新宮城 (安芸国)
新宮城(しんぐうじょう)は、安芸国三入庄(広島県広島市安佐北区可部町下町屋)にあった日本の城。
新宮城 (広島県) | |
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城郭構造 | 山城 |
天守構造 | 無し |
築城主 | 熊谷氏 |
築城年 | 不詳 |
主な城主 | 熊谷氏、末田氏 |
廃城年 | 天正19年(1591年)頃? |
遺構 | 曲輪、縦堀 |
指定文化財 | 未指定 |
位置 | 北緯34度32分15.6秒 東経132度31分44.4秒 / 北緯34.537667度 東経132.529000度 |
地図 |
概要
編集根ノ谷川と桐原川が合流する地点の丘に作られた山城。標高は低いが急峻で険しい地で、三入高松城の支城である。この場所は三入新庄への入口に当たり、その抑えとして重要視された。
現在残されている遺構は、最高所の曲輪とその南の三入八幡神社境内が建つ曲輪のみで、周辺は住宅地や農地として地形が改変されているため、城郭の全体構造を把握することは難しい[1]。
歴史・沿革と三入八幡神社
編集現在、地域の信仰を集める三入八幡神社が新宮城跡に建っている。この八幡神社は熊谷氏が甲斐国から勧請、社領を寄進して保護に努めていた。この新宮城は熊谷氏の一族・末田氏が支配しており、『群中国郡誌』によれば、末田氏が元亀年間(1570年~1572年)から社職を務めていたとの記載がある。元亀3年(1572年)には熊谷高直が銅製梵鐘を寄進している。この梵鐘は現在、広島市指定の重要有形文化財(工芸品)に指定されている[2]。
三入高松城が廃城となった天正19年(1591年)頃に廃城になったと推測される。城はなくなったが三入八幡神社は存続し、現在も社職は末田氏が務めている。
境内には早良親王(崇道天皇)のものとされる石積みが残っている。
丸子山墳墓群
編集三入八幡神社のある新宮城から南に伸びる尾根の最南端に丸子山(新宮城の支城跡)という低い山が存在していた。1976年(昭和51年)8月に発掘調査が行われ、この場所から約2000年前の女性と推定される全身の骨、そして左腕に嵌ったままの貝で作られた腕輪が発見された。調査の結果、この狭い領域に子供用の石棺を含め15基の石棺が発見された。当時は数十基の石棺が存在したが、新宮城の築城や神社の建立等で破壊されたと推定される。「貝の腕輪」に使用された貝は沖縄近辺の海にしかいない種類で、九州では数多く発見されているが、中国地方での発見は非常に珍しく、この丸子山墳墓群で出土したものが最大の大きさであった。現在の三入周辺を支配していた豪族が、極めて大きな勢力を誇っていたことが窺える。
後に丸子山は造成によって破壊されてしまったため、「貝の腕輪」は広島市文化財団が保管し、女性と子供の石棺は広島市立可部小学校で保存展示されている。
脚注
編集参考文献
編集- 広島市 1976『可部町史』
- 広島県教育委員会 1993『広島県中世城館遺跡総合調査報告書 第1集』