興国
日本の元号
改元
編集出典
編集『春秋左氏伝』昭公四年伝の「冀之北土、馬之所生、無興国焉、恃険与馬、不可以為固也」、『新五代史』伶官伝序の「憂労可以興国、逸予可以亡身、自然之理也」から。また興国元年は、日本書紀における神武天皇の即位から折りしも2000年目に相当し、その節目に因んだ改元ともとれる[1]。
興国期におきた出来事
編集- 「興国四年の戦い」(「尾野尻の戦い」)
興国四年、豊後の大友氏が、阿蘇氏の本拠であった、隣国肥後の矢部郷に攻め入った。「興国四年の戦い」または「尾野尻の戦い」とも呼ばれている。阿蘇氏の家臣は、御岳にある眺めの良い小高い丘(地元の伝承では山城があった場所と言われており、空濠がある。 『熊本の中世城址』には載っていない)に大友軍を誘導。あらかじめ埋めておいた爆薬に火をつけ、千人余里の兵を蹴散らしたという。火薬が爆発した響きは、ものすごい音であったという。爆薬のしかけは、土呂久鉱山の労働者(現、宮崎・高千穂町)を使った。
戦いより二百年余りたち、地元の男成・田所の人々が供養のために、板碑を建てて弔った。これを「千人灰塔」と呼び、山林に二基建っている。うち1基は、かなり大きいサイズである。
平成13年、地元で郷土史を学んでいる「いきいき大学」と「婦人学級」の生徒が、説明のために二本の標柱を建てた。
近くにある接続道が改良されたが、その場所に看板が無く、地元でも存在はほとんど知られていない。
西暦との対照表
編集興国 | 元年 | 2年 | 3年 | 4年 | 5年 | 6年 | 7年 |
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西暦 | 1340年 | 1341年 | 1342年 | 1343年 | 1344年 | 1345年 | 1346年 |
北朝 | 暦応3年 | 暦応4年 | 康永元年 | 康永2年 | 康永3年 | 貞和元年 | 貞和2年 |
干支 | 庚辰 | 辛巳 | 壬午 | 癸未 | 甲申 | 乙酉 | 丙戌 |
脚注
編集- ^ 日本古典文学大系87『神皇正統記 増鏡』岩波書店、1983年、p86