尾張藩
尾張藩(おわりはん)は、尾張一国(愛知県西部)と美濃、三河及び信濃(木曽の山林)の各一部を治めた親藩。徳川御三家中の筆頭格であり、諸大名の中で最高の格式(家格)を有した。尾張国名古屋城(愛知県名古屋市)に居城したので、「名古屋藩」とも呼ばれた。明治の初めには名古屋藩を正式名称と定めた。藩主は尾張徳川家。表石高は61万9500石。
歴史
編集藩の前史
編集尾張は慶長5年(1600年)9月、関ヶ原の戦い終結まで清洲城主・福島正則が24万石で支配していた。戦功により福島正則は安芸広島藩に加増移封された。
藩史
編集関ヶ原の戦いの戦功(先陣)により徳川家康の四男・松平忠吉が入封(清洲藩、52万石)する。慶長11年(1606年)、家康の直轄領であった知多郡(知多半島)も忠吉に加増される。しかし慶長12年(1607年)に忠吉に嗣子がなく死去して天領となった。
代わって甲斐甲府藩から同じく家康の九男で忠吉の弟である徳川義直が47万2344石で入封し、清洲城から新たに築かれた名古屋城に移って(清洲越し)、ここに尾張藩が成立した。
藩領は随時加増されてゆき、元和5年(1619年)5月16日に56万3206石となった。さらに、寛文11年(1671年)紀伊徳川家との格差をつけて御三家筆頭の家格を示すため、給人領(渡辺半蔵はじめ16家1党に将軍の朱印状をもって与えられた知行地)5万石を加増され61万9500石の知行高が確定した。 領域は尾張のほぼ一国のほか、美濃・三河・信濃(木曽郡のヒノキ御用林)・近江・摂津と広範囲に跨って飛地が存在した。 中でも木曽の御用林から得られる木材資源は藩財政の安定に寄与する重要なものであった。また、表高こそ62万石弱であったが、新田開発を推し進めた結果、実高は100万石近くに達したといわれる。 財政には比較的余裕があったことから、領民には四公六民の低い税率が課されたという。 三河(加茂郡)や近江(蒲生郡)、摂津(川辺郡)にあったのは、すべて給人領である。
尾張藩は百姓一揆が、水戸(35件)[1]や紀伊(30件)[2]に比べ少なかった藩とされている。江戸時代を通じて尾張国内で21件の一揆が記録されている[3][4][5]。
勝海舟は、『氷川清話』(明治31年、1898年)の中で「日本国中で、古来民政のよく行き届いたところは、まず甲州と尾州と小田原との三ヶ所」であるとし、尾張(尾州)については、「租税を軽うし、民力を養った」「織田信長の遺徳がいまだ人民に慕われている」「当時の善政良法が、今なお歴々として残っている」としている。
初代
編集初代藩主・徳川義直は着任当初まだ幼少であったため、初期の藩政は家康の老臣たちによって行なわれたが、成長してからは義直自ら米の増産を目的とした用水整備・新田開発・年貢制度の確立などに務めて藩政を確立している。
二代目
編集第2代藩主・徳川光友は寺社政策に尽力したが、寺社再建を行いすぎて藩財政が苦しくなり、藩札発行するも失敗して藩財政が苦しくなった。このため、光友以後の藩主は倹約令や上米などの財政改革を行なって藩財政を黒字にさせたりもしたが、天災なども相次いで藩財政は結局は悪化した。
三代目
編集第3代藩主徳川綱誠は、実母の千代姫が3代将軍徳川家光の長女であった。それゆえ、御家門の中でも最も将軍家に近い存在であった。異母兄松平義昌は陸奥梁川藩3万石を得て大窪松平家として独立、同母弟松平義行は美濃高須藩3万石を得て四谷松平家として独立、異母弟松平友著は尾張藩内で家禄を得て川田窪松平家を称し、三つの分家御連枝ができあがる。
四代目・五代目
編集第4代藩主・徳川吉通は、第6代将軍徳川家宣から高く評価され、家宣の子鍋松(後の徳川家継)が幼く政務に耐えられないと判断し、第7代将軍に就任するように要請されるほどの人格者[6]であったが、家宣薨去1年後に25歳と言う若さで急死してしまう。 第5代藩主は、幼い徳川五郎太が継ぐも、数え年3歳で急死してしまい、家督は叔父である徳川継友が継承。
六代目
編集第6代藩主・徳川継友は第7代将軍・徳川家継が重病に臥した際、第8代将軍候補の有力者であった。第6代将軍御台所の天英院の姪の近衛安己を婚約者に持ち、祖母が第3代将軍家光の長女であり、将軍家に最も近い存在であったからである。 しかし、同じ御三家の紀州藩主・徳川吉宗が将軍に就任した。その後、尾張徳川家は御三家で唯一、血統上で将軍を輩出することなく明治維新を迎えることとなる。[注 1]第4代藩主徳川吉通は、「尾張は将軍位を争わず」と述べており、尾張藩では家訓として将軍位を継承することよりも、徳川家康より与えられた尾張藩を護ることのほうが大切であるとされていたためである[6]。
七代目
編集歴代藩主で最も有名なのが、その継友の弟であり、第7代藩主となった徳川宗春である。仏教思想の法治政策として藩主時代は死刑禁止政策や罪人への寛容主義や性犯罪予防の夜間照明の女性保護政策がある。宗春は倹約を主とする江戸の幕閣の政策を批判し、名古屋城下に芝居小屋や遊廓の設置を許可し、規制緩和政策を推進した。 これは江戸幕府の緊縮財政に対して真っ向から対立するものであった[7]。
享保20年(1735年)に入ると幕府よりも5ヶ月早く遊興徘徊を禁じる令を出す。また、翌年の元文元年に行われた幕府の元文の改鋳によるインフレ政策に先立って、すでにインフレ状態にあった尾張藩内の引き締め政策を展開した。しかし、幕府より一手先を行く宗春の政策は幕閣に警戒感を与えてしまっていた。
丁度その頃は、幕府は朝廷が禁じた『大日本史』の出版を強行し、幕府と朝廷に緊張が走っていた。 元文3年(1738年)朝廷が、反幕府の象徴的儀式である大嘗会を開くことになる。宗春と御付家老成瀬正泰が参勤交代で江戸に下向すると、もう一人の御付家老竹腰正武が、名古屋で宗春の政策をことごとく否定していた。そのために尾張藩内は少なからず騒乱状態となる。
翌年の元文4年(1739年)に、大嘗会に使いに出ていた使者が江戸に戻り将軍吉宗に報告すると、吉宗は病と称し引きこもってしまう。 そして数日後、吉宗は、尾張藩内の騒乱状態を理由に宗春を隠居謹慎処分に処した。その日に、吉宗は朝廷の中心であった一条兼香に多額の献金をし、宗春の甥である二条宗基に諱の「宗」の字を与え、朝廷対策を打った[8]。
尾張藩は初祖義直の頃から朝廷との縁が深く、「王命に依って催さるる事」[9]とされていた。 朝廷は宗春を高く評価しており[10]、宗春は朝廷と幕府の間に挟まれて隠居謹慎せざるを得なくなってしまった。
八代目
編集宗春の後を継いで第8代藩主となったのは、従弟の徳川宗勝である。宗勝は宗春時代の藩政を改め、倹約令を中心とした緊縮財政政策を行ない、藩財政を再建する一方で、学問を意奨励して巾下学問所を創設した。
九代目
編集第9代藩主・徳川宗睦は父・宗勝の政策を受け継いで財政改革を継続し、その治世は38年間におよんだ。 一時期は財政が好転したこともあったが、宝暦治水にもかかわらず庄内川の氾濫など、天災による被害を受けて財政が結局は悪化した。市中の富商56人から金5000両を調達し、幕府に2万両の公金拝借を願い出た。以後、財政難によりこの金策は繰り返されていくこととなる。なお、この宗睦の時代にも学問が奨励され、天明3年(1783年)には藩校・明倫堂が創設されている。 軍制改革も実施され、寛政5年には幕府の「海軍防備令」に即応した知多半島の防備を再編成し、上方の変事に対応する計画を策定した。更にこの作戦に応じた歩兵銃砲主体の編成を大番組・寄合組・馬廻り組を拡充させた。寛政11年(1799年)12月に宗睦は死去した。宗睦の実子は早世していたため、ここに義直以来の尾張徳川家の男系の血統は藩主家から断絶した。
十代目
編集代わって寛政12年(1800年)1月に第10代藩主となったのは、一橋家から養子として迎えられた徳川斉朝である。 斉朝は、尾張藩第4代藩主徳川吉通の外孫である二条宗基の曾孫にあたり尾張徳川家の血を受け継いでいた。しかし、ここで尾張の男系血統は藩祖義直から断絶する[11]。
十一代目~十三代目
編集第11代藩主・徳川斉温や第12代藩主・徳川斉荘・第13代藩主・徳川慶臧らは、第11代将軍・徳川家斉の実子か、あるいは御三卿から迎えられた養子などであった(いずれも紀州藩主から将軍となった徳川吉宗の血統の一橋家の血筋)。 彼らは寿命や在任期間が短かったこともあったが、尾張に入国せずに江戸に在住することが多かったこともあって、藩政は停滞期に入り、藩財政は赤字になった。慶臧の継承により、尾張藩は幕府への財政依存が更に高まり、嘉永元年に米切手(藩札)の回収を条件に10万両が幕府から貸与されている。
このため、藩内では幕府迎合的で御三卿・徳川将軍家などからの養子を藩主に迎えて財政支援を期待する付家老などの江戸派に反対して、幕府からの藩政介入に反発し独立志向の金鉄党(尾張派、寛政軍革により拡充された大番組を中心として結成)を中心に藩主擁立運動が起こった。結局、将軍家御三卿系の養子は阻止された。
十四代目~十六代目
編集支藩美濃高須藩から本家を継いだ幕末の第14代藩主・徳川慶恕(後の慶勝、血統としては水戸系)は、養子藩主時代の人事を一新し、財政改革にも一応の成功を収めている。
しかし安政5年(1858年)に将軍後継者問題・条約勅許問題などから一橋派に与して井伊直弼ら南紀派と対立し、この政争に敗れた慶勝は紀州家からの将軍擁立を妨害するために押しかけ登城を行ったことなどにより、直弼の安政の大獄によって強制的に隠居処分に処され、第15代藩主には慶勝の弟・徳川茂徳がなった。
だが、直弼が桜田門外の変で暗殺され、文久3年(1863年)9月13日には茂徳に代わり、慶勝の子・徳川義宜が第16代藩主となったため、慶勝は隠居として藩政の実権を掌握し、幕政にも参与して公武合体派の重鎮として活躍し尾張藩は藩主と元藩主の二重支配体制となり、第一次長州征伐の総督に立てられるなどした。慶勝は第二次長州征伐の総督にも任命されたが、辞退している。
明治時代
編集- 明治維新
大政奉還後に慶勝は新政府の議定に任ぜられ、小御所会議で決定された辞官納地を慶喜に求める使者となっている。慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いによって新政府と幕府の対立が明らかになると慶勝も新政府側につき、藩内の佐幕派は青松葉事件によって弾圧された。 鳥羽・伏見の戦いの後に明治新政府により東征軍が編成されると、前藩主徳川慶勝は東海道諸藩の触頭に任命され、佐幕色の強かった東海道譜代諸藩、代官、旗本、それと勤王側の在野の国学グループへ勤王誘引使を送り中立化へ動かして新政府軍の東海道通過を容易にした。
明治3年(1870年)には財政難に陥った支藩の高須藩を吸収。
- 廃藩置県
明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県により廃藩し、名古屋県となった。その後、犬山県との統合、愛知県への改称、額田県との統合を経て、現在の愛知県となった。
廃藩置県後の、尾張徳川家の家政機関については、尾張徳川家#尾張徳川侯爵家を参照のこと。
歴代藩主一覧
編集徳川家(尾張徳川家)
編集代 | 名 | よみ | 極位極官 | 就封 | 在任期間 | 前藩主との続柄・備考 |
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1 | 義直 | よしなお | 従二位行権大納言[12] | 慶長12年-慶安3年 1607年 - 1650年 |
徳川家康 9男 | |
2 | 光友 | みつとも | 従二位行権大納言 | 遺領相続 | 慶安3年 - 元禄6年 1650年 - 1693年 |
先代の長男 |
3 | 綱誠 | つななり | 権中納言従三位 | 家督相続 | 元禄6年 - 元禄12年 1693年 - 1699年 |
先代の長男 |
4 | 吉通 | よしみち | 権中納言従三位 | 遺領相続 | 元禄12年 - 正徳3年 1699年 - 1713年 |
先代の9男 |
5 | 五郎太 | ごろうた | 無位無官 (死後、従三位参議追贈) |
遺領相続 | 正徳3年(7月 - 10月) 1713年 |
先代の長男 |
6 | 継友 | つぐとも | 権中納言従三位 | 遺領相続 | 正徳3年 - 享保15年 1713年 - 1730年 |
先代の叔父 (3代綱誠の11男) 養子 |
7 | 宗春 | むねはる | 権中納言従三位 | 遺領相続 | 享保15年 - 元文4年 1730年 - 1739年 |
先代の弟 (3代綱誠の19男) 養子 |
8 | 宗勝 | むねかつ | 権中納言従三位 | 遺領相続(正式な相続ではなく、先代宗春謹慎に伴い没収の後、改めて藩主として指名する形式) | 元文4年 - 宝暦11年 1739年 - 1761年 |
2代光友の孫 (はじめ支藩の高須藩主) 養子 |
9 | 宗睦 | むねちか | 従二位行権大納言 | 遺領相続 | 宝暦11年 - 寛政11年 1761年 - 1799年 |
先代の2男 |
10 | 斉朝 | なりとも | 正二位行権大納言 | 遺領相続 | 寛政11年 - 文政10年 1799年 - 1827年 |
将軍家斉の甥 養子 |
11 | 斉温 | なりはる | 従二位行権大納言 | 家督相続 | 文政10年 - 天保10年 1827年 - 1839年 |
先代の従兄弟 (将軍家斉の19男) 養子 |
12 | 斉荘 | なりたか | 従二位行権大納言 |
家督相続 | 天保10年 - 弘化2年 1839年 - 1845年 |
先代の兄 (将軍家斉の12男) 養子 |
13 | 慶臧 | よしつぐ | 権中納言従三位 | 遺領相続 | 弘化2年 - 嘉永2年 1845年 - 1849年 |
御三卿田安斉匡の7男 養子 |
14 | 慶恕 | よしくみ | 権中納言従三位 | 遺領相続 | 嘉永2年 - 安政5年 1849年 - 1858年 |
支藩高須藩松平義建2男 養子 |
15 | 茂徳 | もちなが | 従二位行権大納言 | 家督相続 | 安政5年 - 文久3年 1858年 - 1863年 |
先代の弟 (支藩高須藩松平義建5男) 養子 |
16 | 義宜 | よしのり | 従三位行左近衛権中将 | 家督相続 | 文久3年 - 明治2年 1863年 - 1869年 |
先代の甥 (14代慶恕の3男) 養子 |
17 | 慶勝 | よしかつ | 正二位行権大納言 | 家督相続 | 明治2年 - 1869年 - |
14代藩主慶恕が再承 |
藩校
編集- 明倫堂 - 寛延2年(1749年)創立、現・愛知県立明和高等学校
- 洋学校 - 明治3年(1870年)創立、現・愛知県立旭丘高等学校
支藩・御連枝
編集梁川松平家(大窪松平家)
編集- 義昌(よしまさ)〔従四位下、出雲守・少将〕 尾張藩主・徳川光友の子
- 義方(よしかた)〔従四位下、出雲守・少将・侍従〕
- 義真(よしざね)〔従四位下、式部大輔・侍従〕
- 通春(みちはる)〔従五位下、主計頭・侍従〕 尾張藩主徳川綱誠の子 後、尾張藩主・徳川宗春となる
江戸上屋敷を四谷大窪に置いた。
高須松平家(四谷松平家)
編集- 高須藩(たかすはん)3万石(岐阜県海津郡、1700年 - 1870年) - 1870年に尾張本藩と合併された。10代藩主義建の男子は合わせて6人が高須藩を含めた諸藩の藩主の地位に就いた(尾張藩主・徳川慶勝(二男)、浜田藩主・松平武成(三男)、尾張藩主・徳川茂徳(五男、最初は11代高須藩主松平義比)会津藩主・松平容保(七男)、桑名藩主・松平定敬(九男)、13代高須藩主松平義勇(十男))。江戸屋敷は四谷に所在した。
- 義行(よしゆき)〔従四位下、左近衛権少将兼摂津守〕 尾張藩主・徳川光友の子・母は3代将軍徳川家光の長女千代姫
- 義孝(よしたか)〔従四位下、左近衛権少将兼摂津守〕 尾張藩主・徳川綱誠の子。叔父義行の養子となる
- 義淳(よしあつ)〔従四位下、左近衛権少将兼摂津守〕→尾張藩主・徳川宗勝となる。 川田窪松平友著の嫡男。義孝の養子となり、後に尾張藩8代藩主となる。
- 義敏(よしとし)〔従四位下、左近衛権少将兼中務大輔〕
- 義柄((よしとも)〔従四位下、侍従兼摂津守〕→ 尾張藩主・徳川宗睦の養子となり徳川治行となる。
- 義裕(よしひろ)〔従四位下、左近衛権少将兼摂津守〕
- 勝当(かつまさ)〔従四位上、左近衛権少将兼弾正大弼〕
- 義居(よしすえ)〔従四位下、左近衛権少将兼摂津守〕 一橋家・徳川治済の子。
- 義和(よしより)〔従四位下、左近衛権少将兼中務大輔〕 水戸藩主徳川治保の子。
- 義建(よしたつ)〔従四位下、左近衛権少将兼摂津守〕
- 義比(よしちか)〔従四位下、左近衛権少将兼摂津守〕→尾張藩主・徳川茂徳となる。
- 義端(よしまさ)〔早世のため無位無官〕
- 義勇(よしたけ)〔従五位〕
- 義生(よしなり)〔従五位〕
川田窪松平家
編集家臣団
編集江戸下屋敷 尾張藩の家臣団は、幕府より附属された者、甚太郎衆や忍新参衆などの松平忠吉の遺臣、甲斐時代に義直に仕えた者、尾張藩成立後に取り立てられた者、平岩親吉の遺臣らで構成された。幕下御附属衆の6氏(成瀬、竹腰、渡辺、石河、山村、千村)は将軍徳川家康または将軍徳川秀忠の命によって尾張藩に附属され、代々将軍に拝謁する資格を所持した家柄だった。御附属列衆も幕臣から尾張藩に附属された者であるが、こちらは将軍への拝謁資格はなかった。
幕下御附属衆
編集このうち成瀬・竹腰の2家が狭義の御附家老で、「両家年寄」と称する。
- 成瀬家(犬山城3万5千石、犬山藩)慶応4年(1868年)1月24日、独立大名となる。維新後子爵
- 成瀬家(成瀬半太夫家、藩内1500石→4000石)
- 成瀬正信(正則の長男)-
- 成瀬家(成瀬吉太夫家、藩内4000石)
- 成瀬長則(正則の次男)-
- 成瀬家(成瀬能登守家、藩内1000石)
- 竹腰家(今尾陣屋3万石、今尾藩)慶応4年(1868年)1月24日、独立大名となる。維新後男爵
- 渡辺家(渡辺半蔵家、三河寺部陣屋1万4000石・家老)維新後男爵
- 渡辺家(渡辺半十郎(新左衛門)家[13]、藩内2000石・国老中、名古屋城代、江戸家老、年寄など)
- 渡辺家(渡辺半九郎(源太左衛門)家、藩内1500石・城代並、年寄など)
- 渡辺顕綱(守綱二男宗綱の二男綱久の嫡子) - 富綱 - 年綱 = 豊綱(成瀬織部正恕二男、年綱婿養子) - 愷綱 - 壽綱 - 半九郎
- 石河家(美濃駒塚陣屋1万石・家老)維新後男爵
- 石河家(中石河家、1500石)
- 石河宗直(石川光忠次男) - 宗令 - 宗幸 - 邦命 - 直澄 - 直秩 - 好生 - 賢綱
- 石河家(西石河家、1000石)
- 石川忠昌(石川光忠三男) - 正相 - 興利 - 正茂 - 祥昌 - 祥久 - 當厚 - 當頭 - 當博 - 正基
- 山村甚兵衛家(山村甚兵衛、5700石 尾張藩大年寄・木曽代官・福島関所関守・美濃中津川代官所・久々利役所)
- 千村平右衛門家(千村平右衛門、4400石 尾張藩大年寄・美濃千村陣屋・信濃伊那預地支配・遠江天竜川榑木改役・表交代寄合並)
重臣
編集上記の成瀬・竹腰・渡辺(半蔵)・石河の4家に、志水を加えた5家を「万石以上」の格式とし、渡辺(半蔵)・石河・志水の3家が年寄(家老)に就任した場合は、「万石以上年寄」と称する。
- 滝川家(藩内6000石・家老、御附属列衆)
- 山澄家(藩内5000石・城代家老、瑞公御部屋新参衆)
- 伊勢国司北畠支流・川方氏の末裔
- 山澄英龍 - 英重 = 英貞 = 龍豊 - 龍明 - 豊尚 = 龍騰
- 毛利家(毛利源内、美濃八神2000石、美濃中島郡預地支配、尾張衆)
- 源義家六男、源義隆の末裔。「家柄に付代々無役」とされ、原則として藩の役職には就かなかった。尾張藩主から所領安堵の黒印状を与えられたことはなく、寛延3年(1750年)以降に[14]幕府から預地の支配も任されていることから、尾張藩士と同時に幕臣でもあったとされる。[15]1.美濃国中島郡を本領とし、2.土岐氏・斎藤氏・信長・秀吉・家康に仕えた後に、家康の命で徳川義直に附属した、3.松平忠吉の家臣であったことはない源姓毛利氏が尾張衆に分類されていることについては、疑問視する見解もある。[16]
- 毛利広盛 - 広義 - 広豊 - 広尚 - 広説 - 頼容 - 広直 - 広吉 - 広居 - 広賢 - 広貫
- 生駒家(尾張小折4000石・家老、尾張衆)
- 横井家(尾張赤目4000石、尾張衆)
- 澤井家(2500石、尾張衆)
- 澤井元慶 - 元重 - 元智 - 元旭 - 元倚 - 元照 - 元矩 - 元算 - 元寛 - 元俊 - 繁蔵 - 馬次郎
- 阿部家(4000石、元松平忠吉家老、甚太郎衆)
- 阿部正興(阿部正勝三男) - 正致 - 正治 - 正寛 - 正恭 - 正茂 - 正嘉 - 正長 - 正信 - 正直 - 正傷
- 肥田家(藩内2000石、城代家老、駿河新参衆)
- 坂間家(1380石、熱田奉行、駿河新参衆)
- 桓武平氏良文流相模土肥氏分家、元今川家家臣遠江国榛原郡横岡城主
- 間宮家(3000石、駿河新参衆)
- 初代正等は旗本間宮之等の子。
- 間宮正等 - 之政 - 之峯 - 之惟 - 正業 - 正統 - 正萬
- 水野家(尾張河和1460石、駿河新参衆)
- 千賀家(尾張師崎1400石、船奉行、篠島・日間賀島代官、清洲新参衆)
- 大道寺家(藩内4000石・城代家老。当初2000石→大坂の陣後に2500石)
- 織田家(藩内4000石・国家老 慶安以後新参衆)
- 荒川家(1200石、忍新参衆)
- 荒川義広 - 家義 - 弘秋 = 吉政 - 義任 - 頼廉 - 頼資 - 頼標 - 頼忠 - 頼敏 - 頼重 - 蔵主 - 鑯弥
江戸屋敷
編集尾張藩は江戸に総坪数は31万1000坪余にもなる屋敷を所持し、諸大名のなかで最大規模を誇っていた。
京藩邸
編集当初は天神山町(四条烏丸北西)にあった。しかし禁門の変で罹災したことでメインの藩邸として吉田邸が整備されることとなり、尾張藩は、文久3年(1863年)10 月頃に、屋敷を設けるための土地を吉田村に購入した。それ以降、主殿をはじめとする諸施設が徐々に営れ、京都における同藩の拠点として重要な役割を担うに至った。愛知県公文書館に架蔵される「吉田御屋敷之図」には、「三万三千三百三十三坪」と書きこまれており、尾張藩の吉田邸の面積が確かめられる。吉田邸は、明治4年(1871年)に処分され、京都大学吉田キャンパスの敷地となった。これまでにおこなわれた京都大学本部構内における発掘調査で、尾張藩吉田邸に関係するものと考えられる遺構が検出されている。邸内には熱田神宮も勧請された。
東浜御殿
編集尾張藩は東海道を往来する大名らを招待し供応するため、寛永元年(1624年)初代藩主の徳川義直の命で神戸(ごうど)の浜を埋め立てて出島を造り、そこに東浜御殿を造営した。「厚覧草」によれば寛永11年(1634年)には、三代将軍徳川家光が上洛の際に止宿した。その敷地は1万平方メートル以上、海上城郭の様相を誇っていたとされ、御殿は名古屋城本丸御殿に匹敵する壮麗な仕様であったと考えられている。鯱をいただいた小天守閣のような西側の高楼は、桑名城の天守閣に対抗して建造されたものという。これを桑名楼と呼び、東側の楼閣を寝覚(ねざめ)楼と言い城郭のような構えであった。東浜御殿の位置は、現在の名古屋市熱田区内田町付近であったと推定される。
西浜御殿
編集尾張藩は承応3年(1654年)に七里の渡しの北西に西浜御殿を築いた。現在、その跡は残っておらず、西浜御殿があった白鳥コミュニティセンター(名古屋市熱田区神戸町)北側に看板が立っているだけである。2018年に徳川林政史研究所(東京)において詳細な間取図が発見された。西浜御殿は平坦な邸だが内部の調度が豪華を極めていたという。歌川広重の浮世絵「宮 熱田濱之鳥居」にも画面左端にその姿が描かれている。
尾張藩主の別荘
編集陣屋・奉行所・代官所
編集- 寺部陣屋(愛知県豊田市) - 三河国加茂郡寺部村にあった、尾張藩家老の渡辺氏1万4千石の陣屋。
- 千村陣屋(岐阜県可児市) - 美濃国可児郡久々利村にあった江戸幕府の交代寄合で木曾衆の一つ千村平右衛門家の陣屋。尾張藩と幕府との両方に仕えた。
- 熱田奉行所(名古屋市熱田区) - 宮宿(熱田湊)にあった尾張藩の奉行所。船舶の取締りをする船奉行、その下に船番所・船会所などをおいて、旅人や貨物の検察・保安にあたった。
- 白鳥材木奉行所(名古屋市熱田区) - 熱田の白鳥には尾張藩の材木貯木場もあった。熱田湊とも呼んでいた。
- 鳴海代官所(名古屋市緑区)- 東海道鳴海宿にあった。尾張藩の代官所。鳴海陣屋とも呼ばれた。
- 北方代官所(愛知県一宮市)-天明元年(1781年)に北方堤防上に北方代官所(陣屋)が設置され、その管轄は、尾張、美濃の両国にまたがっており、併せて川並奉行所も置かれていた。
- 小牧代官所(愛知県小牧市)
- 水野代官所(愛知県瀬戸市)
- 佐屋代官所(愛知県愛西市) - 尾張国海東郡佐屋湊にあった。尾張藩の代官所。
- 鵜多須代官所(愛知県愛西市)
- 清須代官所(愛知県清須市)
- 横須賀代官所(愛知県東海市)
- 円城寺川並奉行所(岐阜県羽島郡笠松町) - 尾張藩は円城寺に川並奉行を置き、 木曽川を通る船や積荷を取り締まりを行った。
- 太田代官所(岐阜県美濃加茂市) - 美濃国加茂郡太田村にあった。尾張藩の代官所。
- 上有知代官所(岐阜県美濃市) - 美濃国武儀郡上有知村にあった。尾張藩の代官所。
- 木曾代官所(長野県木曽郡木曽町福島) - 信濃国福島宿 (中山道)に置かれた。木曽代官・福島関所関守を務めた山村甚兵衛家の代官所。
- 木曾材木奉行所(長野県木曽郡上松町)- 寛文4年(1664年)、尾張藩が行った林政改革後に設置された。上松材木役所、上松陣屋、原畑役所とも呼ばれた。
- 錦織川並材木奉行所(岐阜県加茂郡八百津町)錦織 - 寛文5年(1665年)、これまでの山村甚兵衛家の錦織役所は廃止され、尾張藩直轄の川並奉行所が、錦織と牧野に新設された。錦織には、江戸以前から綱場が設けられていた。家康時代から山村甚兵衛家が管理し久々利村に住した久々利九人衆が交代で勤めていたが、寛文5年に尾張藩直轄になって山村甚兵衛家の役人は引き揚げた。錦織の綱場は、木曽川合渡から川狩輸送した材木を、ここで川切して筏に組み熱田湊(尾張藩貯木場)まで輸送した。
- 牧野川並材木奉行所(岐阜県加茂郡八百津町牧野)- 享保11年(1726年)に番所に格下げとなり嘉永元年に廃止された。
年貢と正保四ツ概
編集当初、尾張藩では領内の村々の年貢を徴収するにあたり、天正年間の太閤検地で調べた石高(元高)を基準としていたが、4割以上を徴収していた村もあり、4割未満を徴収していた村もあって一定ではなかった。
正保2年(1645年)に、領内の寺社領を除き、それまで六公四民であった年貢を四公六民(尾張藩が4割を徴収し、百姓は6割を自分の収入とする)ことを定めた。これにより実収入の増加を図るために、元高の65万3千石余を、24万千石余を増やして89万4千石とした概高(ならしだか)に改め、高の40%を基準として年貢を課することにしたので、これによって尾張藩の収入は、約10万石増加した。
その際に従来4割以上徴収していた村の石高を増やし、4割未満を徴収していた村の石高は減らした。このことを正保四ツ概(しょうほうよつならし)と呼んだ。[17]
これにより、尾張藩は10万石程度、実収入が増えることとなった。
藩士に対する減禄制
編集寛文元年(1661年)9月、尾張藩は藩士に対する世禄制を改正した。つまり藩士が子孫に相続する度に、禄高を減らしていくという仕組みであった。これによって藩士は大いに困惑し、ついに衰微断絶となった家も少なくなかったという[18]。
ただし、附家老(家康より附庸の命令を受けた家老)で1万石以上の大名格である、犬山城主 成瀬隼人正=3万5千石、今尾城主 竹腰氏=2万石、駒塚城主 石河氏=2万石、三河寺部の渡辺氏=1万石、知多郡の志水氏=1万石)と、特別待遇の木曽の山村甚兵衛家、久々利村の千村平右衛門家の両氏は減禄の対象から除かれていた。
木曽谷に対する林政改革
編集寛文4年(1664年)6月、尾張藩は目付役の佐藤半太夫以下の役人を木曽谷に派遣し、木曽の山々の巡見を行った。
その結果、川筋の材木の伐採に適した所は全て伐り尽くされて乱伐が進んでいたことから、林政改革を行うこととなった。
この改革の眼目の一つは、木曾代官の山村甚兵衛家に一任していた木曽山林の伐木・運材の支配を尾張藩の直轄事業に移し、統制と改革を行うことであった。
それは第一に、山村甚兵衛家および木曽谷の住民に与えられていた山林利用の既得権の大幅な削減であった。具体的には、山村甚兵衛家が家康以来受けていた御免白木5千駄の原木を雑木に切り替え、木曽谷の村々へ与えていた御免白木[19]6千駄を3千駄に減らした。
統制の第二の点は、尾張藩が木曽谷の村々への民政の直接的支配強化に重点を置いたことである[20]。
改革の第二の点は、留山[21]を指定して、山林資源の保持を図ったことである。
また尾張領は御用商人による伐採を停止したり、運材の統制・管理を強化した。この施策は、山林乱伐を防ぐ森林保護政策の先駆であったが、森林資源でくらしを立てていた木曽の領民にとっては厳しい経済統制となった。
寛文5年(1665年)、尾張藩は、それまで山村甚兵衛家に支配を任せていた木曽川中流の錦織役所を廃止し、新たに尾張藩直轄の錦織川並材木奉行所と、牧野川並材木奉行所の両方を新設した。
寛文5年(1665年)、尾張藩は、山林管理のために上松材木役所を設置して材木奉行を派遣した。初代奉行には佐藤半太夫が任命された。奉行定員は2名で1名は、木曽川中流の美濃国可児郡錦織村に存在した尾張藩の錦織川並材木奉行を兼任した
羽書(藩札)の発行と回収
編集寛政6年(1789年)、尾張藩は羽書(藩札)を発行し、その後、羽書の回収にあたっての課役銀(夫銀・堤銀)の倍額増徴などの財政政策を実施して、藩財政の緊縮と増収を図った。
幕末の領地
編集- 尾張国
- 三河国
- 加茂郡のうち - 20村
- 美濃国
- 厚見郡のうち - 12村(うち4村が笠松県に編入)
- 各務郡のうち - 6村
- 羽栗郡のうち - 27村(うち2村が笠松県に編入、1村が同県と相給となる)
- 中島郡のうち - 15村(うち6村が笠松県に編入)
- 石津郡のうち - 10村(うち3村が笠松県に編入)
- 多芸郡のうち - 5村(うち1村が笠松県と相給となる)
- 不破郡のうち - 8村
- 安八郡のうち - 24村(うち2村が笠松県に編入)
- 池田郡のうち - 7村(うち6村が笠松県に編入)
- 大野郡のうち - 10村(うち9村が笠松県に編入)
- 本巣郡のうち - 5村(うち1村が笠松県に編入)
- 方県郡のうち - 7村(うち3村が笠松県に編入)
- 山県郡のうち - 4村(うち2村が笠松県に編入)
- 武儀郡のうち - 115村
- 加茂郡のうち - 44村(うち22村が笠松県に編入)
- 可児郡のうち - 55村(うち18村が笠松県に編入、1村が同県と相給となる)
- 土岐郡のうち - 15村(うち8村が笠松県に編入)
- 恵那郡のうち - 12村(うち4村が笠松県に編入、4村が同県と相給となる)
- 信濃国
- 筑摩郡のうち - 32村
脚注
編集- ^ 水戸藩と分家の額田藩でない県南と鹿行も含めると常陸で59件(木村由美子『茨城の百姓一揆と義民伝承』(筑波書林)
- ^ うち2件は紀伊徳川以前の浅野幸長・長晟の北山一揆・紀州一揆(日高一揆)
- ^ 『百姓一揆の発生地と件数』出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
- ^ 尾張藩『角川日本地名大辞典(旧地名編)』
- ^ 大規模な死者がでた例としては、寛文年間以降に、決起したキリシタンが数百人単位で名古屋の千本松原などに埋められた「濃尾崩れ」、明治維新後に、3万人以上が参加し百姓側に多くの死傷者が出た「稲葉騒動」が起きている。
- ^ a b 『圓覺院様御伝二十五箇条』近松茂矩記
- ^ 吉宗から三か条の詰問を受けたにもかかわらず、宗春は無視して政策を推し進めたとする説もあるが、吉宗から咎めを受けたという公式記録は存在していない。
- ^ 『徳川実紀』
- ^ 徳川義直『軍書合鑑』
- ^ 『一条兼香公記』には、紀州藩を批判し、尾張藩を持ち上げる記述が散見される。
- ^ 第4代藩主吉通の長女信受院千姫は、五摂家の九条家に嫁ぎ、その血筋は多くの家に繋がっていき、現在の皇室とも繋がっている。また、御附家老竹腰家にも第2代藩主光友の血筋は伝わっている
- ^ 公文書において官が低く位が高いときは、位・官の間に「行」の字を入れる。大納言は正三位に相当。
- ^ [1]
- ^ 梶川勇作「尾張藩における「給人領」とその給人(後編)」(『金沢大学文学部論集 史学・考古学・地理学篇』18号、1998年)P.44
- ^ 梶川勇作「尾張藩における「給人領」とその給人(前編)」(『金沢大学文学部論集 史学科篇』10号、1990年)P.44
- ^ 梶川勇作「近世の尾張藩における尾張衆とその知行地(後編)」(『金沢大学文学部 地理学報告』8号、1997年)P.40、P.50
- ^ (濃飛通史・濃陽徇行記)
- ^ (林菫一著・尾張藩の給知制)
- ^ 使用が許可された材木を割って半製品にした材料
- ^ 近世林業史の研究・岐阜県史
- ^ 伐採を禁じた山林
注釈
編集- ^ 八代吉宗、十四代家茂が紀州からであり、十五代慶喜は、水戸家出身で後に御三卿一橋家の養子になり、その後将軍になっている。
関連項目
編集外部リンク
編集先代 (尾張国) 高須藩 |
行政区の変遷 1610年 - 1871年 (尾張藩→名古屋藩→名古屋県) |
次代 名古屋県 |