name="ref34" /> その後、花田兄弟や曙のような超特急の昇進とはいかないもののスピード出世を果たし、初土俵から4年足らずの[[1991年]](平成3年)九州場所で5勝2敗と大勝ちした。この場所では当初から十両昇進を期待されており、勝ち越しを決めた日には幕下上位の結果紹介において『幕下19歳古賀勝ち越しました!』とアナウンスされ祝福された。[[1992年]](平成4年)初場所で十両昇進親方の「頂点を極めてほしい」との希望から四股名を「'''魁皇'''」と改名<ref>ただし、角界入門時の発表では郷土の名山・[[福智山]]にちなんで「福智山」という四股名を名乗る予定であった。1988年(昭和63年)2月29日付[[西日本新聞]](筑豊版)より。</ref>。[[1993年]](平成5年)5月場所、20歳の若年新[[入幕]]を果たしとなり、若手の有望株として注目を集めるようになる<ref name="100retsu"/>。
 
=== 入幕後・幕内初優勝達成 ===
新入幕場所こそ4勝11敗と大きく[[負け越し]]てしまい十両陥落となるもののしたが、同年11月場所に再入幕し10勝を挙げるとその後は日の出の勢いで番付を上げ、[[1994年]](平成6年)33月場所には対横綱戦初挑戦で曙を下し初[[金星 (相撲)|金星]]を獲得したほか若ノ花、[[武蔵丸光洋|武蔵丸]]の2大関を下すなど初の[[三賞]]受賞(殊勲賞)<ref>この場所では魁皇にって[[技能賞]]を受賞す唯一のチャンスであったが、自身と同じく対横綱戦初挑戦で曙を下して金星を獲得し大関貴ノ花も下した[[小城錦康年|小城錦]]との対横綱・大関戦における勝利数の比較により自身は殊勲賞、小城錦は技能賞を受賞することとなった。</ref>、翌5月場所には早くも新[[小結]]となる。に昇進し、[[1995年]](平成7年)11月場所の新[[関脇]]場所からは、実に13場所連続して関脇に在位した([[豪栄道豪太郎|豪栄道]]に次ぐ歴代2位)し、その後も度々[[三役]]に上がり、有力な大関候補として期待を寄せられた。しかし[[1997年]](平成9年)5月場所11日目、[[貴ノ浪貞博|貴ノ浪]]戦で左[[太股]]を大怪我してしまい、そのケガの回復が遅れて3場所連続休場するなど、足踏みする時期が長く続いた。それでも大関昇進までに2度の優勝同点、4度の優勝次点、史上3位の15回の三賞受賞などを記録し、強豪力士の一人として曙・貴乃花全盛の[[1990年代]]の土俵に在った<ref name="100retsu"/>
 
その後も度々三役に上がり、大関候補として期待を寄せられたが、[[1997年]]5月場所11日目の[[貴ノ浪貞博|貴ノ浪]]戦で左[[太股]]を故障し、怪我の回復が遅れて3場所連続休場するなど、足踏みする時期が長く続いた。大関昇進までに2度の優勝同点、4度の優勝次点、史上3位の15回の三賞受賞などを記録し、強豪力士の一人として曙・貴乃花全盛の[[1990年代]]の土俵に在った<ref name="100retsu"/>。1999年5月場所では終盤8連勝で12勝し敢闘賞を受賞したが、次の場所は8勝で終わり、11月場所では終盤9連勝で11勝し敢闘賞を受賞したが、次の場所で7勝と負け越した。この2000年1月場所は千秋楽7勝7敗で、初優勝を狙う武双山を相手に負けて優勝を献上し、自身は負け越しで6場所ぶりに関脇から陥落しただけに、後に本人も「あれほど屈辱的なことはなかった」と悔いている。周囲からもここまで言われるのかと思うほどきついことを言われた魁皇は、それまで全くしてこなかったウエイトトレーニングを導入し、左腕や体の前面の筋肉の弱さを補った<ref>[https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/202306290000079.html 元魁皇の浅香山親方「あれほど屈辱的なことは」最強大関への分岐点の一番/歴代大関の昇進場所] 日刊スポーツ 2023年6月29日8時17分 (2023年6月29日閲覧)</ref>。
1999年5月場所では終盤8連勝で12勝し敢闘賞、次の場所はまた重圧で8勝と不調。11月場所では終盤9連勝で11勝し敢闘賞、次の場所でまたも重圧から7勝と不調で千秋楽は武双山に惨敗し負け越し。1999年6月に結婚した妻へも周囲から中傷が来る申し訳なさ、終生のライバル武双山に先を越された悔しさから、自己管理と焦って強引な投げを打ち墓穴を掘る悪い癖を徹底的に矯正し、相撲の基本である押しに経ち返る。
 
小結で迎えた[[2000年]](平成12年)55月場所では、14勝1敗でついに自身念願の幕内初優勝を果たす<ref name="meiretsu28"/>。福岡県出身力士としての優勝は[[1932年]](昭和7年)33月場所の小結[[沖ツ海福雄|沖ツ海]](9勝1敗)以来2人目で、68年ぶりの快挙であった。「賜杯は重い。優勝翌7月場所通算7重さを感じた。何目の大関獲りながら10日目で6勝4敗、またして失敗終わるかと思われが、終盤戦は千秋楽まで5連勝し11勝4敗、三役3場所合計33勝の成績を挙げ、同7月場所後にようやく大関昇進んだ」なった(横綱・貴乃花に3場所連続勝利。)<ref name="meiretsu28"/>。なお魁皇悲願関脇在位は21場所で、当時[[長谷川初優敏|長谷川]]・[[琴錦功宗|2代目琴錦]](二人共元関脇)と並ぶ史上1位タイ記録であ感想を語ったが、のちに大関となった力士は魁皇のみ<ref>現在は[[琴光喜啓司|琴光喜]](元大関)の22場所に次ぎ史上2位タイ。</ref>。また三役(関脇・小結)在位は32場所で、2代琴錦の34場所に次ぐ史上2位の記録である<ref name="100retsuhito"/>。
 
次の翌7月場所は通算7回目の大関取り場所となり<ref>朝日新聞2000年7月5日付朝刊スポーツ面</ref>、横綱・貴乃花に3場所連続勝利するなど11勝4敗とし、場所後の臨時理事会・番付編成会議ではわずか2分の審議で満場一致で大関昇進が決まった<ref name="asa0726">朝日新聞2000年7月26日付夕刊社会面</ref><ref name="meiretsu28"/>。なお魁皇の関脇在位は21場所で、当時[[長谷川勝敏|長谷川]]・[[琴錦功宗|2代目琴錦]](二人共元関脇)と並ぶ史上1位タイの記録であったが、のちに大関となった力士は魁皇のみである<ref>現在は[[琴光喜啓司|琴光喜]](元大関)の22場所に次ぎ史上2位タイ。</ref>。また三役(関脇・小結)在位は32場所で、2代琴錦の34場所に次ぐ史上2位の記録である<ref name="100retsu"/>。[[昇進伝達式]]では「謹んでお受け致します。大関の地位を汚さぬようけいこに精進します」と口上を述べた<ref name="asa0726"/>。3場所通算33勝で大関昇進の目安は満たすものの、最近の大関昇進の勝ち星数の平均からは劣るという指摘に審判部長の境川(元横綱・佐田の山)は「勝ち星数じゃない。ポカがあってもいい。強いと誰もが認めたんだ」と述べ、力士としての力の「絶対評価」で大関昇進を決めたことを強調した<ref name="asaspo"/>。
 
=== 大関時代 ===
大関獲りで昇進は[[千代大海龍二|千代大海]]・[[出島武春|出島]]・[[武双山正士|武双山]]・[[雅山哲士|雅山]]らに遅れをとったが、大関昇進後は豪快な相撲で地力の高さを見せ付け、大関としては合計4度の優勝(2001年3月場所、2001年7月場所、2003年7月場所、2004年9月場所)を経験、[[横綱]]候補の1番手だった時期もあった。しかし、怪我の多さ(2001年5月場所と9月場所は腰痛、2002年7月場所と2002年11月場所と2003年9月場所は腕の怪我)や精神的な脆さ(若貴兄弟や曙に注目集まったおかげでプレッシャーに押露呈つぶされずに稽古に集中できたと本人が語っている)<ref name="ref34" /> もあり、途中休場して綱取りのチャンスを無下にしてしまうことも多かった。2001年1月場所は5大関が、4日目までに10敗を喫する不甲斐ない有様で、唯一下位に対する壁になっていた魁皇も4日目の栃乃洋戦で右上手を取りながら寄り切りに敗れた際には「前に出ればよかったけど、失敗した。雰囲気が悪いね。大関陣がのろわれてる? 分からない」と話していた<ref>2001年1月11日付 日刊スポーツ紙面</ref>
 
32歳となる[[2004年]]は、全場所で二桁勝利を記録。9月場所には千秋楽で朝青龍に勝ち13勝2敗で5回目の優勝を遂げた。4度目の綱取りとなる翌11月場所では、[[2003年]]3月場所から続く日本人横綱不在に終止符を打って欲しいという期待が集まった。しかし初日に琴光喜に負け10日目に新鋭だった白鵬にも負け2敗、さらに12日目に雅山に負け3敗を喫し優勝争いから脱落。それでも「千秋楽で横綱[[朝青龍明徳|朝青龍]]を破っての優勝次点なら昇進の可能性がある」との発言が当時の[[押尾川]](元大関[[大麒麟將能|大麒麟]])[[勝負審判|審判部長]]からあり、千秋楽の結びの一番への期待が高まった。千秋楽では朝青龍を万全の相撲で下し12勝3敗、横綱昇進決定かと思われたが、結局昇進は見送られた。翌[[2005年]]1月場所までも綱取り場所とされたが、怪我で途中[[休場]]して失敗に終わった。
2001年3月場所は千秋楽で武双山に上手投げで勝ち2度目の優勝。5月場所は綱取り場所となったが腰痛で途中休場。7月場所は14日目に武蔵丸に上手投げで勝ち3度目の優勝。9月場所も綱取り場所となったが腰痛で途中休場。2002年5月場所は優勝した武蔵丸に勝ち11勝。7月場所は腕の怪我で途中休場。9月場所も優勝した武蔵丸に勝ち12勝。11月場所は腕の怪我で途中休場。2003年7月場所は千秋楽で千代大海に勝ち4度目の優勝。9月場所は3回目の綱とり場所になったが右腕の怪我で負け越し。と大関になる前から言われていた、魁皇は2人いる強い魁皇と弱い魁皇が、という事が大関になってからも続き強さと脆さが隣り合わせだった。
 
2005年1月場所から[[2006年]]3月場所までは、途中休場により翌場所大関[[角番]]・角番脱出の繰り返しが続き、大関の地位を辛うじて維持するという状況だった。特に9回目の大関角番となった2006年3月場所は、序盤から本来の相撲が取れず負けが先行すると引退を示唆したが、師匠の[[友綱]]親方(元関脇[[魁輝薫秀|魁輝]])と相談の上、もし[[負け越し]]て大関[[陥落]]が決まれば引退する決意も固めていた。12日目朝青龍に敗れ5勝7敗と絶体絶命だったが、魁皇はそこから踏ん張って出島・[[琴光喜啓司|琴光喜]]に連勝し14日目で7勝7敗に。そして千秋楽では朝青龍と優勝を争った[[白鵬翔|白鵬]](当時関脇)を寄り切って8勝7敗、辛うじて[[勝ち越し]]を決め角番を脱した。2006年5月場所以降は、[[千秋楽]]まで皆勤出場場所が増えたものの、成績は10勝すらままならず勝ち越しても8・9勝と1桁勝ち星がやっとの状態が多く、何度も引退の危機を迎えていた。
しかし32歳となる[[2004年]]には円熟期を迎え、全場所で二桁勝利を記録。9月場所には千秋楽で朝青龍に勝ち13勝2敗で5回目の優勝を遂げた。4度目の綱取りとなる翌11月場所では、[[2003年]]3月場所から続く日本人横綱不在に終止符を打って欲しいという期待が集まった。しかし初日に琴光喜に負け10日目に新鋭だった白鵬にも負け2敗、さらに12日目に雅山に負け3敗を喫し優勝争いから脱落。それでも「千秋楽で横綱[[朝青龍明徳|朝青龍]]を破っての優勝次点なら昇進の可能性がある」との発言が当時の[[押尾川]](元大関[[大麒麟將能|大麒麟]])[[勝負審判|審判部長]]からあり、千秋楽の結びの一番への期待が高まった。千秋楽では朝青龍を万全の相撲で下し12勝3敗、横綱昇進決定かと思われたが、結局昇進は見送られた。翌[[2005年]]1月場所までも綱取り場所とされたが、怪我で途中[[休場]]して失敗に終わった。
 
[[2007年]]9月場所4日目の[[小結]][[日馬富士公平|安馬]](現・日馬富士)戦で、幕内通算706勝を達成したが、その2日後、右太腿の負傷を悪化させ途中休場となった。翌11月場所は、2006年同様に再起をかける場所となったが、14日目で勝ち越して11度目の角番を脱出、引退の危機から免れた。
2005年1月場所から[[2006年]]3月場所までは、途中休場により翌場所大関[[角番]]・角番脱出の繰り返しが続き、大関の地位を辛うじて維持するという状況だった。特に9回目の大関角番となった2006年3月場所は、序盤から本来の相撲が取れず負けが先行すると引退を示唆、師匠の[[友綱]]親方(元関脇[[魁輝薫秀|魁輝]])と相談の上、もし[[負け越し]]て大関[[陥落]]が決まれば引退する決意も固めていた。12日目朝青龍に敗れ5勝7敗と絶体絶命だったが、魁皇はそこから踏ん張って出島・[[琴光喜啓司|琴光喜]]に連勝し14日目で7勝7敗に。そして千秋楽では朝青龍と優勝を争った[[白鵬翔|白鵬]](当時関脇)を寄り切って8勝7敗、辛うじて[[勝ち越し]]を決め角番を脱した。2006年5月場所以降は、[[千秋楽]]まで皆勤出場場所が増えたものの、成績は10勝すらままならず勝ち越しても8・9勝と1桁勝ち星がやっとの状態が多く、何度も引退の危機を迎えていた。
 
[[2007年]]9月場所4日目の[[小結]][[日馬富士公平|安馬]](現・日馬富士)戦で、幕内通算706勝を達成した。この記録は武蔵丸の706勝に並ぶもので、大関以下の力士としては1番、現役の力士としてももちろんダントツの記録。しかし、その2日後、右太腿の負傷を悪化させまたしても途中休場となった。翌11月場所は、2006年同様に再起をかける場所となったが、14日目で勝ち越して11度目の角番を脱出、引退の危機から免れた。勝ち越しが決まった瞬間には、観客はその日の結びの一番よりも大きな声援を魁皇に送った。
 
[[2008年]]8月の[[モンゴル]]巡業では、当時の両横綱朝青龍、白鵬などモンゴル出身力士以上の大人気ぶりだった<ref>スポーツニッポン 2008年8月27日付紙面</ref>。2008年11月場所前、大関[[琴欧洲勝紀|琴欧洲]]との稽古で右足を痛め、休場が濃厚だったが強行出場した。しかし、3日目に前頭2枚目[[若の里忍|若の里]]との取組み中に左腕まで痛めてしまい途中休場した。
 
[[File:Kaio-1.jpg|thumb|靖国神社奉納大相撲での大関魁皇関(2009年4月10日撮影)]]
[[2009年]]頃からは満足な稽古もままならない状態からぶっつけ本番での本場所の連続となり、千代大海と共に角番を繰り返す状況を見かねた横審が「累積5回の角番で降格や引退勧告」なる具体案まで出すほどの風当たりの厳しさとなってき<ref>[http://number.bunshun.jp/articles/-/11998 大関陣の不甲斐なさを示す意外な数字・〜カド番大関・千代大海らの罪〜] SportsGraphic NuberWeb 2009/05/22 06:01</ref> 1月場所は千代大海と並んで1位タイとなる、12度目の大関角番となった。進退を賭けて場所入りし、12日目に前頭3枚目[[豪風旭|豪風]]を破って角番脱出、同時に引退危機も乗り越えた。その後3連敗したため場所を8勝7敗で終えた。その場所直後に[[虫垂炎]]で緊急入院、手術はせず薬で治療したが協会の公式行事は休場した。

[[2009年]]11月場所で幕内在位が98場所となり、元関脇[[高見山大五郎|高見山]]の97場所を超える大相撲史上第1位の記録を達成した。同場所3日目に関脇[[把瑠都凱斗|把瑠都]]を破って史上3人目の通算800勝を果たし、[[九重 (相撲)|九重]]親方(58代横綱・[[千代の富士貢|千代の富士]])は「私の幕内807勝(史上1位)を超えて欲しい」とエールを送った。さらに同場所10日目、大関琴欧洲を[[押し倒し]]ての勝利で幕内805勝を達成、55代横綱[[北の湖敏満|北の湖]]の804勝を超えて幕内勝利数が単独第2位の記録となった。この年は2005年以降では最多となる年間48勝を記録した(2005年が39勝、2006年が40勝、2007年が44勝、2008年が43勝)。なお、この年は全6場所の成績がすべて8勝7敗であった。
 
=== 幕内(808勝)・通算(1,046勝)各最多勝利更新 ===
[[2010年]]1月場所2日目に前頭2枚目[[豪栄道豪太郎|豪栄道]]に勝ち、19年ぶりに横綱・千代の富士の持つ幕内通算白星807勝に並んだが、この一番は魁皇得意の左四つ右上手だったそして3日目には、奇しくも九重親方その千代の富士の愛弟子でかつ長年共に大関として支えった千代大海(当時・関脇)に対し、豪快な[[送り投げ]]で勝利ついに幕内通算808勝を達成して史上単独1位になった(千代大海はこの取組を最後に引退)。10日目には[[引き落とし]]で日馬富士戦の連敗を8で止め、さらに13日目には2006年3月場所以来23場所ぶりに横綱白鵬を破り、白鵬戦での連敗を17で止めた。白鵬はこの敗北の翌日から63連勝を記録している。14日目には前頭3枚目[[稀勢の里寛|稀勢の里]]を[[上手投げ]]で破って勝ち越し。そしてを決め、千秋楽でも同4枚目[[垣添徹|垣添]]を[[送り倒し]]で勝利、8場所ぶりの9勝6敗で終えた。<br/>
2010年3月場所で幕内通算在位が丁度100場所を迎え、この場所も8勝7敗と勝ち越した。[[3月30日]]、幕内在位100場所達成及び幕内通算勝利数を更新した功績を称え、[[日本政府]]は[[内閣総理大臣顕彰]]を魁皇に授与することを決定し、[[4月26日]]に[[総理大臣官邸]]で顕彰式が執り行われた。<ref>[http://www.kantei.go.jp/jp/hatoyama/actions/201004/26hyosho.html 首相官邸ホームページ 内閣総理大臣顕彰式 平成22年4月26日]</ref>
 
[[ファイル:26kenshou4.jpg|サムネイル|[[2010年]][[4月26日]]、[[総理大臣官邸]]での[[内閣総理大臣顕彰]]式で[[鳩山由紀夫]]内閣総理大臣から盾を授与される]]
2010年5月場所で十両以上の関取在位場所数が、史上単独1位である111場所となった。さらに千秋楽にて大関琴欧洲を破り、大相撲史上二人目となる'''通算1,000勝'''を達成した。2010年7月、場所前に大関琴光喜が解雇されたため大関以上の地位での日本人力士は魁皇のみとなった。同時に、幕内最高優勝の経験を持つ唯一の現役日本人力士ともなった。11日目から怪我のため途中休場、休場中の7月場所14日目([[7月24日]])に38歳の誕生日を迎えた。翌9月場所に13回目の大関角番を迎えたが14日目に勝ち越して角番を脱出。
2010年3月場所で幕内通算在位が100場所を迎え、この場所も8勝7敗と勝ち越した。[[3月30日]]、幕内在位100場所達成及び幕内通算勝利数を更新した功績を称え、[[日本政府]]は[[内閣総理大臣顕彰]]を魁皇に授与することを決定し、[[4月26日]]に[[総理大臣官邸]]で顕彰式が執り行われた<ref>[https://www.kantei.go.jp/jp/hatoyama/actions/201004/26hyosho.html 首相官邸ホームページ 内閣総理大臣顕彰式 平成22年4月26日]</ref>。
 
2010年5月場所で十両以上の関取在位場所数が、史上単独1位である111場所となった。さらに千秋楽にて琴欧洲を破り、大相撲史上二人目となる'''通算1,000勝'''を達成した。2010年7月、場所前に大関琴光喜が解雇されたため、大関以上の日本人力士は魁皇のみとなり、同時に幕内最高優勝経験を持つ唯一の現役日本人力士ともなった。翌9月場所に13回目の大関角番を迎えたが14日目に勝ち越して角番を脱出した。
2010年11月場所は初日に前頭2枚目[[安美錦竜児|安美錦]]に敗れるも、2日目から12日目まで11連勝の快進撃を続け優勝争いを演じた。13日目に1敗の白鵬、14日目に同じく1敗の同9枚目[[豊ノ島大樹|豊ノ島]]に敗れ優勝争いから脱落したが、千秋楽に大関把瑠都を破って2004年11月場所以来36場所ぶりの12勝3敗の好成績を挙げ、九州場所を盛り上げる一因となった。
 
2010年11月場所は初日に[[安美錦竜児|安美錦]]に敗れるも、2日目から12日目まで11連勝の快進撃を続け優勝争いを演じた。13日目に1敗の白鵬、14日目に同じく1敗の同9枚目[[豊ノ島大樹|豊ノ島]]に敗れ優勝争いから脱落したが、千秋楽に大関把瑠都を破って2004年11月場所以来36場所ぶりの12勝3敗の好成績を挙げた。
 
[[2011年]]1月場所12日目に把瑠都を破って、大相撲史上初となる'''通算100場所勝ち越し'''を達成した。2011年5月[[技量審査場所]]12日目には、大相撲史上単独1位となる幕内出場回数・1,431回目を達成した。千秋楽では白鵬に右上手を掴んでの[[寄り切り]]で勝ち、通算勝ち星を'''1,044勝'''とした。
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=== 現役引退 ===
結果的に現役最後の相撲となった、2011年7月場所10日目の琴欧洲戦は、良い所無く押し出されて3勝7敗に。となり、負け越しがほぼ確定的となった時点で、10日目の取組後記者懇談で「気力が出なくなった」と漏らし、宿舎に戻り師匠と話し合った末現役を引退することを決めた。師匠は場所の早い段階で、魁皇本人から引退の話が出るものと覚悟を決めていたという。翌11日目の引退会見での魁皇は「最高の相撲人生でした。もう悔いも後悔も一切ありません」と安堵の笑みを浮かべながらインタビューに応えていた<ref>[httphttps://www.sponichi.co.jp/sports/news/2011/07/21/kiji/K20110721001251440.html 魁皇 笑顔の引退会見「悔いも後悔もない」] スポーツニッポン 2011年7月21日閲覧</ref>。
 
角番制度を利用すれば大関在位記録を歴代1位の66場所に伸ばすことができたが、戦友・千代大海への配慮からあえてそれをせず大関在位65場所で打ち止めた<ref name="hairyo">[https://number.bunshun.jp/articles/-/854550?page=2 「魁皇さんは、僕の涙腺を2回も崩壊させた男です」元大関・千代大海46歳がいま明かす友情秘話と、親方としての哲学「弟子に学ぶことのほうが…」(2/4ページ)] NumberWeb 2022/09/10 11:02 (2022年9月12日閲覧)</ref>。
 
初土俵以来23年以上の長きに渡る現役生活、また[[2000年]]9月に大関に昇進して以来、10年以上に渡り関脇に一度も陥落することなく大関の座を守り続けた。また2007年9月場所の番付で、35歳の大関となり戦後最高齢記録を更新、2010年3月場所には昭和以降の最高齢大関在位記録をも更新した(2011年7月場所引退時で38歳11か月、従来は[[1932年]]10月場所、[[能代潟錦作|能代潟]]の37歳6か月)。2011年版[[ギネス世界記録]]に「幕内通算846勝」「幕内在位103場所」として掲載された<ref>これにより角界で史上唯一ギネス記録を複数保持する力士となった。</ref>
 
[[福岡県知事一覧|福岡県知事]]・[[小川洋]]は2011年[[8月20日]]に、魁皇の長年の功績を讃えて「福岡県民栄誉賞」を故郷の直方市で贈った。また直方市も魁皇に「'''特別市民文化栄誉賞'''<ref>直方市は2000年11月に魁皇の初優勝に対し、「市民文化栄誉賞」を既に贈っていたため、新しい賞を魁皇に贈るために創設された賞である。</ref>」を贈った。
 
[[断髪式]]と[[引退相撲]]は[[2012年]][[5月27日]]に[[両国国技館]]で行われ、同期の貴乃花や曙ら、約340人がはさみを入れた。「正直に言えば、いろんなところでこみあげてくるものがあった。親の時は、がまんできなかった」と述べた<ref>[httphttps://www.nikkansports.com/sports/sumo/news/f-sp-tp3-20120527-958037.html 魁皇断髪式で涙「親の時は…」] 日刊スポーツ(2012年5月27日)</ref>。止め鋏の前には、史上単独1位となる通算1046勝目を挙げた取組の実況が再現され、約1万人の観衆でぎっしりと埋まった館内が“魁皇コール”に包まれると魁皇は「鳥肌が立った。最高の一日だった」と涙を流した。
 
=== 年寄:浅香山として ===
[[File:Kaio-Hiroyuki20160522.jpg|thumb|土俵下で審判を務める浅香山親方(2016年5月22日撮影)]]
引退相撲後の2013年3月から[[スポーツニッポン]]紙上で「我が道」を連載。また2013年2月の日本相撲協会役員改選に伴う人事異動では地元である[[九州場所]]担当年寄に指名された<ref>[http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2013/02/05/kiji/K20130205005127680.html 元魁皇の浅香山親方“地元”九州場所担当に、てこ入れへ抜てき] スポーツニッポン 2013年2月5日閲覧</ref>。
引退相撲後の[[2013年]]3月から[[スポーツニッポン]]紙上で「我が道」を連載。また2013年2月の日本相撲協会役員改選に伴う人事異動では、地元である[[九州場所]]担当年寄に指名された<ref>[https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2013/02/05/kiji/K20130205005127680.html 元魁皇の浅香山親方“地元”九州場所担当に、てこ入れへ抜てき] スポーツニッポン 2013年2月5日閲覧</ref>。
 
2013年10月には『、[[2014年]]中に友綱部屋から独立して、[[東京都]][[墨田区]]内に[[浅香山部屋]]を創設する意向であることを明かした<ref>[httphttps://www.nikkansports.com/sports/sumo/news/f-sp-tp3-20131022-1207814.html 元大関魁皇の浅香山親方が部屋設立へ] 日刊スポーツ 2013年10月22日閲覧</ref>。2014年1月30日の日本相撲協会理事会で、2月1日付で友綱部屋より独立して浅香山部屋を設立することが認められ<ref>[https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2014/01/30/kiji/K20140130007487880.html 浅香山部屋設立を承認 元大関・魁皇「個性的な力士育てたい」] スポーツニッポン 2014年1月30日閲覧</ref>、部屋持ち師匠として新たなスタートを切った
 
2014年4月に発表された新たな職務分掌では委員に昇進し、審判部に配属された<ref>[https://www.nikkansports.com/sports/sumo/news/f-sp-tp3-20140510-1298855.html 元魁皇が審判デビューへ「いよいよだね」] nikkansports.com 2014年5月10日17時25分</ref>。
2014年1月30日の日本相撲協会理事会で2月1日付で友綱部屋より独立して浅香山部屋を設立することが認められ<ref>[http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2014/01/30/kiji/K20140130007487880.html 浅香山部屋設立を承認 元大関・魁皇「個性的な力士育てたい」] スポーツニッポン 2014年1月30日閲覧</ref>、部屋持ち師匠として新たなスタートを切った。
 
[[2019年]]7月場所後の番付編成会議で[[魁勝旦祈]]が浅香山部屋初の関取昇進を果たした。奇しくも元魁皇の47歳の誕生日に発表された。
2014年4月に発表された新たな職務分掌では委員に昇進し、審判部に配属された。<ref>[http://www.nikkansports.com/sports/sumo/news/f-sp-tp3-20140510-1298855.html 元魁皇が審判デビューへ「いよいよだね」] nikkansports.com 2014年5月10日17時25分</ref>
 
[[2020年]]1月場所12日目には幕下の取組における勝負審判の職務中に土俵下に落下した幕下力士に直撃して右の股関節付近を痛め、車いすで両国国技館内の相撲診療所に直行した。「足を開いていたのを閉じようとしたら、その上に落ちてきた。右の股関節。音がしたので切れたと思う。右はやったことない。紋付きで(診療所に)行くなんて」と本人は痛みをこらえながら苦笑い<ref>[https://hochi.news/articles/20200123-OHT1T50104.html 浅香山親方(元魁皇)、落下力士の直撃受け負傷…「紋付きで行くなんて」と車いすで診療所へ] 2020年1月23日 14時9分スポーツ報知(2020年1月23日閲覧)</ref>。
2016年1月場所6日目、40度の熱が出たことにより2~3日休場する見通しと発表された。6日目は同じ伊勢ケ浜一門の高島審判委員(元関脇高望山)が代役を務めた。<ref>[http://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/1592705.html 浅香山審判委員、発熱で休場 高島審判委員が代役] 日刊スポーツ 2016年1月15日20時13分</ref>
 
[[2021年]][[3月31日]]、[[照ノ富士春雄]]の大関復帰昇進の伝達式では、同じ一門の[[高望山大造|高島]]理事に同行し、使者を務めた<ref>{{Cite news |title=照ノ富士、大関復帰決定 最長ブランク21場所ぶり 「謹んでお受け致します」と口上 |newspaper=スポニチアネックス |date=2021-3-31 |url=https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2021/03/31/kiji/20210331s00005000213000c.html|accessdate=2023-12-12}}</ref>。また同年[[7月21日]]、照ノ富士の横綱昇進の伝達式でも、高島理事に同行して使者を務めている<ref>{{Cite news |title=横綱照ノ富士が口上「不動心を心がけ、横綱の品格、力量の向上に努めます」 |newspaper=日刊スポーツ |date=2021-7-21 |url=https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/202107210000127.html |accessdate=2021-7-21}}</ref>。横綱に昇進した照ノ富士を指して「諦めなければこうなれる」と祝福した<ref>[https://www.daily.co.jp/general/2021/07/21/0014521386.shtml 照ノ富士が横綱昇進 元大関魁皇の浅香山親方が祝福「諦めなければこうなれる」] デイリースポーツ 2021.07.21
2019年7月場所後の番付編成会議で[[魁勝旦祈]]が浅香山部屋初の関取昇進を果たした。奇しくも元魁皇の47歳の誕生日に発表された。
(2021年7月21日閲覧)</ref>。
 
2023年2月1日付で審判部副部長に昇格。委員から役員待遇委員となり、理事会に出席する立場となった<ref>[https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/202301260001130.html 元魁皇の浅香山親方が審判部副部長に昇格 元安美錦の安治川親方が審判部入り] 日刊スポーツ 2023年1月26日20時32分 (2023年1月28日閲覧)</ref>。2024年1月26日に、2月2日に開催される理事選が無投票となることが決定したため、立候補した浅香山は改選により理事に新任することが決定<ref>[https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/202401260001135.html#goog_rewarded 日本相撲協会、3期連続の無投票で理事候補と副理事候補決定 八角理事長続投なら実質5期目] 日刊スポーツ 2024年1月26日20時8分 (2024年1月27日閲覧)</ref>。同年3月25日の評議員会で理事就任が承認された<ref>{{Cite news |和書 |title=日本相撲協会の八角理事長が続投決定、実質5期目 暴力問題の撲滅などを誓う |newspaper=日刊スポーツ |date=2024-03-25 |url=https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/202403250000579.html |access-date=2024-03-25}}</ref>。
2020年1月場所12日目には幕下の取組における勝負審判の職務中に土俵下に落下した幕下力士に直撃して右の股関節付近を痛め、車いすで両国国技館内の相撲診療所に直行した。「足を開いていたのを閉じようとしたら、その上に落ちてきた。右の股関節。音がしたので切れたと思う。右はやったことない。紋付きで(診療所に)行くなんて」と本人は痛みをこらえながら苦笑い<ref>[https://hochi.news/articles/20200123-OHT1T50104.html 浅香山親方(元魁皇)、落下力士の直撃受け負傷…「紋付きで行くなんて」と車いすで診療所へ] 2020年1月23日 14時9分スポーツ報知(2020年1月23日閲覧)</ref>。
 
2024年1月場所の職務は、体調不良のため12日目から休場<ref>[https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/202401240001533.html 審判部の浅香山副部長(元大関魁皇)が12日目から休場 佐渡ケ嶽部長(元関脇琴ノ若)も休場中] 日刊スポーツ 2024年1月24日21時57分 (2024年1月25日閲覧)</ref>。
 
貴闘力が2024年3月場所中に公開した談話によると、宮城野部屋閉鎖が決定的となった情勢で、同場所中に元白鵬の宮城野が協会が処遇を再考するように協会を説得してほしいと浅香山に頼んだという<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=V9USe8rXADM 【急変】魁皇が宮城野部屋存続を嘆願!その理由は!?] 貴闘力部屋 2024/03/13 (2024年3月14日閲覧)</ref>。
 
== 取り口 ==
握力・腕力が非常に強く、入門して2年で、握力は90キロに到達。全盛期では110キロを記録した。更に入幕した頃には既に[[リンゴ]]を握りつぶせたほどであった。有名なのは、2つで中身の入ったビール瓶を両手で4つで持ち上げ、宴会でそれを披露したことである。'''左四つ右上手'''が絶対の形。右四つになることはまずないが、大関挑戦時に身につけた右からのおっつけで脇の固さも特徴である<ref name="asa0727">朝日新聞2000年7月27日付朝刊スポーツ面</ref>
特に右上手を取った時の強さは他に例を見ない程で、相手が横綱であってもまず負ける事は無く、曙、貴乃花、若乃花、武蔵丸、朝青龍、白鵬いずれの横綱に対してもほとんど何もさせずに勝つ程であった。
腰をぶつけながら寄る型もあるが、最も得意としたのは右からの豪快な'''[[上手投げ]]、[[小手投げ]]'''。
上手投げは魁皇の代名詞と言えるもので、体重230㎏を越える曙や武蔵丸ですら振り回し、それより軽い貴乃花や朝青龍に至っては土俵外へ吹き飛んでいく威力がある。小手投げに関しては、手繰りを活かして相手の肘を極めながら両手で抱え、力任せに横へ向かって打つのがやり方で、[[浪乃花教天|浪之花]]、[[栃乃洋泰一|栃乃洋]]、[[琴龍宏央|琴龍]]、[[栃東大裕|栃東]]、[[玉乃島新|玉乃島]]、豪栄道、豊ノ島ら多くの力士がこれを受け、それぞれ左の肩、肘を負傷した。中でも浪之花は引退の直接的な原因となるほど深い負傷であり、玉乃島は怪我をして以降左腕が泣き所となってしまい、長期に渡り苦しんだ。また、[[2009年]]の名古屋場所では朝青龍に小手投げを仕掛けた際、腕が極まることを恐れた朝青龍が即座に勝負を諦め土俵外に走ったこともあった。
数々の力士の腕を怪我させたことから、四股名をもじって「'''破壊王'''(魁皇)」と呼ばれ、重戦車と比喩されることも多かった。
 
最も得意としたのは右からの豪快な'''[[上手投げ]]、[[小手投げ]]'''で、魁皇の代名詞となった。一度右上手を取れば230kgを超える曙や武蔵丸ですら転がり、貴乃花に至っては土俵中央から土俵外へ吹っ飛んだほどである。小手投げに関しては、手繰りを活かして相手の肘を極めながら両手で抱え、力任せに横へ向かって打ち、[[浪乃花教天|浪之花]]、[[栃乃洋泰一|栃乃洋]]、[[琴龍宏央|琴龍]]、[[栃東大裕|栃東]]、[[玉乃島新|玉乃島]]、豪栄道、豊ノ島ら多くの力士がこれを受け、それぞれ左の肩、肘を負傷した。中でも浪之花は引退の直接的な原因となるほど深い負傷であり、玉乃島は怪我をして以降左腕が泣き所となってしまい、長期に渡り苦しんだ。数々の力士の腕を怪我させたことから、四股名をもじって「'''破壊王'''(魁皇)」と呼ばれ、重戦車と比喩されることも多かった。
ただ力任せというわけではなく、相撲の基本的技能にも優れていた。突っ張りを手繰ることが上手く、比較的押し相撲には強いといえる。左四つの型の陰に隠れて目立たないが突き押しの威力もあった。一方で右四つを極端に苦手とし、この形になるとなにもできないことが多かったため、立合いでは左脇を徹底して固め、右四つを避けるようにしていた。
 
1995年頃はまだ相撲の技術も発展途上で力任せで粗削りな取り口であった。取りこぼしが多かったのもまだ技術的に未熟な為であった。右上手を狙うといってもガバっと脇を開けて横から取りにいくため、体が右に傾き、相手に付け込まれる隙があった<ref name="asa0727"/>。
若手時代には横から食らいついて攻める厳しい戦法も多用していた。大関になってからは得意の右上手の引き付けがとれなくても、右からおっつけて寄る形に進境を見せていた。
 
強引な投げで鮮やかな勝ちを収める相撲スタイルの代償として、大関昇進後は腰痛など怪我に悩まされることが多くなった。場所ごとの好不調の波が激しく、好調な時は横綱をも負かしてしまうが、不調な時は平幕にあっけなく負けることもあった。また、若いころには精神的に脆い面があり連敗癖があって、上位に定着しながら大関になかなか上がれなかった理由の一つでもある。ことに小心さは大関昇進前から広く知られていて<ref name="hito"/>、「気が優しくて力持ち」と言われる反面、「怪力だが気が弱い」「蚤の心臓」<ref>事実、昭和以降に12場所以上幕内連続勝ち越しの記録を残した力士(14場所)の中でもただ1人勝ち越し期間中に大関以上に昇進していない。</ref> と揶揄されることもあった。雑誌でのインタビューによれば、「過去に怪我をさせてしまった相手に対しては罪悪感があり、その時と同じような形になった場合には相手に怪我をさせる事を恐れて強引には攻められない事もある」と言う
 
若い頃からスピード型力士に手を焼き、そうした力士との取組では廻しを取れずにスピードに攪乱されて黒星を喫するパターンが多かった。若手時代は琴錦が、ベテランの域に入ってからは日馬富士が苦手であった。
現役最晩年では怪我や加齢による衰えも顕著となり、立合いの鋭さ・重さに欠け、握力も70キロ台にまで落ちていた<ref>[http://www.sponichi.co.jp/sports/flash/KFullFlash20091117127.html 幕内800勝達成の魁皇 史上3人目も無関心貫く(相撲) ― スポニチ Sponichi Annex ニュース] 2010年3月10日閲覧</ref><ref>[http://www.nishinippon.co.jp/nsp/sumo/kaiou/2006/20061119001817.shtml 魁皇 (福岡出身) / 大相撲 どすこい!郷土力士 / 西日本スポーツ] 2010年3月10日閲覧</ref>。左四つに組むことが難しくなり、組んでも左四つ得意の若手([[稀勢の里寛|稀勢の里]]、[[琴奨菊和弘|琴奨菊]]など)や、もろ差しがうまい[[豊ノ島大樹|豊ノ島]]には分が悪くなっていた。太ももの故障を抱えてからは、左右の動きが激しい相手に対処できずあっけなく土俵を割ることが増え、また上手投げが難しくなり叩きが増える相撲も多かった。
 
現役最晩年では怪我や加齢による衰えも顕著となり、立合いの鋭さ・重さに欠け、握力も70キロ台にまで落ちていた<ref>[https://web.archive.org/web/20091123062402/http://www.sponichi.co.jp/sports/flash/KFullFlash20091117127.html 幕内800勝達成の魁皇 史上3人目も無関心貫く(相撲) ― スポニチ Sponichi Annex ニュース] 2010年3月10日閲覧</ref><ref>[http://www.nishinippon.co.jp/nsp/sumo/kaiou/2006/20061119001817.shtml 魁皇 (福岡出身) / 大相撲 どすこい!郷土力士 / 西日本スポーツ] 2010年3月10日閲覧</ref>。左四つに組むことが難しくなり、組んでも左四つ得意の若手([[稀勢の里寛|稀勢の里]]、[[琴奨菊和弘|琴奨菊]]など)や、もろ差しがうまい[[豊ノ島大樹|豊ノ島]]には分が悪くなっていた。太ももの故障を抱えてからは、左右の動きが激しい相手に対処できずあっけなく土俵を割ることが増え、また上手投げが難しくなり叩きが増える相撲も多かった。
30代も半ばを過ぎた2007年7月場所から2010年9月場所まで20場所連続で二桁勝利を上げられず、休場と角番が増えた。この頃には、両差しから体格を利して一気に寄るという相撲も見せてはいるが、一方で立合いの駆け引きや変化・引き技に頼り、長年の経験と勝負勘の貯金で取っている相撲も増え、「勝っても首を捻る」光景がしばしば見られた。それでも守勢に回った際、手繰りや小手投げでしのぎつつ、時折左四つや突き押しを放ち豪快な相撲も見せていた。右上手を掴んだ際に沸き起こる観客の声援は非常に大きく、魁皇の相撲の型が広く知られていることを示していた。
 
30代も半ばを過ぎた2007年7月場所から2010年9月場所まで20場所連続で二桁勝利を上げられず、休場と角番が増えた。この頃には、両差しから体格を利して一気に寄るという相撲も見せてはいるが、一方で立合いの駆け引きや変化・引き技に頼り、長年の経験と勝負勘の貯金で取っている相撲も増え、「勝っても首を捻る」光景がしばしば見られた。それでも守勢に回った際、手繰りや小手投げでしのぎつつ、時折左四つや突き押しを放ち豪快な相撲も見せていた。右上手を掴んだ際に沸き起こる観客の声援は非常に大きく、魁皇の相撲の型が広く知られていることを示していた。
三賞受賞回数の多い力士は、殊勲賞、敢闘賞、技能賞の全てを満遍なく受賞していることが多い。魁皇の[[三賞]]受賞回数は15回(歴代3位)だが、技能賞は1度も受賞しなかった。
 
横綱[[朝青龍明徳|朝青龍]]には12勝25敗と相性がやや悪かったが、朝青龍戦の12勝は白鵬(13勝)に次ぐ勝星である。そのうち2回は2連勝していた。横綱[[白鵬翔|白鵬]]には全盛期を過ぎたせいもあって全く歯が立たず、対戦成績は6勝27敗と大きく負け越していた。特に白鵬が大関に昇進してからは連敗が続き、大関時代の取組では1勝も出来なかった。白鵬の横綱昇進後も長らく勝てないまま17連敗していたが、ようやく2010年1月場所に白星を挙げた。2011年5月技量審査場所の千秋楽、7場所ぶりに白鵬を寄り切って勝利し、これが横綱白鵬との現役最後の対戦となった。
 
土俵上で制限時間一杯になると、最後の塩を撒いて締め込みを3回叩いた後、柏手を打って、もう1回叩いて仕切っていた。
 
== 逸話エピソード ==
=== 四股名 ===
四股名に入っている「皇」の文字は出身の直方市がかつて「皇方」と表記されていたことに由来し、これをとって師匠の友綱がつけた。
 
=== 現役時代の人気 ===
大関昇進前の[[1999年]]に[[結婚]]、子供はいない。5歳年上の妻・[[西脇充子|充子]]は元タレントであるが、それ以前は女子プロレスラーであった。そのためか、女子プロレス関係者の中にもファンを有した。また、妻との出会いは合同[[コンパ]]であった。現役当時の力士の中では、[[高見盛精彦|高見盛]](最高位・小結)を凌ぐほどの、一番人気の高い力士の一人であった。福岡県出身だけに、福岡市で開催される九州場所での館内での声援は絶大で、11月場所(九州場所)での声援は他の力士を圧倒していた。
現役当時の力士の中では、[[高見盛精彦|高見盛]](最高位・小結)を凌ぐほどの、一番人気の高い力士の一人であった。福岡県出身だけに、福岡市で開催される九州場所での館内での声援は絶大で、11月場所(九州場所)での声援は他の力士を圧倒していた。
 
[[モンゴル国|モンゴル]]でも人気が高く、白鵬の父である[[ジグジドゥ・ムンフバト]]が魁皇の大ファンで、白鵬を通じて魁皇に[[薬膳料理]]の食材を贈ろうとした。魁皇は、仕切り中に咳をすることが多いが、それを見た白鵬の父が魁皇を心配してのことで、白鵬は当時まだ関脇で、「大関の魁皇関に対して、関脇の分際でそんなことをすれば失礼になる」と言って、難色を示した。「平成の大横綱」となった白鵬は、魁皇の引退に「まさかだよね。場所前はそういう雰囲気ではなかった」と驚きながらも「名大関と対戦した事を誇りに思う。一番横綱に近い大関だった」と振り返っていた<ref name="100retsu" /><ref>[https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2011/07/20/kiji/K20110720001245850.html 白鵬“魁皇魂”を引き継ぐ「託された分を…」] スポニチ、2011年7月20日</ref>
その人気はとどまることを知らず、[[2001年]]10月に[[九州旅客鉄道]](JR九州)[[筑豊本線]]・[[篠栗線]]([[福北ゆたか線]])[[博多駅]] - [[直方駅]]間で運行を開始した[[特別急行列車|特急列車]]の名称「[[かいおう (列車)|かいおう]]」にも採用された。力士の四股名に限らず、人名、しかも存命中の人物の名前が[[JR|JRグループ]]の列車名に採用されることは極めて異例。その特急「かいおう」の出発式には魁皇本人も出席し、テープカットも行った。「かいおう」の運行決定は、魁皇が3度目の優勝をした[[2001年]]7月場所後だったが、翌9月場所は途中休場していた。前述の通り魁皇本人は2011年7月場所で現役引退したが、JR九州は「かいおう」の名称について「(現時点では)改称の予定はない」とコメントしている。
 
=== 郷土力士として ===
[[2002年]]9月10日、友綱親方の次男、西野秀昭が20歳で病死した時、友綱に「今はあの子のそばにいてあげて下さい」と労りの言葉を述べた<ref>[http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2011/07/20/kiji/K20110720001245830.html 誰からも愛された名大関 豪快なイメージも実は繊細]</ref>(この日は9月場所3日目だった)。
魁皇の現役時代、地元の直方市では魁皇が勝利した場合、取り組みが終わった直後に[[花火]]が打ち上げられていた<ref>[http://www.tv-asahi.co.jp/nanikore/contents_pre/collection/100623.html 『ナニコレ珍百景』2010年6月23日OA 【珍百景No.646】みんなで勝利を祝う町]</ref>。当初は花火の打ち上げ免許を持つ男性が花火の打ち上げを担当していたが、2011年1月にその男性が亡くなってからは、地元の魁皇後援会の若者たちが花火の打ち上げを引き継いでいた(最後には、魁皇が引退した翌日の2011年7月20日に、魁皇と花火の打ち上げを行っていた男性に向けた感謝の花火打ち上げが行われた<ref>[http://www.tv-asahi.co.jp/nanikore/contents_pre/collection/110810.html 『ナニコレ珍百景』2011年8月10日OA 【その後の珍百景】「勝利の祝砲の結末」]</ref>)。また、直方市の銘菓「[[成金饅頭]]」でも、地元出身の力士である魁皇を応援するため、11月場所の時には魁皇の焼印を押したものが販売されることもあった。
 
[[ファイル:Kaio Hiroyuki statue.jpg|250px|right|thumb|直方駅前に設置されている魁皇の銅像]]
魁皇の現役時代、地元の直方市では魁皇が勝利した場合、取り組みが終わった直後に花火が打ち上げられていた<ref>[http://www.tv-asahi.co.jp/nanikore/contents_pre/collection/100623.html 『ナニコレ珍百景』2010年6月23日OA 【珍百景No.646】みんなで勝利を祝う町]</ref>。当初は花火の打ち上げ免許を持つ男性が花火の打ち上げを担当していたが、2011年1月にその男性が亡くなってからは、地元の魁皇後援会の若者たちが花火の打ち上げを引き継いでいた(最後には、魁皇が引退した翌日の2011年7月20日に、魁皇と花火の打ち上げを行っていた男性に向けた感謝の花火打ち上げが行われた<ref>[http://www.tv-asahi.co.jp/nanikore/contents_pre/collection/110810.html 『ナニコレ珍百景』2011年8月10日OA 【その後の珍百景】「勝利の祝砲の結末」]</ref>)。また、直方市の銘菓「[[成金饅頭]]」でも、地元出身の力士である魁皇を応援するため、11月場所の時には魁皇の焼印を押したものが販売されることもあった。
2014年には地元直方市の[[直方駅]]前に銅像が設置され、同年10月26日に除幕式が行われた<ref>[https://web.archive.org/web/20141027044125/http://www.yomiuri.co.jp/kyushu/local/fukuoka/20141027-OYS1T50029.html 元大関魁皇の銅像 JR直方駅前に完成] - 読売新聞西部本社、2014年10月27日</ref>。この銅像は除幕2日後に落書きが見つかり、同年10月から11月にかけてにさがり2本が計7回折られるなど相次ぐいたずらに見舞われ、これを受けて市は被害届を提出し、12月に防犯カメラ2台を設置するという対応に追われた<ref>[http://www.nishinippon.co.jp/nnp/f_chikuhou/article/138226 受難続きの魁皇銅像 直方市、ステンレスで補強へ 福岡県] 西日本新聞 2015年01月09日(最終更新 2015年01月10日 00時21分)</ref>
 
=== 特急列車「かいおう」 ===
[[高砂 (相撲)|高砂]]部屋の弓取り力士に、「弓取り関取」で話題となった[[皇牙篤|皇牙]](元十両、2007年5月場所直前に引退。十両昇進後も引退直前まで弓取り式を務めた)がいたが、皇牙も直方市出身でしかも出身中学校(直方第二中学校)の5学年後輩であり、四股名は魁皇から一字拝借したものである。さらに、[[田子ノ浦部屋|鳴戸部屋]]出身の元前頭・[[力皇猛|力櫻]]が、プロレス転向後「力皇」と改名したきっかけも、大相撲では同期入門だった魁皇にあやかったものと言われた。
[[2001年]]10月に[[九州旅客鉄道]](JR九州)[[筑豊本線]]・[[篠栗線]]([[福北ゆたか線]])[[博多駅]] - [[直方駅]]間で運行を開始した[[特別急行列車|特急列車]]の名称「[[かいおう]]」にも採用された。人名、しかも存命中(さらに言えば、運行開始時に現役で活動中)の人物の名前が[[JR|JRグループ]]の列車名に採用されることは極めて異例で、出発式には魁皇本人も出席し、[[テープカット]]を行った。「かいおう」の運行決定は、魁皇が3度目の優勝をした[[2001年]]7月場所後だったが、翌9月場所は途中休場していた。魁皇の引退後も、JR九州は「かいおう」の名称について「(現時点では)改称の予定はない」とコメントしている<ref>{{Cite news |title=特急「かいおう」残った JR、大関引退後も名称変えず |newspaper=[[朝日新聞|asahi.com]] |date=2011-07-21 |url=https://www.asahi.com/travel/aviation/SEB201107210037.html |agency=[[朝日新聞社]] |accessdate=2017-02-15}}</ref>。
 
=== 妻との関係 ===
俳優の[[堺雅人]]は同じ九州出身ということで、好きな力士に「魁皇」を挙げており、NHK[[大相撲中継]]にゲストで呼ばれた際にも「魁皇を応援している」とコメントした。
妻は元[[プロレスラー]]の[[西脇充子]]。出会いは充子が[[卵巣がん]]の闘病生活を送る頃、「力士と会うと元気になるから」と病状を心配する知人に紹介されたのが、当時小結の魁皇だった。魁皇は充子との初対面の印象を「どんなに弱々しい女性が来るかと思ったら、[[美容師]]の友人が染めてくれたという金髪の頭で、すごい元気なんですよね。おまけに後輩の[[アジャ・コング]]までいるし(笑)。『騙された~』と思ったくらいでしたよ」と振り返る<ref>[https://jisin.jp/sport/1773496/ 元大関・魁皇の妻 親方と弟子の愛で二度目のがんを乗り切る!]女性自身</ref><ref>[https://toyokeizai.net/articles/-/154872 元大関「魁皇」の妻が歩む波瀾万丈すぎる人生 相撲部屋の女将になった元女子プロレスラー]東洋経済ONLINE</ref>。意気投合した二人はやがて交際を始め、魁皇が大関昇進前の1999年6月に結婚している。充子のほうが5歳年上の「[[姉女房|姉さん女房]]」で、「ミッちゃん」「ヒロくん」と呼び合う仲だが、当初より「奥さんのほうが強そうだ」「(魁皇は)酒に強く妻に弱い」<ref name="asaspo"/>と評されるほどで、なかなか大関昇進がかなわない魁皇を叱咤激励し続けた。結婚式で充子は「浮気をするなら私にばれないように、責任をもって。自分でケツがふけるならばどうぞ」<ref name="asaspo"/>とくぎを刺し、魁皇は「絶対しません」と答えるしかなかった。夫妻の間に子供はいないが、これはそもそも充子が卵巣がんにより卵巣を摘出して子供を産めなくなったため。
 
西脇は現役時代の魁皇の身体のケアが大変だったと魁皇の引退後に振り返っており、現役終盤は腰痛が悪化していたためおちおち電球の交換も頼めなかった。「魁皇を買い物なんかに連れだしてんじゃねぇ」と相撲ファンに反発されるのを恐れ、当時は買い物もろくに一緒に行ったことが無かった。2人のデートも治療院と病院の2パターンのみであった。魁皇の引退後、引退相撲開催を巡る労力的負担が原因で2回ほど離婚危機があった<ref>[https://number.bunshun.jp/articles/-/861177 「出ていったこともあった」夫・魁皇と“2回の離婚危機”…女子プロレスラーから相撲部屋の女将になった西脇充子が明かす“夫婦の関係性”(1/3ページ)] Number Web 2024/04/07 17:02 (2024年4月8日閲覧)</ref><ref>[https://number.bunshun.jp/articles/-/861177?page=2 「出ていったこともあった」夫・魁皇と“2回の離婚危機”…女子プロレスラーから相撲部屋の女将になった西脇充子が明かす“夫婦の関係性”(2/3ページ)] Number Web 2024/04/07 17:02 (2024年4月8日閲覧)</ref>。
明治時代以降、最高位が大関だった力士の中では、魁皇が史上最多の幕内最高優勝5回を誇っている。なお横綱昇進を果たした力士の大関以下での幕内優勝は、同期の[[貴乃花光司|貴乃花]]が優勝22回中7回、同期の[[花田虎上|若乃花]]が5回(横綱では優勝なし)、[[武蔵丸光洋|武蔵丸]]が優勝12回中5回をそれぞれ記録し、同世代の横綱に多かった(これは元横綱[[北尾光司|双羽黒]]が優勝ゼロのまま廃業して以降、横綱昇進の規定が厳密になり『原則として大関の地位で2場所連続優勝が絶対条件』となったため)<ref>優勝制度が確立されて以降(平幕・三役も含めて)、地位が大関以下で通算5回以上の幕内優勝を果たしながら横綱昇進を逃した力士は魁皇が唯一である。</ref><ref>2011年7月20日・放送の[[Japan News Network|TBS系]]『[[ひるおび!]]』で、[[デーモン小暮]]も発言している。</ref>。さらに、優勝力士からの白星も最も多く<ref>[http://www.offtime-arekore.info/kaio-yushorikishisen-kachiboshi.htm 魁皇、優勝力士に17回勝つ]</ref>、地力の高さも示していた。
 
=== 他の力士との関係 ===
2003年9月場所5日目の[[高見盛精彦|高見盛]]戦、左差しを使われ、あっさり土俵外へ出されてしまう(決まり手は押し出し)。魁皇は同年5月場所に11勝(次点)、7月場所に12勝(優勝)を挙げており9月場所に綱取りをかけていたが、結果的には7勝8敗で終え、綱取りから一転角番に追い込まれた。魁皇は高見盛が普段から稽古場で手抜きをしていることに対して批判している立場であったため、この結果に激怒。敗戦の直後憮然としながら土俵を下り、直後のインタビューで「けいこ場では力を出さないのに、こんな時だけ力を出す。あいつは相撲取りとして、許せない」という意味のコメントを、声を荒らげながら口にした<ref>朝日新聞 2003年9月19日</ref>。
[[高砂 (相撲)|高砂]]部屋の弓取り力士に、「弓取り関取」で話題となった[[皇牙篤|皇牙]](元十両、2007年5月場所直前に引退。十両昇進後も引退直前まで弓取り式を務めた)がいたが、皇牙も直方市出身でしかも出身[[中学校]](直方第二中学校)の5学年後輩であり、四股名は魁皇から一字拝借したものである。さらに、[[田子ノ浦部屋|鳴戸部屋]]出身の元前頭・[[力皇猛|力櫻]]が、プロレス転向後「力皇」と改名したきっかけも、大相撲では同期入門だった魁皇にあやかったものと言われた。
 
2015年6月20日、先輩大関だった貴ノ浪こと19代[[音羽山 (相撲)|音羽山]]親方が43歳で急病死。学年は魁皇が1年後輩で、幕内では51回対戦した(魁皇の24勝27敗、優勝決定戦で1敗)。[[青森県]]出身の貴ノ浪は、かつて現役時代の九州場所について「魁皇にとってはホームゲーム、こちらはアウェーゲームみたいなものだ」と発言していた。一方魁皇は貴ノ浪を「スケールが大きくて豪快」と振り返り、「明るく周りを和ませてくれる人柄だった」とコメント。「心臓が悪いと聞いていたが、最近は元気だと思っていたからまだ信じられない。体調が悪くても人に見せなかったから、本当はしんどかったのかも。これからお互い協会の為に頑張ろうと思っていたのに…」と早過ぎる死を惜しんでいた<ref>[https://web.archive.org/web/20150621222031/http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2015/06/21/kiji/K20150621010581700.html 元魁皇・浅香山親方「最近は元気だった。信じられない」] スポニチ 2015年6月21日</ref>。
2004年9月場所に13勝2敗で5回目の幕内優勝、次の11月場所は12勝3敗の優勝次点で、横綱昇進の基準である「大関の地位で2場所連続優勝、'''又はそれに準ずる成績'''」に充分当てはめる成績を挙げていた。しかし[[日本相撲協会]]は11月場所千秋楽終了後、大関・魁皇の横綱昇進問題については当時「『2場所連覇』の内規を満たしていない<ref>元大関・[[小錦八十吉 (6代)|小錦]]も1991年5月・7月場所に14勝(同点)-12勝(次点)、1991年11月・翌1992年1月・3月場所は13勝(優勝)-12勝-13勝(優勝)と、「大関で2場所連続優勝に準ずる成績」を収めながら、横綱昇進は成らなかった。その後小錦は成績が低迷し「大関で2場所連続負越」を喫した為、1993年11月場所限りで39場所務めた大関の座から関脇へ陥落した。</ref>
」の理由で、[[横綱審議委員会]]への[[諮問]]は却下されてしまう<ref>千秋楽翌日、一部の横審委員から「諮問ぐらいはすべきだった」と相撲協会に対し苦言を呈する者もいた。</ref>。翌2005年1月場所、再び綱獲りにチャレンジした魁皇であったが途中休場に終わり、以降横綱挑戦の場所は二度と巡らなかった。それでも大関在位65場所と長期間「名大関」として君臨、39歳になる寸前まで多くの大相撲ファンを沸かせた。魁皇自身は引退後著書で「もし自分が横綱に昇進していれば、通算1047勝の記録は達成出来なかったと思う」「横綱の地位に求められる成績を自分は残せなかった、というのが本音。だから全く後悔はない」と記している。
 
さらに1年後の2016年7月31日、「昭和の大横綱」こと千代の富士・13代九重親方が61歳で逝去。「九重親方の1000勝は私と比べるものではない。あの体で大きな相手を倒したのは凄いしレベルが違う。本当に悲しい」と追悼のコメントを述べていた<ref>[http://www.asahi.com/articles/ASJ706V9SJ70UTQP02X.html 「戦友」の親方たち、早過ぎる死を悼む 九重親方死去] 朝日新聞 2016年8月1日記事</ref>。
大関昇進前、優勝決定戦にも2度出場(いずれも敗退)しているが、5人の決定戦と<ref>1996年(平成8年)11月場所、当時西関脇で11勝4敗、優勝は西大関1の武蔵丸、他の相手は西横綱の[[曙太郎|曙]]、東大関1の若乃花、東大関2の貴ノ浪であった。東横綱貴乃花の休場のために乱戦になった。</ref>、4人の決定戦であった<ref>1997年(平成9年)3月場所、当時東前頭筆頭で12勝3敗、優勝は東横綱の貴乃花、他の相手は西横綱の曙、西大関の武蔵丸。</ref>。ここに記した貴乃花、曙、武蔵丸、若乃花、貴ノ浪という横綱大関陣は古今有数の強力布陣との評価もあり、[[千代大海龍二|千代大海]]がチャンスをうまく掴んで大関に昇進したが、魁皇・[[武双山正士|武双山]]・[[栃東大裕|栃東]]らはこの5人衆+千代大海の影響で大関昇進に苦労した。
 
==== 戦友・千代大海 ====
さらに、2007年(平成19年)1月場所で、小結以上在位71場所の新記録を樹立した<ref>当該場所終了時の在位場所数は大関39、関脇21、小結11。それまでの最高記録は横綱[[北の湖敏満|北の湖]]([[日本相撲協会]]理事長)と、横綱武蔵丸の2人が達成した小結以上在位70場所。北の湖は横綱63、大関3、関脇2、小結2で、武蔵丸は横綱27、大関32、関脇9、小結2(出典=[[読売新聞グループ本社|読売新聞東京本社]]発行・[[大相撲 (雑誌)|大相撲]]・2007年2月号、pp. 134-135)</ref>。これも魁皇の実力を裏打ちするものであり、「もしタイムマシーンがあれば、魁皇を、江戸時代の古今無双大関[[雷電爲右エ門]]と対戦させてみたい」という声も聞かれたことがあった。
また、20代[[佐ノ山]](2011年当時・現九重)の千代大海も「古い戦友としてお疲れさまと言いたい。この日の一番と雰囲気を見て最後になると感じたが、ファンのために一日でも長く土俵に上がる姿勢には感動していた。今まで本当に立派だった」と称賛している。なお千代大海と幕内での取組は通算で54回も対戦したが、これは当時で大相撲史上2位<ref>当時の幕内取組回数・史上1位は武蔵丸-貴ノ浪の58回。現在の史上1位は[[琴奨菊和弘|琴奨菊]]-[[稀勢の里寛|稀勢の里]]の60回。</ref> の記録だった。対戦成績は魁皇の34勝20敗(内1勝は不戦勝)。2010年1月場所、大関から関脇に陥落した千代大海は、同場所の3日目で魁皇に敗れたこの一番(魁皇の勝利で史上最多の幕内808勝を記録)が現役最後の相撲となり、翌4日目に千代大海は引退を表明した。魁皇も取組前から千代大海とはこれで最後と感じ取っており、勝ったにも関わらず悲しそうな顔をしていた。幕内最多勝記録達成という事もあってNHKのインタビュールームに呼ばれたが、魁皇は「俺と千代大海の関係を知ってるだろう。今日で引退するかもしれないのに、勝利者インタビューなんて行けるわけないじゃないか」と拒否した。
 
2022年に千代大海が語ったところによると、魁皇は千代大海の涙腺を2回崩壊させたという。1度目は千代大海を破って千代大海の師匠である千代の富士の幕内白星記録(807勝)を破った後に、歴代最多勝のインタビューを断ったという話の後で前述の言葉を聞いた時に風呂場で<ref>[https://number.bunshun.jp/articles/-/854550 「魁皇さんは、僕の涙腺を2回も崩壊させた男です」元大関・千代大海46歳がいま明かす友情秘話と、親方としての哲学「弟子に学ぶことのほうが…」(1/4ページ)] NumberWeb 2022/09/10 11:02 (2022年9月12日閲覧)</ref>、2度目は千代大海への配慮で前述のように敢えて大関在位記録を破らず引退した時である<ref name="hairyo"/>。
現在の大相撲の一大勢力となりつつある[[モンゴル国|モンゴル]]でも人気が高く、特に[[ジグジドゥ・ムンフバト]](横綱白鵬の父)が魁皇の大ファンらしく、白鵬を通じて魁皇に[[薬膳料理]]の食材を贈ろうとしたことがあるらしい。魁皇は、仕切り中に咳をすることが多いが、それを見た白鵬の父が魁皇を心配してのことらしい。白鵬は、それを託された当時はまだ関脇で、「大関の魁皇関に対して、ワシが関脇の分際でそんなことをすれば失礼になる」と言って、難色を示したそうである。なおのちに「平成の大横綱」となった白鵬は、魁皇の引退に「まさかだよね。場所前はそういう雰囲気ではなかった」と驚きながらも「名大関と対戦した事を誇りに思う。一番横綱に近い大関だった」と振り返っていた<ref name="100retsu"/><ref>[http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2011/07/20/kiji/K20110720001245850.html 白鵬“魁皇魂”を引き継ぐ「託された分を…」] スポニチ、2011年7月20日</ref>。
 
=== 取組に関するエピソード ===
2009年6月2日に[[日本外国特派員協会]]に招かれ、「いつ引退するのか?」との質問に「いつそういう時がきてもおかしくない状況だけど、自分は相撲が大好き。死ぬまで現役にこだわりたい」と答えた。実際に魁皇が引退を表明したのは、それから2年後の2011年7月19日であった。
2003年9月場所5日目の高見盛戦、左差しを使われ、あっさり土俵外へ出されてしまう(決まり手は押し出し)。魁皇は同年5月場所に11勝(次点)、7月場所に12勝(優勝)を挙げており9月場所に綱取りをかけていたが、結果的には7勝8敗で終え、綱取りから一転角番に追い込まれた。魁皇は高見盛が普段から稽古場で手抜きをしていることに対して批判している立場であったため、この結果に激怒。敗戦の直後憮然としながら土俵を下り、直後の[[インタビュー]]で「けいこ場では力を出さないのに、こんな時だけ力を出す。あいつは相撲取りとして、許せない」という意味のコメントを、声を荒らげながら口にした<ref>朝日新聞 2003年9月19日</ref>。
 
大関昇進前、優勝決定戦にも2度出場(いずれも敗退)しているが、5人の決定戦と<ref>1996年(平成8年)11月場所、当時西関脇で11勝4敗、優勝は西大関1の武蔵丸、他の相手は西横綱の[[曙太郎|曙]]、東大関1の若乃花、東大関2の貴ノ浪であった。東横綱貴乃花の休場のために乱戦になった。</ref>、4人の決定戦であった<ref>1997年(平成9年)3月場所、当時東前頭筆頭で12勝3敗、優勝は東横綱の貴乃花、他の相手は西横綱の曙、西大関の武蔵丸。</ref>。ここに記した貴乃花、曙、武蔵丸、若乃花、貴ノ浪という横綱大関陣は古今有数の強力布陣との評価もあり、[[千代大海龍二|千代大海]]がチャンスをうまく掴んで大関に昇進したが、魁皇・[[武双山正士|武双山]]・[[栃東大裕|栃東]]らはこの5人衆+千代大海の影響で大関昇進に苦労した。
2009年11月9日に自伝「怪力」([[ベースボール・マガジン社]])が発売された。発売前々日の7日には[[紀伊国屋書店]]福岡本店でサイン会が行われた。同年12月18日には、[[文化放送]]の正月特番「新春スポーツスペシャル 工藤公康・魁皇 新春ビッグ対談〜生涯現役!」で、[[埼玉西武ライオンズ]]に復帰した[[工藤公康]]との対談に臨み、「生涯現役」にこだわることを宣言。魁皇と工藤はこのとき初対面だった。対談の様子は翌年1月2日に放送された。
 
=== 引退に際してのエピソード ===
引退記者会見で魁皇は思い出の取組に、2000年1月場所千秋楽で当時関脇の武双山(現・[[藤島 (相撲)|藤島]]親方)に敗れて7勝8敗と負け越し、また武双山の幕内初優勝も献上した一番を挙げ「その時の悔しさがあったから、自分も大関に上がれた」とコメント。さらに「意識した対戦相手は?」との質問には「武双山は年も近いし[[ライバル]]と言われていたので、常に負けたくないと思っていた。最近では千代大海(現・14代[[九重 (相撲)|九重]]親方)。同じように怪我で苦しんでお互い引き際を無くして、どうしようかと話したこともある」と語っていた。
引退記者会見で魁皇は思い出の取組に、2000年1月場所千秋楽で当時関脇の武双山(現・[[藤島 (相撲)|藤島]]親方)に敗れて7勝8敗と負け越し、また武双山の幕内初優勝も献上した一番を挙げ「その時の悔しさがあったから、自分も大関に上がれた」とコメント。さらに「意識した対戦相手は?」との質問には「武双山は年も近いし[[ライバル]]と言われていたので、常に負けたくないと思っていた。最近では千代大海(現・14代[[九重 (相撲)|九重]]親方)。同じように怪我で苦しんでお互い引き際を無くして、どうしようかと話したこともある」と語っていた。
 
=== 親方として ===
それに対して、18代藤島の武双山は「一緒に刺激し合った特別な存在だった。休場して来場所もと思っていたが、勝てなければ辞めるしかない。魁皇本人が最もほっとしているのでは」と、大親友でもある魁皇の引退を労っていた。なお武双山とは同じ1972年生まれ(但し学年は魁皇の方が1年後輩で、武双山は72年2月の早生まれ)で、武双山が引退の2004年11月場所まで、奇しくも魁皇と幕内在位場所数(68場所)が全く一緒だった<ref>武双山は1993年9月場所新入幕、魁皇は1993年5月場所新入幕で、入幕の時期は違うが、魁皇は1993年7月・9月の2場所十両陥落後1993年11月場所再入幕している。</ref>。武双山とは幕内で48回対戦し、成績は魁皇の31勝17敗(内2勝は不戦勝)。なお、魁皇と武双山共に大関昇進が遅かった事もあり、この両者には、「前頭在位・10場所、小結在位・11場所」(前頭在位場所数より小結在位場所数の方が多い)という珍記録もある。
1998年7月場所の第66代横綱・若乃花勝以来、2017年3月場所に日本出身力士として19年振りに誕生した第72代横綱・[[稀勢の里寛|稀勢の里]]は、新横綱の場所13日目の第70代横綱・[[日馬富士公平|日馬富士]]戦で、左肩周辺の筋肉を部分断裂する大怪我を負いながらも優勝。だがその後も相次ぐ故障に泣かされて、横綱昇進以降途中休場5回・全休4回も繰り返し、進退を掛けた2019年1月場所も初日から3連敗の成績不振で現役引退を表明。その報道に関して浅香山親方は「けがは(力士にとって)付き物で、皆すること。ケガとどう向き合うかでその先の人生が変わる」と指摘した上で、「稀勢の里は負傷の直後から徹底的に治して、稽古をしっかり出来るように成ってから本場所に出るべきだった。試す場もないまま、延々と中途半端に場所へ出たように見える。横綱だから番付は落ちないし、半年位堂々と休めば良かった」と、結局在位12場所の短命横綱に終わった事を悔やんでいる<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO3998911014012019000000/ けがしても休めぬ 稀勢の里追い詰めた使命感] 日本経済新聞 2019年1月16日記事</ref>。
 
35歳の時に買った愛犬は病弱なため日頃からいたわっていたが、その経験から親方になってからは弟子にも体調が悪い時にはすぐに病院へ行くよう促すようになった。本人は「おかげで丸くなったかな」と笑っている。2023年の1月頃に愛犬は死去しており、その後も「夢でも良いから会いたい」と思うことがある。2023年9月時点で飼っているのはその愛犬の息子。「失うのはもう辛いからね。飼うのはこれが最後かな」<ref>[https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/202309050000135.html 浅香山親方の癒やしは愛犬 シェビーと昨年末別れ「夢でもいいから会いたい」/親方衆の癒やし] 日刊スポーツ 2023年9月6日5時0分 (2023年9月9日閲覧)</ref>。
また、20代[[佐ノ山]](2011年当時・現九重)の千代大海も「古い戦友としてお疲れさまと言いたい。この日の一番と雰囲気を見て最後になると感じたが、ファンのために一日でも長く土俵に上がる姿勢には感動していた。今まで本当に立派だった」と称賛している。なお千代大海と幕内での取組は通算で54回も対戦したが、これは当時で大相撲史上2位<ref>当時の幕内取組回数・史上1位は武蔵丸-貴ノ浪の58回。現在の史上1位は[[琴奨菊和弘|琴奨菊]]-[[稀勢の里寛|稀勢の里]]の60回。</ref> の記録だった。対戦成績は魁皇の34勝20敗(内1勝は不戦勝)。2010年1月場所、大関から関脇に陥落した千代大海は、同場所の3日目で魁皇に敗れたこの一番(魁皇の勝利で史上最多の幕内808勝を記録)が現役最後の相撲となり、翌4日目に千代大海は引退を表明した。
 
{{Seealso|宮城野部屋#不祥事発生による宮城野部屋の処遇問題}}
さらに、「花の六三組」の同期生(魁皇と同じ1972年度生まれ)の中でも最大の好敵手だった横綱貴乃花とは、一時期は共に人気を2分割した大相撲の2枚看板でも有った。魁皇自身幕内初優勝した場所も貴乃花の優勝の可能性が消えた直後、同期で同じく優勝を争っていた横綱曙を下し援護射撃をする形になる等、様々な深い縁がある。魁皇の初優勝時の貴乃花は「魁皇にはおめでとうと言うしかない。悔しさは無い」と潔く祝福の言葉を述べている。なお魁皇自身が獲得した通算の金星の内、最多の3個は貴乃花からである。ただし、大関時代の貴乃花からの勝ち星は一度もなかった。貴乃花が引退した2003年の1月場所以降、日本人横綱不在を解消する意味で期待を掛けられていたが、綱取りは失敗に。魁皇の引退はそれから8年半も経った2011年7月場所で、それに際して貴乃花親方は「正に横綱みたいな大関。同期として一番尊敬する力士だった。長い間本当によく頑張ってくれたと思う」と誉め湛えていた。
 
弟子に学生相撲出身者や外国人力士がいないことについて、そもそものルートがないと前置きしたうえで「あとからすごい人が入って、あっという間に番付を抜かれると、コツコツ頑張っている子のやる気に影響してしまう」とコメントしている。浅香山部屋は2024年2月に表面化した不祥事により閉鎖する宮城野部屋の受け入れ先と報じられていた<ref>{{Cite web |title=宮城野部屋の暴行問題 師弟一括で浅香山部屋受け入れへ調整 大島親方「理事の下でまた勉強」/デイリースポーツ online |url=https://www.daily.co.jp/general/2024/03/16/0017436097.shtml |website=デイリースポーツ online |date=2024-03-16 |access-date=2024-03-29 |language=ja}}</ref>が、受け入れ先とならなかった要因の一つともみられる<ref>{{Cite web |title=【イチロー大相撲〈17〉】解説=宮城野部屋はなぜ閉鎖になるのか - 大相撲 : 日刊スポーツ・プレミアム |url=https://www.nikkansports.com/premium/sports/news/202403280001275.html |website=nikkansports.com |access-date=2024-03-29 |language=ja |last=佐々木一郎 |date=2024-03-28}}</ref>。
引退相撲を控えた2012年4月4日・11日に放送された[[日本放送協会|NHK]]『[[鶴瓶の家族に乾杯]]』に出演し、[[笑福亭鶴瓶]]とともに[[熊本県]][[人吉市]]を訪れた。行き先の店でかつて昭和初期に[[双葉山定次|双葉山]]らが人吉で巡業を行ったときの[[番付|板番付]]が勧進元の人物の孫が経営する和菓子店に今も残されているのを聞き、現物を見て驚きを見せた。また、同行していた[[蒼樹山秀樹|枝川]]親方も同じく驚いていた。
 
=== 記録 ===
[[ファイル:Kaio Hiroyuki statue.jpg|250px|right|thumb|直方駅前に設置されている魁皇の銅像]]
2007年(平成19年)1月場所で、小結以上在位71場所の新記録を樹立した<ref>当該場所終了時の在位場所数は大関39、関脇21、小結11。それまでの最高記録は横綱[[北の湖敏満|北の湖]]([[日本相撲協会]]理事長)と、横綱武蔵丸の2人が達成した小結以上在位70場所。北の湖は横綱63、大関3、関脇2、小結2で、武蔵丸は横綱27、大関32、関脇9、小結2(出典=[[読売新聞グループ本社|読売新聞東京本社]]発行・[[大相撲 (雑誌)|大相撲]]・2007年2月号、pp. 134-135)</ref>。
2014年には地元直方市の[[直方駅]]前に銅像が設置され、同年10月26日に除幕式が行われた<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/kyushu/local/fukuoka/20141027-OYS1T50029.html 元大関魁皇の銅像 JR直方駅前に完成] - 読売新聞西部本社、2014年10月27日</ref>。この銅像は除幕2日後に落書きが見つかり、同年10月から11月にかけてにさがり2本が計7回折られるなど相次ぐいたずらに見舞われ、これを受けて市は被害届を提出し、12月に防犯カメラ2台を設置するという対応に追われた<ref>[http://www.nishinippon.co.jp/nnp/f_chikuhou/article/138226 受難続きの魁皇銅像 直方市、ステンレスで補強へ 福岡県] 西日本新聞 2015年01月09日(最終更新 2015年01月10日 00時21分)</ref>
 
昭和時代に初土俵を踏んだ最後の関取経験者である(力士全体では[[華吹大作]])。
2015年6月20日、先輩大関だった貴ノ浪こと19代[[音羽山 (相撲)|音羽山]]親方が43歳で急病死。学年は魁皇が1年後輩で、幕内では51回対戦した(魁皇の24勝27敗、優勝決定戦で1敗)。[[青森県]]出身の貴ノ浪は、かつて現役時代の九州場所について「魁皇にとってはホームゲーム、こちらはアウェーゲームみたいなものだ」と発言していた。一方魁皇は貴ノ浪を「スケールが大きくて豪快」と振り返り、「明るく周りを和ませてくれる人柄だった」とコメント。「心臓が悪いと聞いていたが、最近は元気だと思っていたからまだ信じられない。体調が悪くても人に見せなかったから、本当はしんどかったのかも。これからお互い協会の為に頑張ろうと思っていたのに…」と早過ぎる死を惜しんでいた<ref>[http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2015/06/21/kiji/K20150621010581700.html 元魁皇・浅香山親方「最近は元気だった。信じられない」] スポニチ 2015年6月21日</ref>。
 
=== その他 ===
さらに1年後の2016年7月31日、「昭和の大横綱」こと千代の富士・13代九重親方が61歳で逝去。「九重親方の1000勝は私と比べるものではない。あの体で大きな相手を倒したのは凄いしレベルが違う。本当に悲しい」と追悼のコメントを述べていた<ref>[http://www.asahi.com/articles/ASJ706V9SJ70UTQP02X.html 「戦友」の親方たち、早過ぎる死を悼む 九重親方死去] 朝日新聞 2016年8月1日記事</ref>。
2009年11月9日に自伝「怪力」([[ベースボール・マガジン社]])が発売された。発売前々日の7日には[[紀伊国屋書店]]福岡本店でサイン会が行われた。同年12月18日には、[[文化放送]]の正月特番「新春スポーツスペシャル 工藤公康・魁皇 新春ビッグ対談〜生涯現役!」で、[[埼玉西武ライオンズ]]に復帰した[[工藤公康]]との対談に臨み、「生涯現役」にこだわることを宣言。魁皇と工藤はこのとき初対面だった。対談の様子は翌年1月2日に放送された。
 
1998年7月場所の第66代横綱・若乃花勝以来、2017年3月場所に日本出身力士として19年振りに誕生した第72代横綱・[[稀勢の里寛|稀勢の里]]は、新横綱の場所13日目の第70代横綱・[[日馬富士公平|日馬富士]]戦で、左肩周辺の筋肉を部分断裂する大怪我を負いながらも優勝。だがその後も相次ぐ故障に泣かされて、横綱昇進以降途中休場5回・全休4回も繰り返し、進退を掛けた2019年1月場所も初日から3連敗の成績不振で現役引退を表明。その報道に関して浅香山親方は「けがは(力士にとって)付き物で、皆すること。ケガとどう向き合うかでその先の人生が変わる」と指摘した上で、「稀勢の里は負傷の直後から徹底的に治して、稽古をしっかり出来るように成ってから本場所に出るべきだった。試す場もないまま、延々と中途半端に場所へ出たように見える。横綱だから番付は落ちないし、半年位堂々と休めば良かった」と、結局在位12場所の短命横綱に終わった事を悔やんでいる<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO3998911014012019000000/ けがしても休めぬ 稀勢の里追い詰めた使命感] 日本経済新聞 2019年1月16日記事</ref>。
 
2019年10月、[[内閣総理大臣顕彰]]受賞者として、[[徳仁|今上天皇]]の[[即位の礼]]に大相撲界から唯一招待された<ref name="BBMsumo201912p093">{{Cite journal |和書|title=相撲部屋聞き書き帖 |publisher=[[ベースボール・マガジン社]] |journal=[[相撲 (雑誌)|相撲]] |issue=2019年12月号 |pages=93 }}</ref>。10月22日の[[即位礼正殿の儀]]には紋付袴の正装で臨み、同月29日の饗宴の儀にも出席した<ref name="BBMsumo201912p093" />。
 
酒豪かつ酒癖の悪い人物として有名で、酒に酔って暴れた逸話もいくつかある<ref>[https://www.jiji.com/jc/v?p=sumo-syugou_010a 大相撲 古今 酒豪番付] 時事ドットコム (時事通信社、2019年3月18日閲覧)</ref>。酒に強く酒癖が悪いことついては父親譲りだという<ref name="asaraireki"/>
 
同郷の[[アナウンサー]]である[[新垣泉子]]には浅香山部屋の行事の司会を務めてもらうことがあり、やはり同郷出身の政治家である[[麻生太郎]]には2019年11月場所千秋楽祝賀会にサプライズで来てもらった<ref>[http://asakayamabeya.net/blog.html シェビーのひとりごと。。。] 浅香山部屋公式ブログ 2019年12月7日 10:12(2019年12月9日閲覧)</ref>。
 
== 略歴 ==
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** 3月場所 - 13日目を終えて6勝7敗と追い込まれるも、14日目、千秋楽と連勝して勝ち越し。再び大関昇進に向けての橋頭堡を築く。
** 5月場所 - 自身初の幕内最高優勝(14勝1敗)
** 7月場所 - 11勝4敗で10回目の殊勲賞(歴代1位タイ)、大関昇進を決め大関推挙伝達式での口上は「大関の地位を汚さぬよう稽古に精進します」、花の六三組では曙、貴乃花、若乃花に次ぐ4人目の大関。なお戦後に大関昇進を果たした力士のうち、十両での休場と、幕内からの十両以下への陥落の双方を経験したのは[[大麒麟將能|大麒麟]][http://sumodb.sumogames.de/Rikishi.aspx?r=4022&l=j]、[[旭國斗雄|旭國]][http://sumodb.sumogames.de/Rikishi.aspx?r=4061&l=j]、千代の富士、[[琴風豪規|琴風]][http://sumodb.sumogames.de/Rikishi.aspx?r=4112&l=j]、魁皇 [http://sumodb.sumogames.de/Rikishi.aspx?r=7&l=j] の45人のみ(大麒麟と千代の富士、琴風は[[幕下]]までの陥落を経験)。
** 9月場所 - 新[[大関]]、直前の稽古で親指を骨折しながらも終盤まで優勝を争い11勝4敗
** 11月場所 - 大関として九州に凱旋(11勝4敗)、[[武蔵丸光洋|武蔵丸]]との一番で珍しい「[[一本背負い]]」を決める(魁皇は中学校時代まで[[柔道]]の経験がある)
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** 7月場所 - 初の[[角番]]、3度目の幕内最高優勝(13勝2敗)
** 9月場所 - 2度目の綱獲り場所、腰椎椎間板ヘルニア及び左腰神経根麻痺が再発のため4日目から途中休場
** 10月6日 - [[福北ゆたか線]]電化開業、特急[[かいおう (列車)|かいおう]]の運行開始<ref>{{Cite book|和書|title=JR気動車客車編成表 '02年版|chapter=JR年表|date=2002-07-01|page=191|publisher=ジェー・アール・アール|isbn=4-88283-123-6}}</ref>
** 11月場所 - 2度目の角番、千秋楽結びで武蔵丸に勝利した際に会場から祝福の座布団が舞う
* [[2002年]]
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* [[2010年]]
** 1月場所 - 2日目に[[豪栄道]]に勝ち(この1番は魁皇得意の左四つ右上手)、19年ぶりに[[千代の富士]]の持つ幕内通算807勝達成、3日目に長年共に支えあってきた[[千代大海龍二|千代大海]]に勝って(豪快な送り投げ)幕内勝星808勝達成(歴代単独1位)、9勝6敗(9勝以上は8場所ぶり)また、横綱白鵬にも2006年3月場所以来となる勝利をし、対白鵬戦の連敗を17でストップした。
** 2月 - 直方市特別市民栄誉賞受賞。幕内通算最多勝星をはじめ、相撲での業績と市民からの支持が高く評価された<ref name="NogataEiyosho" /><ref name="NogataEiyosho" />。
** 3月場所 - 史上初の「幕内在位100場所」達成、8勝7敗で「3月場所20年間連続勝ち越し」という未曾有の記録達成
** 4月26日 - [[内閣総理大臣顕彰]]受賞。幕内通算最多勝星、幕内在位100場所の功績が称えられた<ref>[http://www.nogata-cci.or.jp/kaio/220507.html 魁皇関 内閣総理大臣顕彰受賞] 2012年3月4日閲覧</ref>。
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502 ⟶ 532行目:
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=== 主な力士との幕内対戦成績 ===
{| class="wikitable" style="text-align: center;"
|-
!力士名!!勝数!!負数!!力士名!!勝数||負数!!力士名!!勝数||負数!!力士名!!勝数||負数
|-
|[[蒼樹山秀樹|蒼樹山]]||4||1
|[[霧島一博|霧島]]||2||0||[[寺尾常史|寺尾]]||7||2||[[土佐ノ海敏生|土佐ノ海]]||30||10||[[追風海直飛人|追風海]]||3||1(1)
|[[安芸乃島勝巳|安芸乃島]]||25||6
|-
|[[曙太郎|曙]]||6||25
|[[蒼樹山秀樹|蒼樹山]]||4||1||[[小錦八十吉 (6代)|小錦]]||2||1||[[琴光喜啓司|琴光喜]]||17(1)||25(1)||[[豊真将紀行|豊真将]]||8||2
|[[朝青龍明徳|朝青龍]]||12||25
|-
|[[朝赤龍太郎|朝赤龍]]||11||5
|[[濱ノ嶋啓志|濱ノ嶋]]||5||1||[[三杉里公似|三杉里]]||5||1||[[玉乃島新|玉乃島]]||19||5(2)||'''[[鶴竜力三郎|鶴竜]]'''||6||10
|[[朝乃翔嚆矢|朝乃翔]]||1||2
|[[朝乃若武彦|朝乃若]]||0||2
|[[旭豊勝照|旭豊]]||7||2
|-
|[[安美錦竜児|安美錦]]||18||8
|[[浪乃花教天|浪ノ花]]||5||0||[[大翔鳳昌巳|大翔鳳]]||3||1||[[朝青龍明徳|朝青龍]]||12||25||[[豪栄道豪太郎|豪栄道]]||5||6
|[[阿覧欧虎|阿覧]]||6||1
|[[岩木山竜太|岩木山]]||11||0
|[[皇司信秀|皇司]]||1||0
|-
|[[隠岐の海歩|隠岐の海]]||0||2(1)
|[[琴別府要平|琴別府]]||6||1||[[舞の海秀平|舞の海]]||3||2||[[海鵬涼至|海鵬]]||2||1||[[若ノ鵬寿則|若ノ鵬]]||2||1
|[[小城錦康年|小城錦]]||6||2
|[[小城ノ花昭和|小城ノ花]]||2||0
|[[海鵬涼至|海鵬]]||2||1
|-
|[[垣添徹|垣添]]||10||2
|[[琴稲妻佳弘|琴稲妻]]||8||1||[[旭豊勝照|旭豊]]||7||2||[[時津海正博|時津海]]||4||1||[[把瑠都凱斗|把瑠都]]||8||7
|[[鶴竜力三郎|鶴竜]]||6||10
|[[春日王克昌|春日王]]||0||1
|[[春日富士晃大|春日富士]]||2||2
|-
|[[巌雄謙治|巌雄]]||2||2
|[[水戸泉政人|水戸泉]]||5||1||[[玉春日良二|玉春日]]||9||4||[[安美錦竜児|安美錦]]||18||8||[[嘉風雅継|嘉風]]||2||1
|[[稀勢の里寛|稀勢の里]]||12||16
|[[北勝鬨準人|北勝鬨]]||2||0
|[[北太樹明義|北太樹]]||2||0
|-
|[[小城錦康年|小城錦]]||6||2||[[旭鷲山昇|旭鷲山]]||16||3||[[高見盛精彦|高見盛]]||6||3(1)||[[栃煌山雄一郎|栃煌山]]||9||1
|[[旭天鵬勝|旭天鵬]]||34||5(1)
|[[旭道山和泰|旭道山]]||1||2
|[[鬼雷砲良蔵|鬼雷砲]]||1||2
|-
|[[霧島一博|霧島]]||2||0
|[[湊富士孝行|湊富士]]||5||1||[[琴龍宏央|琴龍]]||9||0||[[霜鳳典雄|霜鳳]]||5||1||[[阿覧欧虎|阿覧]]||6||1
|[[久島海啓太|久島海]]||1||0
|[[剣晃敏志|剣晃]]||6||5
|[[豪栄道豪太郎|豪栄道]]||5||6
|-
|[[五城楼勝洋|五城楼]]||1||0
|[[肥後ノ海直哉|肥後ノ海]]||9||4||[[出島武春|出島]]||25||15||[[北勝力英樹|北勝力]]||9||2||'''[[栃ノ心剛史|栃ノ心]]'''||6||2
|[[黒海太|黒海]]||6||8(1)
|-
|[[琴稲妻佳弘|琴稲妻]]||8||1
|[[栃乃和歌清隆|栃乃和歌]]||5||4(1)||[[巌雄謙治|巌雄]]||2||2||[[朝赤龍太郎|朝赤龍]]||11||5||[[豊ノ島大樹|豊ノ島]]||7||8
|[[琴欧洲勝紀|琴欧洲]]||12||16
|-
|[[大善尊太|大善]]||3||1||[[栃東大裕|栃東]]||22(1)||13(1)||[[岩木山竜太|岩木山]]||11||0||'''[[隠岐の海歩|隠岐の海]]'''||0||2(1)
|-
|[[武双山正士|武双山]]||31(2)||17||[[栃乃洋泰一|栃乃洋]]||25||12(1)||[[垣添徹|垣添]]||10||2||||||
|-
|[[琴奨菊和弘|琴奨菊]]||16||12(1)
||[[剣晃敏志|剣晃]]||6||5||[[千代大海龍二|千代大海]]||34(1)||20||[[黒海太|黒海]]||6||8(1)||||||
|[[琴錦功宗|琴錦]]||12||16
|[[琴ノ若晴將|琴ノ若]]||22||8
|[[琴富士孝也|琴富士]]||1||1
|-
|[[琴別府庸陛|琴別府]]||5||1
|[[花田勝|若乃花]]||14(1)||15||[[敷島勝盛|敷島]]||5(1)||0||'''[[白鵬翔|白鵬]]'''||6(1)||27(1)||||||
|[[琴光喜啓司|琴光喜]]||17(1)||25(1)
|[[琴龍宏央|琴龍]]||9||0
|[[小錦八十吉 (6代)|小錦]]||2||1
|-
|[[敷島勝盛|敷島]]||5(1)||0
|[[琴ノ若晴將|琴ノ若]]||22||8||[[若の里忍|若の里]]||21||13||[[露鵬幸生|露鵬]]||5||4||||||
|[[霜鳳典雄|霜鳳]]||5||1
|[[翔天狼大士|翔天狼]]||1||0
|[[大至伸行|大至]]||3||0
|-
|[[大翔鳳昌巳|大翔鳳]]||3||1
|[[琴錦功宗|琴錦]]||12||16||[[闘牙進|闘牙]]||9||3||[[琴欧洲勝紀|琴欧洲]]||12||16||||||
|[[大翔山直樹|大翔山]]||0||1
|[[大善尊太|大善]]||3||1
|[[貴闘力忠茂|貴闘力]]||21||11
|-
|[[貴ノ浪貞博|貴ノ浪]]||24||27*||[[雅山哲士|雅山]]||31(1)||15(1)||[[普天王水|普天王]]||3||1||||||
|[[貴乃花光司|貴乃花]]||12||27*
|[[隆乃若勇紀|隆乃若]]||8||1
|[[高見盛精彦|高見盛]]||6||3(1)
|-
|[[隆三杉太一|隆三杉]]||2||1
|[[貴乃花光司|貴乃花]]||12||27*||[[千代天山大八郎|千代天山]]||5(1)||0||[[稀勢の里寛|稀勢の里]]||12||16||||||
|[[豪風旭|豪風]]||6||3
|[[玉海力剛|玉海力]]||1||0
|[[玉春日良二|玉春日]]||9||4
|-
|[[玉乃島新|玉乃島]]||19||5(2)
|[[武蔵丸光洋|武蔵丸]]||20||26||[[尾崎勇気|隆乃若]]||8||1||[[日馬富士公平|日馬富士]]||12||16(1)||||||
|'''[[玉鷲一朗|玉鷲]]'''||1||1
|[[千代大海龍二|千代大海]]||34(1)||20
|[[千代天山大八郎|千代天山]]||5(1)||0
|-
|[[出島武春|出島]]||25||15
|[[安芸乃島勝巳|安芸乃島]]||25||6||[[和歌乃山洋|和歌乃山]]||7||0||[[時天空慶晃|時天空]]||7||5(1)||||||
|[[寺尾常史|寺尾]]||7||2
|[[闘牙進|闘牙]]||9||3
|[[時津海正博|時津海]]||4||1
|-
|[[時天空慶晃|時天空]]||7||5(1)
|[[曙太郎|曙]]||6||25||[[旭天鵬勝|旭天鵬]]||34||5(1)||[[豪風旭|豪風]]||6||4||||||
|[[徳瀬川正直|徳瀬川]]||1||0
|[[土佐ノ海敏生|土佐ノ海]]||30||10
|[[栃東大裕|栃東]]||22(1)||13(1)
|-
|[[栃煌山雄一郎|栃煌山]]||9||1
|[[貴闘力忠茂|貴闘力]]||21||11||[[栃乃花仁|栃乃花]]||1||3||[[琴奨菊和弘|琴奨菊]]||16||12(1)||||||
|[[栃栄篤史|栃栄]]||1||0
|[[栃ノ心剛史|栃ノ心]]||6||2
|[[栃乃洋泰一|栃乃洋]]||25||12(1)
|-
|[[栃乃花仁|栃乃花]]||1||3
|[[栃乃和歌清隆|栃乃和歌]]||5||4(1)
|[[智乃花伸哉|智乃花]]||1||1
|[[豊ノ海真二|豊ノ海]]||1||1
|-
|[[豊ノ島大樹|豊ノ島]]||7||8
|[[豊響隆太|豊響]]||1||0
|[[浪之花教隆|浪之花]]||5||0
|[[白馬毅|白馬]]||1||0
|-
|[[白鵬翔|白鵬]]||6(1)||27(1)
|[[白露山佑太|白露山]]||1||0
|[[濱ノ嶋啓志|濱ノ嶋]]||5||1
|[[追風海英飛人|追風海]]||3||1(1)
|-
|[[把瑠都凱斗|把瑠都]]||8||7
|[[日馬富士公平|日馬富士]]||12||16(1)
|[[肥後ノ海直哉|肥後ノ海]]||9||4
|[[普天王水|普天王]]||3||1
|-
|[[豊真将紀行|豊真将]]||8||2
|[[北勝力英樹|北勝力]]||9||2
|[[舞の海秀平|舞の海]]||3||2
|[[水戸泉眞幸|水戸泉]]||5||1
|-
|[[湊富士孝行|湊富士]]||5||1
|[[雅山哲士|雅山]]||31(1)||15(1)
|[[武蔵丸光洋|武蔵丸]]||20||26
|[[武双山正士|武双山]]||30(2)||18
|-
|[[嘉風雅継|嘉風]]||2||1
|[[露鵬幸生|露鵬]]||5||4
|[[若荒雄匡也|若荒雄]]||0||1
|[[若翔洋俊一|若翔洋]]||2||1
|-
|[[若の里忍|若の里]]||21||13
|[[若乃花勝|若乃花]]||14(1)||15
|[[若ノ鵬寿則|若ノ鵬]]||2||1
|[[和歌乃山洋|和歌乃山]]||7||0
<!--|||||-->
|}
*他に[[優勝決定戦 (相撲)|優勝決定戦]]([[巴戦]]も含む)で、貴ノ浪・貴乃花に各1敗がある。
(カッコ内は勝数・負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数。'''太字'''は2020年11月場所終了時の現役力士
 
== 改名歴 ==
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== 脚注 ==
{{Reflist脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}
 
== 関連項目 ==
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* [[大関一覧]]
* [[福岡県出身の人物一覧]]
* [[かいおう (列車)|かいおう]]([[九州旅客鉄道|JR九州]]の[[筑豊本線]]・[[篠栗線]](通称・[[福北ゆたか線]])で運行されている[[特急列車]])
* [[内閣総理大臣顕彰]]
* [[ギネス世界記録]]
581 ⟶ 705行目:
== 外部リンク ==
* [http://asakayamabeya.net/ 浅香山部屋オフィシャルウェブサイト]
 
{{goo-sumo|6|魁皇 博之}}
{{大相撲幕内優勝力士}}
593 ⟶ 718行目:
[[Category:浅香山部屋]]
[[Category:スポーツに関する日本のギネス世界記録保持者]]
[[Category:日本相撲協会の役員]]
[[Category:1972年生]]
[[Category:存命人物]]