里見公園
里見公園(さとみこうえん)は千葉県市川市国府台にある市川市立の都市公園(地区公園)[1]。春の花見の名所として知られる。面積8.2ha。江戸川の流れを見下ろす高台にあるため、江戸川、東京東部の市街、富士山等山々の眺望に優れている。15世紀に、この地に太田道灌が仮陣を置き、弟の太田資忠らが国府台城を築いた。その後16世紀に里見氏・後北条氏の間で2度にわたる国府台合戦が戦われた。
里見公園 | |
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里見公園の花壇 | |
分類 | 都市公園(地区公園) |
所在地 | |
面積 | 8.4ha |
運営者 | 市川市 |
設備・遊具 | 噴水・花壇など |
駐車場 | 約40台 |
アクセス | バスで「国立病院」下車徒歩3分 |
公式サイト | 市川市HP |
公園の概要
編集公園の北半分は自然を残した樹林で、石棺の露出した前方後円墳の明戸古墳、国府台合戦の伝説を伝える夜泣き石(公園に隣接する總寧寺から移設)、北原白秋の旧居紫烟草舎(江戸川区から移築)等が残っている。
公園の南半分は西洋式庭園で、桜が多く、近年はバラの育成にも力を入れている。また、江戸川に近い斜面林の中に、弘法大師(空海)発見と伝えられる湧き水の羅漢の井が残っている。また、園内には市内最高標高地点も存在する。
自然が残されているため、春秋は小学校や幼稚園の遠足の地として親しまれている。
近くの江戸川堤、矢切の渡しと結んで散策コースとして歩かれることが多い。さらに、市川市では、京成線国府台駅・江戸川堤・里見公園・国府台緑地・じゅん菜池緑地・小塚山緑地・堀之内貝塚公園・北総線北国分駅をつなぐ道を、散策路「市川水と緑の回廊」として整備している。
公園の沿革
編集明治時代、檀家を持たない総寧寺は困窮し、境内の一部を公園として開放した)[2]。
公園の南半分の西洋庭園部分には、旧陸軍の病院(陸軍衛戍〈えいじゅ〉病院)があり、戦後も国立国府台病院(現・国立国際医療センター国府台病院)の精神科病棟として使用されていた。
公園の北半分の樹林の中には、1933年(昭和8年)まで里見八景園という遊園地があり、今も園内にはその庭園の名残が残されている。その後は私設の「里見公園」となったが、戦争の激化に伴い、旧陸軍の管理するところとなり、太平洋戦争中はこの樹林の中にいくつもの防空壕が掘られた。
戦前には、江戸川西岸の東京都側を含めた遊園地開発計画があり、里見城跡に鉄塔を立て、江戸川越えにケーブルカーを設置するなどの遊園地計画がすすめられたが、戦争で中止となった[3]。
1958年(昭和33年)、市川市立の公園となり、南半分の国府台病院の病棟が移転した跡は西洋式庭園となり、北半分の樹林の中の防空壕も埋められ、今日のように整備された。
明治時代から大正時代にかけての国府台公園(一名・里見公園)
編集明治時代、公園が開設された年月は特定できないが、随筆家・大町桂月が1908(明治41)年に刊行した『筆』に所収された「国府台」によれば、「四年前に開かれて、公園となりたる也」[4]とある[5]。明治38年5月に発行された『むさしの』5巻2号掲載の「国府台修学旅行記」(東京高等女学校・愛子著)には、「明治三十七年十一月二日は兼て定められたる修学旅行の日なり、」「国府台公園につきしは午前十時なりき、」(P76)[6]。と記載されている。これらから、1904年(明治37年)11月には開設されていたこと、名称は「国府台公園」と呼ばれていたことが判明する。
呼称については、大正3年刊行の落合浪雄著『郊外探勝その日帰り 増訂』有文堂書店などには、「国府台 今はそこら一面を切り開いて里見公園と云ふて居る、」[7]とあり、「里見公園」の呼称も用いられていたことが分かる。
大正12年に刊行された『千葉縣東葛飾郡誌』の「公園」の項に(P1255)、「国府台公園 一名里見公園、市川町、総寧寺境内其江戸川に臨み風光絶佳の処是を国府台公園となす」[8]とあることから、正式名称を「国府台公園」、通称を「里見公園」と呼ばれていたと考えられる[9]。
里見八景園
編集大正末期から昭和初期にかけて存在した遊園地で、教導団病院の移転により造成され、廃止後は再び陸軍病院の分室が作られた[10]。創設者は、東京でトタンやブリキを扱う問屋を営んでいた蓜島家と、メッキ加工業を営んでいた佐々木家で、「東洋一の遊園地」を目指して1918(大正7)年頃から構想を練り始め、1920年代初期に開園し、1933年ころまで続いた[11]。園内には、大丸太渡しや大滑り台、プール、動物小屋、音楽堂、演芸舞台、料理旅館「鴻月」、茶屋等が設けられ、創業と同時に千本の桜が植樹され、春には花見客で賑わった[11]。東京方面から直接来られるように江戸川の対岸の小岩地域と「鴻月」前の船着き場を行き来する「栗市の渡し」も設けられ、希望すれば柴又帝釈天まで送迎するサービスもあった[11]。佐々木家は中の茶屋と演芸場などを経営し、蓜島家は「鴻月」と「栗市の渡し」のほか、さつき園と、土橋亭、大観亭、富士見亭という茶屋と桟敷を経営した[11]。「鴻月」は市川三業組合(花街)に属していた関係から、1986年には蓜島正次(創業者の子で東京ベイ信用金庫会長、市川市名誉市民)らの呼びかけにより、市川真間の浮嶋弁財天に「名妓之碑」が建立された[12][13]。
その他
編集- 一部に、園内に高射砲陣地があったとの説が流布しているが、誤りである。これは、以前、明戸古墳西(現お花見広場)にすり鉢状の大きな竪穴が2つあり、近所の子供たちが高射砲を据えた跡だといったのが始まりである。この竪穴は防空壕の跡であることが明らかになっている。陣地の存在について、市川市立歴史博物館でも、この確たる根拠はないとの見方をとっている。
交通
編集脚注
編集- ^ 市川の都市計画 資料編
- ^ 市川里見公園新聞 第68号 2010年10月
- ^ “里見公園を5万坪に 江戸川あたりも含め開発計画/市川”. 読売新聞千葉版: p. 8. (1957年2月16日)
- ^ 大町桂月 著『筆』,広文堂,明41.4. 国立国会図書館デジタルコレクションNDLJP:889243/33
- ^ 市川市史 歴史編4, 市川市, 2020.3
- ^ 『むさしの』5(2),古今文学会,1905-05. 国立国会図書館デジタルコレクション NDLJP:1524890/44
- ^ 落合浪雄 著『郊外探勝その日帰り』,有文堂書店,大正3. 国立国会図書館デジタルコレクション NDLJP:936569/18
- ^ 千葉県教育会 編. 千葉県東葛飾郡誌, 東葛飾郡教育会, 大正12
- ^ 明治時代から大正時代の国府台公園(里見公園) 根岸英之
- ^ 里見八景園のチラシ広告里見公園新聞 第6号 2007年6月24日
- ^ a b c d 遊園地事業里見公園新聞 第74号 2011年11月30日
- ^ 市川の歴史『市川細見記』千葉商科大学政策情報学部、2015年10月17日
- ^ 蓜島正次氏が死去 地域の発展に貢献市川市名誉市民市川よみうりonline、2012年10月6日