「児女英雄伝」を編集中
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馬従善の序によれば、作者の燕北閒人こと文康は[[満州]][[八旗]]の鑲紅旗の家に生まれ、費莫(フォイモ)氏である(文康の「文」は名の一部であり、姓ではない)。[[字]]を鉄仙といった。正確な生没年は未詳であるが、[[同治]]末(1874年)ごろまで生きていたらしい<ref name="ota">太田(1988) p.299</ref>。子供たちが不肖で、家の物を次々に売り払い、晩年は貧しくなったため、この書を記して憂さを晴らしたという<ref name="tsuneishi">中国古典文学全集29の[[常石茂]]による解説による</ref>。 |
馬従善の序によれば、作者の燕北閒人こと文康は[[満州]][[八旗]]の鑲紅旗の家に生まれ、費莫(フォイモ)氏である(文康の「文」は名の一部であり、姓ではない)。[[字]]を鉄仙といった。正確な生没年は未詳であるが、[[同治]]末(1874年)ごろまで生きていたらしい<ref name="ota">太田(1988) p.299</ref>。子供たちが不肖で、家の物を次々に売り払い、晩年は貧しくなったため、この書を記して憂さを晴らしたという<ref name="tsuneishi">中国古典文学全集29の[[常石茂]]による解説による</ref>。 |
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『児女英雄伝』が書かれたのは作者の晩年のころで<ref name="ota"/>、最初は写本として流通していたが、[[光緒]]4年([[1878年]])になって北京聚珍堂から木活字本で出版された<ref>『児女英雄伝(抄)』 立間祥介 訳 平凡社 [[中国古典文学大系]]47 解説二、六</ref>。その後、1880年の聚珍堂本には董恂による評が加えられ、1888年に上海蜚英館から出版された石印本で挿絵が追加された。1925年に蜚英館 |
『児女英雄伝』が書かれたのは作者の晩年のころで<ref name="ota"/>、最初は写本として流通していたが、[[光緒]]4年([[1878年]])になって北京聚珍堂から木活字本で出版された<ref>『児女英雄伝(抄)』 立間祥介 訳 平凡社 [[中国古典文学大系]]47 解説二、六</ref>。その後、1880年の聚珍堂本には董恂による評が加えられ、1888年に上海蜚英館から出版された石印本で挿絵が追加された。1925年に蜚英館をもとにして亜東書店から標点本が出版されて普及した。しかし[[太田辰夫]]によると、蜚英館や亜東の本は誤りが多く、まったく信用できないという<ref name="ota"/>。最終第40回は文康でなく後人がまとめたものという<ref>太田(1988) p.323</ref>。 |
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本作品は『[[紅楼夢]]』を強く意識して書かれており、第34回で本書と『紅楼夢』の登場人物を比較している。『紅楼夢』とは逆に理想的で円満な家庭の姿を描こうとした。[[胡適]]は、内容は浅薄、思想は迂腐だが、生き生きしたユーモラスな言い回しのおもしろさがあるとする<ref name="tsuneishi"/>。 |
本作品は『[[紅楼夢]]』を強く意識して書かれており、第34回で本書と『紅楼夢』の登場人物を比較している。『紅楼夢』とは逆に理想的で円満な家庭の姿を描こうとした。[[胡適]]は、内容は浅薄、思想は迂腐だが、生き生きしたユーモラスな言い回しのおもしろさがあるとする<ref name="tsuneishi"/>。 |