谷在家
谷在家(やざいけ)は、東京都足立区西部の地名。住居表示では谷在家一丁目から谷在家三丁目まで存在する。郵便番号は〒123-0863。
地域
足立区西部に位置し、環七通りからは奥まった場所に位置する。町域を東西に分断する形で尾久橋通りが南北に走り、通りの東側が谷在家一丁目、西側の南部が谷在家二丁目、西側北部が谷在家三丁目である。
地名
「谷在家」の地名の由来は諸説あり定かでない。一説によればこの谷在家地域は、かつて存在していた「谷田川」の流路跡の「谷」に、開拓期に植民した人々が家を構え(在家)、このことが発端となり「谷在家」の地名が付けられたという。他には、真言宗本山金剛峯寺のお膝元である高野山の谷に住んでいた「在家(出家していない山内に住む信者)」が移り住んだため「谷在家」と呼ばれる様になったという説がある。
交通
鉄道
路線バス
- 里48・深夜04 : 谷在家二丁目 / 谷在家一丁目
- 赤23・赤23-3 : 谷在家 / 谷在家公園
道路
- 東京都道58号台東鳩ヶ谷線(尾久橋通り)
施設
保育・教育
- 谷在家保育園(谷在家三丁目22-10)
- 足立区立鹿浜第一小学校(谷在家二丁目24-1)
公園
- みだまえ公園(谷在家一丁目17-1)
- 谷在家公園(谷在家二丁目13-1)
史跡
寺院
- 本応寺(谷在家二丁目19-7)
- 清徳寺(谷在家三丁目28-8)
神社
- 赤城神社(谷在家二丁目16-17)
- 瘡守神社(谷在家三丁目8-4)
歴史
江戸時代初頭の谷在家地域は現在の谷在家南部から江北一丁目および扇三丁目辺りを領域としていた高野村の一部であり、検地帳や地図に「谷在家」の名称は見られない。「谷在家」の名称が登場するのは1678年(延宝6年)の賦役負担に反対する訴状に書かれた「谷在家村」の記述が最初である。この当時はまだ高野村の構成集落の一つという位置づけであった。1869年(明治2年)に高野村が小菅県の管轄となった際に谷在家村は一つの独立した村となり、その後は大区小区制施行や郡区町村制編成法の実施などで所属する地方自治体や名称はめまぐるしく変遷するが、1888年(明治21年)の市制町村制施行により谷在家は江北村の大字となり、「東京府南足立郡江北村大字谷在家」となった。
1932年(昭和7年)に東京府構成5郡80か町村が東京市へ編入され南足立郡が足立区へ発展的解消を経ると、江北村も解体され大字谷在家は谷在家町となった。1971年(昭和46年)に住居表示が実施されると、谷在家町は周辺諸町(谷在家町、上沼田町、西新井町、高野町)の一部区域をもって谷在家一丁目および谷在家二丁目が設置され、1975年(昭和50年)の住居表示実施で谷在家町と周辺諸町(北鹿浜町、上沼田町、加賀皿沼町)の一部区域から谷在家三丁目が形成された。これら旧諸町で最も谷在家の構成面積が大きかったのが谷在家町であり、住居表示実施による町名も「谷在家」とされた。
年表
- 1889年5月1日 - 東京府南足立郡谷在家村が周辺の村と合併し、江北村が誕生。南足立郡江北村大字谷在家となる。
- 1932年10月1日 - 南足立郡が東京市足立区となり、大字谷在家は谷在家町となる。
- 1971年5月1日 - 谷在家町・高野町・上沼田町・西新井町の一部に住居表示が実施され、谷在家一・二丁目が設置される。
- 同日 - 谷在家町の一部に住居表示が実施され、江北六丁目・西新井七丁目に編入される。
- 1975年7月1日 - 谷在家町・高野町・上沼田町・北鹿浜町・加賀皿沼町の一部に住居表示が実施され、谷在家一・二丁目の範囲が広がると同時に、谷在家三丁目が設置される。
- 同日 - 谷在家町の一部に住居表示が実施され、皿沼二丁目に編入される。
- 1987年10月10日 - 谷在家町の残存地域に住居表示が実施され、西伊興一丁目に編入される。