酒井忠英 (出羽松山藩嫡子)
酒井 忠英(さかい ただひで)は、江戸時代中期の出羽国松山藩の世嗣。通称は主膳。
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 元禄14年9月8日(1701年10月9日)[1] |
死没 | 元文元年10月9日(1736年11月11日) |
別名 | 主膳(通称) |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 酒井忠予 |
藩 | 出羽松山藩世嗣 |
氏族 | 酒井氏(左衛門尉家) |
父母 | 父:酒井忠予、母:不詳 |
兄弟 | 忠英、忠寄、遠藤胤親正室 |
妻 | 正室:前田正甫の娘・家子 |
子 | 忠郷、忠起ら |
略歴
編集出羽国松山藩2代藩主・酒井忠予の長男として誕生。正室は富山藩主・前田正甫の娘・空眠家子。子に忠郷(長男)、忠起(次男)らがいる。
父・忠予の長男として生まれたが、享保17年(1732年)に盲目となって廃嫡され、藩から1,000俵を支給された。代わって忠休が嫡子となり、のち3代藩主に就任した。忠英の長男・忠郷、次男・忠起は忠休の養子となったが、いずれも家督相続前に死去した。このため継嗣争いが激化し、後の「宝暦騒動」を引き起こした。
脚注
編集- ^ 『新編庄内人名辞典』(庄内人名辞典刊行会、1986年)p.328