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高橋 博士(たかはし ひろし、1946年3月10日 - )は、宮崎県宮崎市出身の元プロ野球選手捕手内野手外野手)。右投右打。1964年1966年から1973年までの登録名は「高橋 博」。

高橋 博士
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 宮崎県宮崎市
生年月日 (1946-03-10) 1946年3月10日(78歳)
身長
体重
174 cm
78 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手内野手外野手
プロ入り 1964年
初出場 1965年8月11日
最終出場 1982年10月12日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

1974年9月29日の対南海ホークス戦(後楽園球場)で現在でもNPB史上2人しかいない全ポジションでの出場を達成した。

経歴

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宮崎商業高校では捕手、三番打者として1963年夏の甲子園県予選決勝に進出。清俊彦投手を擁する高鍋高を破り、夏の甲子園への出場を決める。本大会では2回戦に進出するものの、甲府商大石勝彦堀内恒夫両投手の継投に敗れた[1]。高校同期に小川亨中堅手、1年下に山本真一三塁手、2年下には控え投手の水谷実雄がいた。8月末からは小川らとともに全日本高校選抜の一員としてハワイ遠征に参加した。

1964年南海ホークスに捕手として入団[2]。同年2月11日村上雅則田中達彦らと共にサンフランシスコ・ジャイアンツ傘下の1Aタコマ・ジャイアンツに野球留学する[2]1971年から1975年までは内野手登録。1971年は遊撃手のレギュラーとして活躍し、ファン投票でオールスターに出場[2]。同年は初の規定打席(26位、打率.265)に達する。

1972年江本孟紀佐野嘉幸との1対2のトレード東映フライヤーズへ移籍[2]。同年は開幕から三塁手に抜擢され81試合に先発出場するが、故障もあって後半は出番を失う。その後は内野のユーティリティプレイヤーとして起用される。1974年9月29日1試合で全ポジションを守る[3]。消化試合のダブルヘッダーを盛り上げるために、三原脩球団社長の発案で、ファンサービスとして行われたものである。ポジショニングは、一塁手→捕手→三塁手→遊撃手→二塁手左翼手中堅手右翼手投手の順番で、投手経験は高校時代にかじった程度で初めて同然だったので、投手の野崎恒男をセンターフライに仕留めただけで降板した[3]。なお、選手生活を通しての全ポジション出場であれば、2000年五十嵐章人(当時オリックス)が達成している。1975年には正捕手として活躍、2度目の規定打席(18位、打率.269)に達するが、翌1976年には加藤俊夫に定位置を譲る。

1977年自由契約となり、ロッテオリオンズへ移籍[2]。同年は一塁手も兼ね、打率.294の好成績を記録する。後期制覇へのマジックナンバーが出た9月27日阪急戦(西京極)では山口高志から逆転3ラン本塁打を奪って、チームの勝利に貢献[4]1978年には村上公康の引退によりレギュラーを獲得、その後も土肥健二らと併用される。1980年まで捕手では数少ない背番号「1」をつけていたが、1981年に入団した愛甲猛が1番を希望したため、自ら譲渡して15番に変更した。なお、これが縁で引退後も愛甲と交流があった。1982年には袴田英利が台頭し、出場機会が減少。契約更改が拗れたこともあって同年限りで現役を引退[5]

1983年1月に「一方的な解雇通告は承服出来ない」と発言し、ロッテ球団に内容証明書付き通知書を送付した。2月に自由契約を不当、撤回を求めて連盟に提訴を行った。この事案に際して、中畑清を中心にプロ野球選手会は不当解雇撤回を訴えた高橋を支援したが、これは後に同会の労働組合結成に向けた動きを推し進めることに繋がっている。

現在は神奈川県相模原市で焼肉店とスナックを経営している[2]

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1965 南海 10 4 4 0 2 0 0 0 2 1 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .500 .500 .500 1.000
1966 31 3 3 0 1 0 0 0 1 1 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .333 .333 .333 .667
1967 18 23 21 1 2 0 0 0 2 1 0 0 0 0 2 0 0 9 2 .095 .174 .095 .269
1968 41 60 51 1 13 1 1 1 19 5 0 1 2 2 5 0 0 14 2 .255 .321 .373 .694
1969 88 258 235 18 60 7 3 1 76 19 5 0 4 1 15 0 3 41 7 .255 .308 .323 .632
1970 79 208 197 23 52 10 0 3 71 27 2 1 0 1 10 0 0 16 7 .264 .300 .360 .660
1971 109 408 378 59 100 14 5 9 151 34 3 1 0 1 20 0 9 25 13 .265 .317 .399 .716
1972 東映
日拓
日本ハム
89 320 281 36 68 11 0 6 97 29 5 8 5 1 28 3 5 33 7 .242 .322 .345 .667
1973 52 129 117 8 25 5 1 0 32 5 3 2 2 1 8 0 1 10 5 .214 .270 .274 .543
1974 76 158 145 15 41 4 1 7 68 22 2 2 1 1 10 0 1 12 1 .283 .333 .469 .802
1975 123 425 391 40 105 11 0 12 152 40 10 5 12 1 19 1 2 37 8 .269 .306 .389 .695
1976 70 178 156 20 43 6 0 4 61 19 2 1 3 3 15 2 1 18 4 .276 .343 .391 .734
1977 ロッテ 99 257 238 24 70 12 4 3 99 28 0 2 8 0 8 0 3 14 4 .294 .325 .416 .741
1978 88 258 232 20 61 7 0 5 83 30 0 1 9 4 10 1 3 24 9 .263 .302 .358 .660
1979 67 155 124 10 20 3 0 3 32 11 1 0 8 1 20 2 2 20 4 .161 .288 .258 .546
1980 111 313 278 27 69 9 0 5 93 20 4 1 6 1 24 0 4 23 7 .248 .317 .335 .652
1981 94 216 195 14 48 7 0 1 58 19 0 2 6 1 13 0 1 13 2 .246 .297 .297 .594
1982 43 76 63 2 10 2 0 0 12 3 0 0 2 1 10 0 0 13 0 .159 .274 .190 .464
通算:18年 1288 3449 3109 318 790 109 15 60 1109 314 37 27 68 20 217 9 35 324 82 .254 .310 .357 .667
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 東映(東映フライヤーズ)は、1973年に日拓(日拓ホームフライヤーズ)に、1974年に日本ハム(日本ハムファイターズ)に球団名を変更

年度別投手成績

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W
H
I
P
1974 日本ハム 1 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 1 0.1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0.00 0.00
通算:1年 1 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 1 0.1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0.00 0.00

年度別守備成績

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捕手
試合 企図数 許盗塁 盗塁刺 阻止率
1969 28 25 13 .342
1974 35 19 15 .441
1975 121 128 41 .243
1976 35 19 12 .387
1977 64 34 18 .346
1978 84 48 31 .392
1979 66 42 14 .250
1980 111 59 32 .352
1981 94 63 18 .222
1982 42 16 12 .429
通算 680 453 206 .313


記録

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初記録
全ポジション出場に関する記録
  • 初登板:1974年9月29日、対南海ホークス後期13回戦(後楽園球場)、9回表に9番手で救援登板、1/3回無失点
  • 全ポジションでの出場:同上 ※史上初(後に五十嵐章人が2000年に達成)
  • 1試合での全ポジションでの出場:同上 ※史上初
節目の記録
その他の記録

背番号

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  • 25 (1964年 - 1971年)
  • 5 (1972年 - 1976年)
  • 1 (1977年 - 1980年)
  • 15 (1981年 - 1982年)

登録名

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  • 高橋 博士 (たかはし ひろし、1965年、1974年 - 1982年)
  • 高橋 博 (たかはし ひろし、1964年、1966年 - 1973年)

出典

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  1. ^ 朝日新聞社 編『全国高等学校野球選手権大会70年史』朝日新聞社、1989年6月。全国書誌番号:89042023 
  2. ^ a b c d e f 森岡浩 編著『プロ野球人名事典 2003』日外アソシエーツ、2003年4月、323頁。ISBN 4-8169-1771-3 
  3. ^ a b 【9月29日】1974年(昭49) 日ハム・高橋博士、日本初!1試合で全ポジション守る”. スポーツニッポン (2012年9月29日). 2022年3月25日閲覧。
  4. ^ ベースボール・マガジン社 編『プロ野球70年史』 歴史編、ベースボール・マガジン社、2004年12月22日、414頁。ISBN 4-583-03808-9 
  5. ^ (2ページ目)「誠意は言葉ではなく金額…」 年俸交渉で“絶対に譲らなかった”選手たち | AERA dot. (アエラドット)”. dot.asahi.com (2020年1月16日). 2020年8月25日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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