九段会館
九段会館(くだんかいかん)は、東京都千代田区九段南に所在した施設。旧称は軍人会館。ホール(講堂)[注 1]やレストラン、宿泊施設などを備え、結婚式やイベント各種などに使用されていたが、2011年(平成23年)3月11日に発生した東日本大震災による天井崩落事故の影響で同年4月に廃業した。
九段会館 | |
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情報 | |
旧名称 | 軍人会館 |
設計者 | 川元良一 |
施工 | 清水組(現・清水建設)[1] |
建築主 | 財団法人軍人会館 |
事業主体 | 帝国在郷軍人会(建設時) |
管理運営 |
財団法人軍人会館(戦前・戦中) 一般財団法人日本遺族会(戦後) |
構造形式 | 鉄骨鉄筋コンクリート構造 |
敷地面積 |
6,098.0496 m² ※原表記「1,844.66坪」[1] |
建築面積 |
3,113.2397 m² ※原表記「941.755坪」[1] |
延床面積 |
14,448.0099 m² ※原表記「4,370.523坪」[1] |
階数 | 地下1階、地上4階、塔屋付 |
高さ |
軒高64尺(19.39m)[1] 塔屋最高部まで90尺9寸7分(27.57m)[1] |
着工 | 1932年(昭和7年)2月 |
竣工 | 1934年(昭和9年)3月20日 |
所在地 |
〒102-0074 東京都千代田区九段南一丁目6番5号 |
座標 | 北緯35度41分39.99秒 東経139度45分4.44秒 / 北緯35.6944417度 東経139.7512333度 |
備考 |
最寄り駅 東京メトロ「東西線・半蔵門線」・都営新宿線 九段下駅(4番出口より徒歩約1分) |
2022年(令和4年)10月1日に九段会館の一部を残した上で[2]、地上17階建て(高さ約75m)の複合ビル「九段会館テラス」に建て替え[3]、再開業した[4]。
概要
編集1928年(昭和3年)11月10日に挙行された昭和天皇の即位の礼[5]を記念する「昭和御大礼記念事業」の一環として[注 2][7]、「軍人会館」の名称にて当施設の建造が計画されたのが始まり。在郷軍人会が計画を主導し、同会主催のコンペで選定された設計案[8]を基にした実施設計を経て1932年(昭和7年)に起工、2年余りの歳月を費やして完成させた。完成後は計画の主導役を務めた在郷軍人会が自らの本部を当施設内に設置した[注 3]ほか、戦前・戦中期を通じては主に軍の予備役・後備役の訓練、宿泊に供された。
終戦後「財団法人軍人会館」の解散により国有資産とされたが[9][13]、連合国軍進駐に伴いGHQに接収され、「アーミーホール」の名称の下、進駐軍宿舎として使用された[14]。
進駐軍撤退に伴い接収解除となった後、国は当施設の払い下げを公示、最終的に日本遺族会に対し無償払い下げを行うことになったものの、不動産取得税の納付にも事欠くほどだったという同会の財務状況を鑑みた国は「財団法人日本遺族会に対する国有財産の無償貸付に関する法律」(昭和28年法律第200号)(現在の「一般財団法人日本遺族会に対する国有財産の無償貸付に関する法律(昭和28年法律第200号)」)を別途公布かつ施行[15]、これに基づき同会に対し当施設を無償貸与するに至った[13]。名称も「九段会館」に改められ1957年(昭和32年)に再開業、無償貸与を受けた日本遺族会が宿泊・結婚式場・貸しホール等の各事業を運営してきた。しかし、東日本大震災発災時にホールの天井崩落事故で死傷者が出たことから、土地・建物共々日本国政府に返還、廃業に追い込まれた。
屋上には靖国神社の分神が祀られている[16]ほか、陸軍大将・乃木希典の歌碑も建てられている[17]。このうち靖国神社の分神に関しては、戦時中に靖国神社が戦災に見舞われた場合に備えたものであったとされている。
沿革
編集- 1928年(昭和3年) - 昭和御大礼記念事業の一環として建設計画が持ち上がる。
- 1930年(昭和5年)
- 1932年(昭和7年)2月 - 着工[1]。
- 1934年(昭和9年)
- 1936年(昭和11年)2月27日 - 二・二六事件 の勃発をうけ、軍人会館に戒厳司令部が設置される。
- 1937年(昭和12年)4月3日‐愛新覚羅溥傑、嵯峨浩の結婚披露宴が取り行われる。
- 1945年(昭和20年)9月 - 連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) により接収。以降「アーミーホール」の名称で連合軍の宿舎として使用[14]。
- 1953年(昭和28年)接収解除。8月12日、「財団法人日本遺族会に対する国有財産の無償貸付に関する法律」公布・施行[15]。日本遺族会への無償貸与を開始すると共に、施設名称を「九段会館」に変更[13][19]。
- 1957年(昭和32年)
- 2011年(平成23年)
- 2016年(平成28年)6月2日 - 関東財務局の有識者委員会が、歴史的価値を生かしながら高度利用を図る方針を決定[24]。
- 2017年(平成29年)9月20日 - 土地・建物を東急不動産が落札。九段会館の一部を残し、地上17階建てのオフィスビルに建て替える(施工は鹿島建設。2022年に完工予定)[2]。
建物概要
編集建築概要
編集- 設計原案…小野武雄
在郷軍人会が主催した当施設に係る懸賞設計競技で「1等賞」を受賞[8]
小野が「一等賞」を受賞した前記懸賞設計競技に於ける審査員のひとり[8]
施設概要
編集使用実例
編集戦前・戦中「軍人会館」
編集- 1934年(昭和9年)7月22日 - 新宗教「大本」の二大教祖の一人とされる出口王仁三郎が自らを“統管”とする「昭和神聖会」の発会式を当施設に於いて挙行、内務大臣の後藤文夫や衆議院議長の秋田清など各界の名士3000人以上を集めた[31]。
- 1936年(昭和11年)2月27日 - 前日(2月26日)発生した「二・二六事件」に対する戒厳令発令に伴い、戒厳司令部が当施設内に設置された[32]。
- 1937年(昭和12年)4月3日 - 満州国皇帝・愛新覚羅溥儀の弟・溥傑と、侯爵・嵯峨実勝の長女・浩の結婚式を当施設にて挙行[注 9]。
- 1938年(昭和13年)9月19日 - 大日本回教協会発足を当施設にて発表。各界の名士200余名が発起人に名を連ねる[注 10]。
- 1940年(昭和15年)11月23日 - 大日本産業報国会中央本部創立総会が開催[36]。
- 1942年(昭和17年)2月2日 - 愛国婦人会・大日本連合婦人会・大日本国防婦人会の3団体を統合した大日本婦人会の結成式を当施設にて挙行[37]
戦後「九段会館」
編集日本遺族会運営の下、貸しホール、宿泊、結婚式場などの各事業が展開されてきている。
桜開花シーズンには、皇居の桜を眺望出来ることから[38]、花見を兼ねて食事が出来るプランを設定、[39]、5月から9月は屋上ガーデンスペースを利用してビアガーデンを開設[40][41]。
コンサート会場として
編集ロックやフォーク系統でホールをコンサート会場として使用するケースは少なくなく[42]、デビューコンサートを開くものも存在する。
国内では、奥華子〔2006年(平成18年)9月22日〕[43]やBIGMAMA〔2010年(平成22年)12月25日〕[44]は、自身デビュー以来となる初ホール公演の会場として選択している。
海外からは、フライング・ブリトウ・ブラザース(1978年4月)[45] XTC (1979年) や ケヴィン・エアーズ(1988年)[46]が 初来日公演の会場として使用してきている。
フォークシンガーの細坪基佳(元「ふきのとう」ボーカル)は「ステージから3階のお客さんの顔が見える。とても身近で、安心感のようなものをもたらしてくれる」と印象を語るとともに、音響については「音が自然にはね返ってくる。ナチュラルな音の返りがあるので、『リバーブ』を足したりすることをせずしても歌いやすい」と評価している[注 11]。
映画上映会場として
編集一般向け試写会である「プレミア試写会」[47]の会場として当施設が使われた例として、2007年(平成19年)1月公開の『ユメ十夜』[48][49]、同年6月公開の『キサラギ』[50][51]、2009年(平成21年)3月日本公開の『パッセンジャーズ』〔2008年(平成20年)米国にて製作〕[52][53]、2010年(平成22年)6月公開の『チョルラの詩(うた)』(日韓合作)[54][55]などが存在する。
2007年9月29日に公開された『クローズド・ノート』に於いてはヒロインの堀井香恵(沢尻エリカ)が所属するマンドリンクラブのコンサートロケ地として、同年11月3日に公開された『ALWAYS 続・三丁目の夕日』に於いてはヒロインの星野六子(堀北真希)が観に行った映画館のロケ地として、何れも当施設が使用されている。
その他
編集ギャラリー
編集-
入口より北面を見る(2010年3月撮影)
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敷地内より北面を見る(2010年3月撮影)
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公道より東面を見る(2010年3月撮影)
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公道より東面を見る(2010年3月撮影)
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ホールの車寄せ(2010年3月撮影)
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ホールのエントランス(2010年3月撮影)
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エントランス(2010年3月撮影)
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エントランスホール(2010年3月撮影)
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ホールの背面より見る(2010年3月撮影)
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ホールの舞台(2010年3月撮影)
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ホールの背面を見る(2010年3月撮影)
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歩道よりエントランスを見る(2010年3月撮影)
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九段会館エントランス(2010年3月撮影)
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日本遺族会エントランス(2010年3月撮影)
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エントランスホール(2010年3月撮影)
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牛ヶ淵越しに九段会館を望む(2006年3月)
東日本大震災後の動き
編集震災による天井崩落事故
編集東日本大震災に見舞われた2011年(平成23年)3月11日、当施設内ホールでは東京観光専門学校の卒業式を挙行していた。震度5強の地震によりホール前面のラスモルタル吊り天井が広範囲にわたり客席に崩落し、同卒業式の出席者593人のうち、客席に座っていた同校非常勤講師の女性2人が下敷きになり死亡、その他多数が重軽傷を負い、トリアージが行われた[57][58][59]。崩落した吊り天井の重量は53キロニュートン (5,400 kgf)であったが、1934年(昭和9年)の竣工当時から吊り天井の改修や補修は行われておらず、フック状の金物を天井裏の骨組みに引っ掛ける簡易な構造であったことから、地震によりフックの一部が外れバランスを崩し、吊り天井がブランコのようにぶら下がり、客席に崩落したと推測されている[57]。
閉館
編集当施設を運営する日本遺族会は2011年4月12日に緊急の理事会と評議員会を開いて事後の対応について協議した結果、同日付にて施設の運営を廃止し、土地も含めて国に返還することを決定〔厚生労働省に通知済〕[21][60]、更に同年6月30日付で従業員全員を解雇することも決めた[23]。一方で、歴史的建造物であることに加え、全国の戦没者遺族にとって心の拠り所となっていることから、前記4月12日の緊急理事会・評議員会では建造物としての当施設の保存を国に対し要望していくことも決めている[21]。
更に2012年(平成24年)2月28日には、約10年にわたり日本遺族会会長を務めてきた政治家で自民党元幹事長の古賀誠が、前記天井崩落事故で死亡者を出した責任を取って、同会長を辞任している[61]。
関係者に対する告訴
編集ホール吊り天井が崩落し、卒業式を挙行していた東京観光専門学校の非常勤講師2人が死亡したことを巡り、遺族が総支配人及び当施設を運営する日本遺族会・古賀誠会長の2人を崩落防止の義務を怠ったとして、東日本大震災から約2か月経過した2011年(平成23年)5月12日、業務上過失致死傷罪の容疑にて警視庁麹町警察署に刑事告訴した[62][59]。
刑事告訴を受けて、警視庁は捜査を進めてきたが事故発生当時、吊り天井に関し明確な耐震基準が策定されておらず、その中で、日本遺族会は国が定めていた範囲の定期検査は実施していたとして死亡した2人について事故予見可能性は問えないと判断、そして2013年(平成25年)11月8日、警視庁は遺族らが求めていた前記2名の業務上過失致死傷罪での立件を見送ることを決め、起訴を求めない旨の意見書を付けて東京地方検察庁に書類送付した[63][64]。
刑事告訴した遺族は、同時に損害賠償の民事訴訟を提訴する考えも示している[65]。
日本政府は吊り天井脱落防止の規制強化の必要性を認識し、建築基準法施行令改定を定めた「国土交通省平成25年告示第771号」が2013年8月5日に公布、翌年の4月1日に施行された[66]。脱落により重大な危害を生ずる恐れがある吊り天井を特定天井と定義し、新築建築物では新基準への適合、既存の特定天井にも落下防止対策や定期点検を行うことを義務付けた[67]。
建て替えに向けて
編集2013年(平成25年)秋、閉鎖され建物がそのまま放置されている現状について、早急な解決を望む古賀の意を受けて、自民党衆議院議員で高齢者、障害者等の移動等の円滑化の促進に関する法律や観光立国推進基本法などの成立に関わる等の実績を有する盛山正仁が、厚生労働省や財務省などと協議を重ねながら、法改正も含めた建替対応策を練り上げていった[68]。そして、民間企業に国有地を貸し付けて建設させるという、いわばPFI的手法を利用して高層建築物に建て替えた上で、その竣工した建築物の一部を日本国政府が取得して、日本遺族会に改めて無償貸与するというスキームを纏め上げた[68][69]。
加えて、このスキームの実行に際し必要となる「財団法人日本遺族会に対する国有財産の無償貸付に関する法律」の改正案も作成、同改正案は2014年(平成26年)5月15日に開かれた自民党厚生労働部会で了承を取るなどした上で、第186通常国会の会期末が押し迫る同年6月17日に議員立法の形で衆議院に提出された[68][70]。
当該改正法案は衆議院本会議で可決したものの、参議院に送られた段階で会期末を迎え継続審議扱いとされた。その後、第2次安倍内閣が改造されてから最初に開会した第187臨時国会の、やはり会期末が押し迫る2014年(平成26年)11月18日に、継続審議扱いとされていた参議院に於いて、先に審議が行われ翌11月19日に参議院本会議に於いて可決、その日のうちに衆議院に差し戻され、2日後の11月21日に開かれた衆議院本会議にて可決・成立[68]。11月28日に法律として公布され、即日施行された[71][15]。
2015年(平成27年)8月31日、関東財務局は当施設に係る建物調査等業務の一般競争入札を公示した。当時は、半月余り後の9月18日に入札並びに開札を行うこととされていた[72]。
前記2011年(平成23年)4月12日に開かれた、日本遺族会の緊急理事会・評議員会に於いて、施設の運営廃止等と共に決定された、建造物としての保存を日本国政府に対し要望する請願[21]については、可決・成立した前記改正案に、附帯決議を採択・添付する形で反映されている[73]。
周辺施設等
編集交通アクセス
編集脚注
編集注釈
編集- ^ 1934年(昭和9年)3月の竣工当時には「講堂」と称していた[1]。
- ^ 建設途上の旧・軍人会館をとらえた大判写真を載せた時事写真速報〔昭和8年(1933年)7月1日付;題目「九段の偉観 上棟式が迫る軍人会館」〕の解説文の冒頭のところに「昭和御大礼記念事業として…」と記述されているのが見える[6]
- ^ 旧「軍人会館」が出版していた在郷軍人会関連書籍の奥付において、戦前に当施設を管理・運営していた「財団法人軍人会館」[9][10]の本拠地と、軍人会館建設を主導した在郷軍人会の本部の両住所表記が同一となっている[11][12]ことからも、在郷軍人会が本部を軍人会館内に設置していたことを窺い知ることが出来る
- ^ 公式には“「昭和5年(1930年)12月15日正午」応募受付締切→「昭和6年(1931年)1月中旬」入選発表”とされているが、実際には受付締切の8日後にあたる1930年12月23日に審査を終え、更に3日後の同年12月26日に審査結果が公表された。また入賞者に対しては審査を終えた時点で内示が為されていたという[8]。
- ^ 「九段会館」として再開業させるにあたっては、戦没者遺族に対し1世帯あたり100円の拠出を要請、更に8900万円の借り入れを別途実行、これらによって再開業に向けての改修費用を賄った[13]。
- ^ 当初予定されていた建設費は、付帯諸設備関連費用および事務諸経費を除いて「約145万円」だった[27]。
- ^ 「軍人会館」として建設された当施設の建設費250万円のうちの軍人拠出分(計100万円)について、軍人1人につき1円の拠出があった[13]とされているが、終戦後の昭和28年7月に開かれた衆議院厚生委員会に於いて、政府委員の一人として出席していた厚生省(現・厚生労働省)社会局長・安田巖は「在郷軍人300万人、現役軍人を含めて各自30銭以上を拠出」と発言[7]。また、当施設の建設費そのものについても安田は、先述の軍人拠出分に加え「満鉄からの寄付金100万円、その他一般の寄付金とを合せて260万円だったと思う」と発言している[7]。
- ^ 2001年度(平成13年度)中にスクリーン改修工事を、更に2003年度(平成15年度)中にはケーブル交換および床面改修工事を、それぞれ実施している[29]
- ^ この結婚は、当時満州国に駐屯していた関東軍の仲介により実現した政略結婚であった[33]。その背景として、日満一体化を強めたいという関東軍の思惑があった[34]。当初関東軍は、清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀の弟で、日本の陸軍士官学校に留学して優秀な成績で卒業(恩賜の軍刀授受)し、その後千葉の陸軍歩兵学校で学んでいた溥傑と日本の皇族王女を結婚させる腹積もりであったが、皇室典範の壁に阻まれ、やむなく公卿華族や大名華族の娘たちの中から極秘に花嫁捜しをすることとなった。一方で嵯峨家でも浩の見合い写真を配り回ることで花婿捜しに奔走。そうした中、その見合い写真の1枚が溥傑の目にも止まったところから浩が花嫁候補の筆頭とされ、嵯峨家そして浩本人の意志とは無関係に縁談が進んだ。最終的に縁談はまとまり、1937年(昭和12年)2月6日に在日本満州国大使館が婚約を発表、そして日本の陸軍省が結婚式の日取りを決めた[34]。なお、結婚式当日には、現在の東京都杉並区内に存在した嵯峨侯爵邸から式場である当施設に向かう自動車の長い列が出来、当時の地元住民を驚かせたという[34]。
- ^ 1938年(昭和13年)5月に設立準備会をつくり、約4か月の準備期間を経て「大日本回教協会」の発足に至った。その初代会長には、この当時陸軍大将かつ前首相でありイスラム通としても知られていた林銑十郎が選ばれている[35]。
- ^ 細坪基佳は、自身がボーカルを務めていたフォークデュオ「ふきのとう」の結成から間もない1977年(昭和52年)頃に初めて当施設内ホールに於いて公演を行い、以後、1992年(平成4年)の「ふきのとう」解散を経て今日に至るまで、「ふきのとう」としての公演と自身のソロ公演とを合わせて十数回、当施設内ホールのステージに立ってきている[28]
出典
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財団法人日本遺族会に対する国有財産の無償貸付に関する法律の一部を改正する法律案(第186回国会衆第45号)