ヘンリー・ペラム=クリントン (第5代ニューカッスル公爵)
第5代ニューカッスル=アンダー=ライン公爵ヘンリー・ペラム・ファインズ・ペラム=クリントン(英語: Henry Pelham Fiennes Pelham-Clinton, 5th Duke of Newcastle-under-Lyne, KG, PC、1811年5月22日 - 1864年10月18日)は、イギリスの政治家、貴族。
第5代ニューカッスル公爵 ヘンリー・ペラム=クリントン Henry Pelham-Clinton 5th Duke of Newcastle | |
---|---|
| |
生年月日 | 1811年5月22日 |
没年月日 | 1864年10月18日(53歳没) |
出身校 | オックスフォード大学クライスト・チャーチ |
所属政党 | 保守党→ピール派→自由党 |
称号 | 第5代ニューカッスル・アンダー・ライン公爵、ガーター勲章士(KG)、枢密顧問官(PC) |
内閣 | アバディーン伯爵内閣 |
在任期間 | 1852年12月28日 - 1854年6月10日 |
内閣 | アバディーン伯爵内閣 |
在任期間 | 1854年6月12日 - 1855年1月31日[1] |
内閣 | 第二次パーマストン子爵内閣 |
在任期間 | 1859年6月18日 - 1864年4月[1] |
庶民院議員 | |
選挙区 |
南ノッティンガムシャー選挙区 フォルカーク・バラ選挙区[2] |
在任期間 |
1832年12月10日 - 1846年2月27日 1846年2月27日 - 1851年1月12日[2] |
貴族院議員 | |
在任期間 | 1851年 - 1864年[2] |
ヴィクトリア朝前期から中期にかけて、保守党、ピール派、自由党と党派を移しながら閣僚職を歴任した。ピール内閣在任中にはアルバート公と連携してコーンウォール公領改革に貢献した。
経歴
編集第4代ニューカッスル=アンダー=ライン公爵ヘンリー・ペラム=クリントンとその妻ジョージナ(旧姓マンディ)の長男として生まれる[3][4]。
イートン校を経てオックスフォード大学クライスト・チャーチで学ぶ[5]。ウィリアム・グラッドストンとはオックスフォード大学で学友だった。グラッドストンが学内の討論クラブで行った演説に共感し、父ニューカッスル公に頼み込んでニューカッスル公の強い影響下にあるニューアーク選挙区からのグラッドストンの出馬の根回しを行った[6]。
1832年から1846年にかけて父ニューカッスル公の強い影響下にある南ノッティンガムシャー選挙区から選出されて保守党所属の庶民院議員を務める[5]。
1841年から1846年にかけて第二次ピール内閣の木材・森林長官を務めた[3]。折しも、王配アルバート公が旧弊な慣例だらけのコーンウォール公領の改革を求めたため、ピール首相はリンカン伯爵をその担当・連絡役とした[注釈 1][8]。アルバート公とリンカンはピール首相と連携しつつコーンウォール州に利害関係を有する貴族と折衝を進めたのち、1844年コーンウォール公領法を成立させて公領改革に成功している[9]。また、彼は続く1846年中にアイルランド担当大臣を務めた[2]。
1846年の穀物法廃止をめぐる保守党の分裂では自由貿易派のピール派を支持したが、これにより保護貿易派を支持していた父ニューカッスル公から絶縁を宣告され、父の工作で南ノッティンガム選挙区において落選に追い込まれた[10]。代わってフォルカーク・バラ選挙区から当選する[3]。
1851年1月の父の死去に伴い、第5代ニューカッスル公爵位を継承し、貴族院議員に列した[2]。父とは臨終直前に和解できた[10]。
1852年12月にピール派とホイッグ党の連立政権アバディーン伯爵内閣が発足すると、ピール派からの閣僚の一人として陸軍・植民地大臣に就任した[11]。クリミア戦争で対ロシア参戦するか否かをめぐる論争では、ピール派としては珍しく参戦派に属した(アバディーン伯爵やグラッドストンなどピール派閣僚は対ロシア開戦に慎重派だったのに対し、パーマストン子爵やジョン・ラッセル卿などホイッグ党閣僚は参戦派だった)。この論争は最終的にニューカッスル公ら参戦派が制した[12]。
しかしクリミア戦争の泥沼化により彼の陸軍大臣としての戦争指導は批判にさらされた[13]。そのため神経過敏となり、1855年1月にアバディーン伯爵が首相職を辞すると、内閣を離れる決意を固めた。アバディーン伯爵に代わってパーマストン子爵がヴィクトリア女王より組閣の大命を受けたが、この際に女王はアバディーン伯爵とニューカッスル公爵を内閣から外すようパーマストン子爵に命じている[13]。アバディーン伯爵とニューカッスル公爵自身も戦争指導の失敗に責任を感じており、後継内閣の問題に直接関わろうとしなかった[14]。
ピール派の長老政治家サー・ジェームズ・グラハム準男爵が病気で第一線を退くと、グラッドストンやシドニー・ハーバートとともに同派の指導的存在となった[15]。
1859年にはホイッグ党とピール派が合同して自由党が結成され、自由党政権の第二次パーマストン子爵内閣が成立。ニューカッスル公は同内閣に植民地大臣として入閣したが、体調を悪化させて1864年4月に辞職[1]。
栄典
編集爵位
編集- 1851年1月12日、第5代ニューカッスル・アンダー・ライン公爵(1756年創設グレートブリテン貴族爵位)[3][4]
- 1851年1月12日、第12代リンカン伯爵(1572年創設イングランド貴族爵位)[3][4]
勲章
編集名誉職その他
編集家族
編集1832年にスーザン・ハミルトン(第10代ハミルトン公爵アレクサンダー・ハミルトンの娘)と結婚し、彼女との間に以下の5子を儲けた[4]。夫妻仲が悪化したのち、スーザン夫人が第4代オーフォード伯爵の子を身ごもっていることが発覚してスキャンダルとなった[16]。その結果、公爵夫妻は1850年に離婚した[3][16]。
- 第1子(長男)第6代ニューカッスル公爵ヘンリー・ペラム=クリントン (1834–1879)
- 第2子(次男)エドワード・ペラム=クリントン卿 (1836–1907):政治家
- 第3子(長女)スーザン・シャーロット・キャサリン・ペラム=クリントン嬢 (1839–1875):アドルファス・ベーン=テンペスト卿と結婚。皇太子バーティの愛人。
- 第4子(三男)アーサー・ペラム=クリントン (1840–1870)
- 第5子(四男)アルバート・シドニー・ペラム=クリントン卿 (1845–1884):フランシス・イヴリン・ストーサードと結婚、後に離婚。
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b c 秦(2001) p.510
- ^ a b c d e UK Parliament. “Earl of Lincoln” (英語). HANSARD 1803–2005. 2014年6月11日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i Cokayne, G. E., ed (1895). Complete Peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct, or dormant (N to R). 6 (1st ed.). London: George Bell & Sons. pp. 26-27
- ^ a b c d e f “Newcastle-under-Lyne, Duke of (GB, 1756 - 1988)”. www.cracroftspeerage.co.uk. 2021年1月26日閲覧。
- ^ a b Munsell, Darrell. "Clinton, Henry Pelham Fiennes Pelham-, fifth duke of Newcastle under Lyme". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/5686。 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
- ^ 神川(2011) p.41/46
- ^ 君塚(2015) p.284
- ^ 君塚(2015) p.284-286
- ^ 君塚(2015) p.286-289
- ^ a b ブレイク(1993) p.274
- ^ バトラー(1980) p.17
- ^ バトラー(1980) p.23
- ^ a b バトラー(1980) p.25
- ^ 君塚(1999) p.138
- ^ 君塚(1999) p.152
- ^ a b J. Gilliland. "Opdebeck [née Douglas-Hamilton], Lady Susan Harriet Catherine [other married name Susan Harriet Catherine Pelham-Clinton, countess of Lincoln]". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/39436。 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
参考文献
編集- 青木康編著 編『イギリス近世・近代史と議会制統治』吉田書店、2015年。ISBN 9784905497387。
- 神川信彦、解説・君塚直隆『グラッドストン 政治における使命感』吉田書店、2011年。ISBN 978-4905497028。
- 君塚直隆『イギリス二大政党制への道 後継首相の決定と「長老政治家」』有斐閣、1999年。ISBN 978-4641049697。
- デヴィッド・バトラー 編、飯坂良明、岡沢憲芙、福岡政行、川野秀之 訳『イギリス連合政治への潮流』東京大学出版会〈UP選書205〉、1980年。ASIN B000J8AD6E。
- ブレイク男爵 著、谷福丸 訳、灘尾弘吉監修 編『ディズレイリ』大蔵省印刷局、1993年。ISBN 978-4172820000。
- 秦郁彦 編『世界諸国の組織・制度・人事 1840-2000』東京大学出版会、2001年。ISBN 978-4130301220。
外部リンク
編集- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by the Duke of Newcastle
- Biography of the 5th Duke, with links to online catalogues, from Manuscripts and Special Collections at The University of Nottingham
- "ヘンリー・ペラム=クリントンの関連資料一覧" (英語). イギリス国立公文書館.
- ヘンリー・ペラム=クリントン - ナショナル・ポートレート・ギャラリー
公職 | ||
---|---|---|
先代 ダンカノン子爵 |
木材・森林長官 1841年 – 1846年 |
次代 第2代カニング子爵 |
先代 サー・トマス・フレマントル准男爵 |
アイルランド担当大臣 1846年 |
次代 ヘンリー・ラブーシェア |
先代 サー・ジョン・パッキングトン准男爵 |
陸軍・植民地大臣 1852年 – 1854年 |
次代 彼自身 (陸軍大臣) |
次代 サー・ジョージ・グレイ准男爵 (植民地大臣) | ||
先代 彼自身 (陸軍・植民地大臣) |
陸軍大臣 1854年 – 1855年 |
次代 第2代パンミューア男爵 |
先代 シドニー・ハーバート |
戦時大臣 1854年 – 1855年 | |
先代 サー・エドワード・ブルワー=リットン准男爵 |
植民地大臣 1859年 – 1864年 |
次代 エドワード・カードウェル |
グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会 | ||
新設 | 南ノッティンガムシャー選挙区選出庶民院議員 1832年 – 1846年 |
次代 トマス・ソーントン・ヒルドヤード |
先代 ウィリアム・ベアード |
フォルカーク・バラ選挙区選出庶民院議員 1846年 – 1851年 |
次代 ジェームズ・ベアード |
名誉職 | ||
先代 第8代スカボロー伯爵 |
ノッティンガムシャー知事 1857年 – 1864年 |
次代 初代ベルパー男爵 |
先代 王配アルバート |
スズ鉱山長官 1862年 – 1864年 |
次代 初代ポートマン男爵 |
グレートブリテンの爵位 | ||
先代 ヘンリー・ペラム=クリントン |
第5代ニューカッスル・アンダー・ライン公爵 1851年 – 1864年 |
次代 ヘンリー・ペラム=クリントン |