政教社
政教社(せいきょうしゃ)は、1888年(明治21年)、東京にできた政治評論団体。機関誌『日本人』、『亜細亜』、続いて『日本及日本人』を発行し、単行本も出版した。結成期の主張は、西欧化に盲進せず、西欧文化は消化した上で取り入れるべしとの、国粋主義だった。性格を変えながら、1945年(昭和20年)まで存続した。
歴史
[編集]発足は、1888年(明治21年)、神武天皇祭の4月3日。政府は不平等条約改正の一助にと、なりふり構わぬ西欧化、鹿鳴館の狂騒、に明け暮れていた。前年12月には反対勢力を弾圧する保安条例が施行された。
政教社は、この情勢を憂えて結成された。発足時の同人は、哲学館(現・東洋大学)系の井上円了、加賀秀一、島地黙雷、辰巳小次郎、棚橋一郎、三宅雪嶺と、東京英語学校(現・日本学園中学校・高等学校)系の志賀重昂、松下丈吉、菊池熊太郎、今外三郎、杉江輔人との11人で、間もなく杉浦重剛、宮崎道正、中原貞七も加わった[1]。
両グループを結んだのは杉浦重剛で、『政教社』と名付けたのは宮崎道正とも井上円了とも言われる[2]。
結成と同時に機関誌の『日本人』を出した。社屋は東京府神田区南乗物町。のち、おもに神田区内を、転々した。
政治的看板は国粋主義だったが、同人らには西欧の知識があった。その国粋主義は、日本のすべてを讃え外国のすべてを退ける排他的な狂信ではなく、志賀によれば次だった。「宗教・徳教・美術・政治・生産の制度は「国粋保存」で守らねばならぬが、日本の旧態を守り続けろというのではない。ただし西欧文明は、咀嚼し消化してから取り入れるべきだ」(『日本人』第2号所載、「「日本人」が懐抱する処の旨義を告白す」の大意)。
発足早々、九州高島炭坑の労働者の惨状につきキャンペーンを広げた。発足当初の日本新聞と一緒に、大隈重信の条約改正案の『まやかし』を非難した。
『日本人』誌は頻繁に発禁処分を受け、社側は1891年(明治24年)6月から1893年9月までと1893年12月からの短期間と、身代わりの雑誌『亜細亜』を出して対抗した。
しかし、同人は一枚岩でなかった。発足数ヶ月のうちに杉浦重剛と宮崎道正が去り、宗教系の井上円了と島地黙雷も離れ、1892年 - 1893年ごろには志賀重昂と三宅雪嶺だけが残り、長沢別天・畑山芳三・内藤湖南が、1890年に入社した。内藤は1893年に退社し、さらに志賀も1895年に去って、結団時の14人は三宅雪嶺1人になった。
1894 - 1895年(明治27年 - 明治28年)の日清戦争を、日本新聞と共に支持した。
三宅の政教社と陸羯南の日本新聞とは親しく、日本新聞の社屋内に政教社が編集室を置いた時期さえあり[3]、1902年には陸羯南社長が日本人誌の社説を受け持ち、1904年からは三宅が日本新聞の社員を兼ねて同紙の社説を書くという、一心同体的な仲だった。
1906年(明治39年)、日本新聞の社長が伊藤欽亮に代わると、その運営に反対する社員のうち、兼任の三宅のほか、長谷川如是閑・花田節・本間武彦・千葉亀雄・小山内大六・渡邊亮輔・河東碧梧桐・梶井盛・掛場磯吉・武田勇・高木松次郎・井上亀六・古荘毅・国分青崖・古島一雄・鰺坂定盛・荒木恒造・早乙女勇五郎・斎藤信・三苫亥吉・三浦勝太郎が辞職して政教社に移り、三宅雪嶺主宰は、日本新聞の伝統をも受け継ぐとして、『日本人』の誌名を1907年から『日本及日本人』と変え、政教社を新発足させた。
1920年、姉妹誌『女性日本人』を創刊したが、赤字だった。
1923年(大正12年)の関東大震災で四谷区愛住町にあった政教社は罹災した。三宅と女婿・中野正剛との再建案が社員に受け入れられず、三宅は退社し、残った井上亀六・大野兵三郎・小谷安太郎・古荘毅・荒川紋治・寒川鼠骨・雑賀博愛・関喜三郎・住谷穆が、1924年から雑誌を復刊した。
以降の政教社は次第に右傾し、三井甲之らの神秘的国粋論を雑誌に載せた。三井は1929年(昭和4年)去って、翌年五百木良三が社長になり、1937年に彼が没した後は、国分青崖社長、入江種矩主幹、雑賀博愛主筆の、戦争協力体制になった。
『日本及日本人』の発行は、敗色迫る1944年12月で終わった。
1945年5月下旬、社屋は空襲に焼かれ、敗戦直後、寒川らが再建を口にし、1953年にも相談された[4]が、実らなかった。
単行本の出版記録
[編集]- 三宅雪嶺『真善美日本人』(1891年3月)
- 三宅雪嶺『偽悪醜日本人』(1891年5月)
- 三宅雪嶺『我観小景』(1892年10月)
- 三宅雪嶺・志賀重昂『断雲流水』(1893年11月)
- 三宅雪嶺『王陽明』(1893年11月)
- 三宅雪嶺『馬鹿趙高』(1894年4月)
- 長沢別天『盲詩人』(1894年5月)
- 志賀重昂『日本風景論』(1894年10月)
- 香川悦次編、同人の共著:『小弦集』(1896年11月)
- 志賀重昂『河及湖沢』(1897年1月)
- 三宅雪嶺『冒頓』(1897年11月)
- 三宅雪嶺『大塊一塵』(1903年1月)
- 三宅雪嶺『明治丁未題言集』(1907年2月)
- 三宅雪嶺『宇宙』(1909年1月)
- 河東碧梧桐(編)『日本俳句鈔』(1909年5月)
- 長谷川如是閑『額の男』(1908年8月)
- 三宅花圃『野村望東尼』(1911年4月)
- 大庭柯公『南北四万哩』(1911年6月)
- 鵜崎鷺城『薩の海軍長の陸軍』(1911年11月)
- 長谷川如是閑『倫敦』(1912年5月)
- 藤本尚則『巨人頭山満翁』、大正11年(1922年)
- 三浦梧楼(述)・政教社(編)『観樹将軍囘顧録』(1925年)
- 頭山満(講評)『大西郷遺訓』(1925年)
- 政教社(編)『嗚呼草刈少佐』(1930年)
- 『刑余大臣奏薦の責任 国家綱紀の破壊』(1931年)
出典
[編集]脚注
[編集]- ^ 植手通有「国民之友・日本人」(『政教社文学集 明治文学全集37』所収)筑摩書房、p.403。
- ^ 松本三之介「解題」(『政教社文学集』所収)の冒頭、p.422
- ^ 長谷川如是閑『ある心の自叙伝』、講談社学術文庫、1984年、p.338。
- ^ 吉田漱編「寒川鼠骨年譜」(寒川鼠骨『正岡子規の世界』六法出版社、1993年、所収)。