懐信可汗
懐信可汗(かいしんかがん、拼音:Huáixìn Kĕhàn、? - 805年)は、回鶻可汗国の第7代可汗。氏は阿跌[1](エディズ:Ädiz)氏、名は骨咄禄(クトゥルグ:Qutluγ)。骨咄禄将軍(クトゥルグ・センギュン:Qutluγ säŋün)とも表記される。可汗号はテングリデ・ウルグ・ボルミシュ・アルプ・クトゥルグ・キュリュグ・ビルゲ・カガン(Täŋridä uluγ bolmiš alp qutluγ külüg bilgä qaγan)[2]であり、唐より懐信可汗の称号を加えられた。
生涯
編集骨咄禄はもと阿跌(エディズ:Ädiz)氏で、幼くして回紇の大首領に養われ、武義成功可汗の時に何度か主兵を率いたため、諸酋に慕われるようになり、回鶻可汗国の相(宰相)となる。
貞元11年(795年)2月、奉誠可汗が死去したが、彼に子がいなかったため、国人たちは骨咄禄を立てて可汗とした。骨咄禄は阿跌氏であったが、薬羅葛氏に恩義があったため、あえてその氏族名を名乗らなかった。こうして薬羅葛氏の政権が終わり、阿跌氏の政権が始まる。6月、唐は秘書監の張薦に節を持たせて骨咄禄を冊立し、滕里羅羽録没蜜施合胡禄毘伽懐信可汗[3]の称号を授けた。
永貞元年(805年)、懐信可汗が死ぬと、唐は詔で鴻臚少卿の孫杲に臨弔させ、後継ぎを冊立して滕里野合倶録毘伽可汗とした。
可敦(カトゥン:皇后)
編集- 咸安公主
懐信可汗とマニ教
編集回鶻可汗国内において、第4代可汗の武義成功可汗(在位:779年 - 789年)以来迫害を受けてきたマニ教であったが、懐信可汗の代でふたたび受容されることとなった。そのことはトルファン出土のウイグル文書U1に「803年の羊年にウイグルのブクク汗(懐信可汗)が高昌にまでやって来て、マニ教東方大司教区のトップである慕闍(モジャク)に会い、マニ教団第三位の高僧であるマヒスタクを3人もモンゴリアに設置することを相談した」とあることによってわかる[4]。
脚注
編集- ^ 原文では𨁂(足偏に夾)跌と表記。
- ^ 「天より福を授かりし勇猛にして幸を授かりし誉れ高き賢明なるカガン」の意。
- ^ 『旧唐書』では「滕里羅羽録没蜜施合汨咄禄胡禄毘伽懐信可汗」(本紀)、「滕里羅羽録没蜜施合胡禄毘伽懐信可汗」(迴紇伝)すなわち「Täŋridä uluγ bolmiš alp qutluγ külüg bilgä 懐信 qaγan(天より福を授かりし勇猛にして誉れ高き幸を授かりし賢明なる懐信カガン)」とあり、『新唐書』では「愛滕里羅羽録没蜜施合胡禄毘伽懐信可汗」すなわち「Ay Täŋridä uluγ bolmiš alp külüg bilgä 懐信 qaγan(月天より福を授かりし勇猛にして誉れ高き賢明なる懐信カガン)」とある。
- ^ 森安孝夫『興亡の世界史05 シルクロードと唐帝国』p285
参考資料
編集- 『旧唐書』(本紀第十三 徳宗下、列伝第一百四十五 迴紇)
- 『新唐書』(列伝第一百四十二上 回鶻上)
- 森安孝夫『興亡の世界史05 シルクロードと唐帝国』(講談社、2007年、ISBN 9784062807050)
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