礼文郡
北海道(北見国)の郡
礼文郡(れぶんぐん)は、北海道(北見国)宗谷総合振興局の郡。
人口2,198人、面積81.64km²、人口密度26.9人/km²。(2024年10月31日、住民基本台帳人口)
以下の1町を含む。
- 礼文町(れぶんちょう)
郡域
編集郡名の由来
編集→「礼文島 § 島名の由来」も参照
歴史
編集郡発足までの沿革
編集礼文はもと「れふんしり」と読んだ。江戸時代の礼文郡域は西蝦夷地に属し、松前藩によって開かれたリイシリ場所に含まれた。
江戸時代後期になると文化4年には礼文島近海でロシアによる日本船襲撃事件(文化露寇、フヴォストフ事件)が発生している。南下政策を強力に進めるロシアの脅威に備え、同年礼文郡域は天領とされた。文化5年には厳島神社が創建されている。文政4年には一旦松前藩領に復したものの、安政2年再び天領(秋田藩警固地)とされ、同6年の6藩分領以降は秋田藩領となっていた。戊辰戦争(箱館戦争)終結直後の1869年8月15日、大宝律令の国郡里制を踏襲して礼文郡が置かれた。
郡発足以降の沿革
編集- 明治2年
- 明治4年8月20日(1871年10月4日) - 廃藩置県により再び開拓使の管轄となる。
- 明治5年
- 明治9年(1876年)9月 - 従来開拓使において随意定めた大小区画を廃し、新たに全道を30の大区に分ち、大区の下に166の小区を設けた。なお当時礼文郡に町村は設けられなかった。
明治9年の大区小区
- 第28大区
- 3小区 :
- 第28大区
- 明治11年(1878年) - 船泊村、神崎村、香深村、尺忍村が成立。
- 明治12年(1879年)7月23日 - 郡区町村編制法の北海道での施行により、行政区画としての礼文郡が発足。
- 明治13年(1880年)3月 - 宗谷郡外三郡役所(宗谷枝幸利尻礼文郡役所)の管轄となる。
- 明治15年(1882年)2月8日 - 廃使置県により札幌県の管轄となる。
- 明治19年(1886年)1月26日 - 廃県置庁により北海道庁札幌本庁の管轄となる。
- 明治30年(1897年)11月5日 - 郡役所が廃止され、宗谷支庁の管轄となる。
- 明治35年(1902年)4月1日 - 北海道二級町村制の施行により、以下の町村が発足。(2村)
- 大正12年(1923年)4月1日 - 香深村が北海道一級町村制を施行。
- 昭和18年(1943年)6月1日 - 北海道一・二級町村制が廃止され、北海道で町村制を施行。二級町村は指定町村となる。
- 昭和21年(1946年)10月5日 - 指定町村を廃止。
- 昭和22年(1947年)5月3日 - 地方自治法の施行により北海道宗谷支庁の管轄となる。
- 昭和31年(1956年)9月20日 - 香深村・船泊村が合併して礼文村となる。(1村)
- 昭和34年(1959年)9月1日 - 礼文村が町制施行して礼文町となる。(1町)
- 平成22年(2010年)4月1日 - 宗谷支庁が廃止され、宗谷総合振興局の管轄となる。
参考文献
編集- 角川日本地名大辞典 1 北海道