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{{基礎情報 公家
'''藤原 惟憲'''([[988年]]([[寛和]]4年) - [[1033年]]([[長元]])6年)は、[[平安時代]]の[[公卿]][[藤原惟孝]]の長男、官位は正二位・内大臣。[[藤原北家]][[勧修寺流]]為輔統第4代当主。
| 氏名 = 藤原 惟憲
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 時代 = [[平安時代]]中期
| 生誕 = [[応和]]3年([[963年]])
| 死没 = [[長元]]6年[[3月26日 (旧暦)|3月26日]]([[1033年]][[4月27日]])
| 改名 =
| 別名 =
| 諡号 =
| 神号 =
| 戒名 =
| 墓所 =
| 官位 = [[正三位]]、[[大宰帥|大宰大弐]]
| 主君 = [[花山天皇]]→[[一条天皇]]→[[三条天皇]]→[[後一条天皇]]
| 氏族 = [[藤原北家]][[勧修寺流]]
| 父母 = 父:[[藤原惟孝]]、母:[[伴清廉]]または[[藤原善理]]の娘
| 兄弟 = '''惟憲'''、[[藤原惟光|惟光]]、[[泰通]]、[[致義]]、[[相序]]、[[鎮禅]]
| 妻 = [[藤原親明]]の娘
| 子 = [[憲房]]、[[藤原良慶|良慶]]、[[藤原季定]]室、[[藤原兼房]]室、[[橘惟宗]]室、[[藤原頼成]]室、[[美子]]
| 特記事項 =
}}
'''藤原 惟憲'''(ふじわら の これのり)は、[[平安時代]]中期の[[公卿]]。[[藤原北家]][[勧修寺流]]、[[駿河国#国司|駿河守]]・[[藤原惟孝]]の長男。[[官位]]は[[正三位]]・[[大宰帥|大宰大弐]]。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
[[近江国#国司|近江掾]]を経て、[[花山天皇|花山朝]]の[[寛和]]元年([[985年]])[[従五位|従五位下]]に[[叙爵]]。[[一条天皇|一条朝]]にて[[大蔵省 (律令制)|大蔵大輔]]を経て、[[長保]]3年([[1001年]])[[因幡国#国司|因幡守]]として地方官に転じる。任期中には備蓄が尽きていた[[不動穀]]に再び8000石を備えさせるなど<ref>『御堂関白記』寛弘3年正月6日条</ref>、同国の国力を回復させたと評価される<ref>『平松文書』寛弘2年4月14日条</ref>。寛弘2年([[1005年]])に任期を終えるが、後任の[[橘行平]]から不動穀備蓄の実態がない事を理由に[[解由状]]を得られないまま帰京する。結局、[[左大臣]]・[[藤原道長]]に対応を頼み込み、後付けで[[国府]]の倉庫に大量の[[穀|稲穀]]を運び入れるなどの策を弄した結果、[[朝廷 (日本)|朝廷]]から行平に対して解由状出状の命令を出させることに成功し、同年12月にようやく解由状を得ることができた<ref name="mk1005">『御堂関白記』寛弘2年12月29日条</ref>。その後も、寛弘3年([[1006年]])[[甲斐国#国司|甲斐守]]と一条朝中盤以降は地方官を歴任し、この間[[寛弘]]4年([[1007年]])[[従四位|従四位下]]、寛弘8年([[1011年]])従四位上と順調に昇進する。
988年 [[駿河国|駿河]]で誕生、父は[[藤原惟孝]]、母は[[紀文実]]女とされる。


その後は[[長和]]2年([[1013年]])[[正四位|正四位下]]・[[近江国#国司|近江守]]、寛仁4年([[1020年]])[[播磨国#国司|播磨守]]と[[三条天皇|三条朝]]から[[後一条天皇|後一条朝]]前半にかけて[[大国]]の[[国守]]を務める一方、[[藤原道長]]の[[家司]]として信頼が厚く、[[寛仁]]元年([[1017年]])敦良親王(後の[[後朱雀天皇]])が道長の外孫として初めて[[皇太子]]に立つと、その[[春宮坊|春宮亮]]に任ぜられている。
990年 [[痘瘡]]を患い、父惟孝は[[比叡山]]、[[伊勢神宮]]に参詣している。


また、[[国司]]として蓄えた財力をもって、京内の一等地である藤原道長の[[土御門第]]の西隣に邸宅を構える。[[長和]]5年([[1016年]])自邸から出火し土御門第や[[法雲寺|法興院]]{{要曖昧さ回避|date=2016年1月}}など土御門大路から[[二条通|二条]]の北に至るまで500件以上の家屋が焼失したが<ref>『御堂関白記』長和5年7月21日条</ref>、その再建の造営責任者となる。寛仁2年([[1018年]])に惟憲の邸宅と同時に再建を完了させるが、土御門第と同じ日に惟憲邸の[[移徙]]を行ったため、世人の不審を買ったという<ref>『小右記』寛仁2年6月27日条</ref>。
996年 父とともに[[京都|京]]に上洛し、定住。


[[治安 (日本)|治安]]3年([[1023年]])[[従三位]]・大宰大弐に叙任されて[[大宰府]]に赴任し、翌[[万寿]]元年([[1024年]])には赴任の労により[[正三位]]に昇叙された。[[長元]]2年([[1029年]])大宰大監・[[平季基]]が[[大隅国]]で国府を焼き討ちにするなど大規模な反乱を起こした際、惟憲は季基に対して[[絹]]3000余疋を賄賂として要求して受け取り、勝手に反乱の罪を赦してしまう。その後、朝廷から大宰府に対して作成された季基を捕縛すべき旨の命令書について、惟憲は書類作成手続きの不備を理由に再作成を強く要求し、結局命令書は大宰府に届くことはなかった<ref name="syk1029a">『小右記』長元2年9月5日条</ref>。更に大隅守[[船守重]]が惟憲が事件を握りつぶそうとしていると告発しようとすると、罪に陥れようとしている<ref name="syk1029a"/>。同年に大弐の任を終えて帰京した際には、九州一円から略奪、あるいは外国からの交易船から接収した、数え切れないほどの財宝を随身が携えて帰京したという<ref>『小右記』長元2年7月11日条</ref>。
1004年頃 父惟孝が失脚か。


[[長元]]4年([[1031年]])正月の[[氏爵#王氏|王氏爵]]において、[[大蔵光高]]のことを[[宇多天皇]]の後裔の「良国王」と偽って、王氏爵の権限を持つ[[敦平親王]]に推挙させる。一旦、良国王は[[従四位|従四位下]]に叙せられるものの、陰謀はたちまち露見し[[叙位]]は取り消されてしまう<ref>『小右記』長元4年正月5日,正月6日,3月1日条</ref>。まもなく敦平親王に対する事情聴取が行われることになり、惟憲が激しく狼狽しているとの[[噂]]が立ったことや、王氏爵にも関わった[[関白]]・[[藤原頼通]]が惟憲を嫌って既に70歳近いのでいい加減に[[出家]]して[[隠居]]すれば良いと言った、との話が伝わっている<ref name="syk1031a">『小右記』長元4年正月16日条</ref>。結局3月になって敦平親王は[[式部省|式部卿]]の職務を停止され、惟憲は参内を禁じられた<ref>『日本紀略』長元4年3月14日条</ref>。
1006年 昇殿し、従五位下近江守。


長元6年([[1033年]])3月26日[[崩御#薨去|薨去]]。[[享年]]71。最終[[官位]]は前大宰大弐正三位。
1008年 移官し、播磨守。

1010年 従四位下太宰大弐に任じられる。この頃から[[藤原道長]]に接近する。[[太宰府]]に赴任し、悪政を敷いた、と[[藤原実資]]「[[小右記]]」は述べている。

1015年 任を終え、京へ帰還する。[[三条天皇]]に[[太宰府]]に関する上奏を行った。

1016年 自邸から出火し、自邸及び[[藤原道長]]の[[土御門第]]等が全焼する。出火原因は不明。

1017年 移官し、[[敦明親王]]の春宮亮。ただし実質的な降格である。前年の被災家屋を復旧し、自邸も新築している。

1020年 正四位・参議に任ぜられる。

1024年 正三位・大納言に任ぜられる。[[吉野]]に参詣した旨を[[後一条天皇]]に報告。

1027年 [[藤原道長]]死去。

1033年 京で死去、従二位を追贈される。


== 人物 ==
== 人物 ==
[[藤原実資]]からは『小右記』にて、貪欲である上に善悪を弁えていなかったと評された<ref name="syk1031a" />。なお、大隅国府襲撃事件において、藤原頼通に扈従する惟憲(及び季基)と藤原実資の家人であった船守重という構図から、頼通と実資という中央政界の権力者の対立が地方に持ち込まれたとする指摘もある<ref>加藤友康「平安時代の大隅・薩摩-人の交流と交易・情報伝達を媒介にして考える-」初出:『黎明館調査研究報告』17号、2004年/所収:倉本一宏 編『王朝時代の実像1 王朝再読』(臨川書店、2021年) ISBN 978-4-653-04701-8 2021年、P411-416.</ref>。なお、大隅国府焼き討ちの翌々年である長元4年([[1030年]])正月、季基は実資に唐錦1疋・唐綾2疋・絹200疋、総鰍色革100枚・紫革50枚等を献上している<ref>『小右記』長元4年正月13日条</ref>。
父惟孝とは正反対の強欲な人物だったと「[[小右記]]」は述べている。また、[[藤原道長]]の側近であり、[[三条天皇]]には強圧的に望んでいる。その一方で赴任先では[[賄賂]]を受け取りながらも税を低くするなど、政治手腕は確かだったとしている。

== 家族 ==
・母不明
*長男[[藤原憲房]]

*次男[[藤原良憲]]

*三男[[藤原惟臣]]

== 勧修寺流為輔統歴代当主 ==
初代 [[藤原為輔]](権中納言)


{{要出典範囲|また、[[藤原道長]]の側近であり、[[三条天皇]]には強圧的に望んでいる。その一方で赴任先では[[賄賂]]を受け取りながらも税を低くするなど、政治手腕は確かだったとしている|date=2017年3月}}。
二代 [[藤原惟孝]](為輔長男・大膳大夫)


== 官歴 ==
三代 [[藤原惟憲]](惟孝長男・大納言)
注記のないものは『[[公卿補任]]』による。
*時期不詳:[[近江国#国司|近江掾]]
*[[寛和]]元年([[985年]]) 11月20日:[[従五位|従五位下]]
*時期不詳:[[大蔵省 (律令制)|大蔵大輔]]。従五位上。[[正五位|正五位下]]
*[[長保]]3年([[1001年]]) 正月24日:[[因幡国#国司|因幡守]]
*[[寛弘]]2年([[1005年]]) 正月25日:得替(因幡守)
*寛弘3年([[1006年]]) 正月28日:[[甲斐国#国司|甲斐守]]
*寛弘4年([[1007年]]) 正月20日:[[従四位|従四位下]](造安殿賞)
*寛弘7年([[1010年]]) 2月16日:去甲斐守
*寛弘8年([[1011年]]) 10月15日:従四位上(治国、即位)
*[[長和]]2年([[1013年]]) 9月16日:[[正四位|正四位下]](行幸中宮。左大臣家司)。11月24日:[[近江国#国司|近江守]]
*時期不詳:[[京職|左京大夫]]
*[[寛仁]]元年([[1017年]]) 3月15日:[[馬寮|右馬頭]]<ref>『御堂関白記』</ref>。8月9日:[[春宮坊|春宮亮]]([[皇太子]]・[[後朱雀天皇|敦良親王]])
*寛仁2年([[1018年]]) 正月:去任
*寛仁4年([[1020年]]) 正月30日:[[播磨国#国司|播磨守]]
*[[治安 (日本)|治安]]元年([[1021年]]) 8月:辞亮<ref>『小右記』治安元年8月29日条</ref>
*治安3年([[1023年]]) 12月15日:[[大宰帥|大宰大弐]]。12月26日:[[従三位]](長和5年[[大嘗祭|大嘗会]]国司賞)
*[[万寿]]元年([[1024年]]) 9月15日:[[正三位]](赴任賞)
*[[長元]]6年([[1033年]]) 3月26日:[[崩御#薨去|薨去]](前大宰大弐正三位)


== 系譜 ==
四代 [[藤原泰通]](惟孝次男・参議)
『[[尊卑分脈]]』による。
*父:[[藤原惟孝]]
*母:伴清廉の娘<ref>『公卿補任』</ref>(または藤原善理の娘)
*妻:[[藤原美子 (後一条天皇乳母)|藤原美子]](藤原親明の娘) - [[典侍]][[従二位]]、[[後一条天皇|後一条院]][[乳母]]<ref name="syk2">『小右記』寛仁2年4月22日条。『尊卑分脈』では惟憲の娘とする。</ref>
**長男:[[藤原憲房]](?-1073)
*生母不詳の子女
**次男:良慶
<!--**三男:{{要出典範囲|藤原惟臣|date=2013年10月}}-->
**女子:藤原季定室
**女子:[[藤原兼房 (中宮亮)|藤原兼房]]室
**女子:橘惟宗室
**女子:藤原頼成室
**女子:[[藤原章信]]室<ref name="syk2" />


== 脚注 ==
五代 [[藤原憲房]](惟憲長男・内大臣)
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== 参考文献 ==
== 出典 ==
*[[山本信吉]]『摂関政治史論考』[[吉川弘文館]](2003年)
<!--*[[山本信吉]]『摂関政治史論考』[[吉川弘文館]]2003年-->
*『朝日日本歴史人物事典』[[朝日新聞社]]、1994年
*『世界大百科事典 第2版』[[平凡社]]、2005年
*『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
*『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年


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2024年6月30日 (日) 11:32時点における最新版

 
藤原 惟憲
時代 平安時代中期
生誕 応和3年(963年
死没 長元6年3月26日1033年4月27日
官位 正三位大宰大弐
主君 花山天皇一条天皇三条天皇後一条天皇
氏族 藤原北家勧修寺流
父母 父:藤原惟孝、母:伴清廉または藤原善理の娘
兄弟 惟憲惟光泰通致義相序鎮禅
藤原親明の娘
憲房良慶藤原季定室、藤原兼房室、橘惟宗室、藤原頼成室、美子
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藤原 惟憲(ふじわら の これのり)は、平安時代中期の公卿藤原北家勧修寺流駿河守藤原惟孝の長男。官位正三位大宰大弐

経歴

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近江掾を経て、花山朝寛和元年(985年従五位下叙爵一条朝にて大蔵大輔を経て、長保3年(1001年因幡守として地方官に転じる。任期中には備蓄が尽きていた不動穀に再び8000石を備えさせるなど[1]、同国の国力を回復させたと評価される[2]。寛弘2年(1005年)に任期を終えるが、後任の橘行平から不動穀備蓄の実態がない事を理由に解由状を得られないまま帰京する。結局、左大臣藤原道長に対応を頼み込み、後付けで国府の倉庫に大量の稲穀を運び入れるなどの策を弄した結果、朝廷から行平に対して解由状出状の命令を出させることに成功し、同年12月にようやく解由状を得ることができた[3]。その後も、寛弘3年(1006年甲斐守と一条朝中盤以降は地方官を歴任し、この間寛弘4年(1007年従四位下、寛弘8年(1011年)従四位上と順調に昇進する。

その後は長和2年(1013年正四位下近江守、寛仁4年(1020年播磨守三条朝から後一条朝前半にかけて大国国守を務める一方、藤原道長家司として信頼が厚く、寛仁元年(1017年)敦良親王(後の後朱雀天皇)が道長の外孫として初めて皇太子に立つと、その春宮亮に任ぜられている。

また、国司として蓄えた財力をもって、京内の一等地である藤原道長の土御門第の西隣に邸宅を構える。長和5年(1016年)自邸から出火し土御門第や法興院[要曖昧さ回避]など土御門大路から二条の北に至るまで500件以上の家屋が焼失したが[4]、その再建の造営責任者となる。寛仁2年(1018年)に惟憲の邸宅と同時に再建を完了させるが、土御門第と同じ日に惟憲邸の移徙を行ったため、世人の不審を買ったという[5]

治安3年(1023年従三位・大宰大弐に叙任されて大宰府に赴任し、翌万寿元年(1024年)には赴任の労により正三位に昇叙された。長元2年(1029年)大宰大監・平季基大隅国で国府を焼き討ちにするなど大規模な反乱を起こした際、惟憲は季基に対して3000余疋を賄賂として要求して受け取り、勝手に反乱の罪を赦してしまう。その後、朝廷から大宰府に対して作成された季基を捕縛すべき旨の命令書について、惟憲は書類作成手続きの不備を理由に再作成を強く要求し、結局命令書は大宰府に届くことはなかった[6]。更に大隅守船守重が惟憲が事件を握りつぶそうとしていると告発しようとすると、罪に陥れようとしている[6]。同年に大弐の任を終えて帰京した際には、九州一円から略奪、あるいは外国からの交易船から接収した、数え切れないほどの財宝を随身が携えて帰京したという[7]

長元4年(1031年)正月の王氏爵において、大蔵光高のことを宇多天皇の後裔の「良国王」と偽って、王氏爵の権限を持つ敦平親王に推挙させる。一旦、良国王は従四位下に叙せられるものの、陰謀はたちまち露見し叙位は取り消されてしまう[8]。まもなく敦平親王に対する事情聴取が行われることになり、惟憲が激しく狼狽しているとのが立ったことや、王氏爵にも関わった関白藤原頼通が惟憲を嫌って既に70歳近いのでいい加減に出家して隠居すれば良いと言った、との話が伝わっている[9]。結局3月になって敦平親王は式部卿の職務を停止され、惟憲は参内を禁じられた[10]

長元6年(1033年)3月26日薨去享年71。最終官位は前大宰大弐正三位。

人物

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藤原実資からは『小右記』にて、貪欲である上に善悪を弁えていなかったと評された[9]。なお、大隅国府襲撃事件において、藤原頼通に扈従する惟憲(及び季基)と藤原実資の家人であった船守重という構図から、頼通と実資という中央政界の権力者の対立が地方に持ち込まれたとする指摘もある[11]。なお、大隅国府焼き討ちの翌々年である長元4年(1030年)正月、季基は実資に唐錦1疋・唐綾2疋・絹200疋、総鰍色革100枚・紫革50枚等を献上している[12]

また、藤原道長の側近であり、三条天皇には強圧的に望んでいる。その一方で赴任先では賄賂を受け取りながらも税を低くするなど、政治手腕は確かだったとしている[要出典]

官歴

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注記のないものは『公卿補任』による。

系譜

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尊卑分脈』による。

脚注

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  1. ^ 『御堂関白記』寛弘3年正月6日条
  2. ^ 『平松文書』寛弘2年4月14日条
  3. ^ 『御堂関白記』寛弘2年12月29日条
  4. ^ 『御堂関白記』長和5年7月21日条
  5. ^ 『小右記』寛仁2年6月27日条
  6. ^ a b 『小右記』長元2年9月5日条
  7. ^ 『小右記』長元2年7月11日条
  8. ^ 『小右記』長元4年正月5日,正月6日,3月1日条
  9. ^ a b 『小右記』長元4年正月16日条
  10. ^ 『日本紀略』長元4年3月14日条
  11. ^ 加藤友康「平安時代の大隅・薩摩-人の交流と交易・情報伝達を媒介にして考える-」初出:『黎明館調査研究報告』17号、2004年/所収:倉本一宏 編『王朝時代の実像1 王朝再読』(臨川書店、2021年) ISBN 978-4-653-04701-8 2021年、P411-416.
  12. ^ 『小右記』長元4年正月13日条
  13. ^ 『御堂関白記』
  14. ^ 『小右記』治安元年8月29日条
  15. ^ 『公卿補任』
  16. ^ a b 『小右記』寛仁2年4月22日条。『尊卑分脈』では惟憲の娘とする。

出典

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  • 『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年
  • 『世界大百科事典 第2版』平凡社、2005年
  • 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
  • 『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年