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澤木啓祐

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
沢木啓祐から転送)

澤木 啓祐(さわき けいすけ、1943年12月8日 - )は、陸上競技の元選手でマラソン・中長距離選手の指導者。順天堂大学スポーツ健康科学部学部長、日本陸上競技連盟副会長。 大阪府吹田市出身。

来歴

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  • 大阪府立春日丘高等学校2年時に神戸インターハイ(1960年)、1500m5000mで優勝。高校3年時(1961年)には、日本選手権1500mで2位入賞、インターハイには出場せず、ヨーロッパを転戦するなど1964年東京オリンピックの有力候補として将来を嘱望された。
  • 順天堂大学入学後、インカレユニバーシアードなどにおいてトラック競技で大活躍。箱根駅伝でも4年時に花の2区を区間新の快走で初優勝の立役者になった。
  • その後もメキシコオリンピックミュンヘンオリンピックの代表に選出されるなど名ランナーとして活躍。5000m10000mの日本記録を塗り替えていった。
  • 競技ハイライトは1966年。その年の6月22日、ロンドンのクリスタルパレスで開催した、ロンドン4大学対抗競技会5000mで、当時のトップランナーのロン・クラークオーストラリア)、モハメド・ガムーディチュニジア)、メチェルハンガリー)を振り切り優勝。タイムは日本新記録の13分36秒2であった。このタイムは1966年の世界ランキング4位。それ以降、日本人におけるこの種目での世界ランキング10位以内はない。その他に、3000mで世界ランキング9位。3マイルで世界ランキング9位。10000mで世界ランキング19位に入った。
  • 1967年7月9日、ソビエト連邦で行われた第10回ズナメンスキー国際陸上競技大会で10000mに出場して優勝[1]
  • 1973年から母校、順天堂大学の指揮をとり、箱根駅伝では4連覇を含む9回の総合優勝を果たす。
  • 2024年6月26日、10000m走の練習中、学生に対して「給水不要」を指示したところ(他の監督・コーチ・スタッフは給水を行った)、練習後に一部の学生が熱中症の症状を呈し、1名が救急搬送される事態が起きた。このことなどが一部週刊誌で報じられ[2]、また不適切な言動を行ったとする匿名文書が学内に出回ったことから、大学は調査委員会を設置して調査を行った。その調査結果を伝達したところ、澤木は陸上競技部名誉総監督を退任し、指導から退くと申し出て、9月4日に退任の挨拶を行った[3][4]

代表選考の責任者

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日本陸連では、選手強化本部長として代表選考の責任者を務める。

マラソン全成績

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  • 1,2時間16分06秒  8位 66別府大分
  • 2,2時間21分07秒  18位 67別府大分
  • 3,2時間43分09秒  87位 68別府大分
  • 4,2時間30分45秒  53位 69別府大分

順天堂大学時代 箱根駅伝区間成績

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  • 第39回(1963年) 2区 1時間19分39秒(区間3位)
  • 第40回(1964年) 2区 1時間22分11秒(区間15位)
  • 第41回(1965年) 2区 1時間18分09秒(区間6位)
  • 第42回(1966年) 2区 1時間12分02秒(区間1位)(区間新記録 1分50秒短縮)

ユニバーシアード大会主な成績

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  • 第4回大会(1965年 ブダペスト) 5000m 優勝 13分45秒2(日本新記録)
  • 第5回大会(1967年 東京) 5000m 優勝(2連覇)14分03秒8  10000m 優勝 29分00秒0

関連人物・指導した主な選手

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著作

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関連書籍

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脚注

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  1. ^ 沢木、一万メートルに優勝 ズナメンスキー陸上『朝日新聞』昭和42年(1967年)07月10日夕刊、3版、10面
  2. ^ 箱根駅伝の名門でレジェンド総監督が “パワハラ指導”を… 「順天堂大陸上部」選手4人が熱中症で倒れ「救急搬送」「靭帯損傷」”. デイリー新潮 (2024年9月3日). 2024年9月17日閲覧。
  3. ^ 【順天堂大学陸上競技部に関する報道について】”. 順天堂大学 スポーツ健康科学部 (2024年9月6日). 2024年9月17日閲覧。
  4. ^ 順大・澤木啓祐氏が名誉総監督を退任 本人の申し出を受け”. 陸上競技webメディア「月陸Online」 (2024年9月7日). 2024年9月17日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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