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'''松井 秀喜'''(まつい ひでき、[[1974年]][[6月12日]]{{R|365日157}} - )は、[[石川県]][[能美郡]][[根上町]](現:[[能美市]])出身の元[[プロ野球選手]]([[外野手]]、右投左打)。
現役引退後は[[メジャーリーグベースボール|MLB]]の[[ニューヨーク・ヤンキース]]で[[ゼネラルマネージャー#スポーツにおけるゼネラルマネージャー|GM]]特別アドバイザーを務める。愛称は「'''ゴジラ'''」。
[[1990年代]]から[[2000年代]]の球界を代表する打者で、[[日本プロ野球]](以下:NPB)では[[読売ジャイアンツ]]、[[メジャーリーグベースボール]](以下:MLB)では[[ニューヨーク・ヤンキース]]などで活躍した。2009年のニューヨーク・ヤンキース時代に[[ワールドシリーズ]]優勝を経験している。同年、[[アジア系民族|アジア人]]初の[[ワールドシリーズ最優秀選手賞|ワールドシリーズMVP]]を受賞した。2013年には[[国民栄誉賞]]を受賞した。
== 経歴 ==
=== 生い立ち ===
1974年6月12日に、[[瑠璃教会]]二代目[[司教]]である父・[[松井昌雄|昌雄]]<ref>{{Cite web ja |url=https://www.zakzak.co.jp/article/20170629-EWU3V6TOPNN53E3U2S2YACQREU/ |title=NYに住む孫は息子と同じ思いやりの子 保育園では友達と英語で会話…早くも“バイリンガル” (1/2ページ) |
3歳で自宅近くの[[保育所|保育園]]に入園。「保育園史上最大の園児」と言われた。当時の保育園の先生は「8歳ぐらいに見えました」と語っている<ref>広岡(2002)p17</ref>。
=== 小学時代 ===
==== 少年野球チームへ ====
体格が一際大きかったため、[[根上町]]立浜[[小学校]]1年生の時に3年生以上で構成される[[軟式野球]][[チーム]]「根上少年野球クラブ」に、当時5年生であった兄が所属していた縁で特別に入団させてもらったが、まだ幼すぎて監督の指示などが理解できず、入団1週間で指導者の方から、両親に「(チームに入るのは)もう少し待ってほしい」と言われたようで野球を辞めてしまった<ref name="logmi20201123">[https://logmi.jp/business/articles/323775 松井秀喜氏が振り返る“野球人生”初の挫折 今でも忘れない、チームを辞めさせられた悔しさ・寂しさ] logmi Biz 2020年11月23日開催 (2023年1月19日閲覧)</ref>。4年生の時に父から再入団を勧められるが、幼少時のショックは大きく、拒否している<ref name="asahi20021102">朝日新聞
しかし、野球に打ち込む3歳上の兄に触発され、小学5年生の[[夏休み]]に再び軟式野球チームに入り、本格的に野球を始めた。自分を辞めさせた指導者から代替わりしていたことから、その後任の指導者の勧誘に応じた{{R|logmi20201123}}。その頃から、既にプロ[[野球選手]]を夢見ていた{{R|
==== 左打ちへの転向 ====
元々は右打ちであったが、あまりにも打球を飛ばすために野球仲間であった兄とその友人が松井を打てなくする目的で「尊敬する[[掛布雅之]]選手(松井は当時は[[阪神ファン]]だった)と同じ左」で打つように強引に勧められ、左打ちに変更した{{Efn|兄は左投左打である。}}{{Efn|掛布も右利き(後に左利き)の左打ちである。}}<ref>{{Cite
==== 野球以外での活躍 ====
小学3年からは町の少年[[柔道]]教室にも通い始める。能美郡大会で優勝、石川県大会では3位に入り、国体強化選手にも選ばれていた。松井は「野球よりも注目されていたんです。立ってよし、寝てよし。石川県では結構、強かったんですよ」と自慢している<ref name="sanspo20040108">阿見俊輔(2004-02-08)[https://web.archive.org/web/20040208200706/http://www.sanspo.com/mlb/top/mt200401/mt2004010802.html 松井秀、チームメートに乱闘用柔道伝授]
柔道の他に、わんぱく[[相撲]]大会でも活躍していた<ref name="sponichi20100709">(2010-07-09)
これらスポーツでの活躍のほか、実家の[[ピアノ]]も[[演奏]]する。
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==== メジャーリーグへの憧れ ====
中学時代から[[衛星放送]]でMLBの試合を熱心に見るようになった。その当時に憧れていた球団は、当時[[ホセ・カンセコ]]、[[マーク・マグワイア]]らを擁して黄金期を迎え、後に松井自身が入団することになる[[オークランド・アスレチックス]]であったという<ref name="hochi20101213">[https://megalodon.jp/2010-1216-0012-43/hochi.yomiuri.co.jp/mlb/news/20101213-OHT1T00235.htm 松井が初めて買ったメジャーの帽子は憧れのA's]
=== 高校時代 ===
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当初太り過ぎていたため入部は保留されていたが、地道なランニングによる減量で入部に漕ぎ付けて事無きを得た。
ちなみに星稜高校出身のプロ野球選手では2021年に[[島内宏明]]がプロ野球で打点王の打撃タイトルをとるまでは松井が最後の打撃タイトルの獲得者と言われており、引き合いに出されることもある<ref>{{Cite web
==== 高校1年生、恐怖の1年生4番 ====
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新チームでは監督の山下にキャプテンに指名される。星稜では毎年キャプテンは部員による投票によって選んでいたが、山下が松井の統率力や影響力を高く評価していたため、特例として任命したのだという<ref>赤木(2002)p138</ref>。
秋の[[第22回明治神宮野球大会|明治神宮大会]]では帝京相手に全6打席中4敬遠をされたが優勝している<ref>{{Cite web
また、高校生選抜チームに2年生としては後に巨人で同僚になる[[三澤興一]]([[帝京中学校・高等学校|帝京高]])と共に選出され、1年先輩で後にプロ入りした[[髙木大成]]([[桐蔭学園高等学校|桐蔭学園高]])・[[大野倫]]([[沖縄県立沖縄水産高等学校|沖縄水産高]])・[[萩原誠]]([[大阪桐蔭中学校・高等学校|大阪桐蔭高]])等にその怪物ぶりを賞賛されている。大野は雑誌のインタビューで「星稜の松井は怪物」と答え、萩原はこの年の高校生打者のドラフトの目玉とされていたが、「自分のホームランなんて松井に比べたら大したものではない」とのコメントを残している。
==== 高校3年生、5打席連続敬遠 ====
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==== 高校通算成績 ====
高校通算打率は.450、本塁打は60本。夏の県大会では、当時としては石川の1大会の最高記録となる4本塁打を三大会連続で記録している{{Efn|なお、この記録は2018年に同じ星稜高校の南保良太郎が5本塁打を打って記録を塗り替えている<ref>{{Cite web
ちなみに、「柵越えしたものがホームラン」という松井のこだわりから、ランニングホームランは数に含まれていない。ライナー性の弾道で甲子園球場のバックスクリーンに運ぶ並外れたパワーや、打撃練習であまりにも柵越えを連発するため練習場のライトフェンス後方に特別のネットが取り付けられるなど、桁外れの話題性から「20年に1人の怪物」と言われていた。
==== 日米韓親善高校野球大会 ====
9月には[[大韓民国]]・[[ソウル特別市|ソウル]] で行われた日米韓3国親善高校野球大会に日本代表の一員として出場した<ref>[[朝日新聞]]
松井は米国側からも大きな注目を浴びており、同大会に米国代表として出場していた[[トリー・ハンター]]は、「まず驚いたのは彼は高校生なのにあり得ないくらい大勢のマスコミを引き連れていたことだ。当時ボクは16歳でマツイは17歳。その高校生を巡ってロックスターを取り囲むような騒ぎになるなんて、一体どんな怪物?だと思っていた。それがマツイだったんだよ」と語っている<ref>鉄矢多美子
==== ドラフト前 ====
その年のドラフト会議の目玉となった松井には報道陣が殺到し、11月になると星稜高校の校門前に毎日多くの記者やカメラマンが待機するようになった。「このままドラフト本番を迎えれば、えらい騒ぎになる」との声が地元で上がり始め、ドラフト前には異例の「報道規制」が敷かれた<ref>朝日新聞
ドラフト会議前には憧れの球団である[[阪神タイガース]]の他は、準地元である[[中日ドラゴンズ]]に加え[[読売ジャイアンツ]]、[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]までを希望に絞り、その他の球団から指名された場合は[[駒澤大学]]へ進学することを示唆していた<ref name="tokushu3">[https://www.jiji.com/jc/v2?id=091103matsu_hideki_03 特集 松井秀喜【3】第二次長嶋政権の中心選手へ]. 時事ドットコム(2009年11月3日付)</ref>。
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13シーズンぶりに巨人監督に復帰した[[長嶋茂雄]]が、[[中日ドラゴンズ]]、[[阪神タイガース]]、[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]との抽選の末、松井の交渉権を引き当てた。
当時の松井は本心では阪神入りを熱望しており、ラジオで交渉権が巨人に決まったことを知ると、記者会見で複雑な表情を浮かべ、「阪神に行きたい、という希望がありましたから。まだ整理もついていないけどその気持ちも次第に薄れていくと思う」と語った<ref>朝日新聞大阪版
==== 長嶋からのラブコール ====
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==== 巨人1年目 ====
'''{{by|1993年}}'''、プロ初のキャンプでは150メートル級の場外弾を連発。キャンプ2日目にはフリー打撃で13本の柵越えを放ち、「こんな高校生、見たことがない」とコーチに言わしめた<ref>朝日新聞
高校時代は[[三塁手]]であったが、長嶋が[[外野手]]へとコンバートさせた。
===== プロ初打席 =====
2月28日の[[オープン戦]]でプロ初打席を迎え、当時ヤクルトに所属していた一つ上の[[石井一久]]と対戦するもカーブで[[三振]]となり、その時は焦りや恐怖を感じたという<ref>{{Cite web
その後もプロの投球の速球に手こずり<ref>朝日新聞
===== 二軍落ちと一軍復帰 =====
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初打席は[[西村龍次]]からセカンドゴロ。2打席目には同じく西村からライトフェンス直撃の二塁打を放ち、初安打初打点を記録。
翌日の試合の東京ドームの対ヤクルト戦では、9回裏に[[高津臣吾]]から内角の直球をライトスタンド中段に運びプロ入り初[[本塁打]]<ref>{{Cite
その後は各球団のマークに遭い、6月には二軍に降格するが、7月のフレッシュオールスターに出場して優秀選手賞を獲得し<ref>{{Cite web
オフの契約更改では1060万円増の1900万円でサイン。目標の2000万円には届かず、会見では渋い表情を見せた<ref>朝日新聞
==== 巨人2年目 ====
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'''{{by|1996年}}'''は自身初の開幕4番スタートだったが、5月からは[[落合博満]]が4番に返り咲き、松井は3番に戻った。
その後チームの上昇と共に成績も上昇し、夏場には7月、8月と2か月連続で月間MVPを獲得するなど、[[メークドラマ|大逆転優勝]]に大きく貢献。初のセ・リーグ[[最優秀選手 (野球)|MVP]]を受賞した。これは当時としては最年少記録であった<ref>{{Cite web
リーグ最終戦まで[[山﨑武司]]、[[大豊泰昭]]と[[最多本塁打 (日本プロ野球)|本塁打王]]を争っていたが、山
それでも、'''22歳での38本塁打は[[王貞治]]に並ぶ年齢別最多本塁打'''記録。また、同一投手からのシーズン最多本塁打のタイ記録の7本塁打を[[斎藤隆 (野球)|斎藤隆]]から放った。この年の斎藤隆との対戦成績は25打数7安打で、安打のすべてが本塁打であった。
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最終的に130試合に出場し、打率.314、38本塁打、99打点の成績を残した。
この年は日米野球に出場し、敬遠されたことでも話題になった<ref>{{Cite web ja |url=https://web.archive.org/web/20091108133519/http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_09november/KFullNormal20091101242.html |title=【11月6日】1996年(平8) 「デンジヤラスな打者」松井秀喜、メジャーが敬遠(野球) |website=スポーツニッポン |date= |accessdate=2009-11-08}}</ref>。なお、この時の松井の敬遠以降は日米野球では日本の打者が敬遠されることは長らくなく、2014年に[[松田宣浩]]がされるまでなかったという<ref>{{Cite web
契約更改では倍増の1億6000万円で一発サインした。高卒選手では[[イチロー]]と並ぶ史上最短(当時)の入団4年目で1億円プレーヤーの仲間入りを果たした<ref>朝日新聞
==== 巨人5年目 ====
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===== 左膝の故障 =====
'''{{by|1998年}}'''は春季キャンプ中に左膝を痛め<ref>朝日新聞
4月は打率.190、2本塁打に終わり、5月2日には清原和博に4番の座を奪われた。
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==== 巨人7年目 ====
'''{{by|1999年}}'''は前年の[[日米野球]]で[[サミー・ソーサ]]からアドバイスを受け、シーズン前に広角に打つことを意識したフォームに改造<ref>朝日新聞
6月5日の横浜戦から6月10日の中日戦まで5試合連続本塁打を記録する。9月21日の阪神戦では通算200本塁打を達成。
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7月のオールスター第1戦では4試合連続本塁打(新記録)を放ったが、第3戦で代打出場した際にわき腹を痛め、7月30日の広島戦で遂に先発メンバーから外れた。この時点で現役最多だった連続フルイニング出場が574試合(当時歴代3位)で止まる。
長嶋が松井に負担のかからない形で連続試合出場記録を尊重することを決め<ref>朝日新聞
このケガの影響が響いて[[ロベルト・ペタジーニ]]と2本差で本塁打王を逃すことになるが自己最高の42本塁打を記録。日本人のシーズン40本塁打は1989年の落合博満以来10年ぶり、巨人では1977年の王貞治以来22年ぶりの快挙であった。
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'''{{by|2000年}}'''は開幕から4番打者を務め、以後日本シリーズ、日米野球なども含めて、他の打者に4番を譲ることはなかった。
右小指をグリップにかける打法に変えたことで、あまり強くバットを握らずにリラックスして構えられるようになったことで打撃は凄味を増し、シーズン半ばまでは三冠王を狙える勢いで打ち続けた<ref>朝日新聞
7月12日の広島戦で通算1000本安打を達成。最終的に135試合全イニングで4番打者を務め、いずれも自己最高の打率.316、42本塁打、108打点を記録。シーズン全試合4番出場は巨人では{{by|1950年}}の川上哲治以来50年ぶりの記録だった。本塁打王、打点王、最高出塁率、シーズンMVP、日本シリーズMVP、ゴールデングラブ賞を受賞し、巨人の日本一の立役者となった。
なお、この年の日本シリーズMVP受賞によって川上哲治、[[大下弘]]、[[福本豊]]、[[トーマス・オマリー]]、[[古田敦也]]に次ぐ史上6人目の「レギュラーシーズン、オールスター戦、日本シリーズにおけるMVP獲得者」となった。プロ野球界に最も貢献した人物に贈られる[[正力松太郎賞]]も初受賞した<ref>朝日新聞
同年の[[日米野球]]では、MLB選抜である[[ボビー・コックス]]に「ゴジラはいいねえ。バットスイングが速い」と称賛された。この時点では「大リーグなんて、そんな」とMLB挑戦に否定的だったが、「野球をやっていて、大リーグを全然考えないと言ったら、うそになるかもしれません」と2年後のFA移籍に含みを持たせた<ref>朝日新聞
11月21日には[[石川県]]県民栄誉賞を受賞した<ref>朝日新聞石川版
契約更改では、松井のMLB移籍を危惧した球団側が8年総額56億円という破格の長期大型契約を持ちかけたが<ref name="asahi20011225">朝日新聞
==== 巨人9年目 ====
'''{{by|2001年}}'''4月12日の中日戦に1000試合目の出場で通算250本塁打を達成。5月3日の中日戦で当時史上5人目の1000試合連続試合出場を達成<ref>朝日新聞
9月27日、広島カープ戦で自身初の1試合3本塁打(3打数連続)<ref>[http://www.sanspo.com/mlb/japanese/matsui-h/profile.html 松井秀喜]</ref>を記録するなど9月は打撃好調で月間MVPを受賞した。
この年、初の[[首位打者 (日本プロ野球)|首位打者]]のタイトルを獲得したが、全イニング出場での首位打者は王貞治、イチローに次ぐ史上3人目の快挙となった<ref>{{Cite web
一方で、本塁打数はなかなか伸びず、20号本塁打を放ったのは8月7日であった。8月まで年間30本に届かないペースで推移していたが、9月にようやく量産体制に入ると、自身初の1試合3本塁打を含む月間11本塁打と巻き返したが、最終的な本数は36本とやや数を落とした。本塁打王のタイトルは当時本塁打王争いをしていたペタジーニに再び奪還される。
この年の松井は、打球が上がらずに本塁打が出ないという悩みに悩まされていた。この年の打撃について、松井は後に「あの年首位打者を取ったけど、打撃は最後まで狂ったままだった」と語っている<ref>[https://web.archive.org/web/20061005050417/http://www.hokkoku.co.jp/_today/godzilla/tsuusin/godzilla20041023.htm 松井通信 2004年10月23日 まだ野球したい スタジアムでロッカー整理]
[[フリーエージェント (プロスポーツ)|FA]]権獲得が翌年に迫る中、下交渉では球団から5年総額50億円の大型複数年契約を提示されたが{{R|asahi20011225}}、これを断り当時プロ野球史上最高額となる年俸6億1000万円(後に、佐々木主浩が更新)で単年契約した。契約更改後の会見では、来期にFA権を行使することを明言し、「このまま巨人に残るか、アメリカに行ってみるか二者択一になる」と語った<ref>朝日新聞
==== 巨人10年目(最終年) ====
'''{{by|2002年}}'''は開幕前、巨人がビジター用ユニフォームの胸ロゴを「TOKYO」から「YOMIURI」に変更したことについて、「なぜ巨人の伝統を大事にしないのかなぁ」と松井がコメントしたと[[スポーツ報知]]が報じ、オーナーの[[渡邉恒雄]]が激怒するという騒動があった。記事を執筆した記者の[[広岡勲]](後の松井の専属広報)が巨人担当を外れることで事態は収拾した<ref name="cyzo">大熊信(2011-12-18). [https://www.cyzo.com/2011/12/post_9318_entry.html もう、テレビで野球は見れないのか? "独裁運営"ナベツネに殺された「巨人戦中継」]. 日刊サイゾー. 2012年1月12日閲覧</ref>。
「日本一」「三冠王」の2つを目標に掲げて10年目のシーズンをスタート<ref>朝日新聞
7月9日に[[黒田博樹]]から通算300号本塁打を放つ。28歳0か月での到達は王貞治の27歳3か月に次ぐ史上2番目の年少記録であり、1200試合目での達成は史上6番目の速さであった<ref>朝日新聞
また、8月1日には4番打者としての連続出場を363試合に伸ばし、[[石井浩郎]]の記録を抜き当時の単独1位(後に、[[金本知憲]]が更新)となった。
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シーズン終盤までは打率3割5分台を維持し、[[三冠 (野球)|三冠王]]目前だったが、シーズン終盤に調子を落とし、首位打者争いで[[福留孝介]]にタイトルを譲った。
打率、本塁打、出塁率では自己最高の成績で、本塁打王、打点王、最高出塁率、シーズンMVP{{Efn|有効投票数201のうち、1位票が200票、2位票が1票であり、リーグ史上4人目(6例目)の満票選出を僅差で逃した<ref>{{Cite web
なお、巨人では2002年以降、2020年に[[岡本和真]]が本塁打王になるまでの18年間にわたって、日本人選手で本塁打王を獲得する選手は現れなかった。また、巨人の日本人左打者の40本塁打以上の選手及び打点王は2010年に[[阿部慎之助]]が44本塁打を記録、2012年に打点王を獲得するまで現れなかった。
===== 巨人残留か、MLB挑戦か =====
レギュラーシーズン終了後の10月11日には監督の原と<ref>朝日新聞
10月18日には、[[ニューヨーク・タイムズ]]紙で[[ニューヨーク・ヤンキース]]が松井の獲得を狙っていることが報じられた<ref>朝日新聞
[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]との[[2002年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では、松井の安打数は4本に留まったが、チームは1990年の西武以来12年ぶりで球団(巨人として)初の4連勝のストレート勝ち(4勝0敗)で西武を下し、日本一の栄冠に輝いた。なお2012年にMLBで引退したため、この日本シリーズが自身にとって現役時代最後の日本シリーズ出場となった。
===== MLB挑戦を表明 =====
11月1日にFA権を行使してMLBへの挑戦を表明した。「最後の最後まで悩んで苦しかった。何を言っても裏切り者と言われるかもしれないが、いつか『松井、行ってよかったな』と言われるよう頑張りたい。決断した以上は命を懸ける」と決意を語った<ref>朝日新聞
松井はFA宣言をするときに自らを「裏切り者」と発言し、松井の危惧の通り、裏切り者だと考えるジャイアンツファンは一定数存在したが、日本球界全体では松井の成功を祈っていた。むしろ彼がそれだけプロ野球ファンのことを考えている証左だとする賞賛の声や、移籍決断に至るまでの彼の苦悩に対して同情する声は決して少なくないばかりか逆に多かった{{R|asahi20021102}}<ref>朝日新聞
球団関係者は沈痛な面持ちで「球界の財産である松井選手のアメリカ(MLB)への流出を防ぐことができず、応援してくださるファン皆さんには何とお詫びしたらいいか……」と、まるで不祥事でも起こしたようなコメントを残した。
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'''{{by|2003年}}'''1月14日にニューヨーク市内のホテルで行われた入団会見には、約300人の報道陣に加え、球団社長の{{仮リンク|ランディ・レバイン|en|Randy Levine}}、監督の[[ジョー・トーリ]]、[[ロジャー・クレメンス]]、ニューヨーク市長の[[マイケル・ブルームバーグ]]らも出席した<ref>[https://megalodon.jp/2012-0114-0302-27/sportiva.shueisha.co.jp/clm/mlb/2012/01/14/post_26/ 【今日は何の日?】松井秀喜がヤンキース入団会見]. sportiva(2012年1月14日付). 2012年1月14日閲覧</ref>。
松井は「ヤンキースはメジャーの中でも素晴らしい伝統がある。素晴らしいプレーヤーがたくさん在籍した球団。自分の中でも一番刺激があるチームで自分の力を存分に発揮したかった」と語った<ref>[https://web.archive.org/web/20090422164637/http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_08december/KFullNormal20081201193.html 破格の25億円!松井秀喜、念願のヤンキース入り決定!]
巨人からFA権を行使して移籍したのは1994年の[[駒田徳広]](横浜へ移籍)以来2人目であった。海外FAは巨人史上初。ヤンキース史上初のアジア人打者(日本人で初めてヤンキースとメジャー契約したのは投手である[[伊良部秀輝]])である。
330行目:
===== MLBオールスターゲーム出場 =====
7月に行われた[[2003年のMLBオールスターゲーム|MLBオールスターゲーム]]にファン投票のア・リーグ外野手部門で3位に入り初出場を果たした。日本人では1995年の[[野茂英雄]]、2001年の[[イチロー]]、[[佐々木主浩]]に続く4人目のオールスターゲーム出場となった。しかし、日本からの[[組織票]]に助けられた{{要出典|date=2021年7月}}形での選出で、現地メディアでは批判が起こり、試合ではスタメン出場を果たし1安打を放ったものの、ブーイングを浴びせられた<ref>http://mlb.mlb.com/video/play.jsp?content_id=9912291&c_id=mlb</ref>。また、スター選手とのバット交換用に日本から24本のバットを取り寄せたが、誰にも声をかけることができず、全て持ち帰った<ref>田代学、阿見俊輔、河野聖
===== シーズン後半 =====
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レギュラーシーズンでは雨天引き分けによる再試合があったため、新人かつヤンキースの選手としては21世紀になって初めてシーズン163試合に出場した選手となった。しかし、本塁打数はわずか16本と、期待外れの結果に終わった。
それでも、[[打率#得点圏打率|得点圏打率]]はチーム最高の.335、打点は主砲の[[ジェイソン・ジアンビ]]に1差となるチーム2位の106打点を叩き出し、勝負強さを発揮した。
シーズン通算で打率.287、16本塁打、106打点を挙げたがア・リーグ[[最優秀新人選手賞 (MLB)|新人王]]には選ばれなかった。打率.287、17本塁打、73打点、21盗塁を記録したロイヤルズの[[アンヘル・ベローア]]がア・リーグ新人王を獲得した。これに対して当時ヤンキースオーナーの[[ジョージ・スタインブレナー]]は「酷い不正」「全米野球記者協会、そして何年もの間彼らが球界に貢献してくれたことについて、私は多大な敬意を持っている。その一方で、ヒデキ・マツイに対して酷い不正が行われたと確信している」と声明文を出している<ref>{{Cite web
==== ヤンキース2年目 ====
'''{{by|2004年}}'''は前年16本塁打に終わったことを反省し、オフに大幅な筋肉増量に取り組んだ。そのため松井の身体、特に上半身は一回り大きくなった<ref>[https://web.archive.org/web/20061005043257/http://www.hokkoku.co.jp/_today/godzilla/tsuusin/godzilla20040222.htm 松井通信 2004年2月22日 本塁打量産へ「大きく」進化 上半身さらに厚く]
それが功を奏し、重心の位置を下げてスタンスを広めにしたことにより<ref>[http://sportsnavi.yahoo.co.jp/baseball/mlb/04season/japangame/column/hara04.html 愛弟子・松井秀喜に託す夢とは? 原辰徳 独占インタビュー] {{Wayback |url=http://sportsnavi.yahoo.co.jp/baseball/mlb/04season/japangame/column/hara04.html |date=20050307232948
東京ドームで行われた[[タンパベイ・レイズ|タンパベイ・デビルレイズ]]との日本開幕戦に先立って開催されたヤンキースと巨人の親善試合では凱旋本塁打を放つ。デビルレイズとの開幕2連戦では「2番・左翼」でフル出場し、2戦目には日本のファンの前で第1号本塁打を放った。
359行目:
本土開幕戦以降は61打席本塁打なしであったが、4月24日のレッドソックス戦では、観戦に訪れた両親が見守る中で第2号本塁打を放ち、NPB・MLB通算350本塁打を達成。その後は前年より大幅に速いペースで本塁打を量産し、6月4日には、前年より41試合早い53試合目で10号本塁打に到達。5月最終週には二度目の週間MVPも受賞した。
6月19日、20日の[[ロサンゼルス・ドジャース]]戦ではメジャー移籍後初の2試合連続本塁打を放った。前半戦だけで前年を上回る17本塁打に到達。[[2004年のMLBオールスターゲーム|オールスターゲーム]]にはファン投票外野手部門での選出こそ逃したが、[[オールスターゲーム最終投票|最終投票]]で120万票を集めて選出され、2年連続で出場を果たした。トーリ監督からはホームランダービーへの参加を打診されたが、「僕が出たらビールの缶が飛んでくる」と辞退した<ref>[https://web.archive.org/web/20090522130222/http://www.hokkoku.co.jp/_today/godzilla/tsuusin/godzilla20040713.htm 松井通信 2004年7月13日 ホームラン競争を辞退 米球宴前夜祭 「僕が出たらビール缶飛んでくる」]
球宴明けの7月15日にはNPB・MLB通算1500試合連続出場に達した。8月7日の[[トロント・ブルージェイズ]]戦でMLB移籍後初の2打席連続本塁打を放った。15日の[[シアトル・マリナーズ]]戦で前年のワールドシリーズ以来の4番に座ると、シーズン後半には4番打者に定着した。
391行目:
'''{{by|2006年}}'''は開幕前に行われた[[2006 ワールド・ベースボール・クラシック|ワールド・ベースボール・クラシック]]の出場を辞退してシーズンに備えた。
しかし[[スプリングトレーニング]]で古傷の左膝痛が再発したり、持病の[[花粉症]]に悩まされるなど、万全とは言えない状態であり、本人も「正直よくない」と不安を漏らしていたが<ref>[https://web.archive.org/web/20061005040606/http://www.hokkoku.co.jp/_today/godzilla/tsuusin/godzilla20060331.htm 松井通信 2006年3月31日 無安打、振るわず 開幕に不安「正直よくない」]
4月18日にはデビュー以来500試合連続出場を達成。
405行目:
===== 骨折からの復帰 =====
8月17日には98日ぶりにベンチ入りし、30日にはフリー打撃を再開した。9月12日のデビルレイズ戦に8番・[[指名打者]]で124日ぶりに先発出場。満員の観衆から[[スタンディングオベーション]]で迎えられ、4打数4安打の活躍で復活を遂げた<ref>[
復帰後は14試合で打率.430を記録するなど好調で、最終的には51試合の出場ながら打率.302を記録した。チームも9年連続で地区優勝を果たしたが、[[デトロイト・タイガース]]との[[2006年のアメリカンリーグディビジョンシリーズ|ディビジョンシリーズ]]では16打数4安打、0本塁打、打点1と目立った活躍が出来ず、チームも2年連続でディビジョンシリーズ敗退となった。
418行目:
5月6日、本拠地でのマリナーズ戦で日本人メジャーリーガー2人目となるNPB・MLB通算2000本安打を達成。日本から駆けつけた[[日本プロ野球名球会|名球会]]会長の[[金田正一]]の目の前での快挙達成であり、名球会入りを果たした。当初は外野手の失策と記録されたが、後に二塁打に訂正され、直後判定に両チーム乱闘が起こった。
6月は打率.252、3本塁打、OPS.706と打撃不振に陥り、6月26日には地元紙から他4選手と共に、勝てない直接の原因として名指しされた<ref>[http://sportsnavi.yahoo.co.jp/baseball/mlb/column/200707/at00013784.html]{{リンク切れ|date=2020年2月 |bot=InternetArchiveBot}} 松井秀、揺らぎ始めた評価(1/2)不振でメディアから戦犯の一人に] スポーツナビ(2007年7月5日)</ref>。
7月に入ると一転して打撃好調で打ちまくり、出場28試合で打率.345、28打点、OPS1.145の成績。長打率.735、13本塁打{{Efn|月間13本塁打は、2023年現在、[[大谷翔平]]に次ぐ日本人のMLB月間2位の記録である。}}、31得点はリーグトップだった。8月2日には、7月のリーグ[[プレイヤー・オブ・ザ・マンス|月間MVP]]に選出された。
428行目:
シーズン成績は25本塁打・103打点と一定の数字を残し、打点を多く叩き出すため、ゲームのキャラクターのように打点をパクパク呑み込んでいく連想から、この年にはチーム内で「[[パックマン]]」という愛称がついた<ref>[https://megalodon.jp/2009-0320-1544-20/www.chunichi.co.jp/hokuriku/article/matsui/list/200708/CK2007082002042523.html 打点パクパク 松井秀の別名 ゴジラ→パックマン] [[中日新聞]](2007年8月20日)</ref>。
しかしながら、本人はオフのインタビューで「今季は失敗しかなかった。話になりませんよ」と振り返り、怪我や要所での凡退を繰り返したことに悔しさを滲ませた<ref>[http://hochi.yomiuri.co.jp/mlb/news/20071021-OHT1T00029.htm 松井秀「今季は失敗しかなかった」…独占インタビュー] {{Wayback |url=http://hochi.yomiuri.co.jp/mlb/news/20071021-OHT1T00029.htm |date=20071023073801
==== ヤンキース6年目 ====
434行目:
===== 結婚 =====
[[ファイル:Hideki Matsui in USA-6.jpg|thumb|280px|ヤンキース時代(2008年)]]
'''{{by|2008年}}'''3月26日に[[富山県]]出身の25歳日本人女性と[[アメリカ合衆国]][[ニューヨーク|ニューヨーク市]]内で挙式。翌日に新婦の似顔絵と共に記者会見を行い、結婚を報告した。相手が大手スポーツメーカーの元社長[[秘書]]と<ref>[https://www.news-postseven.com/archives/20240303_1945523.html?DETAIL 大谷翔平の「年下」結婚相手がオープンになる可能性は? 松井秀喜「妻の似顔絵公開のみ」との共通点、大きく異なる点とは|NEWSポストセブン]</ref>、元会社員で一般人のため、プライバシーを考慮して、顔写真や氏名は公表していない<ref>『[http://hochi.yomiuri.co.jp/mlb/news/20080327-OHT1T00121.htm 松井秀喜が結婚記者会見]
===== 不遇のシーズン =====
449行目:
チームのプレーオフ進出も困難になった9月後半からは再び控えに回り、21日の[[ヤンキー・スタジアム (1923年)|ヤンキー・スタジアム]]最終試合の先発出場を最後にシーズンを終えた。
9月22日に左膝の[[内視鏡#内視鏡手術|内視鏡手術]]に踏み切った。
最終的に打率は3割を下回る.294、安打数は99、本塁打も一桁の9本と寂しい成績に終わった。
475行目:
8月13日のマリナーズ戦では2本塁打を含む4安打5打点と爆発したが、直後に左膝の状態が悪化してシーズン初の連続欠場となった。
しかし復帰後の8月21日のレッドソックス戦にて3点本塁打を2本放つなどして自己最高の一試合7打点を記録。2日後のレッドソックス戦でも2本塁打を放つ活躍を見せた。こうして8月は中旬から比較的好調を維持して打率.281、8本塁打、25打点、OPS.918という成績を残し、勝負強い打撃を見せた選手に贈られる「[[クラッチ・パフォーマー賞]]」を贈られた<ref>[https://megalodon.jp/2009-0912-1338-36/www.sanspo.com/mlb/news/090910/mla0909100925008-n1.htm 松井秀、8月の受賞に「うれしい」]
9月19日のマリナーズ戦で26号本塁打を放ち、[[ドン・ベイラー]]を抜いて指名打者での年間最多本塁打の球団記録を更新。MLB移籍後2番目に多い28本塁打を放ち、チーム3位の90打点を叩き出す勝負強さで3年ぶりの地区優勝に貢献した。
レギュラーシーズン全日程終了後、「明らかに打率が低いのは反省点。(28本塁打は)よくも悪くもない」と総括した。また、4年ぶりに1度も故障者リストに入らなかったことを喜んだ<ref>[https://megalodon.jp/2009-1006-2329-50/www.sanspo.com/mlb/news/091006/mla0910060503003-n1.htm 【ゴジラトーク】明らかに打率低い。反省点]
米国のスポーツ専門誌「[[スポーティングニュース|スポーティング・ニューズ]]」が選定するア・リーグ・オールスターメンバーにも指名打者部門で選出された<ref>[http://www.sportingnews.com/mlb/article/2009-10-22/sporting-news-2009-american-league-all-stars Sporting News' 2009 American League All-Stars]
ポストシーズンには主として「5番・指名打者」として出場。ミネソタ・ツインズとの[[2009年のアメリカンリーグディビジョンシリーズ|ディビジョンシリーズ]]第1戦では、試合を決定付ける2点本塁打を放った<ref>[https://web.archive.org/web/20091126022603/http://www.sanspo.com/mlb/news/091008/mla0910080949009-n1.htm 松井秀、PO通算7本目の本塁打!ヤ軍先勝]
===== ワールドシリーズMVP =====
迎えた前年の覇者[[フィラデルフィア・フィリーズ]]との[[2009年のワールドシリーズ|ワールドシリーズ]]では5番に復帰し、持ち前の勝負強さを存分に発揮した。
初戦は1安打のみに終わったが、第2戦では1-1の同点で迎えた6回裏に、[[ペドロ・マルティネス]]から決勝本塁打を放った<ref>[http://www.jiji.com/jc/zc?k=200910/2009103000474 松井秀が決勝本塁打=ヤンキース雪辱、1勝1敗に-ワールドシリーズ]
フィリーズの本拠地[[シチズンズ・バンク・パーク]]で行われた第3〜5戦は、[[指名打者]]が使えないため[[代打]]での出場となった。第3戦では2試合連続となる本塁打を放ち、第5戦でも左前打を放つなど、わずかな出番ながらも結果を出した{{R|2009ps}}。
494行目:
ヤンキースの3勝2敗で本拠地に戻った第6戦では先発に復帰し、2回に[[ペドロ・マルティネス]]から先制の2点本塁打を放つと、3回には中前適時打、5回にも右中間を破る適時二塁打で2打点ずつを加え、ワールドシリーズ・タイ記録となる1試合6打点を記録し、スタジアムのファンからは「MVP!」の大歓声が沸き起こった。
9年ぶりの世界一に貢献し、13打数8安打3本塁打8打点、打率.615、OPS2.027で'''日本人選手初、フルタイムの指名打者としても初めてとなる[[ワールドシリーズ最優秀選手賞|ワールドシリーズMVP]]に選出された'''<ref>[https://web.archive.org/web/20091108092429/http://www.sponichi.co.jp/baseball/flash/KFullFlash20091105054.html 人生最良の日!松井秀、悲願達成にMVP!]
===== ヤンキースからの放出 =====
ヤンキースとの契約満了に伴い、11月9日に[[フリーエージェント (プロスポーツ)#メジャーリーグベースボール|FA]]となり<ref>Ronald Blum
=== エンゼルス時代 ===
2009年12月16日に[[ロサンゼルス・エンゼルス]]と年俸600万ドルの1年契約を結び、エンゼルス初の日本人野手となった(投手では[[長谷川滋利]]が過去に在籍)。監督の[[マイク・ソーシア]]が直々に守備復帰の機会を確約してくれたことがエンゼルス入団の決め手となったという<ref>萱津節(2009-12-17). [https://web.archive.org/web/20091219190839/http://www.yomiuri.co.jp/sports/mlb/news/20091217-OYT1T01603.htm 監督が「守備」確約…松井代理人、経緯明かす]
[[ファイル:Matsui greeted by Yankees 4-13-10.jpg|thumb|280px|2010年のヤンキースタジアムでの開幕戦、チャンピオンズリング授与式で元同僚から祝福を受ける松井]]
'''{{by|2010年}}'''の序盤は4番打者を務め、シーズンを通して前年同様指名打者での出場を主とし、わずか18試合ながら2008年6月以来となる左翼守備にも就いた。
自身4度目となる開幕戦での本塁打を記録するなど序盤は打撃好調で<ref>[https://web.archive.org/web/20100409135115/http://www.yomiuri.co.jp/sports/mlb/news/20100406-OYT1T00439.htm 松井が移籍1号、開幕戦で4の2]
試合前に行われたワールドシリーズ優勝記念リングの贈呈式では、観客からスタンディングオベーションで迎えられ、かつての同僚が一斉に松井に駆け寄って熱い抱擁を交わす場面もあった<ref>杉浦大介(2010-04-14)
4月26日のインディアンス戦ではMLB通算1000本安打を達成し、その後の打席でMLB通算500三振を喫した<ref>{{Cite
6月26日の[[コロラド・ロッキーズ]]戦では満塁本塁打を放ち、MLB通算150号を達成。
519行目:
7月以降は相手先発が左投手の際の起用を見送られることが多くなり、チーム成績の低迷もあって、若手の起用が増えたことから守備に就く機会もなくなった。前半戦は、松井に追い出される形でレンジャーズに移籍した[[ブラディミール・ゲレーロ]]が絶好調だったため、地元メディアやファンからはゲレーロと比較される形で批判を受けた<ref>[http://www.jsports.co.jp/press/article/N2010070220125901.html 【MLB西海岸情報】絶好調ゲレーロと比較され苦しい立場の松井]. J Sports. 2011年10月24日閲覧</ref>。
オールスターゲームは地元[[エンゼル・スタジアム・オブ・アナハイム|エンゼルスタジアム]]での開催だったが、ファン投票の指名打者部門はゲレーロに230万票以上の大差を付けられた2位に終わり、「チャンスがあればと思っていたけど、仕方ない」と語った<ref>[https://megalodon.jp/2011-1024-0415-51/hochi.yomiuri.co.jp/mlb/news/20100706-OHT1T00010.htm 松井、球宴落選もサバサバ「この成績じゃ」]. スポーツ報知. 2011年10月24日閲覧</ref>。
後半戦に入ると、一部メディアから「戦力外となる可能性がある」とも報じられ<ref>[http://www.asahi.com/sports/update/0911/TKY201009110137.html 「松井、構想外の可能性」大リーグ公式サイト] アサヒコム</ref><ref>[http://mlb.mlb.com/mlb/fantasy/wsfb/news/index.jsp?player_id=425686 Fantasy Baseball News & Updates] MLB.com</ref>、8月8日のタイガース戦では、相手投手が右投手であるにもかかわらずスタメン落ちし、ショックのあまり報道陣を避け、食堂にこもってテレビを見続けたという<ref>阿部太郎(2010-10-06)
その後は打撃の調子が上がっていたが、9月8日のインディアンス戦では、新人時代の1993年以来17年ぶりに代打の代打を送られる屈辱も味わった<ref>[https://web.archive.org/web/20101124094734/http://sankei.jp.msn.com/sports/mlb/100909/mlb1009091632018-n1.htm 新人時代以来の屈辱 松井秀に代打の代打]
シーズン終了後、エンゼルスGMの[[トニー・リーギンス]]からは「こんなに調子の波が激しいとは思わなかった」と厳しい評価が下された<ref>[https://web.archive.org/web/20100918092555/http://www.sanspo.com/mlb/news/100915/mla1009150504006-n1.htm 松井秀は期待外れ…エ軍GMバッサリ]、サンケイスポーツ、2010年9月15日発行、同日閲覧。</ref>。11月2日に1年契約が満了しFAとなり、翌日エンゼルスは同月6日が期限となっていた独占交渉期間中に翌年の契約を提示しないと表明した<ref>[https://web.archive.org/web/20111222135602/http://www.47news.jp/CN/201011/CN2010110401000137.html 松井秀に条件提示せず 他球団とも交渉可能に] 共同通信2010年11月4日</ref>。
529行目:
=== アスレチックス時代 ===
[[画像:Hideki Matsui 2011.jpg|thumb|right|アスレチックス時代(2011年)]]
2010年12月14日に[[オークランド・アスレチックス]]と年俸425万ドル(当時のレートで3億5700万円)で1年契約を結ぶ{{R|hochi20101213}}。入団会見では「先頭を切ってみんなを引っ張っていけるようなプレーをしたい」と意欲を口にした<ref>共同通信(2010-12-15)
松井にはアスレチックス以外にも数球団が関心を示しているとされていたが、正式なオファーを行ったのはアスレチックスのみであった<ref>Tyler Kepner(2011-03-10)
'''{{by|2011年}}'''のスプリングトレーニング中は[[寝違え]]と[[花粉症]]に悩まされて一時別メニュー調整となり<ref>[https://megalodon.jp/2011-0325-0159-15/www.sanspo.com/mlb/news/110323/mla1103230504003-n1.htm 松井秀、花粉症&寝違え…二重苦で別メニュー]
オープン戦は過去3年では最多の22試合に出場したが、打率.169、1本塁打、2打点、OPS.486と低調な成績だった<ref>笹森倫(2011-03-31)
開幕は「5番・DH」で迎え、4月3日のマリナーズ戦でシーズン初安打となる二塁打を放ちNPB/MLB通算2500本安打を達成。2000本安打達成時と同じく、[[イチロー]]の前で記録を達成することとなった。
561行目:
後半戦は打率.295、6本塁打、OPS.779と、前半戦からは大きく数字を上げたが、シーズン通算では打率.251、12本塁打、チーム2位の72打点、OPS.698と100試合以上出場ではプロ入り後ワーストとなる成績でシーズンを終えた。
また、2008年以降では最多となる27試合で守備に就き、打者に不利な球場として知られる本拠地[[オークランド・アラメダ・カウンティ・コロシアム|オー・ドットコー・コロシアム]]では打率.234、4本塁打、OPS.663と低調な成績に終わったが、ロードでは打率.267、8本塁打、OPS.729を残した<ref name="2011split">[http://www.baseball-reference.com/players/split.cgi?id=matsuhi01&year=2011&t=b Hideki Matsui 2011 Batting Splits]. Baseball-Reference.com(英語). 2011年10月23日閲覧</ref>。
シーズン最終戦終了後のインタビューでは「体調という意味では凄く良いシーズンだったけど、いい結果は出なかった。納得いったところなんてない」と語った<ref>[https://web.archive.org/web/20111003122618/http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/10/01/kiji/K20111001001734630.html 松井 メジャー10年目への本音「もう1000万ドルの選手じゃない」] スポニチ、2011年10月1日。</ref>。
600行目:
==== DFA ====
出場機会のなかった7月24日のオリオールズ戦試合後にマドン監督からDFAを通告され、翌25日に球団から正式に[[
8月1日には自由契約となり<ref>[https://megalodon.jp/2012-1228-1441-51/www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/f-bb-tp2-20120802-993664.html 松井が自由契約に 他球団と交渉へ] 日刊スポーツ 2012年8月2日。</ref>、他球団からのオファーを待ったが、ポストシーズン出場のための移籍期限となる8月31日までに獲得に動く球団はなかった<ref>[https://megalodon.jp/2012-1228-1442-08/www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/09/02/kiji/K20120902004021800.html 獲得動きなし…松井、「浪人」確定で早過ぎるオフ突入] スポーツニッポン 2012年9月2日</ref>。
611行目:
引退を決断した理由として、「命がけでプレーし、メジャーで力を発揮するという気持ちで10年間やってきたが結果が出なくなった」と述べ、NPB復帰を選択しなかったことについては「10年前の日本での自分の活躍を想像するファンの期待に応える自信を持てなかった」と説明した<ref>[https://megalodon.jp/2012-1228-1443-16/www3.nhk.or.jp/news/html/20121228/t10014491941000.html 松井秀喜選手 現役引退を表明 NHKニュース] 2012年12月28日閲覧</ref>。一番思い出に残っていることは「たくさんある」としながらも、「長嶋監督と二人で素振りした時間」を挙げた<ref>[https://megalodon.jp/2012-1228-1443-31/www.yomiuri.co.jp/sports/mlb/news/20121228-OYT1T00469.htm?from=top メジャー、僕自身は後悔していない…松井] YOMIURI ONLINE(読売新聞)2012年12月28日閲覧</ref>。
自身の引退後については「ゆっくりしながら今後のことを考えたい」という姿勢を示した<ref>[https://megalodon.jp/2012-1228-1443-46/www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/12/28/kiji/K20121228004867940.html 松井 今後は白紙「引退という言葉は使いたくない。草野球の予定あるし」] スポーツニッポン 2012年12月28日閲覧</ref>。同日、巨人オーナーの[[白石興二郎]]は松井を将来的に巨人の[[プロ野球監督|監督]]として迎え入れたい意向を示し、既にヤンキースへのコーチ留学を打診したことを明らかにした<ref>{{Cite
==== 引退表明への反響 ====
628行目:
==== 国民栄誉賞の受賞 ====
2013年(平成25年)4月1日の午後には、[[内閣官房長官]]の[[菅義偉]](当時)が記者会見で、日本政府が[[国民栄誉賞]]を[[長嶋茂雄]]と同時に授与する方向で検討していることを明らかにし<ref>[http://www.sanspo.com/baseball/news/20130401/gia13040116090004-n1.html 長嶋茂雄、松井秀喜両氏に国民栄誉賞] {{Wayback |url=http://www.sanspo.com/baseball/news/20130401/gia13040116090004-n1.html |date=20130404005557
同年5月5日、[[東京ドーム]]で行われた読売ジャイアンツ対[[広島東洋カープ]]戦の前に松井の[[引退]]セレモニーと[[国民栄誉賞]]授与式が行われ、[[内閣総理大臣]]の[[安倍晋三]](当時)から国民栄誉賞が授与された<ref>{{Cite web
==== 引退セレモニー ====
637行目:
7月からはヤンキース傘下のショートA級[[スタテンアイランド・ヤンキース|スタテンアイランド]]で[[打撃投手]]を務めた<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/p-bb-tp2-20130708-1154010.html 松井氏が1Aで打撃投手 今後も継続] 日刊スポーツ、2013年7月8日。</ref>。7月16日には、[[NHK BS1]]の[[2013年のMLBオールスターゲーム|MLBオールスターゲーム]]中継で、現地の[[シティ・フィールド]]からゲスト解説を務めた<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/p-bb-tp2-20130718-1159316.html 松井氏、リベラに贈る初解説/MLB球宴] 日刊スポーツ、2013年7月18日。</ref>。
7月28日にニューヨーク・ヤンキースと1日限定のマイナー契約を結び、この日のレイズ戦の試合前に[[ヤンキー・スタジアム]]のグラウンド上で引退セレモニーを行った。この日、松井はヤンキースの一員として[[野球選手]]の生涯を終えた<ref>[http://www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/f-bb-tp2-20130729-1164678.html 松井氏引退式 1日限りでヤ軍と契約] 日刊スポーツ、2013年7月29日。</ref><ref>[http://www.sanspo.com/baseball/news/20130729/mlb13072905070005-n1.html 松井氏、ヤ軍1日復帰「人生で忘れられない一瞬」] {{Wayback |url=http://www.sanspo.com/baseball/news/20130729/mlb13072905070005-n1.html |date=20130731225318
9月22日には同シーズン限りで引退する[[マリアノ・リベラ]]の引退セレモニーに出席した<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/09/24/kiji/K20130924006675540.html 松井氏も来た!リベラ引退セレモニーに「きょうはマリアノの日」] スポニチアネックス、2013年9月24日。</ref>。
==== コーチ就任 ====
{{by|2014年}}2月1日から13日まで[[読売ジャイアンツ]]の春季キャンプで臨時[[コーチ]]を務めた後<ref>[https://web.archive.org/web/20140120134237/http://www.giants.jp/G/gnews/news_397968.html OBの松井秀喜氏が宮崎キャンプで臨時コーチに就任] 読売巨人軍公式サイト、2014年1月16日。</ref>、2月19日から3月4日までニューヨーク・ヤンキースのスプリングトレーニングでゲストコーチを務めた<ref>[http://www.nydailynews.com/sports/baseball/yankees/yankees-insider-godzill-pinstripes-article-1.1622004 Hideki Matsui returns to Yankees' spring training as special guest instructor] New York DailyNEWS.com、2014年2月20日。</ref>。
5月24日には[[クーパーズタウン]]で行われる[[アメリカ野球殿堂]]の記念試合にヤンキースの代表として出場<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/f-bb-tp2-20140402-1279136.html 松井秀喜氏ら名選手30人が記念試合出場へ] 日刊スポーツ、2014年4月2日。</ref><ref>[http://baseballhall.org/news/press-releases/pedro-martinez-hideki-matsui-jim-thome-among-30-big-league-heroes-appear-hall Pedro Martinez, Hideki Matsui, Jim Thome among 30 Big League Heroes to Appear at Hall of Fame Classic] NATIONAL BASEBALL HALL OF FAME AND MUSEUM Press Releases、2014年4月28日。</ref>。本塁打競争にも参加し<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/05/26/kiji/K20140526008236420.html 松井氏 「ゼロで終わる」固辞も…本塁打競争で2発] Sponichi Annex、2014年5月26日。</ref>、記念試合では[[スティーブ・エイベリー]]から本塁打を打つなど3打数1安打1打点の活躍を見せた<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/p-bb-tp2-20140526-1307113.html ゴジラパワー健在!松井氏OB戦で特大弾] 日刊スポーツ、2014年5月26日。</ref>。6月22日にはヤンキースのオールド・タイマーズ・デーに出席し、記念試合では試合途中から投手として登板もした<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/f-bb-tp2-20140623-1322335.html 松井秀喜氏OBイベントで投手「記念に」] 日刊スポーツ。2014年6月23日。</ref>。
8月25日、ヤンキース時代の恩師であり、背番号「6」がヤンキースの永久欠番に認定された[[ジョー・トーリ]]の記念セレモニーに出席<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXLSSXK00015_U4A820C1000000/ ヤンキース、トーリ氏の永久欠番祝う 松井氏らが式典出席] 日本経済新聞、2014年8月24日。</ref>。また、9月7日には盟友[[デレク・ジーター]]の引退セレモニーに出席<ref>[http://www.hochi.co.jp/baseball/mlb/20140908-OHT1T50225.html 松井氏、ジーター引退セレモニーで握手とハグ] {{Wayback |url=http://www.hochi.co.jp/baseball/mlb/20140908-OHT1T50225.html |date=20150518102813
{{by|2015年}}2月3日・4日の2日間にわたって古巣の巨人軍[[宮崎]]キャンプを視察。また2月5日から7日まで[[沖縄県]][[宜野湾]]で[[横浜DeNAベイスターズ|DeNA]]のキャンプを視察した。
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3月11日にヤンキースGM特別アドバイザーに就任した(契約期間は1年)<ref>[http://cf-origin-bitisle-www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/1445474.html 松井氏ヤ軍フロント入り!GM特別アドバイザー就任] 日刊スポーツ、2015年3月11日。</ref>。キャンプ地のフロリダ州-タンパでブライアン・キャッシュマンGM同席のもと、記者会見を行い、「ヤンキースでは素晴らしい時間を過ごした。今度は若い選手の力になれるように頑張っていきたい。僕にとっても大きなチャレンジ」と抱負を語った。
同月21日には東京ドームで行われたオープン戦の巨人対[[北海道日本ハムファイターズ]]戦でデレク・ジーターと共に始球式を行った<ref>[http://www.nikkansports.com/baseball/news/1449953.html 松井氏とジーター氏が始球式 ともにノーバン] 日刊スポーツ、2015年3月21日。</ref>。試合後には同球場で東日本大震災の被災地の小中学生を支援する慈善イベント「トモダチ チャリティー ベースボールゲーム」<ref>[http://support-our-kids.org/2with55/index.html 東日本大震災被災児童自立支援プロジェクト トモダチ チャリティー ベースボールゲーム] {{Wayback |url=http://support-our-kids.org/2with55/index.html |date=20150322023431
{{by|2016年}}もヤンキースGM特別アドバイザーとして活動した。4月5日にはヤンキースとアストロズの試合にて日本人としては史上初となるヤンキースタジアムでの始球式を行った。
{{by|2017年}}1月上旬に次男が誕生したことを明かした<ref>{{Cite web
==== 野球殿堂への顕彰 ====
{{by|2018年}}1月15日、[[野球殿堂博物館 (日本)|野球殿堂博物館]]は、2018年度の[[野球殿堂 (日本)|野球殿堂]]競技者表彰プレーヤー部門の顕彰者として松井を選出したことを発表した<ref>{{Cite press release
また、この年は[[アメリカ野球殿堂]]の殿堂入り候補資格も得たが、1月24日に行われた記者投票では4票の獲得(得票率0.9%)にとどまり、1年目で殿堂入りの資格を喪失した。ヤンキースGM特別アドバイザーとして活動を継続した。
674行目:
===== 松井に並んだ大谷へ =====
2021年7月4日、古巣であるエンゼルスに所属する[[大谷翔平]]がシーズン第31本目の本塁打を放ち、松井が記録した日本人では最多のMLB[[シーズン (スポーツ)|シーズン]]本塁打数に並んだ。直後に松井は大谷へメッセージを送り、大谷を絶賛し応援する形で次のように語った<ref>{{Cite web ja |
* 「大谷選手の驚異的なホームランのペースに、ただただ感嘆しております。彼が持っていた素質に加えて、バッティングへの探究心やトレーニングが、メジャーリーグ屈指の長距離打者に成長させたのではないかと思っております。」
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===== 松井を超えた大谷へ =====
さらに、その3日後となる同年7月7日には大谷が第32本塁打を記録して日本人では単独首位となった(当時点ではMLBの同[[シーズン (スポーツ)|シーズン]]内で最多の本塁打数でもあり、また[[MLBオールスターゲーム|オールスターゲーム]]前に32本塁打以上かつ12[[盗塁]]以上の達成はMLB史上初の記録でもあった)<ref>{{Cite web ja |
その際にも松井は大谷へ同様の祝福メッセージを送った。そのメッセージを受けた大谷は、「(松井を)子どもの頃からすごい見ていたので、光栄だなと思います。」「素直に嬉しいですし、(松井が)わざわざコメントしていただけるのも嬉しいです。まだまだ打てるように期待に応えられるように頑張りたい。」などと語った<ref>{{Cite web ja |
==== 東京オリンピックの聖火リレーに登場 ====
2021年(令和3年)7月23日、[[国立競技場]](オリンピックスタジアム)で行われた[[2020年東京オリンピック]]の開会式で、松井は[[長嶋茂雄]]と[[王貞治]]とともに[[オリンピック聖火|聖火ランナー]]を務めた。
3人は[[野村忠宏]]([[柔道]]で[[近代オリンピック|五輪]]三連覇)と[[吉田沙保里]]([[レスリング]]で五輪三連覇)から聖火を受け取り、松井は恩師である長嶋の背中を支えて2人でともに歩いた。最後に王が聖火を高々と掲げ、松井が受け取って、次のランナーである[[医師]]と[[看護師]]のペアへ手渡した<ref name="hochi20210724">{{Cite web ja |
松井は開会式終了後にテレビ出演し、「監督が受け取られて、長嶋さんが受け取られて、そのあとはとにかく無事に長嶋さんをエスコートする。最後、次の方に無事に渡せましたので。たくさんの長嶋さんのファンの方、王さんのファンの方に喜んでいただけたのなら、私もうれしいです」と語った{{R|hochi20210724}}。
「[[ニューヨーク・ポスト]]」は、「野球がオリンピックに戻ってきた。元[[ニューヨーク・ヤンキース|ヤンキース]]のスターを起用した」「松井が今も鋭いスイングをするのか考えたファンがいることを想像するのはたやすい。[[2009年のワールドシリーズ]]ではMVPに選ばれ人格者としても知られている」などと報じた<ref>{{Cite web ja |
===== 幻の聖火リレー最終ランナー案 =====
同五輪の[[オリンピック聖火#採火と聖火リレー|聖火リレー]]の最終ランナーは、[[テニス]]選手の[[大坂なおみ]]が務めた<ref>{{Cite web ja |
同誌によれば、[[東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会|東京オリンピック組織委員会]]の会長であった[[森喜朗]]は「松井は純粋な日本人であり、日本とアメリカにおける野球のチャンピオンで、闘志を具現化した存在」として松井を推薦していた。また森は聖火リレーの演出の締めくくりとなる[[オリンピック聖火#聖火台|聖火台]]への点火方法について「(松井の愛称でもある)[[ゴジラ (架空の怪獣)|ゴジラ]]が炎を吐いて、大釜に点火するのは面白いだろう」と話していた。森の意向は当時「神の声」であり、松井の最終ランナー案は実質的に決定していた{{R|dailybeast20210803|flash20210804}}。
なお、森は松井と同じ[[石川県]][[根上町]](現・[[能美市]])の出身で、小学校も松井と同じであった。森は松井の後援会会長を務め、2001年には松井へ「[[日本プロスポーツ大賞]]・内閣総理大臣賞」を授与している{{R|flash20210804}}。
しかし、森は2021年2月に[[女性差別]]発言を行ったとして批判され、会長を辞任した<ref>{{Cite web ja |
== 選手としての特徴 ==
=== 打撃 ===
[[ファイル:Hideki Matsui in USA-2.jpg|thumb|スイングする松井(2008年)]]
NPB・MLB通算で507本の本塁打を打った<ref>{{Cite
MLB移籍後は、勝負強さが魅力の中距離打者として活躍した。タイトル争いをする程の
アジア人選手では、松井と大谷の2選手しか達成していないMLBシーズン
打撃については「楽に、なおかつ正確にスイングする」、「ゆっくり、ボールを見極める間合いをつかむ」、「左の軸足から、踏み出す右足にスムーズに体重移動する」、「([[時速]])140キロのボールを130キロぐらいに見えるぐらいボールをゆっくり見る」
NPB時代は狭い[[東京ドーム]]を本拠地にしていたが、広い[[ナゴヤドーム]]や[[甲子園球場]]でも本塁打を量産していた。一方
MLB移籍前は「メジャーでもホームランバッターでありたい」と語っていたが、MLB移籍以降は本塁打が大きく減
[[井端弘和]]が2021年9月に公開した動画では、パワーランキング日本人OB部門1位を獲得した<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=l48-oaFLm7s 【井端が金属バットを使ってもかなわない選手とは!?】OB・現役パワーランキング!] 【イバTV】井端弘和公式チャンネル (2021年9月29日閲覧)</ref>。
[[画像:Matsui Spring Training.jpg|thumb|left|スプリングトレーニングでの松井(2006年)]]
MLB2年目以降は、NPB時代のようにボールを前で捉えるのではなく、出来るだけ体に近付けてから確実にバットの芯で捉えるスタイルへと切り替えた。
現役時代は
ヤンキース時代は
[[ファイル:Hideki Matsui in USA-3.jpg|thumb|280px|打席に立つ松井(2008年)]]
打率についてもNPB時代の通算[[打率]]は3割を超え、2001年には[[首位打者 (日本プロ野球)|首位打者]]のタイトルも獲得している。MLBでも2005年に打率.305を記録、この年はイチローの打率を上回った。それ以外の年も2008年までは3割前後の打率を残している。[[選球眼]]に優れており、打席ではしっかりとボールを見極め、無闇に早打ちはしない。早いカウントでのボール球に手を出すことは少なく、2ストライクに追い込まれても簡単にはあきらめない<ref name="s10">田口有史 「松井秀喜[ヤンキース#55] 打撃はまだまだ衰えていない?」 『月刊スラッガー』2009年10月号、日本スポーツ企画出版社、2009年、雑誌15509-10、56-57頁。</ref>。三振の数もあまり多くない。「全ての打者に共通するのは打率」という意識を持っており、本塁打数よりも打率を調子・相性の判断基準にしている<ref>[[すぽると!]]でのインタビューより</ref><ref>[https://megalodon.jp/2009-0818-0228-43/www.sanspo.com/mlb/news/090713/mla0907130504000-n1.htm GODZILLA in USA(2009年7月13日)] SANSPO.COM
基本的にスロースターターであり、4月、5月は低打率に苦しむこともあったが、後半戦には調子を上げた。MLBでの通算成績も、4月、5月の[[OPS (野球)|OPS]]は.700台であり、6月以降は.800を超えている。特に、7月は通算[[打率]].309、OPS.916と得意にしている<ref name="careersplits">[http://www.baseball-reference.com/players/split.cgi?id=matsuhi01&year=Career&t=b Hideki Matsui Career Batting Splits]. Baseball-Reference.com(英語). 2011年10月23日閲覧</ref>。
左打者ではあるが、対左投手も苦にしないことで知られた。MLB1年目の2003年は、対右投手と対左投手の打率は共に.287であり、翌2004年こそ対右投手が.314、25本塁打、対左投手が.265、6本塁打とバラつきが目立ったが<ref>[http://sports.jp.msn.com/feature/columns/mlb/columns/9/2004/20041118-889.html 【日本人メジャー通知表】ヤンキース松井秀喜篇]{{リンク切れ|date=2020年2月 |bot=InternetArchiveBot
[[ファイル:Hideki Matsui in USA-4.jpg|thumb|left|280px|打球を見つめる松井(2008年)]]
投手との相性については「相手との相性は考えない。投手によって、ある程度狙い球を絞って打席に入るだけ」と語っている<ref>[https://megalodon.jp/2009-0321-1642-39/www.sponichi.co.jp/baseball/special/matsui_h/mlb200806/KFullNormal20080606027.html 松井秀 57打席連続無三振! 打率も首位] Sponichi Annex(2008年6月6日)</ref>。対戦する投手を「どんな球種を持っているか」、「何を使って空振りさせようとしてくるか」、「どういう感じで術中にはめようとしてくるか」といった大枠でタイプ分けし、球種の代表的な使い手として知られる有力投手や対戦機会の多い投手に当てはめて対戦に臨んでいたという<ref name="mlbbb">{{Cite book
NPB時代には、[[石井一久]]を苦手にしていた<ref>[https://www.ninomiyasports.com/archives/11095 巨人・松井秀喜の、“進化する怪物”<後編>] [[二宮清純]]「ノンフィクション・シアター・傑作選」</ref>。1999年には[[遠山奬志]]に13打数無安打に抑えられたが、翌2000年に遠山から本塁打を含む3安打を放つと、2001年以降は逆に打ち込んだように、努力・工夫を積み重ねて苦手投手を克服する忍耐強さを持っている<ref>[[岡部充代]] 「遠山奬志が語る 僕と松井君の5年戦争」 『2002プロ野球総決算 SOME MOMENTS いくつかの瞬間』[[週刊ベースボール]]別冊冬季号、[[ベースボール・マガジン社]]、雑誌20449-12/25、41-43頁。</ref>。
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MLBに在籍した10年間で計782人の投手と対戦したが、30打席以上対戦している投手は24人である。その中で対戦成績の[[OPS (野球)|OPS]]が1.000を超えている投手は、[[デレク・ロウ]](1.213)、[[ヨハン・サンタナ]](1.189)、[[ジェレミー・ボンダーマン]](1.118)、[[バートロ・コローン]](1.033)、[[エドウィン・ジャクソン]](1.009)の5人である。それ以外では、[[ジェームズ・シールズ]](26打席で1.542)、[[ダグ・ウェクター]](24打席で1.378)、[[ブロンソン・アローヨ]](23打席で1.379)、[[ブライアン・タレット]](21打席で1.521)と特に相性がいい。逆に分が悪いのが[[ジェレッド・ウィーバー]](.454)、[[ブルース・チェン]](.502)、[[スコット・カズミアー]](.531)、[[ジェレミー・ガスリー]](.552)である。それ以外では、[[B.J.ライアン]](24打席で.439)、[[グスタボ・チャシーン]](24打席で.426)、[[スコット・ショーエンワイス]](21打席で.267)と特に相性が悪い<ref name="vspitchers">[http://www.baseball-reference.com/play-index/b-pvb.cgi?n1=matsuhi01#choice=&throws=&year_game=career&opp_id=&orderby=PA&orderbyb=Name&minPA2=0&minPA=0&orderbydir=DESC&orderbydirb=ASC&n1=matsuhi01&as=batter Hideki Matsui vs. Pitchers]</ref>。また、全投手中最多の69回対戦している[[ボストン・レッドソックス]]の[[ナックルボール|ナックル]]ボーラー、[[ティム・ウェイクフィールド]]に対しても苦手意識を持っていた。ウェイクフィールドに対しては、通算62打数13安打の打率.210、OPS.645であり、「あの球は打てない。だって、あんな球を投げられる投手がいないんだから、練習のしようがないんだもの」と感服している<ref>[https://www.asahi.com/sports/column/TKY200812230002.html 吉田えりのナックル 新たな命こめた「彼女」] [[朝日新聞]](2008年12月26日)</ref>。
また、MLB初安打を放った相手であり
[[打撃妨害]]での出塁が一般的な打者に比べて多い。2010年は4度の打撃妨害を受けたが、これはMLB全体で[[カール・クロフォード]](5度)に次いで2番目に多い数字だった<ref>[https://web.archive.org/web/20100916174318/http://www.sanspo.com/mlb/news/100913/mla1009131024005-n1.htm 松井秀、打撃妨害で先制点「ラッキー」]
[[打撃 (野球)|打撃フォーム]]は毎年微妙に変えていた<ref>[https://www.jiji.com/jc/v2?id=091103matsu_hideki_08 特集 松井秀喜【8】FA権取得、海を渡る決意]. 時事ドットコム(2009年11月3日閲覧). 2012年1月14日閲覧</ref>。プロ初年度はグリップを低くして構えていたが、1年程で首の付け根の高さに修正。30本以上の本塁打を量産しだした1996年頃は、投手に対してバットを垂直に立たせた状態。50本で[[最多本塁打 (日本プロ野球)|本塁打王]]を獲得した2002年には、それまでより少しバットを傾けて腰のねじりも大きくなっていた。メジャー移籍後もこの習慣は続き、左手首の骨折から復帰した2007年以降はがに股に立って尻を突き出したようになり、2010年からは左方向へ打つことを意識するために、グリップを首の付け根より高く構えて外角の球でも体の近くでミートするようにしていた。落合博満は2022年7月の動画で、[[サミー・ソーサ]]の軸足回転打法を真似ずに回転軸を体の中心に持って行く打法を行えば、もっと通算本塁打数は伸びたと残念がっている<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=hXk0gd5Ajl4&t=0s 【巨人時代回想】19歳松井秀喜や長嶋監督の野球について語る【巨人編③】] 【公式】落合博満のオレ流チャンネル 2022/07/20 (2024年10月2日閲覧)</ref>。
=== 走塁 ===
2桁盗塁を記録したことはないが、
走塁中のアクシデントを防ぐために、日頃から足の爪の手入れを熱心に行っていた<ref>[https://megalodon.jp/2009-0818-0224-02/www.sanspo.com/mlb/news/090724/mla0907240500000-n1.htm GODZILLA in USA(24日)] SANSPO.COM
=== 守備 ===
[[ファイル:Matsuiinoutfield.JPG|thumb|280px|左翼守備に
アマチュア時代は捕手や投手を務めていたこともあったが
2007年以降、ヤンキースが守備重視の方針を掲げたこともあり、故障がちになった松井に代わって、[[ジョニー・デイモン]]が左翼手のレギュラーとして起用されることが増えたため<ref>[https://megalodon.jp/2009-0606-1937-54/www.nikkansports.com/baseball/mlb/p-bb-tp2-20071206-291923.html ジラルディ監督守備重視、松井は控え!?] nikkansports.com(2007年12月6日)</ref>、指名打者での出場が増えた。2008年6月に左膝を痛めてからは指名打者専任となっており、同年6月16日のアストロズ戦で左翼を守ったのが、ヤンキース時代では最後の守備機会となった。一時は[[一塁手]]へのコンバート案も出されたが、ヤンキースGMのブライアン・キャッシュマンに却下された<ref>[https://web.archive.org/web/20081209074754/http://www.sanspo.com/mlb/news/081106/mla0811060503002-n1.htm ヤ軍、ジアンビ放出…松井秀、来季DH] SANSPO.COM(2008年11月6日)</ref>。特に2009年はプロ入り後初めて一度も守備に就く機会がなく、2010年4月8日の対[[ミネソタ・ツインズ]]戦で2年ぶりの公式戦守備に就いた<ref>共同通信(2010-04-10)[https://megalodon.jp/2011-0325-0233-50/www.chunichi.co.jp/hokuriku/article/matsui/list/201004/CK2010041002000181.html 2年ぶり守備!松井秀「9回守れて良かった」]
[[File:Matsui catching fly ball.jpg|thumb|right|200px|フライを捕球する松井]]
守備に関する技術では、2004年に『スポーティング・ニュース』誌の記事で捕球後の送球を絶賛された<ref>[http://sportsnavi.yahoo.co.jp/baseball/mlb/04season/players/matsui/column/200405/at00000705.html 松井秀喜の守備に見る「基礎力」の重要性 (2/2) 梅田香子の『松井秀喜 メジャー交友録 2004』 VOL.5] {{Wayback |url=http://sportsnavi.yahoo.co.jp/baseball/mlb/04season/players/matsui/column/200405/at00000705.html |date=20040804102654
一方で、守備範囲などを含めた総合守備指標では評価が低かった。[[ミッチェル・リクトマン]]が考案し、現在米国で最も広範に用いられている守備指標の1つ「[[アルティメット・ゾーン・レーティング|UZR]](Ultimate Zone Rating)」(同一シーズンの同一リーグにおいて同一ポジションにおける平均的な選手と比較し、失点をどのくらい防いだかを示す指標)は通算で-77.3(左翼で-65.5、中堅で-10.6、右翼で-1.2)という低い数値を喫し、[[ESPN]]記者の[[ロブ・ネイヤー]]がUZRを基準に選んだ2000年代のワーストグラブ(左翼手)に選出されてしまった<ref>Rob Neyer
上述のUZRやDRSのように比較的ポピュラーな総合守備指標では通算で平均を大きく下回る数値を喫したが、守備指標によっては意外な結果も表れることもあった。例えば、「[http://baseballmusings.com/ Baseball Musings]」のDavid Pintoが考案した「PMR(Probabilistic Model of Range)」によると、2007年は好守で知られる[[カール・クロフォード]]と大差がなく、正左翼手の中ではトップクラスという分析結果が出た<ref>[http://www.baseballmusings.com/archives/023979.php Probabilistic Model of Range, Leftfielders, 2007]
=== 連続試合出場 ===
連続試合出場は、2006年の故障で記録が途切れるまで、NPBで1250試合、MLBで518試合(MLBでデビュー以来518試合連続出場は、日本人選手としては歴代1位)、日米通算1768試合を数えた。2005年には「本塁打より、むしろ連続試合出場」と話す<ref>[https://web.archive.org/web/20050525083806/http://sportsnavi.yahoo.co.jp/baseball/mlb/05season/players/matsui/column/200505/at00004826.html W松井にみるニューヨーク・メディアの変容(1/2) 梅田香子の『メジャー交友録 2005』 VOL.14] スポーツナビ</ref>など、連続試合出場には並々ならぬこだわりを持ち、「遠いところからわざわざ来てくれるファンのために」という考えによって休養日にも[[代打]]や[[代走]]、守備交代でわずかな時間でも出場し、2006年の[[骨折]]まで記録を維持した。しかし、地元ニューヨークのメディアからは「記録より、疲れた時には休んだ方がチームのためになる」と、連続試合出場に懐疑的な声が上がったこともあり、監督の[[ジョー・トーリ]]も「連続試合出場記録を途切らせて悪者にはなりたくないからな」と発言したこともある<ref>[https://web.archive.org/web/20030829003115/http://www.sponichi.co.jp/usa/kiji/2003/08/26/01.html 夏バテ…松井にスタメン危機!] Sponichi Annex(2003年8月26日)</ref>。このように、連続試合出場に並々ならぬこだわりを持っていたが、2006年の骨折直後には、「心の中で怯える自分がいた」と記録がいつか途切れるかもしれないことに大きなプレッシャーを感じていたことを明かした。それと同時に、連続出場をサポートしてくれたトーリ監督に感謝の意を示した<ref>[https://web.archive.org/web/20061005040834/http://www.hokkoku.co.jp/_today/godzilla/tsuusin/godzilla20060518.htm 松井通信 2006年5月18日記録ストップに「おびえる自分がいた」 連続出場の心境吐露]
=== 評価 ===
[[ファイル:Hideki Matsui in USA-9.jpg|thumb|280px|本塁打を放ち三塁ベースを回った松井(2008年)]]
打撃についてはメジャー移籍後も概ね高い評価を受けている。フリーエージェント(FA)移籍の際、[[メジャーリーグベースボール|MLB]]機構と[[メジャーリーグベースボール選手会|MLB選手会]]の労使協定に基づいて選手評価の資料として使われるPLAYER RANKINGS評価(米大リーグ公認の記録専門会社「エライアス」が過去2年間の成績を独自の算出方法で計算して得点を付けたもの)では、2003-2004シーズン<ref>[http://mlb.mlb.com/news/article.jsp?ymd=20041103&content_id=909593&vkey=news_mlb&fext=.jsp&c_id=null AL player rankings] MLB.com(2004年11月30日)</ref>、2005-2006シーズン<ref>[http://www.usatoday.com/sports/baseball/2006-10-31-elias-rankings.htm Final 2005-06 Elias player rankings] USAトゥデイ(2006年10月31日)</ref>のいずれも[[イチロー]]らを抑えて日本人打者ではトップの評価であった。その全てで「A」ランクの高評価を受けており、ア・リーグ全体での[[一塁手]]・[[外野手]]・[[指名打者]]部門での順位は7位(2003-2004)、14位(2005-2006)、16位(2007-2008)であった。
[[塁打]]、[[四球]]、[[盗塁]]などを点数化し、選手個人の得点生産能力を測る指標である「XR(extrapolated runs)」{{Efn|XR=0.50×単打+0.72×二塁打+1.04×三塁打+1.44×本塁打+0.34×(四球+死球-故意四球)+0.25×故意四球+0.18×盗塁-0.32×盗塁死-0.090×(打数-安打-三振)-0.098×三振-0.37×併殺打+0.37×犠飛+0.04×犠打}}では、[[日本野球機構|NPB]]在籍10年ながらNPB歴代10位につけている。しかし、渡米直前3年間と渡米後の1打席当たりXRを比較すると、リーグのレベルの違いが影響し、実に35パーセントダウンしている<ref>[http://www.zakzak.co.jp/tsui-sat/tsui/20070317_02.htm 2・松井&イチローは超一流か【米国で成績大幅ダウン】] ZAKZAK(2007年3月17日)</ref>。攻撃力を評価する指標[[OPS (野球)|OPS]]([[出塁率]]+[[長打率]])は、MLB在籍7年間で通算.852を記録しており、総合打撃指標「XR27」(XRの改良版){{Efn|XR27=XR×27÷(打数-安打+盗塁死+併殺打+犠打+犠飛)}}は同7年間で6.28を記録した。これはいずれも日本人メジャーリーガーの中ではトップの数値である。
近年、普及しつつある打撃・走塁・守備を組み合わせた総合的指標「[[WAR (野球)|WAR]]」(Wins Above Replacement。同じポジションの控え選手に比べて上積みした勝利数)では、+21.3を記録している<ref>{{Cite
2008年2月21日、スポーツ専門誌『スポーティング・ニューズ』は、「成績の割りに高年俸を得ていると思われる選手」のワースト5をカテゴリ別に発表した。その中で、前年度までの契約期間が2年以下である「契約期間の短い打者」の部門で松井が2位にランクインした(1位は[[J.D.ドリュー|J・D・ドリュー]])。同誌は年俸800万ドル以上の選手のうち、前年度以前から複数年契約を結んでいる86人を抽出し、100万ドルあたりで何勝に貢献したかを査定した。その結果、松井は過去2シーズンで0.9勝分しか貢献できていないとされた(平均は1.4勝分)。同誌は、「松井はかつて『[[鉄人]]』だった」としながらも、近年は度重なる故障により出場試合数が減少していることを指摘した<ref>[http://www.sportingnews.com/yourturn/viewtopic.php?t=356056 Overpaying a player once is OK, as long as you learn from it] SportingNews.com(2008年2月21日)</ref>。
[[張本勲]]は自著『最強打撃力』([[ベースボール・マガジン社|ベースボール・マガジン新書]]発行)において、「松井はまだ自分自身のボールを捉えるポイントを掴んでおらず、小細工でごまかしているところがある。だから好調時は素晴らしい働きをするものの、調子を崩すとなかなか抜け出せない」と指摘した。例えば2005年の開幕4試合で3本のホームランを放った後、202打席ホームランなし、という事実からそれが裏付けられる。さらに、「松井にとって自己最高の成績を残した2002年の50本を打ったときでも、私から見るとポイントを掴んでいなかった」と記している。[[王貞治]]は「アメリカで30本以上のホームランを打ったんだから、素晴らしいと思う。日本の野球界で50本打ったことと、アメリカで30本打ったことを比較する必要なんかない」{{R|number813}}「本数も中身も図抜けてすごいホームランを打っていた」<ref name="number813">[[Sports Graphic Number]] 813号</ref>と称賛した。
各種の人気調査などでは常に上位にランクインしてきたが、2005年以降は相次ぐ故障やそれに伴う成績低迷、[[#WBC辞退|WBC辞退]]などの影響で陰りが見えつつあった。[[中央調査社]]が実施している「人気スポーツ」調査における「最も好きなスポーツ選手」の項目では、2003年、2004年に2年連続で2位以下に圧倒的な差を付けた1位となったが、故障に苦しんだその後は支持率が下降し、2009年には4位に下がった<ref>[http://www.crs.or.jp/pdf/sports09.pdf (第17回)「人気スポーツ」調査(調査結果の概要)] {{Wayback |url=http://www.crs.or.jp/pdf/sports09.pdf |date=20090806141549
他選手や監督などからの評価は軒並み高い。[[長嶋茂雄]]は松井の現役引退発表後に「現代で最高のホームランバッター」と評した。[[原辰徳]]は「強い精神力、頑健な体、そして類いまれなパワーに対しては度肝を抜かれた」と印象を語った。[[阿部慎之助]]は「体も大きいし打球の飛距離も群を抜いていた。重圧を見せずに黙々とプレーする姿勢に超一流選手としてのあるべき姿を見た」、[[上原浩治]]は「裏表がなく、人間的にも野球選手としても、あの人以上の選手はいないと思う」と、実力だけでなく人間性にも敬意を示している<ref>[https://megalodon.jp/2012-1229-2355-46/www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/p-bb-tp2-20121229-1065696.html 上原「松井さん引退を撤回して下さい」] nikkansports.com 2012年12月29日閲覧</ref>{{R|zakzak20121228}}。[[佐々木主浩]]は「雰囲気があったし、対戦しても怖かった。他の打者とは違う、特別クラスの選手」と評した<ref>[https://megalodon.jp/2012-1230-0001-54/www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/p-bb-tp2-20121229-1065699.html 佐々木氏「対戦しても怖かった」] nikkansports.com 2012年12月29日閲覧</ref>が、巨人時代の松井にとって佐々木は大の苦手投手だった。清原和博は「松井以上のパワーヒッターはどこにもいなかった」と語り<ref>[https://megalodon.jp/2012-1228-2248-45/www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/f-bb-tp2-20121228-1065499.html (cache) 清原氏「超えるコンビいない」/松井引退] nikkansports.com</ref>、負けていても全ての打席を同じ集中力で立てるため数字として残るとも評価していた<ref>{{Cite interview
元チームメイトで[[ニューヨーク・ヤンキース|ヤンキース]]主将の[[デレク・ジーター]]は、「マツイはお気に入りの選手。いいスイングをしているし、好調時は手がつけられない」「彼が考えているのはチームが勝つこと。まさしくプロだ」と語っていた<ref>[http://www.jiji.com/jc/zc?k=200908/2009082400553 ジーター「マツイはお気に入り」=米大リーグ]
== 特筆 ==
=== 人物 ===
実家は、祖母・松井瑠璃寿が設立した宗教法人「[[瑠璃教会]]」である。
「子供も大人と同じように一人前に扱う」という瑠璃教会の方針から、「ひでさん」と呼ばれて育てられた<ref>赤木(2002)p9</ref>。小学3年生の時に父から贈られた「努力できることが才能である」という言葉を大切にしており、父がその言葉を筆で書いた紙を
本人いわく「他人の悪口を言わない」ということが松井の信条の一つである。中学2年生時の家族との夕食の際、松井が何気なく友人の悪口を言ったところ、父が箸をおいて「他人の悪口を言うような醜いことはするな。ここで二度とそんなことはしない、と約束しなさい」と注意した。松井は「父との約束ですから、あれ以来他人の悪口を言ったことはありません」と語った<ref>[https://web.archive.org/web/20040121022030/http://www.aleph.to/message/2004/01/vt19.html 松井秀喜-人気の真実とは? 15年間悪口を言わなかったスター]</ref>。
[[グラブ (野球)|グラブ]]や[[スパイクシューズ|スパイク]]など、野球用具をとても大事に扱っている。特にグラブは毎日磨いており、松井本人は
本業の野球以外にもCM撮影やTV出演など激務にもかかわらず、練習後にファンにサインをねだられても断らず、記者への対応も丁寧である。こうした振る舞いから、2005年度の小学校、2006年度の中学校の道徳副読本に登場、甲子園で5連続敬遠四球を受けた時の対応など、「誠実さ」「明朗さ」が取り上げられた<ref>{{Cite web
星稜高校時代、「居眠りしても死角になるから」という理由で窓際の一番前の席が教室での「指定席」となっていたが、山下は「(松井の)授業態度はよかった」と打ち明けている。野球部の練習が大変で
父の影響で
高校時代、日本選抜に選ばれアメリカで試合を行っている間は、ロサンゼルス在住の日本人一家の元にホームステイしており、メジャーリーグの試合にも観戦に連れて行ってもらっていた。交流は現在でも続いており時々スポーツニュースでも放送されている。松井は一家の主人のことをアメリカのお父さんと呼び慕っている<ref>[https://web.archive.org/web/20091223072450/http://www.sponichi.co.jp/baseball/flash/KFullFlash20091222022.html 松井秀「米国の父」に話していた本当の気持ち]
松井の中で一番印象に残っている巨人の4番打者は[[落合博満]]であり、2000年に初めて4番に定着しチームも優勝を果たした時に松井は報知新聞の手記に「あの人は4番らしかった。雰囲気を持っていた。自分の世界があったんだ。チームが苦しい時に矢面に立っていた。いわば風除け。それが信頼感にもつながった。」と書いている<ref>広岡勲 「松井秀喜-ゴジラパワーの秘密」 (火の鳥人物文庫) より</ref>。
長嶋茂雄はドラフトで松井の入団が決まったところから、3年間で松井を球界を代表する選手に育てるための「1000日計画」を立ち上げた<ref>[https://megalodon.jp/2009-0320-2310-28/www.sponichi.co.jp/baseball/special/matsui_h/mlb200902/KFullNormal20090208100.html ゴジラ松井も長嶋さんと師弟特訓] Sponichi Annex(2009年2月8日)</ref>。東京ドームの試合ならドーム内練習場で、遠征先ならホテルの長嶋の部屋で、松井に素振りをさせ付きっ切りで指導をしていたという。その場で長嶋はスイングの音で、松井のスイングの良し悪しを判断していたとのこと{{R|shincho20070208}}。
赤木ひろこの著書「ひでさん 松井秀喜ができたわけ」には、青年期までの松井の統率力には、ずば抜けたものがあったことが記されている。小学校時はクラスのいじめられっ子が松井の後ろに隠れただけで問題は解決し、
以上のように
3
巨人在籍当時から[[花粉症]]を患っている<ref>[https://web.archive.org/web/20100501000146/http://www.sanspo.com/mlb/news/100119/mla1001190503001-n1.htm 今度はサボテン!松井秀「花粉、気になる」] - sanspo.com・2010年1月19日</ref>。MLB移籍後は4月から5月にかけて調子を落とすことが多く、特に2010年は遠征時の打率が非常に低くなっているが(同年4・5月の打率は本拠地では.278なのに対し、遠征では.165と1割以上低い)、これについても花粉症の影響が指摘されることがある<ref>東京スポーツ・2010年6月6日付 3面</ref>。実際2005年には、本人自らメディアに「花粉症がつらかったんです」と語り、序盤の不調の原因が花粉症だったことを認めている<ref>[http://kozo.weblogs.jp/kozo/2005/12/post_0a58.html 帰国後の松井秀喜選手が本音を語った!] {{Wayback |url=http://kozo.weblogs.jp/kozo/2005/12/post_0a58.html |date=20120114235727
引退後の2014年春季キャンプで巨人の臨時コーチを務めた際は、右打ちで[[ノック (野球)|ノック]]を行ったが空振りが目立ち、どん詰まりでバットが折れる事態まで発生し、ノックが不得手であることが露呈した。ノックの名手として知られる[[高代延博]]によれば、すごい打者でもノックができないことはよくあり、スイングの問題ではなくトスがうまく上げられないためであるという。また、通常は左打ちの松井が右打ちでノックをしていたのは、本人が「右でないとトスを上げられない」ためであったという<ref>[https://www.daily.co.jp/opinion-d/2014/02/07/0006687516.shtml なぜ松井秀喜氏はノックで空振りするのか] Daily Sports Online 2014年2月7日</ref>。
==== 英語力 ====
公の場で英語を話すことはあまりなく、[[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])直後の2011年3月19日に、当時所属していたアスレチックスの公式サイトで被災者支援を呼びかける30秒にわたるメッセージを読み上げた際<ref>[http://mlb.mlb.com/video/play.jsp?content_id=13227543 Baseball Video Highlights & Clips | Matsui asks fans to help in wake of tragedy in Japan - Video | MLB.com: Multimedia]</ref>など数少ない。球団のイベント等で英語を読み上げるときも「流暢ではないので単語をひとつひとつはっきりと発音した」と謙遜している<ref>[https://megalodon.jp/2009-0530-1811-01/www.sanspo.com/mlb/news/090525/mla0905250502002-n1.htm GODZILLA in USA(25日)] SANSPO.COM(2009年5月25日)</ref>。インタビューなどの公式の場では、専属通訳の[[ロヘリオ・カーロン]]を通して受け答えをしている<ref>[https://web.archive.org/web/20101123174709/http://hokkoku.co.jp/_today/godzilla/tsuusin/godzilla20030405.htm 素直で心強い相棒 通訳のカーロンさん]
難しい英語でない限り日常会話に問題がなくなる程度に英語力が上達してからは、チームメイトとの会話も英語で行っていた<ref name="tnyt">[http://www.nytimes.com/2014/03/04/sports/baseball/yankees-want-no-room-for-misinterpretation.html?partner=rss&emc=rss&_r=1 Yankees Want No Room for Misinterpretation] The New York Times、2014年3月4日。</ref>。ヤンキース時代のチームメイトの[[CC・サバシア]]は、松井の英語力について「松井はいい英語を話すよ。こちらの言っていることは全て理解しているし、会話するには十分だ。」と評している{{R|slugger200907}}。ニューヨークの記者によると、松井のリスニング能力には「不自由を感じたことはない。こちらの話していることは十分に理解している」という{{R|zakzak20050820}}。英語力が上達してからも通訳を通して受け答えをしていた理由については「僕の拙い英語で万が一、誤解が生まれると困るから」と語っている他、「(カーロン通訳の)仕事を奪ってはかわいそうだからね」とも語っている<ref>[https://megalodon.jp/2009-1109-0333-12/www.sanspo.com/mlb/news/091106/mla0911060953018-n1.htm 松井秀、英語ペラペラも通訳入れるのは…]
==== 愛称 ====
ニックネームは「'''[[ゴジラ (架空の怪獣)|ゴジラ]]'''」{{R|FCGMG}}。初めてマスコミ
これ以降、甲子園大会での活躍で全国に「'''ゴジラ松井'''」の愛称が一気に知れ渡ることになる。その後も、街を歩いていた時に子供達から「あっ、ゴジラがいるぞ!」と声をかけられたことで、松井自身「もうゴジラでいいや」と、そのあだ名を快く受け入
2002年の映画『[[ゴジラ×メカゴジラ]]』{{R|FCGMG}}、2009年の缶コーヒー「キリン ファイア」のテレビCMでは、本物のゴジラと共演をした<ref>[http://news24.jp/entertainment/news/167590.html “ゴジラ”松井秀喜、炎の中でゴジラと夢の共演] {{Wayback |url=http://news24.jp/entertainment/news/167590.html |date=20090928235549
インターネット掲示板「[[2ちゃんねる]]」の一部では、松井のことを「'''にしこり'''」と表現している。これは、松井を最も少ない文字数で表現した[[顔文字]]である。元々は「にっこり」であったが、改良を加えられて「にしこり」に落ち着いた。松井は記者からこのことを教えられ、「何これ、オレ?」「へえー、面白いじゃん。誰が考えたんだろうね」とほほ笑んだ<ref>[https://web.archive.org/web/20060103074026/http://www.zakzak.co.jp/spo/2006_01/s2006010103.html 松井の見る夢…目標ないが少しでもいいプレーヤーに]
==== 背番号 ====
[[ファイル:Matsui Hideki back.JPG|thumb|220px|ヤンキースでの背番号55<br />(2006年)]]
背番号は巨人・ヤンキース・エンゼルス・アスレチックス在籍時代には一貫して55番をつけていた。巨人に入団当時、本人は高校時代につけていた5を希望していたが、当時は在籍していた[[岡崎郁]]が着用していた。岡崎引退後に5番を譲ってくれると思っていたものの、FA移籍した清原が着けることになった時には非常にガッカリしたことを述懐している<ref name="tospo202005">[https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/191201 松井秀喜氏 本当は「背番号5」が欲しかった] 東京スポーツ、2020年5月5日</ref>
松井が入団した当時の日本プロ野球には、ほかに55番をつけた主力打者として[[大豊泰昭]]([[中日ドラゴンズ|中日]]){{Efn|大豊は台湾出身で、背番号は台湾で英雄とされている王貞治の年間最多本塁打55本の記録に肖ったもの。}}がおり、二人の活躍とともにそれまで背番号としては格下視されていた55番の価値を上げるとともに、互いに左打ちで長距離打者であったことから'''55番イコール左打ちのパワーヒッター'''というイメージが強まった{{Efn|その後、同じく左打者の[[嶋重宣]]([[広島東洋カープ|広島]])が55番を付けて首位打者を獲得し「[[赤ゴジラ]]」と呼ばれ大ブレイクした例や、近年では[[横浜DeNAベイスターズ|横浜]]に入団した当初の[[筒香嘉智]]や[[オリックス・バファローズ|オリックス]]の[[T-岡田]]、[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]の[[村上宗隆]]が55番を付けた例などがある。}}。
松井がヤンキースへ移籍した後の巨人では、2008年シーズン終了時まで誰も55番をつける選手が現れず、事実上[[永久欠番|準永久欠番]]
エンゼルス移籍時は、在籍中の[[ショーン・オサリバン (野球)|ショーン・オサリバン]]が背番号55をつけていたが、松井に配慮する形で背番号を譲
2012年に[[タンパベイ・レイズ]]へ移籍、5月29日にメジャー
金沢カレーとしてチェーン展開する[[ゴーゴーカレーグループ|ゴーゴーカレー]]は創業者・社長の宮森宏和が同じ石川県出身で、松井が満塁打を放ったことに刺激を受けて起業を決意したということもあり、松井を応援。店名のゴーゴーは背番号の55に由来している。松井が現役時代に本塁打を打った日には、トッピング券配布のサービスを行っていた。レイズで35番に変わった後も何事もなかったように(HP等でもそのことには触れず)トッピング券配布サービスを継続した。
==== 趣味・好物 ====
独身時代は[[アダルトビデオ]](AV)鑑賞が[[趣味]]であることを公言していた。AV鑑賞は本人曰く「
大好物は[[寿司]]<ref name="date">[http://www.hideki.co.jp/profile.html 松井秀喜ベースボールミュージアム - MATSUI HIDEKI BASEBALL MUSEUM 身体データ]</ref>、[[焼肉]]、[[コーヒー]]<ref>[https://megalodon.jp/2009-0818-0215-11/www.sanspo.com/mlb/news/090816/mla0908160502000-n1.htm GODZILLA in USA(16日)] SANSPO.COM
打席に入る際の登場曲は、主に友人でもある[[布袋寅泰]]の「[[BATTLE WITHOUT HONOR OR HUMANITY]]」を使用していたが、他には[[レッド・ツェッペリン]]の「[[移民の歌]]」、[[ビートルズ]]<ref>[https://web.archive.org/web/20061005051209/http://www.hokkoku.co.jp/_today/godzilla/tsuusin/godzilla20030524.htm 松井通信 2003年5月24日 ビートルズの足跡に自分の未来を重ね合わせる]
読書家で知られ、試合前や雨の日には
元相撲少年ということもあって、大の[[大相撲]]ファンである。[[貴乃花光司]](元横綱・貴乃花)とは現役時代に同じ施設でトレーニングに励んでいた間柄。[[高見盛精彦|高見盛]]の隠れファンでもある。[[八百長]]メール問題が発覚した際には、「一相撲ファンとして残念」とコメントを出した<ref>[https://megalodon.jp/2011-0401-0148-11/hochi.yomiuri.co.jp/mlb/news/20110203-OHT1T00277.htm アスレチックス・松井、八百長メール問題に「ファンだから残念」]
▲元相撲少年ということもあって、大の[[大相撲]]ファンである。[[貴乃花光司]](元横綱・貴乃花)とは現役時代に同じ施設でトレーニングに励んでいた間柄。[[高見盛精彦|高見盛]]の隠れファンでもある。[[八百長]]メール問題が発覚した際には、「一相撲ファンとして残念」とコメントを出した<ref>[https://megalodon.jp/2011-0401-0148-11/hochi.yomiuri.co.jp/mlb/news/20110203-OHT1T00277.htm アスレチックス・松井、八百長メール問題に「ファンだから残念」], スポーツ報知(2011-02-03), 2011年4月1日閲覧</ref>。また、石川県出身の同郷ということもあり、[[出島武春|大鳴戸親方]]とも親しい。
==== 慈善活動 ====
1997年の[[ナホトカ号重油流出事故|重油流出事故]]では100万の義援金を寄付<ref>朝日新聞
=== 交友関係 ===
==== 記者・マスコミ ====
「マスコミと良好な関係を築けないようでは、どんなに成績を挙げても選手として失格だ」と自ら話すように<ref>2014年8月18日 産経新聞コラム</ref>、専属広報の[[広岡勲]]や、[[サンケイスポーツ]]記者の阿見俊輔<ref>[https://web.archive.org/web/20050210041841/http://www.sanspo.com/mlb/top/mt200302/mt2003021702.html 【サンスポ40周年】松井のアーチは日本の元気] SANSPO.COM(2003年2月17日)</ref>をはじめとする各スポーツ紙の記者など[[報道機関|マスコミ]]との関係は親密で、ヤンキース移籍後も毎試合後に会見を行い、記者たちの質問にも真摯に答える。延長などで時間が遅くなってしまった場合、取材を優先してユニフォーム姿のまま会見を受けることもある。雑誌や写真週刊誌の取材も
日本テレビアナウンサーの[[河村亮]]とは野球選手と取材するアナウンサーとの間柄で知り合い、"新潟県出身""石川県出身"と言う同じ日本海側で、ざっくばらんに腹を割って話せる仲でプライベートで交流が
松井が
食事を共にした記者に対し、「たまにはいい記事かけよ」<ref>[https://web.archive.org/web/20040410180943/http://www.yomiuri.co.jp/hochi/matsui/godzilla/9.htm 連載・あの日のゴジラ 7番降格で生まれた指揮官との絆] スポーツ報知(2004年4月10日)</ref>、「皆、もう僕の守備のこと悪く書けないね」{{R|hokkoku20030322}}と発言したというエピソードがある。「メディアの後ろに、ファンがいる」という考えを巨人時代から持っており、ニューヨークの地元記者からの信頼も厚い。[[ロバート・ホワイティング]]によれば、松井は初年度のキャンプにおいて、地元NYメディアの番記者たちを食事に招待したが、このようなことをする選手はヤンキースの長い歴史の中でも初めてだったという。しかもその折、松井は自ら所蔵するアダルトビデオを記者たちにプレゼントした。そのこともあり、先述の打撃不振の際
このように
==== チームメイト ====
唯一の高卒同期入団である[[村田善則]]とは、ともに現役を退いた後も食事に出かけるなど親しい関係である<ref>{{Cite
[[川相昌弘]]は巨人在籍中10年間ずっとロッカールームで隣同士だった<ref>{{Cite web
[[上原浩治]]も関係は悪くなく、殊に共に巨人を退団して以降は良好である<ref>{{Cite
巨人時代に共に第一線で活躍した[[清水隆行]]や[[高橋由伸]]は松井に対して強い尊敬
[[ファイル:A's vs Yanks 4406402 Derek Jeter and Hideki Matsui.jpg|thumb|280px|ジーター(右)とハイタッチを交わす松井(2006年)]]
メジャーリーグでは、同い年でヤンキースの主将である[[デレク・ジーター]]との交流が数多く知られていた。独身時代にはジーターと同じマンションに住んでおり<ref>[https://web.archive.org/web/20051126055001/http://sportsnavi.yahoo.co.jp/baseball/mlb/headlines/20051120-00000000-spnavi-spo.html NYの貴公子、松井秀の残留に大喜び!] スポーツナビ(2005年11月20日)</ref>、初めて出会った2003年2月以来、食事を共にしたり
2009年からヤンキースに加入した[[マーク・テシェイラ]]は[[キャッチボール]]のパートナーであり、毎日試合前にキャッチボールを行っていた<ref>[https://megalodon.jp/2009-1116-1904-32/www.sanspo.com/mlb/news/091102/mla0911020530007-n1.htm GODZILLA IN USA(2日)]
==== その他 ====
野球以外の著名人とは幅広い交友関係を持つ。特に[[ギタリスト]]の[[布袋寅泰]]との親交は深く<ref>[https://www.hotei.com/blog/2008/05/nyvol2.html NY通信 vol.2 - HOTEI official BLOG / 布袋寅泰 公式ブログ]</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20100416071038/http://www.sanspo.com/geino/news/091106/gnj0911060519018-n1.htm 布袋寅泰、松井秀に祝福の一文「勇気与えた」]
[[KAT-TUN]]の[[亀梨和也]]<ref>[https://megalodon.jp/2009-1109-1725-41/www.sanspo.com/geino/news/091106/gng0911060516000-n1.htm 亀梨和也、松井秀を祝福「誇りに思う」]
俳優の[[リチャード・ギア]]とは旧知の仲であ
また独身時代は[[原田徳子]]<ref name="narinari20080404">[https://web.archive.org/web/20080409220336/http://www.narinari.com/Nd/2008049170.html 新婚ホヤホヤの松井秀喜選手、「25歳新妻」の素顔と交際エピソード。] Narinari.com(2008年4月4日)</ref>、[[草野満代]]{{Efn|草野はNHK入局後の最初の配属勤務地が[[NHK金沢放送局|金沢放送局]]で、星稜高校1年生の松井を取材した経験があり、プロ入り前から面識を持っていた。}}、[[松たか子]]<ref>週刊女性 2006年7月11日発売号</ref>、[[早坂好恵]]{{R|narinari20080404}}、[[酒井美紀]]{{R|narinari20080404}}、[[戸田菜穂]]{{R|narinari20080404}}<ref>{{Cite web
第85代・第86代[[内閣総理大臣]]・[[森喜朗]]は松井の実家の隣の集落出身(森によると実家同士が500mの距離)で、同じ[[能美市立浜小学校]]の卒業生でもある。森は松井の後援会名誉会長を務めており、ニューヨークまで激励に訪れることもある<ref>[https://megalodon.jp/2009-1110-0207-53/www.sanspo.com/shakai/news/091106/sha0911060503005-n2.htm 森元首相、松井秀MVPに「でかした」]
2006年の大晦日に[[オーケストラ・アンサンブル金沢]]の演奏による松井応援歌「[[栄光の道|栄光(ひかり)の道]]」([[宮川彬良]]作曲、詞は一般公募による)が初演された。オーケストラ・アンサンブル金沢の音楽監督・[[岩城宏之]]の企画によるもので、岩城は同年5月に松井へエールを送っていた。岩城は同年6月に逝去したため、生前に出した最後の手紙となった。
=== ジョー・トーリとの信頼関係 ===
2007年までヤンキース監督を務めた[[ジョー・トーリ]]は松井の入団当初、松井を「ブンブン振り回すホームランバッター」という印象だったが、シーズンが終わる頃には「場面に応じたバッティングが出来る頭のいい選手だ」と評価した。松井はルーキーイヤーのトーリの気遣いに感謝していると語っている<ref>著書 松井秀喜スピリットより</ref>。入団1年目の2003年5月には松井が全く打てない時期があり、ニューヨークの新聞やオーナーの[[ジョージ・スタインブレナー]]がこぞって松井を批判する中でもトーリは松井を擁護し続け、「打てなくても気にするな。守備や進塁打でも立派に貢献しているよ」と励ましの言葉をかけた<ref>[https://www.jiji.com/jc/v2?id=091103matsu_hideki_11 松井救ったトーリ監督の言葉]
松井はトーリについて、自らが寄せる信頼を繰り返し語っていた<ref>[https://megalodon.jp/2009-0320-2130-58/sankei.jp.msn.com/sports/mlb/071020/mlb0710201115004-n1.htm 松井秀、退任のトーリ監督に感謝] MSN産経ニュース(2007年10月20日)</ref>。トーリもまた、契約更改時に「世界中の金を集めてでもヤンキースは松井と契約すべきだ」との賛辞を送っていた。さらに「松井はウチで最も頼れる男なんだ。彼にはいつだって責任感とかキャプテンシーを要求するよ」と断言し、ジーターと並ぶチームの精神的柱になるように求めていた。
909 ⟶ 907行目:
松井のチームの勝利を最優先する献身的な姿勢については、トーリも「日本では50本塁打を打つスーパースターだったのに、こちらでは何でも嫌がらずにやってくれる」と賞賛している<ref name="npn20081121">[https://npn.co.jp/article/detail/66391663/ 野球 原ジャパンに3つの不安] [[リアルスポーツ|内外タイムス]](2008年11月21日)</ref>。
2007年限りでトーリがヤンキースの監督を退き、[[ロサンゼルス・ドジャース|ドジャース]]に移ってからも、信頼関係が揺らぐことはなかった。2008、2009年は対戦機会がなかったが、エンゼルスに移籍した2010年3月のオープン戦で久々に対面。その後も、ドジャースとの対戦の際には挨拶を交わしている。同年11月、松井がニューヨークで行われたトーリ主催の慈善基金パーティーに出席した際、トーリは「マツイがどのチームに行っても応援できる」と語った<ref>共同通信
2012年に松井が現役引退を発表すると、トーリは「彼の監督だったことを誇りに思う」とコメントした{{R|zakzak20121228}}。
=== イチローとの関係 ===
[[1990年代]]中盤以降、松井と[[イチロー]]はタイプが全く違う選手だが、強打・巧打のそれぞれでずば抜けた実力を持つ2人は同じ時期に日本に在籍しメジャーリーグでもプレーをしていたため、ことあるごとに比較の対象となった<ref>[https://megalodon.jp/2009-1109-1739-30/www.sanspo.com/mlb/news/091108/mla0911080503003-n1.htm 松井秀、外野復帰「一時も薄れたことはない」 (1/2ページ)]
1歳年上のイチローは中学時代には既に松井の名前を知っていたという<ref name="ichiro">[https://megalodon.jp/2012-1229-2350-17/sankei.jp.msn.com/sports/news/121229/mlb12122906310000-n1.htm ただただ寂しい…イチロー、松井秀は「僕とまったく違う思考」] MSN産経ニュース 2012年12月29日閲覧</ref>。1990年6月24日に星稜高校のグラウンドで行われた[[愛知工業大学名電中学校・高等学校|愛工大名電]]との練習試合で2人は初めて顔を合わせた。その時に一塁ベース上で会話をしたことをイチローは覚えていた。イチローは「一人、でかい選手がいて、振りがすごく速い。それが松井君でした」と語っている。松井は「イチローさんの打撃はうまかった。左へ右へきれいに打ち分けていたなあ」と述懐している{{R|1996ns}}。翌年に愛工大名電の合宿所で再び顔を合わせた際には、風呂で偶然一緒になり、その後2人きりで将来のプロ入りについての会話をしている。松井はこの時のことは鮮明に覚えているという。共に高校野球界で頭抜けた存在だった2人は、当時から既に互いを意識していた<ref>[https://web.archive.org/web/20061005050425/http://www.hokkoku.co.jp/_today/godzilla/tsuusin/godzilla20041003.htm 松井通信 2004年10月3日 松井とイチロー 2人きり「密談」]
[[1996年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|1996年のオールスターゲーム]]第2戦では、9回裏二死走者なし、打者松井の場面で[[パシフィック・リーグ|全パ]]の[[仰木彬]]監督が[[イチロー]]をマウンドに送ったが、[[セントラル・リーグ|全セ]]監督の[[野村克也]]は松井に代打[[高津臣吾]]を送ったため、両者の対戦は実現しなかった。松井は「野村(監督)さんに『どうする』と聞かれたんで『どっちでもいいです』と答えたら、『なら代われ』と言われた」とコメント。また、「仰木さんの遊び心が出たんでしょうけど、自分が監督ならやらないと思う。野手には野手、投手には投手の役割がありますから」と語っている<ref>(2010-06-23)[https://megalodon.jp/2010-0820-1837-58/www.sanspo.com/mlb/news/100623/mla1006230503002-n2.htm 米が注目「ゴジVsイチ幻の対決」特集予定]
日本時代は異なるリーグに所属していたため、交流する機会はほとんどなかったが、マリナーズと同じ[[アメリカンリーグ]]に所属するヤンキースに移籍後は、対戦の際にしばしば松井の方からイチローへ挨拶に赴いていた。2003年5月7日のマリナーズ対ヤンキース戦では、4回一死三塁(走者は松井)の場面で、フェンス手前への大飛球をキャッチしたイチローが、本塁へノーバウンドの大返球をみせた。到底間に合わないタイミングであったが、イチローは「松井を刺せばネタになるでしょ。100パーセント意識しましたよ」と語った<ref>「ICHIRO YEAR BY YEAR 2001-2009」 『月刊スラッガー』2009年10月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-10、16頁。</ref>。同年の[[2003年のMLBオールスターゲーム|オールスター戦]]では、試合前にはイチローから「一緒にやろうよ」と声をかけられ、2人でキャッチボールを行った<ref>[https://web.archive.org/web/20061005042523/http://www.hokkoku.co.jp/_today/godzilla/tsuusin/godzilla20030716.htm 北國新聞 2003年7月16日 球宴初球ヒット 「思い切り詰まった」と苦笑い]
2004年には、イチローは松井の印象について「愛嬌のある雰囲気というか、プレーそれぞれに憎めなさがある」と語っていた<ref>木本大志
2009年9月にイチローが史上初の9年連続200本安打を達成した際には、松井は「球をバットの芯でとらえる技術は大リーグでもトップクラス」、「イチローさんは常にファンを魅了することを意識しているのがすごい」とイチローを賞賛するコメントを出した<ref>[http://www.jiji.com/jc/zc?k=200909/2009091400560 イチローの安定感に敬服=「大きなけがもない」と松井秀-米大リーグ]
2012年7月、イチローがヤンキースに電撃移籍した折には、アメリカでも二人の比較論が盛んに交わされた<ref>[http://sankei.jp.msn.com/sports/news/120726/mlb12072618180016-n1.htm NYで「比較論」真っ盛り イチローと松井] {{Wayback |url=http://sankei.jp.msn.com/sports/news/120726/mlb12072618180016-n1.htm |date=20121113162919
2012年12月、松井が現役引退を発表すると、イチローは「中学生の時から存在を知る唯一のプロ野球選手がユニホームを脱ぐことが、ただただ寂しい」と感傷的なコメントを出した{{R|ichiro}}<ref>[https://megalodon.jp/2012-1228-2256-53/www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/f-bb-tp2-20121228-1065529.html イチロー「ただただ寂しい」/松井引退] nikkansports.com 2012年12月28日閲覧</ref>。
2024年9月23日に行われたイチロー選抜の[[KOBE CHIBEN]]と高校野球女子選抜戦のエキシビジョンマッチには松井の参戦が実現し、それに伴い行われたインタビューでイチローは松井と再会するならユニフォームを着て再会したいと考えていたこと、また共に野球界を盛り上げた存在がいたことは非常に幸せだったと発言している<ref>{{Cite web ja |url=https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/1439663?display=1 |title=イチロー氏が松井秀喜氏を語る 参戦決断に「痺れました」再会するなら「やっぱりユニフォームを着て」【独占インタビュー】 |website=[[TBS NEWS DIG]] |date=2024-09-22 |accessdate=2024-10-29}}</ref>。
=== ヤンキースGM特別アドバイザー ===
実務としてはマイナーリーグ全カテゴリの巡回コーチであり、直接の打撃指導をしながらその傍らでルーキーリーグなら1A、3Aならメジャーのように、上のカテゴリでも活躍できるであろう打者を見抜いてそれぞれの監督に進言する役もこなしていた。そうしてメジャー昇格を果たした選手の中には[[アーロン・ジャッジ]]、[[ゲーリー・サンチェス]]らがいる<ref>{{Cite web ja |
=== WBC辞退 ===
941行目:
11月27日の段階では、「何も考えていません」と答えていたが<ref>[https://web.archive.org/web/20060318125335/http://www.sanspo.com/baseball/top/bt200511/bt2005112902.html “主将の座”で口説く!王監督がゴジラにWBC出場要請へ] SANSPO.COM(2005年11月29日)</ref>、29日の段階では、「みんなが『WBCに出てください』という感じになれば、そりゃ、出ますよ」と発言する<ref>http://www.yomiuri.co.jp/hochi/major/nov/o20051129_10.htm{{リンク切れ|date=2009年7月}}</ref>など、前向きな姿勢を示すようになっていた。しかし、12月2日、監督の[[王貞治]]から正式に出場要請を受けた後は「(4番や主将など)そういうふうに言ってくれるのは光栄ですが、それ以上のことは言えません」として返答は保留した<ref name="sanspo20051227">[https://web.archive.org/web/20051228040010/http://www.sanspo.com/mlb/top/mt200512/mt2005122701.html 松井秀、WBC出場辞退!「ヤ軍で世界一を目指したい」] SANSPO.COM(2005年12月27日)</ref>。7日には、ヤンキースのキャッシュマンGMが松井のWBC出場を容認する意向を示したと報じられたが、松井本人は慎重な姿勢を崩さなかった<ref>[https://www.narinari.com/Nd/2005125308.html ヤンキース、松井秀喜外野手のWBC出場を容認。] Narinari.com(2005年12月7日)</ref>。その後、1次候補選手に名前が入るという情報{{Efn|実際は外野手1名分を空席にしたままで発表された。}}を知らされると、「返事してないのに、俺の名前を入れちゃうわけ!?」と困惑しきりであった<ref>[https://web.archive.org/web/20051211063806/http://www.zakzak.co.jp/spo/2005_12/s2005120909.html 松井ミュージアムに日テレの鼻息 WBC放映権「ぜひ出場を」] ZAKZAK(2005年12月9日)</ref>。さらに3日後の11日には、「(WBCに)出たくない」という松井の本音が報じられた<ref>[https://web.archive.org/web/20051212054301/http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2005/12/11/10.html 松井秀“WBC出場”へプレッシャー?] Sponichi Annex(2005年12月11日)</ref>。
14日にはヤンキースへの貢献を優先することと、商業主義が見え隠れするWBCの開催に賛同しかねたことを主な理由として出場辞退の意向を固めた<ref>[https://web.archive.org/web/20051215084425/http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2005/12/14/01.html 松井秀WBC辞退へ…趣旨に疑問] Sponichi Annex(2005年12月14日)</ref>。さらに、一部メディアではヤンキースのキャッシュマンGMからWBC欠場を要請する“親書”が届けられていたことが報じられた<ref>[https://web.archive.org/web/20051216115955/http://www.sanspo.com/mlb/top/mt200512/mt2005121501.html 松井秀WBCやっぱりダメ!!ヤ軍から親書“出ないでくれ”] SANSPO.COM(2005年12月15日)</ref>。しかし、地元紙[[デイリーニューズ (ニューヨーク)|ニューヨーク・デーリーニューズ]]の報道によると、ヤ軍がWBC事務局に不参加を要請した選手は年齢や故障が理由とされた先発投手[[マイク・ムシーナ]]、捕手[[ホルヘ・ポサダ]]など4名のみであり、松井への不参加要請などはなく、一部メディアの虚報であることが明らかになった<ref>[https://web.archive.org/web/20051217133150/http://www.nikkansports.com/ns/baseball/mlb/p-bb-tp2-051215-0005.html 松井の名前なし!ヤ軍WBC不参加要請] nikkansports.com(2005年12月15日)</ref>。約2週間後には、ヤンキースのスモール球団代表もそのような文書の存在を否定した<ref>http://sports.livedoor.com/baseball/major/detail?id=2367381{{リンク切れ|date=2009年7月}}</ref>。この“親書”報道について、2008年にキャッシュマンGM自身も「まったくのデタラメ」だと語っている<ref>[https://megalodon.jp/2008-1114-1404-37/www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/p-bb-tp2-20081114-429301.html WBCダメ!ヤ軍GM松井出場を完全否定] nikkansports.com(2008年11月14日)</ref>。また、一部報道による、「イチローに騙された」といった類いの、根拠に乏しい憶測が書きたてられることもあった。このような過程による松井の出場辞退に関して、日本ばかりでなく米国、メジャーリーグ選手会やWBC関係者からも大きく批判の声が上がった<ref>[https://web.archive.org/web/20060110171556/http://chuspo.chunichi.co.jp/00/ichiro/20060105/spon____ichiro__000.shtml WBC不参加のゴジラを選手会チクリ 米紙が特集で掲載] 中日スポーツ(2006年1月5日)</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20120118084440/http://sports.livedoor.com/article/detail-2810178.html ラソーダ氏、松井、井口を痛烈批判]
王側は
大会期間中、松井は日本代表の試合をテレビ観戦していた<ref name="wbc1">[https://web.archive.org/web/20101123153614/http://hokkoku.co.jp/_today/godzilla/tsuusin/godzilla20060313.htm 松井通信 2006年3月13日 10打席ぶり安打。でも不満「まだ調整段階」表情さえず。WBCはテレビ観戦「楽しみにしている」] 北國新聞</ref>。しかし、既にWBC辞退とそこに至るまで二転三転した経緯から、松井への批判が強まり
また、同年4月14日付け『[[フライデー (雑誌)|フライデー]]』誌上のインタビューでは、辞退の理由を「この時期にベストパフォーマンスを見せられる自信がない」とした上で、次回大会以降も開催時期が変わらないようであれば出場は難しいとの見解を明らかにした。
951行目:
2006年の年末には、[[テレビ東京]]系列『[[日経スペシャル カンブリア宮殿]]』内の企画で[[サッカー]]元[[サッカー日本代表|日本代表]]の[[三浦知良]]と対談した際、WBC辞退について、「サッカーに比べると野球はまだ[[ナショナリズム]]が弱いスポーツ。それが強くなっていった時、チャンスがあればやりたいし、国の誇りを感じられるんじゃないかと思う」と話した<ref>[https://web.archive.org/web/20070109221707/http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2006/12/24/05.html 松井秀&カズ 10年後も現役!] Sponichi Annex(2006年12月24日)</ref>。
3年後の2009年シーズン開幕前には、『Number』誌上のインタビューにおいて
==== 第2回大会 ====
2008年シーズン中盤から予定されていた左膝の手術を9月22日まで引き伸ばした時点で、WBC出場の可能性は無くなったとされた<ref>[https://megalodon.jp/2009-0320-1512-57/www.sanspo.com/mlb/news/080923/mla0809230430005-n2.htm 松井秀「来年は気持ちも体も一新して」] SANSPO.COM(2008年9月23日)</ref>。
専属広報の[[広岡勲]]によると、松井が出場を希望したのは、大型契約を結んだばかりで
『Number』誌上のインタビューでは、身体の状態が万全でなかったことが辞退の直接の理由となったことを改めて明言。さらに、4年後の[[2013 ワールド・ベースボール・クラシック|第3回大会]]には、年齢的な理由から出場の可能性が低いことを認め、「それは仕方ない。
==== 第3回大会 ====
日本代表の監督に就任した[[山本浩二]]が2012年10月10日の就任会見でメジャーリーガーの代表入りについて問われた際、「ダル、イチロー、青木、黒田…。そういう選手が軸になるわけやから。松井もブランクはあるけど、練習はやっていると聞いている。大リーグ経験者には当然出てほしい。松井の動向は気にしている? そうだね。松井もイチローも、それだけの実績を残している選手は、力強いものを持っている」と述べていた
=== その他 ===
かつて[[中央競馬]]に「ヨバンマツイ」なる競走馬が在籍していた<ref>{{Cite web
学生時代、[[松山ホステス殺害事件]]の犯人で整形手術をして逃亡中だった[[福田和子]]が石川県根上町の和菓子屋の内縁の座にいた際、松井は客としてよく菓子を買いに来て福田
== 詳細情報 ==
973行目:
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|1993}}
|rowspan="10" style="text-align:center; white-space:nowrap;"|[[読売ジャイアンツ|巨人]]
|57||203||184||27||41||9||0||11||83||27||1||0||0||0||17||0||2||50||1||.223||.296||.451||.747
|-
1,046行目:
=== 年度別打撃成績所属リーグ内順位 ===
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:
|-style="line-height:1.25em;"
! 年<br /><br />度 !! [[年齢|年<br /><br />齢]] !! 機<br /><br />構 !! リ<br />|<br />グ !! 打<br /><br />率 !! 本<br />塁<br />打 !! 打<br /><br />点 !! 盗<br /><br />塁 !! 安<br /><br />打 !! 出<br />塁<br />率
1,053行目:
| - || - || - || - || - || -
|-
|'''1994'''|| 20 || - || 9位 || - || - || 6位 || -
|-
|'''1995'''|| 21 || - || 5位 || 4位 || 10位 || 6位 || -
|-
|style="background:gold;"|'''1996'''|| 22 || 7位 || style="background:silver;" | 2位 || 4位 || - || 6位 || 7位
|-
|'''1997'''|| 23 || - || style="background:silver;" | 2位 || style="background:silver;" | 2位 || - || 10位 || style="background:silver;" | 2位
|-
|'''1998'''|| 24 || - || style="background:gold;" | 1位 || style="background:gold;" | 1位 || - || 8位 || style="background:gold;" | 1位
|-
|'''1999'''|| 25 || 9位 || style="background:silver;" | 2位 || 5位 || - || - || style="background:#cc9966;" | 3位
|-
|style="background:gold;"|'''2000'''|| 26 || style="background:#cc9966;" | 3位 || style="background:gold;" | 1位 || style="background:gold;" | 1位 || - || 9位 || style="background:gold;" | 1位
|-
|'''2001'''|| 27 || style="background:gold;" | 1位 || style="background:silver;" | 2位 || style="background:#cc9966;" | 3位 || - || 5位 || style="background:silver;" | 2位
|-
|style="background:gold;"|'''2002'''|| 28 || style="background:silver;" | 2位 || style="background:gold;" | 1位 || style="background:gold;" | 1位 || - || style="background:#cc9966;" | 3位 || style="background:gold;" | 1位
|-
|'''2003'''|| 29 ||rowspan="10"|MLB||rowspan="10"| [[アメリカンリーグ|ア・リーグ]]
| - || - || 10位 || - || - || -
|-
|'''2004'''|| 30 || - || - || 10位 || - || - || 10位
|-
|'''2005'''|| 31 || 7位 || - || 8位 || - || 9位 || -
|-
|2006|| 32 || - || - || - || - || - || -
|-
|'''2007'''|| 33 || - || - || - || - || - || -
|-
|2008|| 34 || - || - || - || - || - || -
|-
|'''2009'''|| 35 || - || - || - || - || - || -
|-
|'''2010'''|| 36 || - || - || - || - || - || -
|-
|'''2011'''|| 37 || - || - || - || - || - || -
|-
|2012|| 38 || - || - || - || - || - || -
|}
* - は10位未満(打率、出塁率は規定打席未到達の場合も-と表記)
* '''太字年度'''は規定打席到達年度、年度背景色金色は[[最優秀選手 (日本プロ野球)|最優秀選手賞(MVP)]]受賞年度
* NPBに於ける打撃タイトルは、首位打者、最多本塁打、最多打点、最多盗塁、最多安打、最高出塁率
* MLBに於ける打撃タイトルは、首位打者、最多本塁打、最多打点、最多盗塁
1,118 ⟶ 1,119行目:
|.438||.182||.619
|-
|style="text-align:center;"|'''{{by2|2009}}'''
|15||52||43||5||15||2||0||4||23||13||0||0||0||0||9||0||0||10||8
|.349||.462||.674||1.136
1,125 ⟶ 1,126行目:
|56||235||205||32||64||15||1||10||111||39||0||0||0||2||27||2||1||33||12||.312||.391||.541||.933
|}
* '''太字年度'''は[[ワールドシリーズ最優秀選手賞|ワールドシリーズMVP]]受賞年度
=== 年度別守備成績 ===
; 巨人時代
{| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:small;"
!rowspan="2"|年<br />度!!rowspan="2"|球<br />団!!colspan="6"|[[外野]]
|-style="line-height:1.25em; text-align:center;"
!試<br /><br />合!![[刺殺|刺<br /><br />殺]]!![[補殺|補<br /><br />殺]]!![[失策|失<br /><br />策]]!![[併殺|併<br /><br />殺]]!![[守備率|守<br />備<br />率]]
|-
|style="text-align:center;"|1993
|rowspan="10" style="text-align:center; white-space:nowrap;"|巨人
|48||68||1||1||0||.986
|-
|style="text-align:center;"|1994
|130||238||6||5||1||.980
|-
|style="text-align:center;"|1995
|131||260||10||3||2||.989
|-
|style="text-align:center;"|1996
|130||215||10||6||2||.974
|-
|style="text-align:center;"|1997
|135||287||10||7||4||.977
|-
|style="text-align:center;"|1998
|135||277||12||4||1||.986
|-
|style="text-align:center;"|1999
|134||240||3||1||1||.996
|-
|style="text-align:center;"|'''2000'''
|135||278||7||2||1||.993
|-
|style="text-align:center;"|'''2001'''
|140||278||4||6||2||.979
|-
|style="text-align:center;"|'''2002'''
|140||262||5||2||0||.993
|-
!colspan="2"|通算
|1258||2403||68||37||14||.985
|}
* '''太字年'''は[[ゴールデングラブ賞]]の受賞
; MLB時代
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:small;"
!rowspan="2"|年<br />度!!rowspan="2"|球<br />団!!colspan="6"|[[左翼手|左翼手(LF)]]!!colspan="6"|[[中堅手|中堅手(CF)]]!!colspan="6"|[[右翼手|右翼手(RF)]]
|-style="line-height:1.25em;"
!試<br /><br />合!!
|-
|style="text-align:center;"|2003
|rowspan="6" style="text-align:
|118||210||11||'''7'''||'''3'''||.969||46||110||2||1||1||.991||colspan="6" style="text-align:center;"|-
|-
1,152 ⟶ 1,195行目:
|-
|style="text-align:center;"|2010
|rowspan="1" style="text-align:
|18||16||1||0||0||1.000||colspan="6" style="text-align:center;"|-||colspan="6" style="text-align:center;"|-
|-
|style="text-align:center;"|2011
|rowspan="1" style="text-align:
|27||53||3||1||2||.982||colspan="6" style="text-align:center;"|-||colspan="6" style="text-align:center;"|-
|-
|style="text-align:center;"|2012
|rowspan="1" style="text-align:
|9||6||0||0||0||1.000||colspan="6" style="text-align:center;"|-||6||8||0||0||0||1.000
|-
1,188 ⟶ 1,231行目:
* [[IBMプレイヤー・オブ・ザ・イヤー賞]]:4回(1996年 - 1998年、2000年)
* [[ゴールデンスピリット賞]]:1回(1999年)
* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]MVP:3回(
* [[出身地別東西対抗戦]]優秀選手:2回(1999年、2001年)
* [[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]MVP:1回([[2000年の日本シリーズ|2000年]])
1,204 ⟶ 1,247行目:
; その他表彰
* グッドガイ賞:1回(2003年)※全米野球記者協会(BBWAA)のニューヨーク支部が取材対象である選手の人柄を評価する賞<ref>[http://www.47news.jp/CN/200311/CN2003110601000054.html 「グッドガイ賞」に松井 日本人では吉井以来2人目] {{webarchive |url=https://web.archive.org/web/20111222140147/http://www.47news.jp/CN/200311/CN2003110601000054.html |date=2011
* [[日本プロスポーツ大賞]]・内閣総理大臣杯
** 大賞:2回(2000年、2003年)
1,211 ⟶ 1,254行目:
* [[毎日スポーツ人賞]]:3回(2002年、2003年、2009年)※2002年はファン賞、2003年は国際賞、2009年は特別賞での受賞
* [[新語・流行語大賞]] 特別賞(2003年、「Godzilla」)
* [[Sports_Graphic_Number#ナンバーMVP賞|ナンバーMVP賞]](2003年)
* [[在ニューヨーク日本国総領事館|在ニューヨーク日本総領事館]][[在外公館長]]表彰<ref>[http://mainichi.jp/select/wadai/news/20091114dde041050008000c.html 米大リーグ:「誇り胸に闘い続ける」 ヤンキース・松井秀選手に在外公館長表彰] {{Wayback |url=http://mainichi.jp/select/wadai/news/20091114dde041050008000c.html |date=20091117054320
* [[東京スポーツ映画大賞#ビートたけしのエンターテインメント賞|ビートたけしのエンターテインメント賞]]
** 50周年特別賞(2009年)
** 特別賞(2012年)
1,238 ⟶ 1,281行目:
* 通算四球数:844(1993年 - 2002年) ※実働10年間にも関わらず歴代31位
* リーグ外野手[[守備率#アウト寄与率・レンジファクター|レンジファクター(RF/G)]]1位:1回(2000年:2.11)<ref>[http://number.bunshun.jp/articles/-/14049 過去20年で最高の外野手は誰だ?~記録で見る真実の「守備力」~] プロ野球 - Number Web、2016年3月17日閲覧。</ref>
* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場:9回
* オールスターゲーム3試合連続本塁打([[2001年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|2001年]]) ※史上初。[[中村紀洋]]と同時に達成。
* 4試合での[[日本シリーズ]]5四球([[2002年の日本シリーズ|2002年]]) ※[[山内一弘|山内和弘]]と並んでシリーズタイ記録
* レギュラーシーズン、日本シリーズ、オールスターゲームでMVP選出 ※[[川上哲治]]、[[大下弘]]、[[福本豊]]、[[トーマス・オマリー]]、[[古田敦也]]に次いで史上6人目
* リーグ最多得点:3年連続5回 ※ともに[[王貞治]]に次ぐセ・リーグ歴代2位
1,253 ⟶ 1,296行目:
* リーグチャンピオンシップシリーズ1試合最多安打:5(2004年第3戦) ※タイ記録
* リーグチャンピオンシップシリーズ1試合最多得点:5(2004年第3戦) ※タイ記録
* [[MLBオールスターゲーム]]選出:2回
; NPB/MLB通算記録
※歴代記録はMLBの記録を含めているため参考記録。(順位は2023年現在)
* 通算[[試合#野球|出場試合]]数:2504
* 通算[[打席]]数:10562
* 通算[[打数]]:9014
* 通算[[得点_(野球)|得点]]数:1557
* 通算[[安打#安打に関する個人記録|安打]]数:2643
* 通算[[二塁打]]数:494
* 通算[[本塁打]]数:507
** 通算[[満塁本塁打]]数:12
** 通算サヨナラ本塁打数:8
* 通算[[長打]]数:1029
* 通算[[塁打]]数:4714
* 通算[[打点]]数:1649
* 通算[[犠牲フライ|犠飛]]数:92
* 通算[[四球#四球数に関する記録|四球]]数:1391
* 通算[[出塁]]数:4094
* 通算[[三振]]数:1623
* NPB/MLB通算1768試合連続出場(1993年8月22日 - 2006年5月11日) ※これを超える記録はNPBで[[衣笠祥雄]]、[[鳥谷敬]]、MLBで[[カル・リプケン・ジュニア]]、[[ルー・ゲーリッグ]]のみ
* NPB/MLB通算2000安打(2007年5月6日)
1,299 ⟶ 1,342行目:
=== 著書 ===
==== 単著 ====
* 『ゴジラの青春』([[学研ホールディングス|学習研究社]]、1994年、ISBN 978-4054003934)
* 『語る:大リーグ1年目の真実』([[朝日新聞社]]、2003年12月、ISBN 4022578904)
** 『大リーグの真実』(『語る:大リーグ1年目の真実』の改題、[[朝日文庫]]、2005年4月、ISBN 4022614641)
1,322 ⟶ 1,365行目:
** 『松井秀喜王者の伝説』(2000年9月、ISBN 4898090621)
* 『松井秀喜:星とバットと』([[松下茂典]]著、東京書籍、1994年)
* 『松井秀喜物語:少年時代から今日までの、すべてを明かす』([[広岡勲]]文、[[学研ホールディングス|学習研究社]](学研のノンフィクション)、1998年6月、ISBN 4052009908)
* 『松井秀喜:ゴジラパワーの秘密』([[広岡勲]]著、[[講談社]](火の鳥人物文庫)、2002年3月、ISBN 4062712067)
* 『松井秀喜物語:愛猫ナナとたどったホームラン・ロード』([[高橋功一郎]]漫画、市田実プロット、[[てんとう虫コミックス|てんとう虫コミックススペシャル]]、2002年11月、ISBN 4091497527)
* 『ひでさん:松井秀喜運命の糸をたどって』(赤城ひろ子著、[[光文社]]、2002年12月、ISBN 4334973698/[[講談社文庫]]、ISBN 9784062762663)
* 『心が変われば:山下智茂・松井秀喜を創った男』(松下茂典著、[[朝日新聞社]]、2003年9月、ISBN 402257853X)
* 『松井秀喜僕には夢がある』(広岡勲著、[[学研ホールディングス|学習研究社]]、2004年3月、ISBN 4054020038)
* 『松井秀喜:メジャーにかがやく55番』(2004年4月刊)
* 『松井秀喜メジャー物語:ゴジラ・松井は世界の頂点を目指す!』(2005年4月刊)
1,335 ⟶ 1,378行目:
* 『松井秀喜55の言葉』(松下茂典著、[[東京書籍]]、2006年6月、ISBN 448779921X)
* 『松井秀喜バイオグラフィ』(広岡勲著、ディック・ベルチャー訳、オフィスルリ監修、IBCパブリッシング (やさしい英語を聴いて読むIBCオーディオブックス)、2008年7月、ISBN 9784896848144)
* 『巨人軍5000勝の記憶』([[読売新聞社]]、[[ベースボール・マガジン社]]、2007年) p. 78 他多数 ISBN 9784583100296
* 『松井秀喜に学ぶ壁をブチ破る「心の持ち方」』([[児玉光雄]]著、[[東邦出版]]、2008年3月、ISBN 9784809406904)
* 『七割の憂鬱:松井秀喜とは何か』([[村松友視]]著、小学館、2009年3月、ISBN 9784093878500)
* 『イチローvs松井秀喜:相容れぬ2人の生き様』([[古内義明]]著、[[小学館101新書]]、2010年4月、ISBN 4098250780)
* 『松井秀喜困難を乗り越える言葉』(「松井秀喜困難を乗り越える言葉」編纂委員会編、[[ぴあ]]、2010年7月、ISBN 9784835617657)
* 『松井秀喜あきらめない心:夢の頂点へ』(広岡勲著、[[Gakken|学研教育出版]]、2010年7月、ISBN 9784052032691)
* 『松井秀喜:夢への扉を開け!』(ベースボールマガジン社編、ベースボール・マガジン社(スポーツスーパースター伝 1)、2010年8月、ISBN 9784583102665)
* 『松井秀喜試練を力に変えて:5打席連続敬遠20年目の真実』(ベースボール・マガジン社、2012年7月、ISBN 9784583104867)
* 『ありがとう松井秀喜:全試合、全507ホームランDATA完全収録』([[北國新聞|北國新聞社]](『[[月刊北國アクタス]]』臨時増刊))、2013年1月、ISBN 9784833019187)
* 『松井秀喜の言葉』(鷲田康著、[[廣済堂出版]]、2013年3月、ISBN 9784331517130)
* 『松井秀喜の言葉力』([[週刊ベースボール]]編、ベースボール・マガジン社、2013年3月、ISBN 9784583105444)
1,369 ⟶ 1,412行目:
* 独占!長嶋茂雄の真実〜父と娘の40年物語〜([[TBSテレビ|TBS]]、2015年1月3日)
* [[池上彰]]×松井秀喜 in キューバ([[テレビ東京]]系、2020年5月6日)
==== テレビ番組 ====
* [[日経スペシャル カンブリア宮殿|カンブリア宮殿]] 「ヒーローは走り続ける」(テレビ東京、2007年1月8日)- ニューヨーク・ヤンキース在籍時に出演<ref>[https://www.tv-tokyo.co.jp/cambria/backnumber/2007/0108/ 「ヒーローは走り続ける」] - テレビ東京 2007年1月8日</ref>
==== 映画 ====
* 『[[ゴジラ×メカゴジラ]]』(2002年) - 本人役で出演{{R|365日157}}。
==== 配信映画 ====
* Shohei Ohtani - Beyond the Dream([[Disney+]]・[[ESPN+]]、2023年配信)<ref>{{Cite web ja |
==== ラジオ ====
1,383 ⟶ 1,429行目:
==== CM ====
* [[ソニー・インタラクティブエンタテインメント|ソニー・コンピュータエンタテインメント]] 『MLB 2003』(2003年)
* [[日本航空]](2003年) - 国内線機材の[[ボーイング747-400]]と[[エアバスA300]]にスペシャルマーキング「松井ジェット」として写真が使われた。
* [[2006 FIFAワールドカップ]][[サッカー日本代表|日本代表]]応援CM(2006年)
* [[アサヒビール]]「[[アサヒスーパードライ]]」
* [[雪印乳業]]→[[ロッテアイス|ロッテスノー]]「WAVE」「シェ・ミルク」「トルコ風アイス」
* [[エヌ・ティ・ティ・ドコモ北陸|NTTDoCoMo北陸]]
* [[富士通]]「オアシス・LX-S5000」
* [[大塚製薬]]「[[オロナミンCドリンク|オロナミンC ロイヤルポリス]]」
* [[花王]]「[[ヘルシア|ヘルシアコーヒー]]」(2014年)
* [[カゴメ]]「[[カゴメ・野菜生活100|野菜生活100]]」
* [[IDOM]]「ガリバー」
* [[キャリアデザインセンター]]「Type」
1,401 ⟶ 1,447行目:
* [[東芝]]「[[Qosmio]]」「[[REGZA]]」「[[VARDIA]]」
* [[久光製薬]]「[[久光製薬商品一覧|エアーサロンパスEX]]」
* [[ミサワホーム]] 「SMART STYLE」
* [[ミズノ]]
* [[明治安田生命]]「ライフアカウントL.A.ダブル」
* [[吉野家]]
* [[日本野球機構]]・[[日本ソフトボール協会]]・[[日本野球連盟]](2015年)
* [[バイク王&カンパニー]]「バイク王」(2015年)<ref>{{Cite web
* [[テンピュール・シーリー・ジャパン]](2018年 - )
=== 漫画 ===
* 『[[ドカベン プロ野球編]]』 オールスター戦、日本シリーズでも登場。
1,424 ⟶ 1,471行目:
{{Reflist|3
|refs=
<ref name="FCGMG">{{Cite book
<ref name="365日88">{{Harvnb|ゴジラ365日|2016|p=88|loc=「3月26日 / 3月27日」}}</ref>
<ref name="365日157">{{Harvnb|ゴジラ365日|2016|p=157|loc=「6月11日 / 6月12日」}}</ref>
}}
1,431 ⟶ 1,480行目:
* [[赤木ひろこ]]「ひでさん - 松井秀喜ができたわけ」講談社(2002年)ISBN 4-334-97369-8
* 広岡勲「松井秀喜メジャー物語:ゴジラ・松井は世界の頂点を目指す!」[[学研プラス]](2005年)ISBN 4-05-202317-X
* {{Cite book|和書|author=野村宏平|author2=冬門稔弐|title=ゴジラ365日|date=2016-11-23|publisher=[[洋泉社]]|series=[[映画秘宝]]COLLECTION|isbn=978-4-8003-1074-3|ref={{SfnRef|ゴジラ365日|2016}}}}
== 関連項目 ==
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[[Category:1974年生]]
[[Category:存命人物]]
[[Category:最高出塁率 (NPB)]]
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