「応仁の乱」の版間の差分
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応仁元年(1467年)5月、東軍はかつての[[播磨国|播磨]]守護赤松氏の一門[[赤松政則]]が山名分国の[[播磨国]]に侵攻し奪還した。また[[武田信賢]]・[[細川成之]]らが[[若狭国]]の[[一色氏]]の領地へ、[[斯波義敏]]が[[越前国]]へ侵攻した。[[美濃国|美濃]][[土岐氏]]一門の[[土岐政康|世保政康]]も旧領であった一色氏の[[伊勢国]]を攻撃している。
そして、5月26日に京都での戦いが始まる([[上京の戦い]])。夜明け前、東軍は[[成身院光宣]]([[興福寺]][[衆徒]])が室町第西隣の一色義直邸に近い正実坊を、武田信賢が実相院を占拠した<ref>宮本義己『応仁の乱に生きる』下(日本放送出版協会、1994年)</ref>。武田信賢・細川成之の軍が続いて一色邸を襲撃し、義直は直前に脱出したものの屋敷は焼き払われた。[[細川勝元]]は戦火から保護するという名目で室町第を押さえて将軍らを確保し、自邸(今出川邸)に本陣を置いた。勝元は匿っていた[[畠山政長]]を含む自派の諸将兵に応じるよう呼びかけた。また西軍についた幕府奉行衆の責任を追及し、[[6月11日 (旧暦)|6月11日]]には恩賞方を管轄していた[[飯尾為数]]が殺され、8月には[[伊勢貞藤]](貞親の弟)が追放された{{Sfn|吉田|p=336}}。[[File:Onin-War-1467-1477-The-Battle-of-Onin-by-Utagawa-Yoshitora.png|thumb|300px|応仁の乱]]京都で開戦した26日、西軍は[[斯波義廉]](管領)配下の朝倉・甲斐氏の兵が[[山名宗全]]邸南側の[[細川勝久]]邸を攻めて細川勢と激戦を展開し、東から援軍に来た[[京極持清]]を返り討ちにした。東軍の赤松政則は南下して正親町を通り、猪熊に攻め上って斯波勢を退け、細川勝久はこの隙を見て東の細川成之邸に逃げ込んだ。西軍は勝久邸を焼き払い、さらに成之邸に攻め寄せ雲の寺、[[知恩寺|百万遍]]の仏殿・[[行願寺|革堂]]にも火を放ち成之邸を攻撃したが東軍の抵抗で勝敗は決せず、翌日両軍は引き上げた。この合戦による火災のため、京都は北の[[船岡山]]から南の二条通りまでの一帯が延焼した{{sfnm|1a1=石田|1pp=209-210|2a1=小川|2pp=167-169}}。将軍義政は[[5月28日 (旧暦)|28日]]に両軍に和睦を命じ、勝元の行動を非難しながら、義就には[[河内国|河内]]下向を指示し、また伊勢貞親に軍を率いて上洛させるなど乱の収束と復権に向けた動きを取っていた{{Sfn|永原|p=265}}。
ところが[[6月3日 (旧暦)|6月3日]]に勝元の要請によって将軍の牙旗が東軍に下され、足利義視が総大将に推戴されたことで{{Sfn|永原|p=266}}、戦乱は拡大する方向に向かっていく。東軍は軍事行動を再開し、[[6月8日 (旧暦)|6月8日]]には赤松政則が一条大宮で[[山名教之]]を破った。さらに将軍義政が降伏を勧告すると[[斯波義廉]]ら西軍諸将は動揺して自邸に引きこもったが<ref>『私要鈔』同年六月九日条</ref>
=== 西軍大内政弘の入京と義視の逃亡 ===
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