Nothing Special   »   [go: up one dir, main page]

コンテンツにスキップ

田畑百貨店火災

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
田畑百貨店から転送)
田畑百貨店火災
旧田畑百貨店を増改築した千葉パルコ
2011年の写真)
現場 日本の旗 日本千葉県千葉市中央2丁目2-2田畑百貨店
発生日 1971年5月12日
(出火)1時22分ごろ[1]
(覚知)1時33分[1]–(鎮火)17時35分[1]
類焼面積 9,380m²[1]
原因 不明
死者 1名[1](田畑国利)
負傷者 63名[1]
関与者 不明
目的 不明
株式会社田畑百貨店[2]
種類 株式会社
市場情報 非上場
本社所在地 日本の旗 日本
千葉県千葉市通町30[2]
設立 1961年昭和36年)4月1日[2]
業種 小売業
事業内容 百貨店の運営
代表者 田畑国利[2]
資本金 3000万円[2]
売上高 18億2000万円
1967年(昭和42年))[2]

30億円
1968年(昭和43年))[2]
従業員数 351[2]
テンプレートを表示
田畑百貨店
店舗概要
所在地 千葉県千葉市通町30[2]
正式名称 田畑百貨店
延床面積 16,457 m²[3]
商業施設面積 10,300 m²[2]
営業時間 10:00-18:00[2]
後身 千葉パルコ
最寄駅 JR千葉駅
テンプレートを表示

田畑百貨店火災(たばたひゃっかてんかさい)は、1971年昭和46年)5月12日未明に千葉県千葉市中央(現・千葉市中央区中央)2丁目に存在した百貨店「田畑百貨店」(鉄筋コンクリート造、地下3階、地上8階建、屋上塔屋2階建、延床面積16,655平方メートル)で発生した火災事故。

約16時間に亘って燃え続け、死者1名(同百貨店の社長)、負傷者63名(消防官)に及ぶ被害を出した。本件火災では防火区画の不備、竪穴等の施工不良、ベニヤ板遮蔽による無窓化などによって火災を延焼させたとして商業施設に対して消防当局が改善を指導するきっかけとなった。

会社概要

[編集]

田畑百貨店は第二次世界大戦後、中国から引き揚げてきた田畑国利(1914年8月28日[4] - 1971年5月12日)が千葉市栄町で古着屋を1947年に開いたのが始まりである。その後衣類・雑貨へと販売品目を拡げ、1950年、千葉市中央2丁目にメリヤス雑貨店「田畑商店」を開店した[4]1963年4月、メリヤス雑貨店敷地に地上6階建ての「田畑百貨店」をオープンするとともに、百貨店とビルを管理する「田畑商店」を分離、両社の社長におさまった[4]1968年には、共同仕入機構を通じて伊勢丹と業務提携した。1968年には地上8階・地下3階に改築[4]

当時の田畑百貨店は奈良屋(のちにニューナラヤを経て三越千葉店)、扇屋(のちの扇屋ジャスコ)とともに千葉市の地場百貨店の一角を担う存在であったが、そごうを始めとする千葉県外資本の出店が相次いだこともあって千葉市内の百貨店では下位にあり、「若いあなたのデパート」をモットーに、巻き返しを図る最中の火災であった。

千葉市消防局は火災発生前の1970年11月30日と1971年3月11日に立ち入り検査を行っており、通常階段・非常階段に商品・陳列棚等が置かれていること、防火扉付近に商品が置かれており閉鎖できない状態になっていること、避難誘導が商品や内装によって見えにくくなっていること、増築を重ねたため店内が迷路状態になっており避難経路がわかりにくいこと、などの問題点を指摘していた。しかし、これらの改善は行われていなかった[5]

火災

[編集]

1971年5月12日午前1時22分頃、千葉港へ戻る途中の船員3人がガラスの割れる音に気付き、屋外にあった木製段飾り付近から火が出ているのを発見した。近隣ビルの管理人などとともに消火に当たったものの、隣接していたシャッターの郵便受け口から建物内部の合板内壁に延焼。さらに店内奥へと延焼していった。千葉市消防局では消防車23台を出して消火に当たった。最初に延焼した旧館部分にはスプリンクラー設備が設置されておらず[注釈 1]、防火区画の不備や合板で窓を塞ぐなどもあり、また、衣類などの商品や建材が猛煙を発生させたため消火に手間取り、延べ9380平方メートルを全焼、鎮火に約16時間を要するなど、当時としては焼失面積・延焼時間共に最大の火災[注釈 2]となった[1]

損害額は建物6億5660万円、内容物7億5000万円であった[6]

消火作業中の12日午後3時5分、新館8階非常階段の踊り場で田畑国利社長(当時58歳)が遺体で発見された。この火災での唯一の犠牲者でもある。4階には社長室があって「住み込み社長」と自称する程普段よりここに泊まり込むことが多く、この時も前夜友人の祝賀会に出席した後、11日午後10時10分頃、社長室に戻って就寝。火災に気付いた時にはすでに煙が充満しており、エレベーターを使用することも階段を降りることもできず、肌着に裸足姿で上に向かったものの、屋上まであと10メートルのところで力尽きたものと見られている。千葉大学医学部での解剖の結果、死亡推定時刻は12日午前1時35分から40分までの間、一酸化炭素中毒による窒息死と推定された[7]

前日は定休日[注釈 3]で従業員は慰安旅行に出ており、午前から当日午前0時頃まで地階(食品売場)で冷凍機の配管工事が行なわれていた。当初はこの時の溶接作業の火が他に燃え移ったと見られていた。木製段飾りの火元は放火とも通行人の煙草の投げ捨てとも言われているが、はっきりとした原因は不明である[1]

火災後

[編集]

店舗焼失と経営者を失った田畑百貨店のダメージは大きく、救済を求める形で6月には西武百貨店と資本参加を含む業務提携を締結、伊勢丹との提携は解消された。[要出典]

1972年(昭和47年)には一部店舗を再建して営業を再開。[要出典]1974年(昭和49年)6月13日には食品と衣料品に特化する形で新装オープンした[8]しかし、火災の痛手からは立ち直れず1976年に閉店。同年12月1日、田畑百貨店跡地が千葉パルコとなって再オープン。その後売り上げの伸び悩みから1978年に一部を西友に業態転換し営業を継続してきたが、[要出典]2016年11月30日をもって40年の歴史にピリオドを打った。跡地には20階建ての複合ビルの建設が予定されている[9]

なお、出火原因については特定できないまま1986年に公訴時効を迎え未解決に終わった。

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 年内に設置工事が行われる予定だった[5]
  2. ^ 小売店火災での焼失面積ではその後発生した千日デパート火災大洋デパート火災に次ぐ。延焼時間(16時間13分)は神戸デパート火災、千日デパート火災に次ぐ。
  3. ^ 戦後の百貨店火災では西武百貨店池袋本店火災(1963年8月22日)、野沢屋百貨店(後の横浜松坂屋)火災(1970年9月9日)、福田屋宇都宮店火災(1970年9月10日)と定休日に発生したことから、ある新聞では「また定休日の悲劇」と見出しをつけた。

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h "特異火災事例 (株)田畑百貨店" (PDF). 消防防災博物館. 一般財団法人 消防防災科学センター. 2019年9月8日閲覧
  2. ^ a b c d e f g h i j k 『デパート・ニューズ調査年鑑 1969年度版』 デパートニューズ社、1969年。pp284
  3. ^ 『デパート・ニューズ調査年鑑 1969年度版』 デパートニューズ社、1969年。p.278
  4. ^ a b c d 飯島 2018, p. 26.
  5. ^ a b 飯島 2018, p. 28.
  6. ^ 飯島 2018, p. 32.
  7. ^ 飯島 2018, p. 30.
  8. ^ “SC情報 開店情報”. ショッピングセンター 1974年9月号 (日本ショッピングセンター協会) (1974年9月1日).pp60
  9. ^ 柚木まり (2016年12月1日). “千葉パルコ閉店 40年ありがとう”. 東京新聞 (中日新聞社). オリジナルの2016年12月20日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20161220134623/http://www.tokyo-np.co.jp/article/chiba/list/201612/CK2016120102000164.html 2016年12月12日閲覧。 

参考文献

[編集]
  • 飯島渉「田畑百貨店火災――千葉県初の高層建物火災の経緯について」『千葉県の文書館』第23号、千葉県文書館、22-34頁、2018年3月16日。ISSN 1341-9943 

外部リンク

[編集]