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進士(しんし)とは、から北宋中期にかけての科挙の六科の一つ。王安石の改革で進士科以外が廃止された後は、科挙の登第者(合格者)を指し、以降の南宋からまで続いた制度である。

進士
明代の官僚王瓊進士服姿
中国語
繁体字 進士
簡体字 进士
発音記号
標準中国語
漢語拼音jìnshì
注音符号ㄐㄧㄣˋ ㄕˋ
日本語
漢字 進士
Transcriptions
ローマ字 shinshi
朝鮮語
ハングル진사
漢字進士
発音記号
RR式jinsa
MR式jinsa
ベトナム語
クオック・グーtiến sĩ
チュハン進士
満洲語
満洲文字 ᡩᠣᠰᡳᡴᠠᠰᡳ
メレンドルフdosikasi

進士科

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隋代の初めに科挙が開始されたが、605年に進士科が設けられた。隋・の時代は進士科と明経科で試験が別になっていた。明経科では儒学の知識と時務策のみであったが、進士科ではこれに詩賦が加わった。

進士科は試験が最も難しく、1回に採られる人数は2~30人と明経科の十分の一であったため、最も重んじられ、地位は他の科よりも高かった。「明経科は30歳でも年寄り、進士科は50歳でも若い方」という言葉はいかに進士科が難関であったかを示している。

王安石の改革以後

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の科挙制度も開始時は進士・明経その他の科が設けられていたが、王安石の改革で明経などの諸科が廃止されて、進士科一科となった。で科挙が開始された時も進士科のみで、もそれを受け継いだ。そのため科挙の登第者のことを進士と称するようになった。

明清では殿試で選ばれた登第者は三甲に分けられた。一甲は状元榜眼探花の3名で「進士及第」と称し、二甲は若干名(清では一般に40-50名)で「進士出身」と称し、それ以外の三甲(清では一般に100-300名)は「同進士出身」と称した。世間の人々はそれらをまとめて進士と呼んだのである。

関連項目

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