Nothing Special   »   [go: up one dir, main page]

削除された内容 追加された内容
m Bot: 保護テンプレートの除去
タグ: 手動差し戻し
静岡在住時代: 葬儀の施主ではないので、営む→参列する
162行目:
静岡時代の慶喜は、身分上も経済上も宗家である[[徳川家達]]の管轄下にあった。東京の家達からの送金で生活し、慶喜の家令や家扶は家達により任命され、慶喜はその辞令を渡すだけだったという{{sfn|樋口雄彦|2012|p=68}}{{sfn|家近良樹|2005|p=87}}。また慶喜は東京の家達に預けた慶喜の娘たちに家達に従順であるよう「厳しく申し渡」したという。慶喜の七女・波子が[[松平斉民]]の四男・[[松平斉|斉]]からの求婚を嫌がった際には彼女を静岡まで呼びつけて家達の世話になっている身であることや、津山の松平には義理があることなどを言い聞かせて辛抱を命じたという{{sfn|家近良樹|2005|p=86-87}}。慶喜が上座に座っていたとき、家達が「私の席がない」というと慶喜が慌てて席を譲ったという逸話もある{{sfn|樋口雄彦|2012|p=68}}。
 
明治19年(1886年)11月、東京の水戸徳川家の屋敷で暮らしている母・登美宮吉子の病気見舞いで東京に上京。これが明治以降の最初の慶喜の東京訪問となった{{sfn|家近良樹|2005|p=72}}{{sfn|松浦玲|1997|p=204}}。
 
[[東海道線 (静岡地区)|東海道線]]が静岡に開通されるのに伴い、慶喜の紺屋町の屋敷が静岡の停車場建設予定地に含まれたため、1887年(明治20年)に[[西草深]]に新しい屋敷の建設を開始し、翌年までに完成させて転居した{{sfn|家近良樹|2005|p=100}}。[[1889年]](明治22年)[[2月1日]]に東海道線静岡以東が開通すると慶喜は同年4月30日にさっそくこれに乗車して弟の[[徳川昭武]]がいる[[千葉県]]の[[戸定邸]]へ向かい、母・登美宮吉子とともに5月9日まで過ごした。[[塩原温泉]]で湯治を楽しんだり、[[日光東照宮]]や水戸を訪問したりした後、東京を経由して静岡へ帰っていった。徳川昭武の方もこのあと東海道線を使って毎年静岡に来るようになったので慶喜と昭武の兄弟の友好が深まった{{sfn|家近良樹|2005|p=100}}。また東海道線を利用して慶喜の狩猟の範囲も広がった。ただ加齢による体力の低下で狩猟や釣りの回数自体は減っていく{{sfn|家近良樹|2005|p=104-105}}。またこの頃から[[ビリヤード]]と[[写真]]が慶喜の新たな趣味に加わる。特に写真は体力が低下しはじめた明治20年代後半の慶喜にとって主要な趣味となった。写真撮影のために色々な場所に姿を現すようになった{{sfn|家近良樹|2005|p=105}}。明治20年代は写真の[[写真湿板|湿式]]から[[写真乾板|乾式]]への移行期で撮影装置の移動が楽になったこともあったという{{sfn|松浦玲|1997|p=207}}。明治20年代半ば過ぎ頃からは[[コーヒー]]を飲むようになった{{sfn|家近良樹|2005|p=106}}。
 
1893年(明治26年)1月には母・登美宮吉子が死去し、東京に出て葬儀を営んだに参列した{{sfn|松浦玲|1997|p=208-209}}。ついで1894年(明治27年)7月9日に乳がんの治療のため東京の宗家に移っていた美賀子夫人が死去。この時慶喜は写真撮影のため[[焼津市|焼津]]にいたが、電報を受けた家扶が慶喜の下に着替えをもって駆けつけ、その報告を受けた慶喜は焼津から東京へ直行している{{sfn|松浦玲|1997|p=208-209}}。
 
==== 東京移住後から薨去 ====