隋
隋(呉音: ずい、漢音: すい、拼音: [swěɪ]、581年 - 618年[注釈 1])は、中国の王朝である。魏晋南北朝時代の混乱を鎮め、西晋が滅んだ後分裂していた中国をおよそ300年ぶりに再統一した。しかし第2代煬帝の失政により滅亡し、その後は唐が中国を支配するようになる。都は大興城(現在の中華人民共和国西安市)。国姓は楊。開祖楊堅は後漢代の有名な官僚の楊震の子孫にあたるというが、これには疑義が多い(詳しくは楊堅#出自についてを参照)。
国号
編集先史時代 中石器時代 新石器時代 | |||||||||||
三皇五帝 (古国時代) |
(黄河文明・ 長江文明・ 遼河文明) | ||||||||||
夏 | |||||||||||
殷 | |||||||||||
周(西周) | |||||||||||
周 (東周) |
春秋時代 | ||||||||||
戦国時代 | |||||||||||
秦 | |||||||||||
漢(前漢) | |||||||||||
新 | |||||||||||
漢(後漢) | |||||||||||
呉 (孫呉) |
漢 (蜀漢) |
魏 (曹魏) | |||||||||
晋(西晋) | |||||||||||
晋(東晋) | 十六国 | ||||||||||
宋(劉宋) | 魏(北魏) | ||||||||||
斉(南斉) | |||||||||||
梁 | 魏 (西魏) |
魏 (東魏) | |||||||||
陳 | 梁 (後梁) |
周 (北周) |
斉 (北斉) | ||||||||
隋 | |||||||||||
唐 | |||||||||||
周(武周) | |||||||||||
五代十国 | 契丹 | ||||||||||
宋 (北宋) |
夏 (西夏) |
遼 | |||||||||
宋 (南宋) |
金 | ||||||||||
元 | |||||||||||
明 | 元 (北元) | ||||||||||
明 (南明) |
順 | 後金 | |||||||||
清 | |||||||||||
中華民国 | 満洲国 | ||||||||||
中華 民国 (台湾) |
中華人民共和国
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隋という国号(王朝名)は建業者である高祖楊堅の北周時代の爵号である隨国公に因む。楊堅がかつて隨州の刺史に任じられたことで隋朝の名称の由来となった。この隨(国)は地名で現中華人民共和国湖北省随州市に名を遺しているが、唐の時代までは「隨」の略字として辵部(しんにょう、辶)を省いた「隋」と相互に通用され、さらにその「隋」から「工」を省いた「陏」の字が用いられることもあり [注釈 2]、その後、おそらくは中唐以降に「隨」と「隋」とは区別されて地名は「隨」、王朝名は 「隋」と固定したようである。その後、高祖楊堅が「隨」字に含まれる辵部に「走る」という字義があって前代迄の寧所に遑なく東奔西走した歴代を髣髴させるためにこれを去り、自らの王朝を「隋」と名付けたとする説、及び辵部には平穏に歩を進める字義がある一方で「隋」には供物としての肉の余りという字義があり、楊堅は改字によって却って王朝の命運を縮めたという附会説も行われ、これが宋朝の儒学者たちの儒教的史観による革命解釈に適合するものとして喜ばれたために、以降はこの楊堅改字説が定説となった[注釈 3]。
歴史
編集隋の建国まで
編集楊堅の父の楊忠は北魏が西魏・東魏に分裂する際(後にそれぞれ北周・北斉が取って代わる)に宇文泰に従って西魏の成立に貢献し、大将軍を務め、随国公の地位を得ていた。
568年に楊忠は死去し、楊堅が大将軍・随国公の地位を受け継いだ。北周の武帝は宿敵の北斉を滅ぼし、さらに南の陳を滅ぼす前段階として北の突厥への遠征を企図していたが、578年に崩御した。武帝の跡を継いだ宣帝は奇矯な人物で、5人の皇后を持っていた。このうちの1人が楊堅の長女の楊麗華であり、楊麗華は宣帝の側室である朱満月が生んだ太子の宇文闡(後の静帝)を育てた。宣帝の奇行は留まるところを知らず、在位8カ月で退位して静帝に位を譲り、自らは天元皇帝を名乗って政務を放棄したため、静帝の後ろに立つ丞相の楊堅への声望が高まっていった。580年に宣帝が崩御すると、楊堅は静帝の摂政として全権を掌握した。これに反発する武川鎮軍閥内の有力者たちは楊堅に対して反乱を起こす。この中で最も大規模なものが尉遅迥によるもので、一時は楊堅の押さえる関中地域以外のすべてで反乱が起きるほどになったが、楊堅は巧みにこれを各個撃破して、北周内における覇権を確固たるものとする。
同年末に随国公から随王へと進み北周の兵権を与えられ、さらに581年に静帝より禅譲を受けて隋を建国した[2]。
- ※これ以降は楊堅を諡(おくりな)の「文帝」で呼ぶ。
南北統一
編集既に北周武帝により南北統一への道筋は引かれていたが、慎重な文帝は細かい準備を丹念に進めた。当時、南朝陳では宣帝が北周末期より江北への進出を試みていたが、文帝は陳の間諜を捕縛しても衣服や馬を給して厚く礼をして送り返し、陳とは友好関係を保つようにしていた[3]。582年、文帝は陳に対して討伐軍を送り出したが、この年に宣帝が崩御したこともあり、討伐を中止して使者を派遣して弔意を表して軍は撤退した[3]。
北の突厥に対しては長城を修復して防備を固める[3]。584年に突厥が北方で暴れると、文帝は長城を越えて突厥を攻撃し、その後文帝は突厥内部に巧みに介入して東西に分裂させた[4]。
そして淮河と長江を結ぶ邗溝(かんこう)を開削して補給路を確保する。さらに、かつて南朝梁から分裂し、北朝の傀儡政権となっていた後梁を併合して前線基地を作る。また文帝は連年にわたり農繁期になると軍を南下させる気配を見せて陳軍に常に長江沿岸に大軍を配置させることを繰り返させることで人心を動揺させて収穫を減らさせ、さらに間諜を使って民家に放火させたりした[5]。こうして陳の国力は急速に衰退し、また皇帝が宣帝の子の陳叔宝でこれが暗愚極まりない愚帝だったため、陳は内部からも次第に崩壊の色を深めた[5]。
588年、文帝は陳への遠征軍を出発させる。この時の遠征軍の総指揮官が文帝の次男の楊広(後の煬帝)であり、51万8000という過大とも思える大軍の前に589年に陳の都の建康はあっけなく陥落し、陳の皇帝陳叔宝は井戸に隠れているところを捕らえられた[6]。ここに西晋滅亡以来273年続いた長き動乱の時代が終結し、ついに中華は統一された。
開皇の治・文帝の治世
編集前後して、文帝は即位した直後から内政面についても次々と改革を打ち出した。
『周礼』と鮮卑回帰政策を進めた北周の路線を改めて、北斉の制度も参照しつつ改革を行った。581年には新たな律令である開皇律令を制定した。この律令は晒し首・車折などの残酷な刑罰を廃し、律を簡素化してわかりやすく改めたものであり、後の唐律令はほぼこの開皇律令を踏襲したものである。官制にも大改革を加え、最高機関として尚書省・門下省・内史省(唐の中書省)の3つを置き、尚書省の下に文書行政機関である六部、即ち人事担当の吏部・財政担当の度支部・儀礼担当の礼部・軍政担当の兵部・法務担当の都官部・土木担当の工部の6つを設けた。その下に実務機関である九寺、またこれとは別に監察機関である御史台を置いた。地方についてもそれまでの州>郡>県という区分を止めて、州>県の2段階に再編を行った。そして文帝の治績の最大のものとして称えられるのが、科挙(正式には貢挙)の実行である。南北朝時代では九品官人法により、官吏の任命権が貴族勢力の手に握られていた。科挙は地方豪族の世襲的任官でなく実力試験の結果によって官吏の任用を決定するという極めて開明的な手段であり、これを以って官吏任命権を皇帝の元へ取り返すことを狙ったのである。このように文帝によって整備された諸制度はほとんどが後に唐に受け継がれ、唐朝274年の礎となった。これらの文帝の治世をその元号を取って開皇の治と呼ぶ。
文帝の皇后の独孤伽羅は非常に我の強い女性で、文帝に対して「自分以外の女性と子供を作らない」と誓約させていた。これは当時の皇帝としては極めて異例なことであり、しかも独孤皇后は文帝の周囲を厳しく監視し、文帝がほかの女性に近付くことを警戒していた。文帝と独孤皇后の間には6人の子がおり、その長男の楊勇が初め皇太子に立てられていたが、楊勇は派手好みで女好きであり、質素を好む文帝・貞操を重視する皇后の両者から嫌われ、それに代わって両親の気に入るように振舞っていた次男の楊広が皇太子に立てられる。
604年、文帝は病に倒れた[7]。この病床の間に楊広の本性を知った文帝は激怒して廃太子にした長男楊勇を再び太子にしようとした[8]。しかしそれが叶う直前に文帝は崩御した[9]。病死ともいわれているが、楊広に先手を打たれて右庶子の張衡に殺害されたともいわれる[9]。
煬帝の治世
編集楊広は文帝の崩御により、煬帝として即位した[9]。煬帝は即位後すぐに廃太子の楊勇を探し出して殺害し[9]、さらに弟の漢王楊諒の反乱も抑えた[7]。こうして兄弟たちを策謀によって殺害して競合相手を消した煬帝は質素を好んだ文帝とは対照的に派手好みで、父がやりかけていた大土木事業を大々的に推し進め、完成へと至らせた。主なものが東都洛陽城の建設と、大運河を大幅に延長して河北から江南へと繋がるものとしたことである。これらの大土木工事で河南諸郡の100万余の男女が徴発されて労苦に喘いだ[10]。さらに大運河工事に関しても煬帝自身の行幸や首都に対する輸出入、軍隊の輸送などに使われて民間への便益は極めて薄かった[10]。煬帝の派手好みは臣下にも広まり[11]、風紀の弛緩を招いた。さらに煬帝は当時は従属していた突厥に備えるため、100万余の男女を徴発して長城の修築を行ない、この過酷な労役で多くの男女が命を落とした[12]。煬帝が行幸を東西に繰り返したことも、国庫や民衆に多大な負担をさせるには十分だった。610年1月には洛陽で諸国の朝貢使節を招いて豪勢な接待をしたことも、民衆に多大な災難を招いた[13]。
611年、煬帝は文帝がやりかけていた高句麗遠征を以後3度にわたって行なった[14]。612年から本格的に開始された高句麗遠征は113万人の兵士が徴兵される大規模なものであり、来護児や宇文述らが指揮官として高句麗を攻めた[14]。しかし1回目の遠征は大敗し、さらに兵糧不足もあって撤退する[15]。613年には煬帝自身が軍を率いて高句麗を攻めるが結果は得られず、614年に行なわれた3度目の遠征では高句麗側も疲弊していたこともあって煬帝に恭順の意を示したが、煬帝が条件とした高句麗王の入朝は無視され、煬帝は4回目の遠征を計画する[15]。
相次ぐ反乱と群雄割拠、隋の滅亡
編集煬帝の施政による度重なる負担に民衆は耐えかね、遂に第2次高句麗遠征からの撤兵の途中にかつての煬帝の側近楊素の息子楊玄感が黎陽で反乱を起こして洛陽を攻撃した[16]。これは煬帝が派遣した隋軍により鎮圧されて楊玄感は敗死したが、この反乱を契機にして中国全土で反乱が起こり出した[16]。
これまで従属していた突厥は隋の衰退を見て再び北方で暴れだしたので、煬帝は自ら軍を率いて北方に向かうも突厥軍に敗れて洛陽に撤退[16]。この敗戦が更なる引き金となり、616年には反乱が各地でピーク状態に達した[17]。やがて反乱軍の頭領は各地で群雄として割拠し、楊玄感の参謀を務めていた李密(北周八柱国の李弼の孫にあたり、関隴貴族集団の中でも上位の一人。楊玄感の敗死後に、洛口倉という隋の大食料集積基地を手に入れることに成功し多数の民衆を集めた)、高句麗遠征軍から脱走し、同じ脱走兵たちを引き連れて河北に勢力を張った竇建徳、そして隋の太原留守であった李淵(後の唐の高祖)などが独立勢力となった(隋末唐初の群雄の一覧)。
この反乱に対して煬帝は最初は鎮圧に努めたが、その処理が反徒の殺戮政策という過酷なものだったため、却って逆効果を招いた[17]。激しくなる反乱の中、もはや隋軍では対処し切れなくなり、煬帝は江都に行幸してここに留まり、反乱鎮圧の指揮を執った。しかし煬帝が南方に行幸したことは実質北方を放棄して逃走したも同じであり、北方の反乱はますます激しくなり、遂に李淵により首都大興城までもが落とされてしまう。大興城を掌握した李淵は首都に不在であった煬帝の退位を宣言し(表面上は煬帝を尊んで太上皇としている)、煬帝の孫の楊侑(恭帝侑)を即位させた[18]。
このような事態にもかかわらず、江南に腰を据えた煬帝は次第に酒と宴会に溺れて国政を省みなくなり、遂には諫言や提言する臣下に対して殺戮で臨むようになって全く民心を失った[18]。だが、煬帝に従って江都に赴いていた隋軍は多くが北方の出身者であり[18]、重臣の宇文化及はこうした情勢の中でついに煬帝を見限り、反煬帝勢力を糾合して618年に謀反を起こし[19]、煬帝を縊り殺した[19]。こうして政権を奪取した宇文化及は、煬帝の甥(煬帝の弟の秦孝王楊俊の子)の秦王楊浩を皇帝に擁立し、江都の隋軍を率いて北へと帰還しようとしたが、李密に阻まれて魏県に逃れた。そこで皇帝楊浩を毒殺し、国号を許として自ら皇帝に即位する。しかし、天寿2年(619年)に竇建徳に敗れて殺害され、許の政権は崩壊した。
また、東都洛陽の留守を任されていた煬帝の孫の越王楊侗は大業14年(618年)の煬帝の死を受け、隋臣の王世充・元文都・皇甫無逸らに擁立されて皇帝に即位した。これが恭帝侗(皇泰主)である。しかし619年に王世充が恭帝侗に禅譲を迫り、自ら皇帝に即位して鄭を立国した。
その一方で、煬帝の死を聞いた李淵は、恭帝侑から禅譲を受けて唐を建てた。
こうして煬帝は殺害され、煬帝の後継者として隋の正統を名乗った恭帝侑、恭帝侗、秦王楊浩も、それぞれ李淵の唐、王世充の鄭、宇文化及の許に簒奪されたため、隋は完全に滅亡した。なお、煬帝の「煬」の文字は、「天に逆らい、民を虐げる」という意味を持ち、李淵が贈った諡である。
なお、煬帝の孫の一人である楊政道(斉王楊暕の遺腹の子)のみ、唯一生き延びた。彼は突厥の処羅可汗の庇護を受けたが、630年、突厥が滅亡すると、楊政道は唐に帰順して、官職を賜った。楊政道には楊崇礼(隆礼)という子がおり、煬帝の曾孫である。楊崇礼の子女が、楊慎余・楊慎矜・楊慎名の三兄弟で煬帝の玄孫にあたる。特に次男の楊慎矜が兄弟の中でも優秀であったが、747年に隋の復興を企てていると讒言があり、自殺に追い込まれた。妻子は嶺南に流刑に処された。楊慎余と楊慎名も自殺に追い込まれている。
他に煬帝の皇女が唐の第2代皇帝李世民の妃の一人となり、李恪・李愔の2男を儲けた。李恪の子孫は少なくとも昆孫の代、李愔の子孫は少なくとも孫の代まで存続し、女系ではあるが隋皇族の血筋はしばらくは保たれている。
政治
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律令
編集律令は基本法典として定められた律(刑法)令(行政規定)格(追加規定)式(施行規定)に基づいて国家を運営する体制で、刑法、衛禁、服務、戸婚、後述の均田制や府兵制などもこれによって定められている。隋は政治的には北周を継承したが、律令制度は、混乱を招いた『周礼』を基にした北周のものではなく、梁を基礎とした北斉のものを模範とした。北斉の『河清律令』が基とされる。583年に高熲や蘇威の貢献が大きい開皇律令を規定した。律・令を補う法制としての格・式も隋代において完成した[20]。また、残酷な刑罰の廃止や律の簡素化などの改革が行われた。律令は本来皇帝の代替わりごとに修正公布されるもので、煬帝が即位すると大業律令を定めた。大業律令にも大幅な改革が加えられていたが詳細は判明しない[20]。
官制
編集唐代の律令官制の中央行政機関である三省六部は、開皇律令で既に完成しており、三省(中書省・門下省・尚書省)、六部(吏・戸・礼・兵・刑・工)、九寺(鴻臚寺など)、一台(御史台)という。ただし隋では「刑部」を「都官」、「戸部」を「度支」とするなど官名が一部異なる。
地方官制としては、州・郡・県の三級制から州・県の二級制(州県制)へ改革した。これは地方長官が任命していた州県官を中央からの派遣に改めて兵権を取り上げることで、門閥貴族を抑圧すると同時に中央集権化を進めた[20]。
科挙制度
編集三国時代の魏以来、官制としては九品官人法が使われていたが、この制度は家格の高低によって郷品が決められてしまう問題があったため、文帝の時代の地方官制改革と共に廃止された。そのかわりに導入されたのが科挙制度即ち科目別の試験制度である。宮崎市定によると587年に試験が開始され、及第者には高等官となる資格が与えられて科挙の起源となった[21]。ただし、当時の科挙の合格者は毎年数名程度であった[20]。
宗室
編集宗室は終始冷遇された。このことは、楊堅と仲が悪かった弟の楊瓚が「どうして一族を滅ぼすようなことをするのか」と発言し、楊堅の甥にあたる楊智積が臨終の床において「わたしは今日はじめて首を保ったまま死ぬことができると知った」と語ったことから、それが現れている。
軍事
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府兵制
編集経済
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文化
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宗教
編集隋の初代皇帝である文帝は仏教を深く信仰し、国内外での普及に尽力した。
国際関係
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日本
編集ヤマト政権の推古天皇の摂政であった聖徳太子は遣隋使を5回以上派遣して隋の文化を輸入した。仏教意識が強く、『隋書』内の遣隋使の言葉の中で煬帝に対して「海西の菩薩天子」と呼びかけ、留学僧数十人を派遣している[20]。小野妹子が煬帝の家臣である裴世清を連れて帰国した。
朝鮮半島
編集高句麗は、分裂が解消された中国の勢力を恐れ、突厥と組んで隋王朝に対抗しようとしたが、結局は煬帝と朝鮮諸国による複数の遠征によって阻まれた。しかし、結局滅亡に追い込まれることはなく、滅亡したのは次の唐王朝の時代になってからである。
西域
編集隋王朝は西域の支配も確立した。以前の王朝が本土の戦争によって西域の支配がおろそかになって多くの国が独立したが、隋王朝はその多くを奪還し、また突厥に対しても西域の一部を奪取することに成功した。これらの出来事は、後の国際的な文化の発展につながってくる。
突厥
編集突厥には、嫁いだ隋の宗室の娘である義成公主がおり、君主の妃となった。
隋の皇帝一覧
編集皇帝略歴
編集- 文帝
系図
編集楊禎 | 廃太子房陵王勇 | 燕王倓 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
武元皇帝忠 | 元徳太子昭 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
蓋氏 | 1高祖文帝堅 | 蕭皇后 | 4恭帝侗(皇泰主) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
元明皇后呂氏 | 斉王暕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
蔡王整 | 2世祖煬帝広 | 3恭帝侑 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
趙王杲 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
滕王瓚 | 蕭嬪 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
道王嵩 | 秦王俊 | 5秦王浩 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
衛王爽 | 楊秀 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
楊諒 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
年号
編集脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b 「隋代史雑考」(中公文庫版『隋の煬帝』所収)
- ^ 駒田『新十八史略4』、P248
- ^ a b c 駒田『新十八史略4』、P249
- ^ 駒田『新十八史略4』、P264
- ^ a b 駒田『新十八史略4』、P250
- ^ 駒田『新十八史略4』、P252
- ^ a b 駒田『新十八史略4』、P258
- ^ 駒田『新十八史略4』、P259
- ^ a b c d 駒田『新十八史略4』、P260
- ^ a b 駒田『新十八史略4』、P261
- ^ 駒田『新十八史略4』、P262
- ^ 駒田『新十八史略4』、P265
- ^ 駒田『新十八史略4』、P267
- ^ a b 駒田『新十八史略4』、P269
- ^ a b 駒田『新十八史略4』、P270
- ^ a b c 駒田『新十八史略4』、P271
- ^ a b 駒田『新十八史略4』、P280
- ^ a b c 駒田『新十八史略4』、P273
- ^ a b 駒田『新十八史略4』、P274
- ^ a b c d e 布目潮渢・栗原益男『隋唐帝国』講談社学術文庫。
- ^ 宮崎市定『大唐帝国』中公文庫。
参考文献
編集- 『隋書』
- 川本芳昭『中国の歴史05、中華の崩壊と拡大。魏晋南北朝』(講談社、2005年2月)
- 駒田信二ほか『新十八史略4』(河出書房新社、1997年7月)
- 谷川道雄 『世界帝国の形成』新書東洋史2 中国の歴史2、講談社〈講談社現代新書〉452 1977年
- 布目潮渢・栗原益男 『隋唐帝国』 講談社〈講談社学術文庫〉1997年
- 『世界史大系 中国史2 三国〜唐』 山川出版社、1996年 ISBN 4-634-46160-9
- 礪波護 『隋唐帝国と古代朝鮮』 中央公論社、1997年 ISBN 4-12-403406-7
- 金子修一 『隋唐の国際秩序と東アジア』 名著刊行会 2001年
- 氣賀澤保規 『絢爛たる世界帝国 : 隋唐時代』(『中国の歴史』06)講談社 2005年、ISBN 4-06-274056-7
- 外山軍治「中国文明の歴史〈5〉隋唐世界帝国 (中公文庫)」(中央公論新社、2000年) ISBN 978-4122036727
- 稲畑耕一郎監修「図説中国文明史6」(創元社 、2006年) ISBN 978-4422202570
- 宮崎市定「大唐帝国―中国の中世 (中公文庫)」(中央公論社、1998年) ISBN 978-4122015463
関連項目
編集外部リンク
編集- 隋代形勢図 (581年) - ウェイバックマシン(2019年3月30日アーカイブ分)
- 隋代形勢図 (590年) - ウェイバックマシン(2019年3月30日アーカイブ分)
- 隋代形勢図 (605年) - ウェイバックマシン(2019年3月31日アーカイブ分)
- 『隋』 - コトバンク
- 『隋の時代(年表)』 - コトバンク
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