畑時能
南北朝時代・南朝方の武将
畑 時能(はた ときよし、正安元年9月15日[2](1299年10月10日)-興国2年/暦応4年10月25日(1341年12月4日))は、南北朝時代・南朝方の武将。六郎左衛門。畑胤時の次男。母は久納養哲娘。子に時純[3]、或いは能速[4]。兄に時継。新田義貞の側近で、後代に新田四天王の一人に数えられた。畑氏の出自は『姓氏家系大辞典』では秦氏、『苗字尽略解』では多治比氏とされるなど諸説ある。
時代 | 鎌倉時代末-南北朝時代 |
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生誕 | 正安元年9月15日(1299年10月10日) |
死没 | 興国2年/暦応4年10月25日(1341年12月4日) |
別名 | 六郎左衛門 |
墓所 | 首塚 埼玉県児玉郡上里町金久保933 |
幕府 | 南朝 |
主君 | 新田義貞→脇屋義助 |
氏族 | 秦氏?、多治比氏? |
父母 | 畑胤時、久納養哲娘 |
兄弟 | 畑能速 |
妻 | 正室:井上経長の娘? |
子 | 畑時純、畑能速 |
生涯
編集武蔵秩父郡出身。義貞に従って各地を転戦し、延元3年/建武5年(1338年)、義貞が藤島の戦いで平泉寺勢力に敗死すると、義貞の弟脇屋義助に従い、坂井郡黒丸城、千手寺城、鷹巣城を転戦、足利方の斯波高経と激戦を繰り返したが、ついには追い詰められ、鷲ヶ岳に郎党16騎で立て籠った。高経は、平泉寺が再び南朝に味方したと勘違いし、伊知地(現福井県勝山市伊知地)へ3千の軍勢を差し向けた。興国2年/暦応4年(1341年)10月22日、斯波勢へ突撃した時能は数時間に及ぶ激闘の末、肩口に矢を受け、3日間苦しんだ後に亡くなったという。
現在、合戦のあった場所は「伊知地古戦場」として1981年(昭和56年)4月7日に勝山市指定史跡となっており、「畑ヶ塚」が立っている[5]。
登場作品
編集小説
編集- 『子守りの殿』(南條範夫)