川村竹治
日本の官僚、政治家
川村 竹治(かわむら たけじ、明治4年7月17日(1871年9月1日) - 昭和30年(1955年)9月8日)は大正から昭和にかけて活躍した官僚・政治家。南満洲鉄道(満鉄)社長、司法大臣等を歴任。
経歴
編集秋田県鹿角郡花輪町出身。日本中学などから一高を経て、1897年(明治30年)、東京帝国大学法科大学英法科卒業。同年、内務省入省。逓信省書記官、内務省書記官、内務参事官、台湾総督府内務局長などを歴任し、1911年(明治44年)より和歌山県知事を務めた[1]。1914年(大正3年)、香川県知事。1917年(大正6年)、青森県知事。1918年(大正7年)、内務省警保局長。1921年(大正10年)、内閣拓殖局長官。1922年(大正11年)6月6日[2]から1947年(昭和22年)5月2日まで貴族院議員(勅選)、交友倶楽部に所属。1922年(大正11年)6月、内務次官。1922年(大正11年)10月、南満洲鉄道株式会社(満鉄)社長。1928年(昭和3年)6月、台湾総督。1932年(昭和7年)3月、犬養内閣の司法大臣。五・一五事件で依願免官。その後は、夫人文子経営の川村女学院(現在の川村学園)顧問になった。1955年(昭和30年)9月8日死去。享年85(満84歳没)。墓所は鹿角市長年寺。
栄典
編集- 位階
- 勲章等
親族
編集著書
編集- 『臺灣の一年』時事硏究會、1930年
脚注
編集- ^ コトバンク「川村竹治」
- ^ 『官報』第2953号、大正11年6月7日。
- ^ 『官報』第1657号「叙任及辞令」1918年2月13日。
- ^ 『官報』第2640号「叙任及辞令」1921年5月21日。
- ^ 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。
- ^ 『官報』第1585号「叙任及辞令」1932年4月14日。
- ^ 7月30日(土)午後3時~放送 Vol.2『川村文子』 秋田人物伝 - 秋田テレビ
公職 | ||
---|---|---|
先代 鈴木喜三郎 |
司法大臣 第34代:1932年 |
次代 小山松吉 |
先代 小橋一太 |
内務次官 第23代:1922年 |
次代 堀田貢 |