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ポーランド総督府

ポーランドに設立されたドイツの統治機関
ポーランド総督府
Generalgouvernement für die besetzten polnischen Gebiete
ポーランド第二共和国
ウクライナ・ソビエト社会主義共和国
1939年 - 1945年 ポーランド共和国臨時政府
ウクライナ・ソビエト社会主義共和国
ポーランド総督府の国旗 ポーランド総督府の国章
ナチス・ドイツの国旗ナチス・ドイツの国章
国歌: Deutschlands Weltklasse(ドイツ語)
世界に冠たるドイツ

党歌: Die Fahne hoch(ドイツ語)
旗を高く掲げよ
ポーランド総督府の位置
ポーランド総督府の領域(1942年)
公用語 ドイツ語
言語 ポーランド語
ウクライナ語
イディッシュ語
首都 リッツマンシュタット
(1939)

クラーカウ
(1939 ‐ 1945)
総督
1939年 - 1945年 ハンス・フランク
副総督
1939年 - 1940年アルトゥル・ザイス=インクヴァルト
1940年 - 1945年ヨーゼフ・ビューラー
変遷
ポーランド侵攻 1939年9月1日
設立1939年10月26日
国民解放委員会樹立宣言1944年7月22日
ヴィスワ=オーデル攻勢1945年1月17日
解体1945年1月19日
通貨ズウォティ
ライヒスマルク
現在ポーランドの旗 ポーランド
 ウクライナ
スロバキアの旗 スロバキア
ポーランドの歴史
ピャスト朝
10世紀 - 1370年
 
プシェミスル朝 1300年 - 1306年
 
ポーランド・アンジュー朝 1370年 - 1399年
ヤギェウォ朝 1399年 - 1572年
ポーランド・リトアニア共和国(第1共和制) 1569年 - 1795年
ポーランド分割 1772年、1793年、1795年
ワルシャワ大公国 1807年 - 1813年
ポーランド立憲王国
1815年 - 1867年
クラクフ共和国
1815年 - 1846年
ポズナン大公国
1815年 - 1848年
第一次世界大戦 1914年 - 1918年
ポーランド摂政王国 1916年 - 1918年
ポーランド共和国(第2共和制) 1918年 - 1939年
第二次世界大戦 1939年 - 1945年 ポーランド亡命政府
ポーランド総督府 1939年 - 1945年
ポーランド人民共和国 1952年 - 1989年
ポーランド共和国(第3共和制) 1989年 - 現在
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ポーランド総督府(ポーランドそうとくふ、ドイツ語: Generalgouvernement für die besetzten polnischen Gebiete)は、1939年9月のポーランド戦役ドイツ国防軍が占領したポーランド領のうち、ドイツ領に併合されなかった旧ポーランド領にドイツが設立した統治機関である。総督はハンス・フランクが務めた。

設立

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第一次世界大戦後と第二次世界大戦後のポーランドの国境線の変遷
 
帝国大管区(緑色)と1941年のポーランド総督府(右端)

ヒトラー1939年10月8日10月12日付の指令でドイツに隣接する旧ポーランド領をドイツに併合、次の行政区画を設け、一部に帝国大管区の名称を付与した(旧ポーランドの行政区画の Voivodship をと訳し、ナチス・ドイツの Regierungsbezirk をと訳す。Regierungsbezirk はプロイセン王国に端を発する行政区画の名称で、ナチス・ドイツ時代に全国に広められた。日本語訳としては県が定訳として認知されている)。

これらの領域は9万4千平方kmあり、人口は約1千万人であった。

ドイツに併合されなかった旧ポーランド領は、ポーランド総督府と呼ばれる統治機関の下に置かれた。1939年10月26日ハンス・フランクが総督に任命された。首都はクラクフで、行政区画はワルシャワルブリンラドムクラクフの4つに分けられる。1941年6月のソビエト侵攻後、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の一部であった東ガリツィアがポーランド総督府の5つ目の領域となった。

ポーランド総督府は、純粋にドイツの統治機関で、ポーランド人から構成される傀儡政権ではなかった。これはドイツ支配下のヨーロッパに新たなポーランド人州を作ろうとするものではなかった。1941年3月ヒトラーは、「ここを15~20年で完全なドイツ人居住地にする」と決定していた。ヒトラーは、「4~5百万人のドイツ人に対して、1千2百万人ものポーランド人がいる。ポーランド総督府領はラインラントと同じくドイツ人のものになるべきだ」と述べている[1]

1939年秋、ドイツに併合された旧ポーランド領からポーランド人がポーランド総督府領に強制移住させられ、ポーランド人にとって巨大な強制収容所のようなものとなった。そこでは、ポーランド人の男女はドイツ第三帝国の工場や農場で強制労働を強いられた。

総督府の構成

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ポーランドの歴史
 
ピャスト朝
10世紀 - 1370年
 
プシェミスル朝 1300年 - 1306年
 
ポーランド・アンジュー朝 1370年 - 1399年
ヤギェウォ朝 1399年 - 1572年
ポーランド・リトアニア共和国(第1共和制) 1569年 - 1795年
ポーランド分割 1772年、1793年、1795年
ワルシャワ大公国 1807年 - 1813年
ポーランド立憲王国
1815年 - 1867年
クラクフ共和国
1815年 - 1846年
ポズナン大公国
1815年 - 1848年
第一次世界大戦 1914年 - 1918年
ポーランド摂政王国 1916年 - 1918年
ポーランド共和国(第2共和制) 1918年 - 1939年
第二次世界大戦 1939年 - 1945年 ポーランド亡命政府
ポーランド総督府 1939年 - 1945年
ポーランド人民共和国 1952年 - 1989年
ポーランド共和国(第3共和制) 1989年 - 現在
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中央行政府

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総督 (Generalgouverneur)
副総督 (Stellv. Generalgouverneur)

県知事 (Chefs des Distrikts)

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ヴァルシャウ (Warschau) 県知事
クラカウ (Krakau) 県知事
ルブリン (Lublin) 県知事
ラドム (Radom) 県知事
レンベルク (Lemberg) 県知事

総督府の人口構成

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ラファエロ・サンティの『若者の肖像』。1939年にハンス・フランクの命で没収され、そのまま行方不明となったポーランド国内の膨大な美術コレクションの一部

ポーランド総督府領の人口は最初1200万人であったが、ドイツに併合された旧領土から86万人のポーランド人とユダヤ人がポーランド総督府に強制移住させられた。これと相殺する形で、ドイツはポーランド人の知識階級や抵抗分子の殺害を開始した。1941年の疫病の蔓延や飢餓が人口を減少させた。また、多くのポーランド人がドイツ本国に外国人労働者として送られ、農場や工場で強制労働を強いられた。最終的に約百万人が送られ、多くがドイツで死亡した。

1940年当時、総督府には複数の民族集団が居住していた。所属する民族集団の種類に応じて権利、食糧配給、公共交通機関や食堂の利用について待遇の差があった。優遇された順に並べると次のようになる。

  • ドイツ本国からやってきたドイツ国籍の住民(帝国ドイツ人ドイツ語版
  • ポーランド生まれであるが、ドイツ人として民族意識のドイツ系住民(ナチス・ドイツの民族リストの範疇1あるいは2:民族ドイツ人ドイツ語版
  • ポーランド人と結婚して、家族のあるドイツ系住民(民族リストの範疇3あるいは4)
  • 隣接するウクライナとの国境地帯に居住するウクライナ人
  • 山地に居住する高地人(ゴラル人
  • ポーランド人
  • ユダヤ人

虐殺政策

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1940年8月、ワルシャワ・ゲットーに建設される壁

1942年1月20日のヴァンゼー会議で、ポーランド総督府の副総督であるヨーゼフ・ビューラー博士は、総督府領での「最終的解決」の実行にラインハルト・ハイドリヒを推薦した。彼によると、総督府領における最大の問題は官憲の仕事を妨害するブラックマーケットの著しい発達であった。彼は国内の「ユダヤ人問題」を可能な限り速やかに解決したいと考えていた。良い点は輸送の問題がないという点であった。

1942年、ドイツはユダヤ人の組織的な虐殺を開始した。総督府は6つの強制収容所のうち4つを持っており、そこでは「望ましくない人種」をガス室で虐殺するホロコーストが実行されていた。ポーランドや他の国からのユダヤ人100万人近くが1942年から1944年までの間に処刑された。ポーランド総督府領にいた1939年時点の人口が、1944年の終わりにソビエト軍がその地域を占領した際には、約4百万人減少していた。

 
ユダヤ人を助けたポーランド人に対して死刑をもって対するとする親衛隊および警察の告知

他のスラブ人のように少数の(非ユダヤ人の)ポーランド人は農奴の階級に引き落とすと言うのはドイツの政策であった。その一方、残りは国外に追放されるか除去されて「支配人種英語版」であるドイツ人の移住者に置き換えられた。元々の人々を将来どうするかということに関しては様々な計画が出された。その一つは、約2千万人のポーランド人を西シベリアへ国外退去にし、4~5百万人をドイツ人化するというものであった。

実際には国外退去は、人々をどこかに強制的に移動させるという意味ではなく、同様の他の計画のように対象の人間全てに死を与えるというものであった[2]。ポーランド総督府領では全ての中等教育は廃止され、全てのポーランドの文化的施設は閉鎖された。1943年、ポーランドの人々は野蛮な民族浄化の真っ只中に置かれた。しかし、1944年まで一部のドイツ人しかその地域に移住しなかった。

レジスタンス

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1943年1月のワルシャワ・ゲットー蜂起後、親衛隊により連行されるユダヤ人
 
1944年8月1日、ワルシャワ蜂起に参加するポーランド兵

ドイツの支配への抵抗は、一度といわず発生した。しかしポーランドはゲリラ戦に向いた地形ではなかった。主抵抗戦力は、ロンドンにあるポーランド亡命政府の指示に従う国内軍(ポーランド語でArmia KrajowaもしくはAK)であった。これは戦前からのポーランド軍の残りとたくさんの義勇兵により編成されていた。他の戦力、例えばソビエト連邦が背後に存在し、ポーランド共産党により指示される共産主義者の人民軍 (Armia Ludowa or AL) のようなものも同時に存在した。1944年までに国内軍は38万人となったが、武装は貧弱であった。占領下では様々なポーランド人の抵抗組織が15万の枢軸軍を殺害した。人民軍は国内軍の15%の規模であった。

1943年、ドイツは4月19日から5月16日ワルシャワ・ゲットー蜂起に恐れをなし、ワルシャワ・ゲットーから残りのユダヤ人を追放した。これは、ポーランドにおけるドイツへの最初の武装蜂起であった。これに勇気を得たポーランド人は1944年に立ち上がり、ワルシャワ蜂起を起こした。

1944年7月にソビエト軍がワルシャワに近づくと、ワルシャワを自ら解放し、共産主義者に吸収されることを避けるため、亡命政府は蜂起を呼びかけた。タデウシュ・ブル=コモロフスキに率いられた国内軍は、ロンドン亡命政府とソビエト含む連合国が支援するという約束の下に、8月1日にドイツ軍に対して攻撃を開始するが、共産主義政権をポーランドに設立することを計画していたソ連側は自軍の補給能力の限界を理由に支援せず、見殺しにした。

戦闘を63日行った後、蜂起軍指揮官はドイツ軍に条件付降伏を行った。国内軍の残り1万5千人は戦時捕虜の扱いを受けた(この同意前に捕虜になった反乱軍は射殺された)。そして残り18万の市民は放免された。

終結

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1944年の終わりにソビエト軍がポーランド全土をほぼ制圧し、ポーランド総督府は崩壊した。フランクは1945年5月にアメリカ軍の捕虜となり、後にニュルンベルク裁判の被告となった。裁判中、フランクはカトリック教会に改宗した。フランクは40冊にものぼる自分の日記を法廷に提出し、自分や他の者への証拠が彼により集められた。フランクは戦争犯罪と人道に対する罪で有罪となり、1946年10月1日、絞首刑による死刑判決を受けた。

関連項目

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関連書籍

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外部リンク

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