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|説明2 = 久昌寺墓地(一番右が吉乃の墓)
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[[尾張国]]と[[生駒氏美濃国]]の国境付近で両国の通商に携わっていた[[生駒家宗]](八右衛門)(蔵人)長女娘{{Sfn|原田|2020|p=52}}。([[江南市|愛知県江南市]]出身)『[[前野家文書]]』は初めの夫を土田弥平次とする。[[弘治 (日本)|弘治]]2年([[1556年]])に夫が戦死し、実家に戻っていた後に信長の側室となったとされる。信雄・徳姫(所説有り)を産んだとされるが、生駒家以外の記録に残るのは信雄のみである。信忠生母は不明。その後産後の肥立ちが悪く若くして亡くなったとされる。享年39歳(29歳という説もあり)。この辺りは家譜であり創作も含まれるとされる前田家文書(武功夜話)による部分である。香華料として菩提寺の[[久昌寺 (江南市)|久昌寺]]に[[石高|660石]]が贈られた。その後、豊臣秀吉にも保護され、江戸時代は織田家(信雄流)[[柏原藩]]により度々法要が営まれていた。
 
菩提寺の久昌寺と荼毘地(江南市田代墓地)に墓碑が存在する。
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== 諸史料における記述の相違 ==
=== 名前について ===
通常の史料では「'''生駒家宗女'''」と書かれている。後世の『[[前野家文書]]』中の軍記物『[[武功夜話]]』が用いるでは'''吉乃'''(吉野){{Sfn|原田|2020|p=52}}。これは作者の造語で、生駒家には伝わっておらず、当時そのように呼ばれていた事実はない。生駒家には「'''類'''」という名が伝承され、そちらが正式名と推察されているともいわれるが、生駒家の子孫によれば、「吉乃」「類」とも小説上の造語で、同家の多くの古文書にその様な記載は無い。
 
戒名の「久菴桂昌大禅定尼」から、江戸初期から末期までの生駒家の文書では「'''桂昌(尼)'''」と記されており、大正時代~戦前は「'''久菴'''」と呼ばれていた<ref>{{Cite web|和書|publisher=一般社団法人 生駒屋敷 歴史文庫|title=君の名は希望 =久菴とは、濃姫とは=|url=http://www.ikoma-yashiki.com/?p=322|accessdate=2021-8-29}}</ref>。
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=== 実家生駒家について ===
実家の生駒家は[[馬借]]を家業としていたといわれるが、子孫によれば、生駒家は商売をしておらず、「記録に残るものでは武家であり、武家のやり取り(手紙)であり、商売の記録は皆無」である。先代当主が『[[武功夜話]]』の作者から「もし、生駒家が商売をしていたとしたら、何が考えられますか」と質問され、「馬借」の「護衛」ならあり得るかもと語ったとされるがこれも確証は無い。
 
屋敷は近隣はもとより遠方からも多種多様な人の集まる場所となっており、信長は生駒氏の冨と財力と情報力を求めて近づいたともいわれている。
 
前述の通り、父・蔵人は通商に従事していたことから[[川並衆]](水運業者)の[[蜂須賀正勝]](小六)とその義兄弟の[[前野長康]](将右衛門)交流が有り、あった{{Sfn|原田|2020|p=52}}。また放浪時代の[[豊臣秀吉|木下藤吉郎]]が出入りしていた時に吉乃に信長とのつてを頼り小者として奉公したとの説がある。
 
=== 最初の夫「土田弥平次」について ===
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{{脚注ヘルプ}}
{{reflist}}
 
== 参考文献 ==
* {{Citation|和書|date=2020-03-25|title=偽書が揺るがせた日本史|editor=[[原田実 (作家)|原田実]]|publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4-634-15163-5|ref={{SfnRef|原田|2020}}}}([[電子書籍|電子版]]あり)
 
== 外部リンク ==