咸鏡道
咸鏡道(かんきょうどう、함경도 ハムギョンド)は、李氏朝鮮の行政区分・朝鮮八道の一つ。1467年から1470年までと1498年から1896年まで使われていた名称。1896年に咸鏡北道と咸鏡南道に分割された。西を平安道と接し、南を江原道と接し、北は中国と国境を接していた。
位置 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 함경도 |
漢字: | 咸鏡道 |
日本語読み仮名: | かんきょうどう |
片仮名転写: | ハムギョンド |
ローマ字転写 (RR): | Hamgyeong-do |
ローマ字転写 (MR): | Hamgyŏng-do |
英語表記: | Hamgyong Province |
統計 | |
行政 | |
国: | 朝鮮 |
略史
編集朝鮮半島の東北部に位置し、朝鮮三国時代の一国である高句麗が領有しており、後に渤海が領有した。渤海が滅びると北部は女真族の地となり、朝鮮半島の王朝が占有していたのは南部のみとなった。高麗末期から李氏朝鮮初期にかけては東北面と呼ばれていた。太宗13年(1413年)に永吉道(永興・吉州より、永興は太祖李成桂の故郷)と改名され、道に組み込まれる。さらに太宗16年(1416年)咸吉道(咸州と吉州より)に改名された。
初めて咸鏡道と言う名前が出てくるのは世祖13年(1467年)であるが、成宗元年(1470年)に李施愛の乱に加担した李仲和の出身地・咸興が、府から郡への格下げと観察使営も永興に移されたことから、永安道(永興・安辺より、安辺は現在の北朝鮮の江原道安辺郡)と改称された。
永安道から咸鏡道に再び改名されたのは燕山君4年(1498年)4月4日である。
府(長官:府尹)
編集- 永興府
大都護府(長官:大都護府使)
編集- 安辺大都護府
都護府(長官:都護府使)
編集- 鏡城都護府、慶源都護府、会寧都護府、鍾城都護府、穏城都護府、慶興都護府、富寧都護府、北青都護府、徳源都護府、定平都護府、甲山都護府
郡(長官:郡守)
編集- 三水郡、文川郡、高原郡、端川郡、咸興郡
県(長官:県監)
編集- 洪原県、利城県、吉城県、明川県
出身有名人
編集- 李施愛(李施愛の乱の首謀者)
関連項目
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