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鶴樹院(かくじゅいん、寛政12年10月17日1800年12月3日) - 弘化2年8月4日1845年9月5日))は、江戸時代後期の女性。和歌山藩第10代藩主徳川治宝の五女。実名は豊姫。母は於佐衛(川上氏)。和歌山藩第11代藩主徳川斉順将軍徳川家斉の七男)の正室。

生涯

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寛政12年、和歌山藩主・徳川治宝の五女として、和歌山で生まれた。同母姉に徳川虎千代の婚約者で後の仙台藩伊達斉宗の正室信恭院

享和4年(1804年)1月27日に加賀藩前田斉広嫡子の前田裕次郎(利命)と婚約し、文化2年(1805年)2月28日和歌山を出発し、3月18日江戸に到着した。しかし、その2か月後に婚約者の裕次郎が死去したために破談となった。

文化13年(1816年)6月3日に清水徳川家当主徳川斉順が、治宝の養嗣子として豊姫の婿となり紀伊家に入ることが決まった。11月、斉順が清水邸より和歌山藩邸に引き移り、婚礼が行われた。

翌文化14年(1817年)4月、懐妊した豊姫は着帯を行い、8月に安産で斉順の子である菊姫を出産した。しかし、生後2か月で菊姫は死去。それ以降豊姫に子供は生まれなかった。男児流産の記録はある。その後、斉順は側室の留井や八十、美佐の方との間に子を儲けたが、斉順と側室との子も立て続けに夭折している。結局、子がいないまま弘化2年(1845年)に豊姫は死去し、翌年には斉順も死去した。なお、鶴樹院の死去は8月4日だったが、公式には8月10日死去となっている。

逸話

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三升屋二三治の『芝居秘伝集』によれば、文政2年(1819年)3月、豊姫は浜町の館に出かける際、行列の駕籠の中から芝居見物を行った。当時の江戸では、玉川屋の七代目市川団十郎、中村屋の三代目尾上菊五郎がともに助六を演じ、大入りの評判であった。芝居小屋とは事前に相談がしてあり、両座の芝居小屋は表の木戸を取り払い、行列が通るのに合わせて助六の出端があり、豊姫は駕籠の中から芝居を見物した。しかし、この行動は幕府で問題とされ、関係した重臣1人が切腹し、豊姫は押し込めの処分となった、と伝える。『南紀徳川史』巻18では、3月25日に赤坂の紀尾井坂の藩邸(中屋敷)に御成りと記された後、文政11年3月の浅草観音参詣まで9年間御成りの記録がない[1]

脚注

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  1. ^ ただし、『南紀徳川史』巻145では文政3年4月、豊姫が本行列で上野に参詣した模様を記しているほか、巻78では「天保の頃」豊姫による芝居見物の厳罰があった記している箇所もあり、記載は一定していない

参考文献

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  • 南紀徳川史・第二冊』(昭和5年(1930年)12月28日初版)
  • 『大江戸の姫さま ― ペットからお輿入れまで』(関口すみ子、角川選書、2005年)