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ダリル・ホール&ジョン・オーツ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジョン・オーツから転送)
ダリル・ホール&ジョン・オーツ
2017年10月28日の公演でのダリル・ホール(後方)とジョン・オーツ(前方)
基本情報
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ペンシルベニア州 フィラデルフィア市
ジャンル
活動期間 1969年 - 2024年
レーベル
公式サイト hallandoates.com
メンバー
  • ダリル・ホール
  • ジョン・オーツ

ダリル・ホール&ジョン・オーツDaryl Hall & John Oates)は、ダリル・ホールとジョン・オーツが結成したアメリカブルー・アイド・ソウルデュオである。ホール・アンド・オーツの略称でも知られる。2024年解散[7]

来歴

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1972年にレコード・デビュー。音楽業界は厳しく、なかなか成功をつかむことができなかったが、74年にタヴァレスが「シーズ・ゴーン」をカバーし、作者の二人も注目されるようになった。1975年8月に発表した4枚目のアルバム『Daryl Hall & John Oates』がBillboard 200の17位を記録。翌1976年1月にシングルカットされた「サラ・スマイル」(1976年)も全米4位を記録。それから「シーズ・ゴーン」(1976年)、初の全米1位「リッチ・ガール」(1977年)、「イッツ・ア・ラーフ」(1978年)、「ウェイト・フォー・ミー」(1979年)などのヒットを連発した[8]

1980年代以降も、「ふられた気持ち」[注 1](1980年)、「キッス・オン・マイ・リスト」(1981年)、「プライベート・アイズ」(1982年)、「アイ・キャント・ゴー・フォー・ザット」[注 2](1982年)、「マンイーター」(1983年)「アウト・オブ・タッチ」(1984年)などがヒットし、ブルー・アイド・ソウルのジャンルで特に成功したデュオとなった[9]。1985年に行われたライヴエイドに出演。長年憧れ、また友人でもあった元テンプテーションズエディ・ケンドリックスデヴィッド・ラフィンと共演している[注 3]。その後、1991年に活動停止したが、1995年に活動再開。二人はグループ活動の傍ら、ソロ活動やプロデューサーなどで地道に活動していた。

全米トップ10入りした16曲のうち半数近くの7曲はホールの元恋人サラ・アレンとその妹で1993年に白血病で死去したジャンナ・アレンとの共作である。

USAフォー・アフリカにてウィ・アー・ザ・ワールドを歌う

1985年、二人はUSAフォー・アフリカに参加し、ホールはチャリティ・シングルの「ウィ・アー・ザ・ワールド」のブリッジ部分でリードボーカルもとった。

2009年にソングライターの殿堂、2014年にロックの殿堂入りを果たした。キャリア40年超で、TOP40ヒット29作、TOP10ヒット16作、No.1ヒット6作、プラチナアルバム8作、ゴールドアルバム6作、ゴールドシングル6作。総売上枚数は推定4000万枚以上の実績を残している。

2023年、2人が設立した版権管理会社「ホール・オーツ・エンタープライズ」の株式の半分をオーツが投資ファンドに売却しようとしたことに端を発し、ホールがオーツを訴えるなど関係が険悪化した。2024年4月にはオーツがメディアに対し「ホール&オーツはもう終わった」と発言し[10]、5月にはホールも「グループを見ることはもうない」と語るなど[7]、事実上グループは解散し、ソロとして活動する事を表明している。

ホールは最近の米ビルボード誌でのインタビューで、「僕は(自分は)ずっとソロ・アーティストだといつも言ってきた。ジョンとは一緒に仕事をしていただけ。これからは自由に演奏する」と発言。

メンバー

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ダリル・ホール(Daryl Hall (1946-10-11) 1946年10月11日(78歳)[11]
  • 本名はダリル・フランクリン・ホール(Daryl Franklin Hohl)。長い間、公私ともにサラ・アレンと暮らしていた。
  • ペンシルベニア州チェスター郡ノース・コベントリー生まれ[12]モンゴメリー郡ポッツタウンフィラデルフィア近郊)出身[12]ボーカルギターキーボード担当。
  • ドイツ系アメリカ人で、ペンシルベニア・ダッチの血も受け継ぐ、音楽家のフランク・ホールと声楽教師のベティを両親に持つ。
  • 子供の頃は読書好きで空想好き、スポーツが苦手ということでスクールカーストの下位にいる生徒であり、両親に反抗を持った少年だった。同時にR&Bやソウルに傾倒していた。
  • 1966年、テンプル大学の入学式で新入生のオーツと知り合う。1967年の暮れにバンドとして参加していたダンス会場の楽屋で知り合ったという説もある[13]
  • 1980年代に同棲したロシア系人女性との間に1児を儲けた。
  • 2005年、野生動物に寄生するダニから感染するライム病により一時ライブをキャンセルするなどしたが、現在では完治した模様。
  • 少年時代にR&Bやソウルに関わった経験から、アフリカ系ヒスパニックなど人種を問わずにフレンドリーに接しており、幅広い分野の交流関係を持っている。
  • ニューヨークロンドンなど数軒の邸宅を所持しており、近年は音楽プロデューサーとしても精力を注いでおり、とくに若いアーティストに楽曲を提供している。
  • 近年はR&Bやソウルのテイストを取り入れたポップスで人気を博し、ブルー・アイド・ソウルとして成功したが、若いころは「肌が白く碧い目を持つR&Bやソウルのミュージシャン」と呼ばれることに抵抗感を持ち、音楽に人種は関係ないと振り返って述べている[14]
ジョン・オーツ(John Oates (1948-04-07) 1948年4月7日(76歳)[15]
  • 本名はジョン・ウィリアム・オーツ(John William Oates[13]。ニューヨーク出身[13]。ボーカル、ギター担当。
  • 父親アル・オーツはスペイン系人およびアイルランド系人の血を引き、母親アンはイタリア系人[13]。妹はダイアンで4人家族[13]。父方の祖父はアイルランド系イギリス人移民、祖母はモロッコ系ムーア人スペイン人移民。母方の祖父母はイタリア人シチリア系)移民だった。
  • 4歳の時に、父親の仕事の関係で一家はフィラデルフィアに引っ越した[13]。5歳の時に遊園地の特設会場で観たビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツの演奏をきっかけに音楽に興味を抱いて、ジュニア・ハイスクールに通う頃からギターを習いたいと思い始め、3年間、民間の音楽学校に通う[13]。9歳の時にエレクトリック・ギターを手に入れ、友達らとバンドの真似事を始めた[13]
  • ハイスクールの頃には、アマチュア・バンドに参加し地元のティーン向けクラブやパーティーで演奏。レパートリーは、ジェイムズ・ブラウンウィルソン・ピケットミラクルズ英語版テンプテーションズなどのソウルだった[13]。その一方、ボブ・ディラン&ジョーン・バエズトム・パクストン英語版などのフォークソングも聴いていた[13]
  • 1966年にハイスクールを卒業したジョンは、地元のテンプル大学に入学しジャーナリズムを専攻[13]。スポーツマンで、テンプル大学にはレスリングで奨学金を得ての入学だった。学業のかたわら、「マスターズ」というセミプロのソウル・バンドのボーカル兼ギタリストとして活躍。1967年の暮れに、西フィラデルフィアのダンス会場「アデルフィ・ボールルーム」で開催されたパーティーに出演した際に、楽屋で「テンプトーンズ」というテンプテーションズのコピーバンドと面識を持ち、その中のメンバーの1人だったホールが同じテンプル大学の学生だと知って話しかけたのをきっかけに親しくなる[13]
  • 彼のバンド「マスターズ」は1968年にメンバーの徴兵で解散し、「テンプトーンズ」に加入する予定だったが解散したので、二人はそれぞれ別の音楽の仕事を探すことになった。ホールが「ガリバー」というロック・バンド[16]のアルバム[17]を制作発表していた頃、オーツはヨーロッパ放浪の旅に出ていた[13]。1970年11月に帰国したオーツと、「ガリバー」のアルバムが不発に終わったホールは、以前から一緒に書き溜めていた曲を2人で演奏して歌うことを決め、12月にフィラデルフィアの小さなクラブで「ダリル・ホール&ジョン・オーツ」としてスタートした[13]
  • 1980年代に結婚、その後離婚したが現在では再婚して1児(息子タナー)をもうけ、コロラド州アスペンで生活している。
  • 1987年にはアイスハウスの代表曲エレクトリック・ブルー英語版(全米7位)を、ボーカルのアイヴァ・デイヴィス英語版と共作。オーツもコーラスで参加。ソロ・アルバムでは、敬愛するミシシッピ・ジョン・ハートをトリビュートしたものなどを出している。
  • 若いころは口ヒゲがトレードマークであったが、現在はきれいに剃っている。時折、あごヒゲや無精ヒゲを生やす場合もある。
ダリル・ホール&ジョン・オーツ(2008年)

サポートメンバー

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代表曲

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ダリル・ホール&ジョン・オーツ

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  • Sara Smile:サラ・スマイル(微笑んでよサラ)(1976年、全米第4位、ホールの恋人サラ・アレンを歌った曲)
  • She's Gone:シーズ・ゴーン(追憶のメロディ)(1972年の作品。1976年再発売、全米第6位)
  • Rich Girl:リッチ・ガール1977年3月26日付〜4月2日付、2週連続全米No.1)
  • It's a Laugh:イッツ・ア・ラーフ(1978年
  • Wait for Me:ウェイト・フォー・ミー(1979年
  • Everytime You Go Away:エヴリタイム・ユー・ゴー・アウェイ(1980年、アルバム・モダン・ヴォイスに収録。1985年イギリスの歌手、ポール・ヤングがカバーし、同年7月27日付のチャートで全米No.1を獲得している。)
  • You've Lost That Lovin' Feeling:ふられた気持1981年、ブルーアイド・ソウルの大先輩、ライチャス・ブラザーズのヒット曲をカバー)
  • Kiss on My List:キッス・オン・マイ・リスト(1981年4月11日付〜4月25日付、3週連続全米No.1、同年年間第7位。様々なコンピレーションCDに収録される際、ラヴソングとして扱われる事が多いが、実際はアンチ・ラヴソングである。ホールは「君のキスは最高に素敵な物の一つとしてリストに載っているけど、唯一無二ではない。そういう歌だからね。みんなは『君を愛している。君がいなければ僕は死んでしまう』という内容の歌だと思っているけど、本当はその正反対なのさ」と語っている。)
  • You Make My Dreams:ユー・メイク・マイ・ドリームス(1981年、全米第5位)
  • Private Eyes:プライベート・アイズ(1981年11月7日付〜11月14日付、2週連続全米No.1)
  • I Can't Go For That (No Can Do):アイ・キャント・ゴー・フォー・ザット(1982年1月30日付、全米No.1。ソウル・チャートでも上位に入った。
  • Did It in a Minute:ディド・イット・イン・ア・ミニット(1982年、全米第9位)
  • Maneater:マンイーター(1982年12月18日付〜1983年1月8日付、4週連続全米No.1、1983年年間第7位)
  • One on One:ワン・オン・ワン(1983年、全米第7位)
  • Family Man:ファミリー・マン(1983年、全米第6位。マイク・オールドフィールドのカバー)
  • Say It Isn't So:セイ・イット・イズント・ソー(1983年12月17日付〜1984年1月7日付、4週連続全米第2位)
  • Adult Education:アダルト・エデュケイション(1984年、全米第8位)
  • Out of Touch:アウト・オブ・タッチ(1984年12月8日付〜12月15日付、2週連続全米No.1、1985年年間第6位。現在の所、2人にとって最後の全米No.1)
  • Method of Modern Love:メソッド・オブ・モダン・オブ・ラヴ(1985年、全米第5位)
  • Everything Your Heart Desires:エヴリシング・ユア・ハート・デザイアーズ:(1988年、全米第3位。現在、2人にとって最後のビルボード・ポップチャートTOP10ランクイン楽曲)
  • Philly Forget Me Not(with Train):(2018年)

ダリル・ホール

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注。チャート順位は全てビルボードを参照している。

ディスコグラフィ

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アルバム

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  • 『Whole Oats』:ホール・オーツ(1972年、whole Oatsとは、未精白カラスムギ
  • 『Abandoned Luncheonette』:アバンダンド・ランチョネット(1973年、全米第33位。アリフ・マーディンによるプロデュース。)
  • War Babies』:ウォー・ベイビーズ(1974年、全米第86位。トッド・ラングレンがプロデュース。)
  • 『Daryl Hall & John Oates』:サラ・スマイル(1975年、全米第17位、1976年年間第22位)
  • 『No Goodbyes』:サヨナラはいわないで(1976年、全米第92位)
  • 『Bigger Than Both of Us』:ロックン・ソウル(1976年、全米第13位、1977年年間第13位)
  • 『Beginning』:ビギニングス(1976年)
  • 『Beauty on a Back Street』:裏通りの魔女(1977年、全米第30位)
  • 『Live time』:ライブタイム(1978年、全米第42位)
  • 『Along the Red Ledge』:赤い断層(1978年、全米第27位。デヴィッド・フォスターによるプロデュース。)
  • 『X-Static』:モダン・ポップ(1979年、全米第33位。前作同様フォスターによるプロデュース。)
  • 『Voices』:モダン・ヴォイス(1980年、全米第17位。1981年年間第8位 および1982年度第99位。初のセルフプロデュース&ミリオンセラーアルバム。)
  • 『Private Eyes』:プライベート・アイズ(1981年、全米第5位、1982年間第16位)
  • H2O』:H2O(1982年1983年1月15日付〜4月16日付、15週連続全米3位、同年年間第4位、プラチナ・アルバム。ホール・アンド・オーツ最大の売り上げを記録したアルバムである。)
  • 『Rock'n Soul Part1』:フロム・A・トゥ・ONE(1983年、全米第7位、同年間第第36位。 ※新曲2曲を含めたベストアルバム。)
  • 『Big Bam Boom』:ビッグ・バン・ブーム(1984年、全米第5位、1985年度第17位。)
  • 『Live at the Apollo』:ライヴ・アット・ジ・アポロ(1985年、全米第21位。ボブ・クリアマウンテン、元テンプテーションズデヴィッド・ラフィンエディ・ケンドリックスと共演を果たしている。)
  • 『Ooh Yeah!』:OohYeah!(1988年、全米第24位、同年間第93位。)
  • 『Change of Season』:チェンジ・オブ・シーズン(1990年、全米第60位)
  • 『Marigold Sky』:マリゴールド・スカイ(1997年、全米第95位)
  • 『Do It for Love』:ドゥ・イット・フォー・ラヴ(2003年、全米第77位。タイトル曲がビルボード・アダルトコンテンポラリーチャートで一位に。)
  • 『Our Kind of Soul』(アワ・カインド・オブ・ソウル)2004年(全米第69位)
  • 『Ultimate Daryl Hall & John Oates』(アルティメット・ダリル・ホール&ジョン・オーツ)2004年(全米第63位)
  • 『Home for Christmas』(ホーム・フォー・クリスマス)2006年

シングル

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発売日 全米 規格 規格品番 タイトル 備考
1972年 60位 EP BS-452 A 追憶のメロディ/She's Gone
B I'm Just A Kid
1976年 4位 EP SS-3012 A 微笑んでよサラ/Sara Smile
B Soldering
1976年 7位 EP P-67A A 追憶のメロディ/She's Gone
B I'm Just A Kid
1976年 39位 EP SS-3054 A Do What You Want, Be What You Are
B You'll Never Learn
1977年 1 EP SS-3075 A リッチ・ガール
B London Luck And Love
1977年 28位 EP SS-3093 A Back Together Again
B Room To Breathe
1977年 80位 EP SS-31 A It's Uncanny
B
1977年 73位 EP SS-3109 A 恋の傷痕/Why Do Lovers (Break Each Other's Heart?)
B 昔の女/The Girl Who Used To Be
1978年 20位 EP SS-3169 A It's a Laugh
B Serious Music
1978年 42位 EP SS-3189 A Alley Katz
B 君を失いたくはない/I Don't Wanna Lose You
1979年 18位 EP SS-3242 A Wait for Me
B No Brain, No Pain
1980年 110位 EP A 世界は美しい/Who Said the World Was Fair
B
1980年 30位 EP RPS-6 A Hard To Be In Love With You
B How Does It Feel to Be Back
1980年 12位 EP RPS- A ふられた気持/You've Lost That Lovin' Feelin'
B
1981年 1 EP RPS-24 A Kiss on My List
B ふられた気持/You've Lost That Lovin' Feelin'
1981年 5位 EP RPS- A ユー・メイク・マイ・ドリームス
B
1981年 1 EP RPS-48 A プライベート・アイズ
B Tell Me What You Want
1981年 EP RPS-60 A I Can't Go for That (No Can Do)
B Unguarded Minute
1982年 9位 EP RPS- A Did It in a Minute
B Head Above Water
1982年 33位 EP RPS- A Your Imagination
B
1982年 1 EP RPS-87 A Maneater
B Delayed Reaction
1983年 7位 EP RPS-98 A One on One
B Art Of Heartbreak
1983年 6位 EP RPS-108 A Family Man
B Open Allnight
1983年 2位 EP RPS-123 A セイ・イット・イズント・ソー
B Kiss On My List
1984年 8位 EP RPS-131 A Adult Education
B Maneater
1984年 1 EP RPS-152 A Out of Touch
B Cold, Dark And Yesterday
1984年 5位 EP RPS-160 A Method of Modern Love
B Bank On Your Love
1985年 18位 EP RPS-173 A 言わずにおいて/Some Things are Better Left Unsaid
B All American Girl
1985年 30位 EP RPS-178 A Possession Obsession
B Everytime You Go Away
1985年 20位 EP A The Way You Do the Things You Do with David Ruffin & Eddie Kendricks
B My Girl
1988年 3位 EP A Everything Your Heart Desire
B
1988年 29位 EP A07S-20 A Missed Opportunity
B Soul Love
1988年 31位 EP A Downtown Life
B
1990年 11位 1 So Close
2
1991年 41位 1 Don't Hold Back Your Love
2
2004年 97位 1 I'll Be Around
2

ダリル・ホール

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  • Sacred Songs』:セイクレッド・ソングス(1980年)※ロバート・フリップとの合作。1977年に制作されたが、ホール&オーツの当時のレーベルだったRCAレコードがホール&オーツの作品とは一線を画すアバンギャルドな作風に難色を示したので、発表が2年半以上も遅れた[18]。フリップは本作、自分がプロデュースしたピーター・ガブリエルの『ピーター・ガブリエル II』(1978年)、初のソロ・アルバム『エクスポージャー』(1979年)の3作を『MOR・3部作』(MOR Trilogy)と称した[19]。彼はホールとの創作活動の継続を望んでいたが、ホールはあくまでもホール&オーツを活動の中心と捉えており、『エクスポージャー』に一部参加したものの、両者の本格的なプロジェクトは本作のみに終わった。
  • 『Three Hearts in the Happy Ending Machine』:ドリームタイム(1986年)プロデューサーは当時プロデュースでも活躍していた、ユーリズミックスのデイブ・スチュワート。本作は全米29位、全英26位を記録し、リードシングル「ドリームタイム」は全米5位のヒットを記録した[20][21]。2曲目のシングル「フーリッシュプライド」は元々ホール&オーツのアルバムに準備された曲。
  • 『Soul Alone』:ソウル・アローン(1993年)ソニーからの発売。当時のソニーのトップは、トミー・モットーラ(ホール&オーツの成功時期をサポートした重要なマネージャー、楽曲「ジーノ(ザ・マネージャー)」で歌われている。一時期マライヤキャリーと婚姻。)後にソニーと係争問題もをかかえたといわれる作品。
  • 『Can't Stop Dreaming』:キャント・ストップ・ドリーミング(1996年)日本で先行発売。
  • 『Laughing Down Crying』ラフィング・ダウン・クライング(2011年
  • 『Before After』ビフォー・アフター(2022年)1980年の『Sacred Songs』から2011年の『Laughing Down Crying』までホールのソロ・アルバム全5作と、ホールのソロ配信企画からの未発表曲を網羅した2枚組のベスト盤。
  • 『D』ディー(2024年)13年ぶりのソロ。ユーリズミックス(Eurythmics)のデイヴ・スチュワート(Dave Stewart)との共同プロデュース作。6月発売。

ガリバー(ダリル・ホールが、かつて所属していたバンド)

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  • 『Gulliver』:ガリバー(1998年

テンプトーンズ(ダリル・ホールが、かつて所属していたバンド)

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  • 『The Temptones』:テンプトーンズ(1996年)

ジョン・オーツ

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  • 『Phunk Shui』:ファンク・シュウェイ(2002年
  • 『1000 Miles of Life』:1000 マイルス・オブ・ライフ (2008年
  • 『Mississippi Mile』:ミシシッピー・マイル(2011年)
  • 『Good Road to Follow』: グッド・ロード・トゥ・フェロー(2013年)
  • 『Arkansas』:アーカンソー(2018年)

※注 チャート順位は全てビルボードを参照している。

ビデオ

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  • VHM68022 Daryl Hall John Oates Rock'N Soul Live ロックン・ソウル・ライブ VHD

日本公演

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脚注

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注釈

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  1. ^ ライチャス・ブラザーズ、65年の大ヒット曲である。
  2. ^ この曲はソウル・チャートでもヒットした。
  3. ^ ラフィンとケンドリクスは87年に「ラフィン&ケンドリクス」のアルバムを発表している。

出典

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  1. ^ 北爪啓之 (2007年11月8日). “第20回 ─ BLUE-EYED SOUL(2)”. TOWER RECORDS ONLINE. タワーレコード. 2024年5月2日閲覧。
  2. ^ Perone, James E. (2021). Listen to Soul!: Exploring a Musical Genre. Santa Barbara, California: ABC-CLIO. p. 55. ISBN 9781440875267 
  3. ^ Jasen, David A. (2013) [2002]. “Kiss on my List”. A Century of American Popular Music. London: Taylor & Francis. p. 114. ISBN 9781135352646. "Daryl Hall and John Oates were the most successful pop-rock duo of the 1980s." 
  4. ^ Rufo, Yasmin (2023年11月23日). “Daryl Hall and John Oates: Lawsuit filed between 80s pop duo”. BBC. 2024年5月2日閲覧。
  5. ^ Daryl Hall accuses John Oates of ‘ultimate partnership betrayal’ in new legal filings”. CNN (2023年11月30日). 2024年5月2日閲覧。
  6. ^ a b DeRico, Nick (2016年9月1日). “How Hall and Oates Perfected New Wave Soul on 'Private Eyes'”. Ultimate Classic Rock. Townsquare Media, Inc.. 2024年5月2日閲覧。
  7. ^ a b [1]ホール&オーツ解散 ジョン・オーツに続きダリル・ホールも正式に終わったことを認める] - amass・2024年5月4日
  8. ^ Hall and Oates | full Official Chart History | Official Charts Company Officialcharts.com
  9. ^ Sharp, Ken. “HALL AND OATES: Soul Survivors”. American Songwriter. 8 November 2021閲覧。
  10. ^ ジョン・オーツ、ホール&オーツはもう終わった 「僕はもう前に進んでいる。クリエイティヴな人生を再出発した気分だ」 - amass・2024年4月13日
  11. ^ Daryl Hall - About | Facebook”. 2019年8月17日閲覧。
  12. ^ a b 『ホール&オーツ ロックン・ソウルを求めて』(林洋子著、シンコー・ミュージック、1984年初版、ISBN 4-401-61153-5
  13. ^ a b c d e f g h i j k l m n ファンク・シュウェイ (ライナーノーツ). ジョン・オーツ. インペリアルレコード. 2002. TECI 24127。
  14. ^ 「Pen」 2017年 09月01日号 No.435 p54より
  15. ^ Biography · John Oates”. 2019年8月17日閲覧。
  16. ^ Discogs”. 2024年7月10日閲覧。
  17. ^ Discogs”. 2024年7月10日閲覧。
  18. ^ Smith, Sid (2019). In the Court of King Crimson: An Observation over Fifty Years. Panegyric. p. 204. ISBN 978-1916153004 
  19. ^ Smith, Sid (2019). In the Court of King Crimson: An Observation over Fifty Years. Panegyric. pp. 204-205. ISBN 978-1916153004 
  20. ^ Billboard Database”. 2021年1月3日閲覧。
  21. ^ Daryl Hall full Official Chart History”. 2022年1月3日閲覧。

和書

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外部リンク

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