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児玉 利一(こだま りいち、1919年2月19日 - 2008年9月3日)は、大分県大分市[1]出身のプロ野球選手内野手)・コーチ解説者

児玉 利一
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大分県大分市
生年月日 (1919-02-19) 1919年2月19日
没年月日 (2008-09-03) 2008年9月3日(89歳没)
身長
体重
179 cm
75 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 三塁手投手
プロ入り 1951年
初出場 1951年
最終出場 1958年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 中日ドラゴンズ (1954 - 1955)
  • 大洋ホエールズ (1976)

経歴

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大分商業では1932年春の選抜に大分県勢として初出場し、1935年ではベスト8に進出した[1]。卒業後は1936年明治大学へ進学し、4番・一塁手として活躍する傍ら、清水秀雄のリリーフ投手も務めた[1] [2]岩本義行杉浦清吉田正男藤本英雄ら錚々たるメンバー[3]と共に六大学史上初の4連覇に貢献[4]1940年の「東亜競技大会」日本代表(東京六大学選抜)に伊藤庄七加藤春雄と共に選出され、チームは全勝の成績を収めたが、児玉は1995年にユニフォームと入場式で着用した帽子とネクタイを、野球殿堂博物館に寄贈した[5]。卒業後は終戦を満州で迎え、1946年8月に帰国すると地元の全大分でプレー。

1951年に明大の先輩である天知俊一監督に誘われ、32歳で名古屋ドラゴンズへ入団[1]。1年目の同年は内野手としてプレーしつつ、投手としても1試合の先発を含む4試合に投げた。2年目の1952年からは定位置を確保し主力として活躍し、3年目の1953年からは西沢道夫杉山悟と共に強力クリーンアップを組む。同年にはリーグ8位の打率.303を記録したほか、オールスター初出場も果たす。コーチ兼任となった1954年は4番・三塁手を任されて打率.272、10本塁打、47打点で球団史上初のリーグ優勝及び日本一に貢献。西鉄との日本シリーズでも10月30日の第1戦(中日)で1-1の同点で迎えた8回裏、西村貞朗からバスターで左翼席に勝ち越し2ラン本塁打を放つなど22打数8安打(打率.364)を記録。カーブを打つのが上手く、「カーブ打ちの名人」と言われていた。1955年1956年には2年連続でオールスター出場とベストナイン獲得を果たし、1955年には川上哲治に次ぐリーグ2位の打率.315、選手専任に戻った1956年には3月25日巨人戦(後楽園)から4月12日国鉄戦(長野城山)まで10試合連続四球を選ぶなどリーグ最多の73四球を記録。1957年には大洋ホエールズへ移籍し、4番・一塁手として活躍。同年10月13日の巨人戦(川崎)で大友工1958年8月3日の国鉄戦(川崎)でも金田正一からサヨナラ本塁打を放った。1958年には39歳で打率.275、10本塁打を放ったが、同年限りで現役を引退[1]

引退後はラジオ関東フジテレビ関西テレビ東海テレビ広島テレビ[6]テレビ西日本東海ラジオ千葉テレビCTCダイナミックナイター」(1971年)で解説者として活躍し、解説者時代は相次ぐ現場復帰でFNS系列局の解説者が不足した時期には大部分の全国中継を担当。

OBのプロ退団者のコーチが1973年から認められると、島岡吉郎監督の招聘で、後輩の岡田悦哉と共に母校・明大の外部臨時コーチに就任[7]。島岡は日米大学野球選手権アメリカに遠征した際、南カリフォルニア大学ロッド・デドー監督の「私の野球は戦前の野球。だから新しいものを取り入れるために、ドジャースから良い面を学んでいる」という言葉に胸を打たれ、帰国後の春季リーグで2位に終わって「技術より精神面を重視してきた大学野球のカラを、このあたりで破る時期にきている」と実感[2]。プロ経験者のコーチ解禁第1号として児玉をコーチに起用し、児玉は引退以来15年ぶりのユニフォーム姿[2]で、黄金時代の選手を思わせない温厚さと懐の深さ[3]で選手を指導。打者には「でボールを打つな。で打つこと」、投手には「腰を軸にしての投法を覚えろ」と教えた[8]。後に主将・エースとして活躍する丸山清光がアンダースローに転向したばかりの際、マウンドのプレートの使い方と右打者のインコース低めに沈むシンカーを伝授[4]。丸山は得意のカーブに加え、プレートの使い方とシンカーで投球に幅ができ[4]1975年には江川卓を擁する法政を抑えて春秋連覇に貢献し、児玉も祝賀会に出席している[4]

その後は巨人のオーナーと学生時代から親しかったのが縁で、巨人のキャラクター商品を販売する会社「一球」の会長を務めた[9]

2008年9月3日午前9時30分、前立腺癌のため東京都文京区の病院で死去[10]。89歳没。

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1951 名古屋
中日
75 204 166 16 46 7 1 3 64 36 1 0 3 -- 35 -- 0 19 4 .277 .403 .386 .789
1952 119 502 434 67 115 14 2 5 148 54 8 4 5 -- 62 -- 1 39 14 .265 .358 .341 .699
1953 106 404 347 36 105 24 2 5 148 58 6 4 3 -- 51 -- 3 32 5 .303 .397 .427 .823
1954 107 422 353 41 96 21 2 10 151 47 3 3 2 8 54 -- 5 37 9 .272 .376 .428 .804
1955 108 400 355 34 112 21 2 8 161 45 7 5 1 2 40 4 2 28 11 .315 .388 .454 .841
1956 121 448 371 34 102 16 0 3 127 45 3 5 1 1 73 7 2 28 8 .275 .397 .342 .739
1957 大洋 125 493 439 40 110 15 1 7 148 32 1 2 1 1 46 3 6 32 19 .251 .330 .337 .667
1958 107 401 346 34 95 21 1 10 148 35 3 1 0 1 53 3 1 35 7 .275 .373 .428 .800
通算:8年 868 3274 2811 302 781 139 11 51 1095 352 32 24 16 13 414 17 20 250 77 .278 .374 .390 .764
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 名古屋(名古屋ドラゴンズ)は、1954年に中日(中日ドラゴンズ)に球団名を変更

年度別投手成績

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W
H
I
P
1951 名古屋 4 1 0 0 0 0 1 -- -- .000 27 5.2 6 0 2 -- 0 1 0 1 6 2 3.00 1.41
通算:1年 4 1 0 0 0 0 1 -- -- .000 27 5.2 6 0 2 -- 0 1 0 1 6 2 3.00 1.41

表彰

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記録

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背番号

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  • 14 (1951年 - 1956年)
  • 5 (1957年 - 1958年)
  • 77 (1976年)

脚注

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  1. ^ a b c d e プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、220ページ
  2. ^ a b c 週刊ベースボール1973年9月17日号「ワイド特集(1)雪解けの使者児玉臨時明大コーチ」pp24-25
  3. ^ a b 丸山清光『増補版 なんとかせい! 一事入魂 島岡御大の10の遺言』鳥影社ISBN 48626599852023年1月23日、p232。
  4. ^ a b c d 『なんとかせい! 一事入魂 島岡御大の10の遺言』、p83。
  5. ^ 野球殿堂博物館 - The Baseball Museum
  6. ^ クロスネット時代にFNS向け。
  7. ^ 『なんとかせい! 一事入魂 島岡御大の10の遺言』、pp76-77。
  8. ^ 週刊ベースボール1973年10月8日号「技術をひもとく…目につく基礎体力不足 …児玉利一…」p37
  9. ^ 朝日新聞縮刷版p299 昭和60年3月8日夕刊3面「プロ野球 あの名選手いまどこに 栄光のプレー記憶は薄れて
  10. ^ 中日の日本一に貢献 児玉利一さん死去 - スポニチ Sponichi Annex

関連項目

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外部リンク

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