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'''王子稲荷神社'''(おうじいなりじんじゃ)は、[[東京都]][[北区 (東京都)|北区]][[岸町 (東京都北区)|岸町]]にある神社である。東国三十三国稲荷総司との伝承を持ち、落語『[[王子の狐]]』でも有名。
'''王子稲荷神社'''(おうじいなりじんじゃ)は、[[東京都]][[北区 (東京都)|北区]][[岸町 (東京都北区)|岸町]]にある[[神社]]である。[[稲荷神#関東稲荷総司と関東三大稲荷|東国三十三国稲荷総司]]との伝承を持ち、民話『[[王子の狐火]]』や落語『[[王子の狐]]』でも有名。


== 祭神 ==
== 祭神 ==
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* [[保食神|宇気母智之神]]
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* [[ワクムスビ|和久産巣日神]]
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== 摂社 ==

=== 装束稲荷神社 ===
== 概略 ==
== 概略 ==
古くは岸稲荷と号した{{sfn|江戸名所図会|1927|p=346}}。『[[新編武蔵風土記稿]]』巻之十八の[[豊島郡 (武蔵国)|豊島郡]]之十「王子村」によれば、[[荒川 (関東)|荒川]]流域が広かった頃、その岸に鎮座した事から名付けられた{{sfn|新編武蔵風土記稿 王子村 稲荷社}}。また、[[治承]]四年に[[源頼朝]]より奉納を得たという{{sfn|新編武蔵風土記稿 王子村 稲荷社}}。[[徳川家康]]が王子稲荷、[[王子神社 (東京都北区)|王子権現]]、両社の[[別当寺]]であった[[金輪寺 (東京都北区)|金輪寺]]に宥養上人を招いて以降、江戸北域にあって存在を大きくした。
{{see also|狐火#王子稲荷の狐火}}
古くは岸稲荷と号した。
[[新編武蔵風土記稿]]巻之十八 豊島郡(参照:[[豊島郡 (武蔵国)]])之十 によれば、荒川(参照:[[荒川 (関東)]])流域が広かった頃、その岸に鎮座した事から名付けられた。また、[[治承]]四年に[[源頼朝]]より奉納を得たという。


=== 狐火 ===
[[徳川家康]]が王子稲荷、[[王子神社 (東京都北区)|王子権現]]、両社の[[別当寺]]であった金輪寺に宥養上人を招いて以降、江戸北域にあって存在を大きくした。
{{See|王子の狐火}}
『[[江戸砂子]]』王子稲荷の段に以下のとおり記されている。
『[[江戸砂子]]』王子稲荷の段に以下のとおり記されている。


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「[[関東]]八州」の稲荷(参照:[[稲荷神]])の総社と観光紹介されるようになっているが、元来は[[東国]]三十三国の稲荷総司の伝承をもっていた。
「[[関東]]八州」の稲荷(参照:[[稲荷神]])の総社と観光紹介されるようになっているが、元来は[[東国]]三十三国の稲荷総司の伝承をもっていた。


社伝には「[[康平]]年中、[[源頼義]]、[[陸奥国|奥州]]追討のみぎり、深く当社を信仰し、関東稲荷総司とあがむ」 とある。この「関東」を中世以来別当寺金輪寺は、陸奥国まで含む「東国三十三国(参照:出羽三山*歴史項)」と解釈してきた。「三拾三ケ国の狐稲荷の社へ火を燈し来る」との王子神社の縁起絵巻「[[若一王子]](にゃくいちおうじ)縁起」([[紙の博物館]]蔵)の付箋<ref>{{Cite web|url=http://2machi.yokochou.com/hi-index.html |title=王子の狐物語・正しい王子の歴史のために|publisher=王子の里伝承観光舎、王子の小太郎|accessdate=2015-3-8}}</ref>が示す通り江戸中期までは神域に「東国三十三国」の幟、扁額を備えていた。寛政の改革時に幕府行政の上からの干渉を受けて以降、関八州稲荷の頭領として知られるようになった。
社伝には「[[康平]]年中、[[源頼義]]、[[陸奥国|奥州]]追討のみぎり、深く当社を信仰し、[[稲荷神#関東稲荷総司と関東三大稲荷|関東稲荷総司]]とあがむ」 とある。この「関東」を中世以来別当寺金輪寺は、陸奥国まで含む「東国三十三国(参照:出羽三山*歴史項)」と解釈してきた。「三拾三ケ国の狐稲荷の社へ火を燈し来る」との王子神社の縁起絵巻「[[若一王子]](にゃくいちおうじ)縁起」([[紙の博物館]]蔵)の付箋<ref>{{Cite web|和書|url=http://2machi.yokochou.com/hi-index.html |title=王子の狐物語・正しい王子の歴史のために|publisher=王子の里伝承観光舎、王子の小太郎|accessdate=2015-3-8}}</ref>が示す通り江戸中期までは神域に「東国三十三国」の幟、扁額を備えていた。寛政の改革時に幕府行政の上からの干渉を受けて以降、関八州稲荷の頭領として知られるようになった。

「三十三あるが、[[北陸道]]・[[東山道]]・[[東海道]]を全部あわせても東国は30国しかない。33という数字は全[[令制国]]の合計66国を半分にした観念的な数字とする説、[[平安時代]]までに廃止された[[諏訪国]]・[[石城国]]・[[石背国]]を加えたものとする説、当時「[[北海道|蝦夷ヶ島]]」と総称された[[松前|渡党]](わたりとう)・[[東蝦夷|日本]](ひのもと)・[[西蝦夷|唐子]](からこ)を加えたとする説などがある。


===祭事===
この33国という表現については、[[北陸道]]・[[東山道]]・[[東海道]]を全部あわせても東国は30国しかなく、33という数字は全[[令制国]]の合計66国を半分にした観念的な数字とする説、[[平安時代]]までに廃止された[[諏訪国]]・[[石城国]]・[[石背国]]を加えたものとする説、当時「[[北海道|蝦夷ヶ島]]」と総称された[[松前|渡党]](わたりとう)・[[東蝦夷|日本]](ひのもと)・[[西蝦夷|唐子]](からこ)を加えたとする説などがある。
毎月[[午]]の日が縁日で、2月[[初午]]の日、[[初午|二の午]]、[[初午|三の午]]には賑わう。社務所にて火防(ひぶせ)の[[凧]]、守札が出され、境内にも凧を売る店が立つ「凧市」が行われる。始まったのは[[江戸時代]]で、[[江戸]]に多かった[[火事]]を大きくする原因の風を切って高く上がる凧が火難除けのほか無病息災、商売繁盛にご利益があるとされるようになった<ref>[https://www.sankei.com/article/20180203-NZ32FKQI5FI5JNFGZSO6FATBFY/ 火事除けに「凧市」王子稲荷神社、7日と19日]『産経新聞』朝刊2018年2月3日(東京面)</ref>。


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毎月[[午]]の日が縁日で、2月[[初午]]の日、[[初午|二の午]]、[[初午|三の午]]には賑わう。
社務所にて火防(ひぶせ)の凧、守札がだされ、境内にも凧を売る店が立つ。
毎年大晦日、除夜とともに「大晦日狐の行列」が王子稲荷へ向かって賑わいを見せる。


== 王子稲荷の格式 ==
== 王子稲荷の格式 ==
新編武蔵風土記稿巻之十八 豊島郡之十 にはまた、王子稲荷について「当社は(王子)権現の末社の如く聞こえたれど左にあらず、金輪寺中興宥養(家康と昵懇の間柄の高僧)を王子両社(王子権現と王子稲荷)の別当に補せらると云うに拠っても知らるる」と記している。王子稲荷は江戸市民から神社人気一番を得続けた。
新編武蔵風土記稿巻之十八 豊島郡之十 にはまた、王子稲荷について「当社は(王子)権現の末社の如く聞こえたれど左にあらず、金輪寺中興宥養(家康と昵懇の間柄の高僧)を王子両社(王子権現と王子稲荷)の別当に補せらると云うに拠っても知らるる」と記している{{sfn|新編武蔵風土記稿 王子村 稲荷社}}。王子稲荷は江戸市民から神社人気一番を得続けた。


== 美術における王子稲荷 ==
== 美術における王子稲荷 ==
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== 文化財 ==
== 文化財 ==
* [[柴田是真]]「額面著色鬼女図」
* [[柴田是真]]「額面著色鬼女図」<ref name="kijozu">[http://www.kanko.city.kita.tokyo.jp/spot/1488-2/ 額面著色鬼女図]</ref>
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== 備考 ==
== 備考 ==
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== 脚注 ==
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* 石川博「三代豊国の「初午の図」をめぐって」『甲斐路 No.77』山梨郷土研究会、1993年
* 石川博「三代豊国の「初午の図」をめぐって」『甲斐路 No.77』山梨郷土研究会、1993年
* {{cite book|和書|title=新編武蔵風土記稿|volume=巻ノ18豊島郡ノ10|chapter=王子村 稲荷社|id={{NDLJP|763978/14}}|publisher=内務省地理局|date=1884-6|ref={{sfnref|新編武蔵風土記稿 王子村 稲荷社}}}}
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== 関連項目 ==
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*[[王子の狐の歴史]]
*[[王子の狐]]
*[[狐火]]
*落語 『[[王子の狐]]』
*落語 『[[王子の狐]]』
*[[乃木神社 (東京都港区)]]
*[[狐火#王子稲荷の狐火]]
*[[乃木神社]]
*テレビドラマ 『[[よろず占い処 陰陽屋へようこそ]]』
*テレビドラマ 『[[よろず占い処 陰陽屋へようこそ]]』


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* [http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/syoukai/20_kita/20002.html 王子稲荷神社] 東京都神社庁
* [http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/kita/5300/ 王子稲荷神社 - 東京都神社庁]
* [http://www.city.kita.tokyo.jp/misc/history/history/da300.htm 北区サイト]
* [http://www.kanko.city.kita.tokyo.jp/spot/375-2/ 王子稲荷神社 | 東京都北区観光ホームページ]
* [http://kitsune.tokyo-oji.jp/ 王子狐の行列の会公式ホームページ]
* [http://kitsune.tokyo-oji.jp/ 王子 狐の行列 公式サイト]
* [http://ojikitune.web.fc2.com/hi-index.html 狐の行列。王子の狐物語。正しい王子の歴史のために]
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[[Category:東京都北区の建築物]]

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王子稲荷神社
王子稲荷神社
拝殿地図
所在地 東京都北区岸町1-12-26
位置 北緯35度45分21.9秒 東経139度44分0秒 / 北緯35.756083度 東経139.73333度 / 35.756083; 139.73333座標: 北緯35度45分21.9秒 東経139度44分0秒 / 北緯35.756083度 東経139.73333度 / 35.756083; 139.73333
主祭神 宇迦之御魂神宇気母智之神和久産巣日神
社格 無格社 関八州稲荷総司 東京八大稲荷
創建 平安時代以前
例祭 2月初午
主な神事 12月31日:狐の行列
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大晦日狐の行列
広重「名所江戸百景」に描かれた王子稲荷。
同じく、「名所江戸百景」王子装束ゑの木大晦日の狐火

王子稲荷神社(おうじいなりじんじゃ)は、東京都北区岸町にある神社である。東国三十三国稲荷総司との伝承を持ち、民話『王子の狐火』や落語『王子の狐』でも有名。

祭神

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摂社

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装束稲荷神社

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概略

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古くは岸稲荷と号した[1]。『新編武蔵風土記稿』巻之十八の豊島郡之十「王子村」によれば、荒川流域が広かった頃、その岸に鎮座した事から名付けられた[2]。また、治承四年に源頼朝より奉納を得たという[2]徳川家康が王子稲荷、王子権現、両社の別当寺であった金輪寺に宥養上人を招いて以降、江戸北域にあって存在を大きくした。

狐火

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江戸砂子』王子稲荷の段に以下のとおり記されている。

狐火おびただし、この火にしたがひて、田畑のよしあしを所の民うらなふことありといふ。
(訳) 狐火がおびただしい。当地の農民はこの火によって田畑の豊凶を占ったりするという。

 狐火にわうじ田畑のよしあしを知らんとここに金輪寺かな

年毎に刻限おなじからず、一時ほどのうちなり。宵にあり、あかつきにありなどして、これを見んために遠方より来るもの空しく帰ること多し、一夜とどまれば必ず見るといへり。
(訳) 狐火の現れる時刻は年によって違うが、1~2時間ほどのことだという。晩に現れることもあれば明け方に現れることもあり、遠方からわざわざ見に来た人も見ずに終わることが多いが、一晩中待機していれば必ず見られるとのこと。

毎年大晦日の夜、諸国のキツネ、社地の東、古榎のあたりにあつまり、装束をあらためるといい、江戸時代狐火で有名であった。

関東八州」の稲荷(参照:稲荷神)の総社と観光紹介されるようになっているが、元来は東国三十三国の稲荷総司の伝承をもっていた。

社伝には「康平年中、源頼義奥州追討のみぎり、深く当社を信仰し、関東稲荷総司とあがむ」 とある。この「関東」を中世以来別当寺金輪寺は、陸奥国まで含む「東国三十三国(参照:出羽三山*歴史項)」と解釈してきた。「三拾三ケ国の狐稲荷の社へ火を燈し来る」との王子神社の縁起絵巻「若一王子(にゃくいちおうじ)縁起」(紙の博物館蔵)の付箋[3]が示す通り江戸中期までは神域に「東国三十三国」の幟、扁額を備えていた。寛政の改革時に幕府行政の上からの干渉を受けて以降、関八州稲荷の頭領として知られるようになった。

「三十三国」とあるが、北陸道東山道東海道を全部あわせても東国は30国しかない。33という数字は全令制国の合計66国を半分にした観念的な数字とする説、平安時代までに廃止された諏訪国石城国石背国を加えたものとする説、当時「蝦夷ヶ島」と総称された渡党(わたりとう)・日本(ひのもと)・唐子(からこ)を加えたとする説などがある。

祭事

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毎月の日が縁日で、2月初午の日、二の午三の午には賑わう。社務所にて火防(ひぶせ)の、守札が出され、境内にも凧を売る店が立つ「凧市」が行われる。始まったのは江戸時代で、江戸に多かった火事を大きくする原因の風を切って高く上がる凧が火難除けのほか無病息災、商売繁盛にご利益があるとされるようになった[4]

大晦日から元日未明にかけては、除夜とともに「大晦日狐の行列」が王子稲荷へ向かう。これは上記の伝承を描いた歌川広重浮世絵「王子装束ゑの木大晦日の狐火」を再現したイベントである[5]

王子稲荷の格式

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『新編武蔵風土記稿』巻之十八 豊島郡之十 にはまた、王子稲荷について「当社は(王子)権現の末社の如く聞こえたれど左にあらず、金輪寺中興宥養(家康と昵懇の間柄の高僧)を王子両社(王子権現と王子稲荷)の別当に補せらると云うに拠っても知らるる」と記している[2]。王子稲荷は江戸市民から神社人気一番を得続けた。

美術における王子稲荷

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江戸時代には王子稲荷は江戸名所として絵画に描かれ、歌川広重は『名所江戸百景』において王子稲荷を描いている。

同じく三代歌川豊国(国貞)には、弘化4年(1848年)から嘉永5年(1852年)の間に出版された三枚続きの浮世絵「王子稲荷初午祭ノ図」がある。これは中央図に「正一位王子稲荷大明神」の(のぼり)が描かれているものの、建物の描き方から実際には王子稲荷を描いたものではなく、甲斐国甲府の名所である甲斐善光寺山梨県甲府市善光寺)を描いた「甲州善光寺境内之図初午」の表題が変えられたものであることが指摘される[6]

文化財

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備考

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  • 明治時代、乃木希典夫妻の崇敬が篤かったことから、1962年に至り、乃木神社に赤坂王子稲荷神社として分霊された。
  • 当社は氏子地域が存在しない。当社所在地は王子神社の氏子地域である。

脚注

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  1. ^ 江戸名所図会 1927, p. 346.
  2. ^ a b c 新編武蔵風土記稿 王子村 稲荷社.
  3. ^ 王子の狐物語・正しい王子の歴史のために”. 王子の里伝承観光舎、王子の小太郎. 2015年3月8日閲覧。
  4. ^ 火事除けに「凧市」王子稲荷神社、7日と19日『産経新聞』朝刊2018年2月3日(東京面)
  5. ^ 王子 狐の行列(2018年2月5日閲覧)
  6. ^ 石川(1993)、p.1
  7. ^ a b 額面著色鬼女図

参考文献

[編集]
  • 石川博「三代豊国の「初午の図」をめぐって」『甲斐路 No.77』山梨郷土研究会、1993年
  • 「王子村 稲荷社」『新編武蔵風土記稿』 巻ノ18豊島郡ノ10、内務省地理局、1884年6月。NDLJP:763978/14 
  • 斎藤長秋 編「卷之五 玉衡之部 王子稲荷社」『江戸名所図会』 3巻、有朋堂書店〈有朋堂文庫〉、1927年、340-341,346-347頁。NDLJP:1174157/175 

関連項目

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外部リンク

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