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新井 石龍(あらい せきりゅう、俗名:小島 藤七、1889年明治22年〉9月29日 - 1984年昭和59年〉2月16日)は、日本曹洞宗僧侶書家雲洞庵四十五世住職。号は無著。

略歴

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新潟県中蒲原郡村松町(現 五泉市村松)出身。1911年明治44年)3月に新潟中学校を卒業、1914年大正3年)7月に第四高等学校を卒業、1917年(大正6年)7月に京都帝国大学文科大学哲学科を卒業[1]

1918年(大正7年)に雲洞庵四十五世住職に就任、1921年(大正10年)6月に養父で曹洞宗管長新井石禅に随行してアメリカに渡り、6カ月間、各地を視察、ウォレン・ハーディング大統領に謁見[2]

1939年昭和14年)に新潟県仏教各宗代表中支派遣皇軍慰問団団長として中支戦線を巡錫、1942年(昭和17年)に南満州鉄道に招聘されて満州に渡り、各地を行脚、南満州鉄道職員に講演[3]

1953年(昭和28年)5月に曹洞宗管長の高階瓏仙の随行長としてアメリカに渡り、4カ月間、各地を視察、ダグラス・マッカーサー元帥と会見[2]、同年に曹洞宗大本山總持寺顧問に就任。

国民精神総動員新潟県実行委員会理事、大政翼賛会新潟県支部参与、産業報国会顧問、軍事保護院講師、勤労者教育中央会講師、新潟県公安委員会委員、司法委員、家事調停委員、新潟県社会教育委員、新潟県婦人連盟顧問などを歴任[3]

1984年(昭和59年)2月16日午後1時58分に入院先の新潟市紫竹山(現 新潟市中央区紫竹山)の新潟市民病院老衰のため死去[4]

高齢のため桑名病院に入院していたとき、大晦日から元日にかけて生放送されるNHKのテレビ番組『ゆく年くる年』に雲洞庵が中継放送されることになり、桑名病院のケアのもと、12月29日に雲洞庵に一時的に帰った[5]

新潟中学校の先輩で書家会津八一に自分の書を褒められて嬉しくなった[6]。また、会津八一に自分の僧衣の袈裟に揮毫してもらった[7]

著作物

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著書

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  • 『仏心一生』協働社、1976年。

編書

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脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ 愛知学院大学教養部紀要』第58巻第4号、153頁。
  2. ^ a b 雲洞庵の石龍禅師さま その人と書』159頁。
  3. ^ a b 愛知学院大学教養部紀要』第58巻第4号、152頁。
  4. ^ 新潟日報』1984年2月18日付夕刊、3面。
  5. ^ 雲洞庵の石龍禅師さま その人と書』151頁。
  6. ^ 雲洞庵の石龍禅師さま その人と書』158頁。
  7. ^ 會津八一傳』624頁。

参考文献

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  • 『雲洞庵の石龍禅師さま その人と書』新井勝龍[著]、「雲洞庵の石龍禅師さま」編集委員会[編]、考古堂書店、1994年。
  • 「雲洞庵住職、書道の大家 新井石竜禅師死去」『新潟日報』1984年2月18日付夕刊、3面、新潟日報社、1984年。
  • 「新井石龍」「明治期以降曹洞宗人物誌(四)」『愛知学院大学教養部紀要』第58巻第4号、153-152頁、川口高風[著]、愛知学院大学教養教育研究会、2011年。
  • 「新井石龍」『越佐名士錄』568頁、坂井新三郎[著]、越佐名士録刊行会、1942年。
  • 「新井石竜」『越佐人物誌 上巻』40頁、牧田利平[編]、野島出版、1972年。
  • 「新井石龍」『越佐書画名鑑』251頁、荒木常能[編]、新潟県美術商組合、1993年。
  • 「新井石龍」『越佐書画名鑑 第二版』311頁、荒木常能[編]、新潟県美術商組合、2002年。
  • 『會津八一傳』吉池進[著]、会津八一先生伝刊行会、1963年。
先代
新井石禅
雲洞庵住職
四十五世:1918年 - 1984年
次代
新井勝龍