「美空ひばり」を編集中
この編集を取り消せます。 下記の差分を確認して、本当に取り消していいか検証してください。よろしければ変更を公開して取り消しを完了してください。
最新版 | 編集中の文章 | ||
102行目: | 102行目: | ||
1973年、実弟が起こした不祥事により<ref group="注釈">哲也は、1957年、[[小野透]]の芸名でひばりの全盛期には歌手デビューし、多くの[[東映]]映画に出演、主演を務めたこともあったが[[1962年]]に引退。元々ひばりの弟という売り込みでひばり関連の興行などで役者や間つなぎの歌手もこなしていたが、三代目山口組[[益田組]](組長は[[益田佳於]])の舎弟頭となっていた。翌[[1963年]]には賭博幇助容疑、[[賭博開帳図利]]等、1964年には拳銃不法所持、1966年には傷害、暴行、拳銃密輸、1972年には暴行で逮捕と刑事事件が続いていた。</ref>、加藤家と暴力団山口組および田岡との関係も問題視され、全国の公会堂や市民ホールから「暴力団組員の弟を出演させるなら出させない」と使用拒否されるなど、バッシングが起こりマスコミも大々的に取り上げた。しかし、ひばり母子は家族の絆は大事だとし、哲也をはずすことはなかった。この結果、1973年末、17回出場し1963年から10年連続で紅組トリを務めていた[[NHK紅白歌合戦|紅白歌合戦]]への出場を辞退した<ref group="注釈">事実上は落選。この頃NHKには「ひばりを出すな」という苦情も多く来ており、また数年ヒット曲に乏しかったこともあって理事会ではほぼ満場一致で決まったという。</ref>。そのためこの年から数年間、[[大晦日]]は日本教育テレビ(現:[[テレビ朝日]])の取り計らいで、同局『美空ひばりショー』に出演した。以後、[[日本放送協会|NHK]]からオファーが来ても断り続けた。1977年、当時の同局の人気番組であった『[[ビッグショー (テレビ番組)|ビッグ・ショー]]』で4年ぶりにNHK番組に出演し、関係を修復した。しかし紅白に正式な出場歌手として復帰することはなかった<ref group="注釈">ただし、1979年の第30回には[[藤山一郎]]と特別出演、『[[ひばりのマドロスさん]]』、『[[リンゴ追分]]』、『[[人生一路]]』の3曲をメドレー形式で歌った。</ref>。 |
1973年、実弟が起こした不祥事により<ref group="注釈">哲也は、1957年、[[小野透]]の芸名でひばりの全盛期には歌手デビューし、多くの[[東映]]映画に出演、主演を務めたこともあったが[[1962年]]に引退。元々ひばりの弟という売り込みでひばり関連の興行などで役者や間つなぎの歌手もこなしていたが、三代目山口組[[益田組]](組長は[[益田佳於]])の舎弟頭となっていた。翌[[1963年]]には賭博幇助容疑、[[賭博開帳図利]]等、1964年には拳銃不法所持、1966年には傷害、暴行、拳銃密輸、1972年には暴行で逮捕と刑事事件が続いていた。</ref>、加藤家と暴力団山口組および田岡との関係も問題視され、全国の公会堂や市民ホールから「暴力団組員の弟を出演させるなら出させない」と使用拒否されるなど、バッシングが起こりマスコミも大々的に取り上げた。しかし、ひばり母子は家族の絆は大事だとし、哲也をはずすことはなかった。この結果、1973年末、17回出場し1963年から10年連続で紅組トリを務めていた[[NHK紅白歌合戦|紅白歌合戦]]への出場を辞退した<ref group="注釈">事実上は落選。この頃NHKには「ひばりを出すな」という苦情も多く来ており、また数年ヒット曲に乏しかったこともあって理事会ではほぼ満場一致で決まったという。</ref>。そのためこの年から数年間、[[大晦日]]は日本教育テレビ(現:[[テレビ朝日]])の取り計らいで、同局『美空ひばりショー』に出演した。以後、[[日本放送協会|NHK]]からオファーが来ても断り続けた。1977年、当時の同局の人気番組であった『[[ビッグショー (テレビ番組)|ビッグ・ショー]]』で4年ぶりにNHK番組に出演し、関係を修復した。しかし紅白に正式な出場歌手として復帰することはなかった<ref group="注釈">ただし、1979年の第30回には[[藤山一郎]]と特別出演、『[[ひばりのマドロスさん]]』、『[[リンゴ追分]]』、『[[人生一路]]』の3曲をメドレー形式で歌った。</ref>。 |
||
1970年代~1980年代前半のひばりは大きなヒット曲には恵まれなかったものの、この時代に入ると幅広いジャンルの楽曲を自らのスタイルで数多くのテレビ番組やレコードなどで発表し、歌手としての再評価を受けることとなる。[[岡林信康]]( |
1970年代~1980年代前半のひばりは大きなヒット曲には恵まれなかったものの、この時代に入ると幅広いジャンルの楽曲を自らのスタイルで数多くのテレビ番組やレコードなどで発表し、歌手としての再評価を受けることとなる。[[岡林信康]](「月の夜汽車」〈1975年〉)、[[来生たかお]](「[[笑ってよムーンライト]]」〈1983年〉)、[[イルカ (歌手)|イルカ]](「[[夢ひとり]]」〈1985年〉)、[[小椋佳]](「[[愛燦燦 (美空ひばりの曲)|愛燦燦]]」〈1986年〉)など、時代の話題のアーティスト・クリエイターなどとのコラボレートもしばしば行われた。また、新曲のキャンペーン活動にもこの時代には活発に参加するようになり、[[1980年]]には誰もが唄える歌として発表した『[[おまえに惚れた]]』は、この地道な活動が功を奏す形で久々のヒット曲となった。また[[1982年]]には、『[[裏町酒場]]』もロング・ヒットを記録する。 |
||
しかし1980年代に入り、1981年には |
しかし1980年代に入り、1981年には実母が転移性[[脳腫瘍]]により68歳で死去。同年に行われた芸能生活35周年記念リサイタルは、実母が危篤状態の中行われたものである。<ref>{{Cite web|和書|title=美空ひばり公式ウェブサイト » 1980年代|url=http://www.misorahibari.com/?profile_list=1980|accessdate=2020-01-25|language=ja}}</ref> また、父親の代わりを担っていた田岡も相次いで死去した。1982年には親友の江利チエミが45歳で急死し、1984年は「[[銭形平次 (大川橋蔵)|銭形平次]]」で18年間主役を演じ、同番組の最終回にひばりが特別出演する等親交のあった[[大川橋蔵 (2代目)|大川橋蔵]]も55歳で死去した。さらには、ひばりの2人の実弟哲也(1983年)と[[香山武彦]](1986年)まで、共に42歳の若さで次々と肉親を亡くすという悲運が続いた。ひばりは[[加藤和也 (ひばりプロダクション)|加藤和也]]を1977年に養子として迎えていたが、悲しみ・寂しさを癒やすために嗜んでいた[[酒]]と[[喫煙|タバコ]]の量は日に日に増加し、徐々にひばりの体を蝕んでいった。 |
||
=== 晩年・病魔との闘い === |
=== 晩年・病魔との闘い === |