言霊
言霊(ことだま)とは、言葉が持つとされる霊力。言魂(ことだま)とも表記する。
概要
編集声に出した言葉、音声言語が、現実の事象に何がしか影響すると信じられ、良い言葉を発すると良いことが起こり、不吉な言葉を発すると凶事が起こるとされた。そのため、祝詞を奏上する時には絶対に誤読がないように注意された。今日にも残る結婚式などでの忌み言葉も言霊の思想に基づくものである。
日本は言魂の力によって幸せがもたらされる国「言霊の幸ふ国」とされた。『万葉集』(『萬葉集』)に「志貴島の日本(やまと)の国は事靈の佑(さきは)ふ國ぞ福(さき)くありとぞ」(「志貴嶋 倭國者 事霊之 所佐國叙 真福在与具」 - 柿本人麻呂 3254)「…そらみつ大和の國は 皇神(すめかみ)の嚴くしき國 言靈の幸ふ國と 語り繼ぎ言ひ繼がひけり…」(「…虚見通 倭國者 皇神能 伊都久志吉國 言霊能 佐吉播布國等 加多利継 伊比都賀比計理…」 - 山上憶良 894)との歌がある。これは、古代において「言」と「事」が同一の概念だったことによるものである。漢字が導入された当初も言と事は識別されずに用いられており、例えば事代主神が『古事記』では「言代主神」と書かれている箇所がある。『古事記』には言霊が神格化された一言主大神の記述も存在する。
自分の意志をはっきりと声に出して言うことを「言挙げ」と言い、それが自分の慢心によるものであった場合には悪い結果がもたらされると信じられた。例えば、『古事記』において倭建命が伊吹山に登った時、山の神の化身に出会ったが、倭建命は「これは神の使いだから帰りに退治しよう」と言挙げした。それが命の慢心によるものであったため、神であったことを見抜けず、命は神の祟りに遭い亡くなってしまった。すなわち、言霊思想は、万物に神が宿るとする単なるアニミズム的な思想というだけではなく、心の存り様をも示すものであった。
万葉時代に言霊信仰が生まれたのは、中国の文字文化(漢字)に触れるようになり、大和言葉を自覚し、精神的基盤が求められたこととも無縁ではないという指摘がある[1]。江戸期の国学によって、再び取り上げられるようになった際も、漢意(からごころ)の否定や攘夷思想とも関連してくるとされ、自国文化を再認識する過程で論じられてきた[2]。
金田一京助は『言霊をめぐりて』の論文内で言霊観を三段に分類し、「言うことそのままが即ち実現すると考えた言霊」「言い表された詞華の霊妙を讃した言霊」「祖先伝来の一語一語に宿ると考えられた言霊」とし、それぞれ「言語活動の神霊観」「言語表現の神霊観」「言語機構の神霊観」ということに相応しいと記している。
記・紀の神話内に終末論が無い理由の一つであり、神道に救世・救済思想が無い[3]のも、救世思想が終末論と表裏一体の信仰のためである(従って、カルトによる終末を用いた脅しや集団自殺も存在しない)。
山本七平や井沢元彦は、日本には現代においても言葉に呪術的要素を認める言霊の思想は残っているとし、これが抜けない限りまず言論の自由はないと述べている[4]。山本によると、第二次世界大戦中に日本でいわれた「敗戦主義者」とは(スパイやサボタージュ[要曖昧さ回避]の容疑者ではなく)「日本が負けるのではないかと口にした人物」のことで、戦後もなお「あってはならないものは指摘してはならない」という状態になり、「議論してはならない」ということが多く出来てきているという[5]。
言霊に関する逸話
編集- 『関東古戦録』巻二の記述として、夏に鳴く狐は凶の印であると説明された北条氏康が和歌で狐自身に凶を返す歌を詠むと、狐が息絶えたと記される。
- 『神判記実』(明治初期の伊勢神宮神官・山口起業が集めた霊験譚)の話として、紀伊国の岩松という樵が狼の群れに襲われ、木に登るも、狼は背に登って重なり迫って来たため、暗唱していた祓詞を唱えると、心が清浄になり、狼達は降り、地に伏せ始めた。そのまま祓詞を続けると、朽ちた木の枝が折れ、大きな音と共に落ちたため、狼達が四散して逃げた。その後も岩松は祓詞を唱え続け、96歳まで生きた。
- 山蔭基央によれば、古来、禊には、「言霊の禊」「水の禊」「火の禊」「霊の禊」があり、言霊の禊の主流は大祓の詞だが、弟子のオランダ人にオランダ語に訳してやるよう提示したところ、言霊のバイブレーションは発動しなかったと主張している[6]。
脚注
編集関連項目
編集外部リンク
編集- 言霊 八幡書店