真船禎
日本の映画監督、演出家
真船 禎(まふね ただし、1933年2月27日[2][3] - )は、日本の映画監督、演出家。「真船企画」代表、日本映画監督協会会員。東京都[3]出身。妻はラジオ東京放送劇団に所属していた堀内敬子[1]。
まふね ただし 真船 禎 | |
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別名義 | 真船 匡氏、まふねてい |
生年月日 | 1933年2月27日(91歳) |
出生地 | 日本 東京都 |
国籍 | 日本 |
民族 | 日本人 |
職業 | 映画監督 |
ジャンル | テレビ映画 |
活動期間 |
1955年 TBS入社 1965年 TBS退社 1970年「真船企画」設立。 |
配偶者 | 堀内敬子[1] |
著名な家族 | 真船豊(父・劇作家) |
主な作品 | |
『帰ってきたウルトラマン』 『ウルトラマンA』 『ウルトラマンレオ』 『木枯らし紋次郎』 『黒い雨』 『すばらしい世界旅行』 『遠くへ行きたい』 |
人物・来歴
編集劇作家真船豊の息子[2]として、東京都に生まれる。小児結核を患ったことで、小学校2年生から神奈川県茅ヶ崎市の児童養護施設「白十字会林間学校」に入寮し、施設内の小学校に通った。終戦・小学校卒業後は自由学園に入学。高校1年生まで同様の寮生活をして通学し、残りの高校生活を関東学院で過ごした。この間の生活環境はキリスト教関係者に囲まれていたが、当時は信者になっていなかった[4]。
早稲田大学文学部演劇科を卒業[2]後TBS[2]に入社、「おかあさん」で演出デビュー[5]。TBSを1965年に退社[5]。1970年、個人事務所「真船企画」を設立。複数のテレビ映画を監督。
脚本家の市川森一や佐々木守[6]とともによく組んで作品を発表。第二期ウルトラシリーズ[3]でも監督を務めた。
高校卒業以降キリスト教とは距離を置いていたが、72歳の時洗礼を受け正式に信者となった。
フィルモグラフィ
編集テレビ映画
編集- 『泣いてたまるか』(1966年)
- 『バンパイヤ』(1968年)※まふねてい名義
- 『フジ三太郎』(1968年)
- 『さすらい』(1969年)
- 『Oh!それ見よ」(1969年)
- 『おゆきさん』(1971年)
- ウルトラシリーズ
- 『帰ってきたウルトラマン』(1971年)
- 『ウルトラマンA』(1972年)※脚本も担当
- 『ウルトラマンタロウ』(1973年)
- 『ウルトラマンレオ』(1975年)※パイロット(第1話・第2話)担当
- 『テレビスター劇場 もめん・きぬごし』(1973年)
- 『誰のために愛するか』(1974年)
- 『日本沈没』(1974年)
- 『木枯らし紋次郎』(第2部)(1974年)
- 『新宿警察』(1975年)
- 『三日月情話』(1976年)
- 『ザ・ハングマン』(1980年)
- 『黒い雨』(1983年、24時間テレビ 「愛は地球を救う」内)※ギャラクシー賞受賞
- 郷土の偉人シリーズ
- 『笑ゥせぇるすまん』(1999年)
脚注
編集- ^ a b TBSメディア総合研究所(編)『新・調査情報passingtime』、東京放送、2000年5月、90頁。
- ^ a b c d 映像メディア作家 1991, p. 547.
- ^ a b c 特撮の匠 2017, p. 46.
- ^ [1]日本基督教団会報4757号「人ひととき 真船禎さん 主のために」2023年6月3日確認
- ^ a b 特撮秘宝 2018, p. 85.
- ^ 特撮秘宝 2018, p. 182.
- ^ “検索結果 肥後のカミナリ 北里柴三郎/TKUドキュメンタリードラマ”. 放送番組センター. 2024年10月14日閲覧。
- ^ “松前重義・名利なき証言 若き日に汝の希望を星につなげ - ドラマ詳細データ”. テレビドラマデータベース. 2024年10月14日閲覧。
- ^ “知られざる清浦奎吾の生涯 - ドラマ詳細データ”. テレビドラマデータベース. 2024年10月14日閲覧。
参考文献
編集- 日外アソシエーツ 編『映像メディア作家人名辞典』日外アソシエーツ、1991年11月12日。ISBN 4816911111。
- 「特撮の匠」取材班 編『特撮の匠 昭和特撮の創造者たち』宝島社、2017年5月27日。ISBN 9784800271211。
- 洋泉社 編『特撮秘宝Vol.8』洋泉社、2018年10月18日。ISBN 9784800315458。