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'''渡辺栄'''(わたなべ さかえ、[[1933年]][[11月16日]]-)は[[日本中央競馬会]](JRA)に所属した[[騎手]]、[[調教師]]。調教師として[[ジャングルポケット]]、[[フジキセキ]]等を管理した。[[新潟県]]出身。
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'''渡辺 栄'''(わたなべ さかえ、[[1933年]][[11月16日]] - )は、[[日本中央競馬会]] (JRA) に所属した[[騎手]]、[[調教師]]。調教師時代に2001年度[[JRA賞|JRA年度代表馬]][[ジャングルポケット (競走馬)|ジャングルポケット]]、[[桜花賞]]優勝馬[[シャダイソフィア]]、[[朝日杯フューチュリティステークス|朝日杯3歳ステークス]]優勝馬[[フジキセキ]]などを管理した。1989年度[[JRA賞最高勝率調教師]]、1991年度同[[JRA賞最多勝利調教師|最多勝利調教師]]および[[JRA賞優秀技術調教師|優秀技術調教師]]。[[新潟県]]出身。

戸籍上の表記は[[旧字体]]が含まれた'''渡邊 榮'''だが、JRAでは旧字体等での登録が認められていない為、[[新字体]]に修正して登録している。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
1933年、[[新潟県]][[北蒲原郡]][[本田村 (新潟県)|本田村]](現・[[新発田市]])に農家の五男として生まれる。幼少期から農耕馬に親しんで育ち、神事の競馬などにも出場していた。中学校卒業後、[[地方競馬|公営]]・[[草津競馬場]]で見習い騎手となり、[[近畿地方|近畿]]から[[中部地方]]各地の競馬場で活動した。
[[地方競馬|公]]・[[草津競馬]]所属騎手として活動していたが、17歳時に中央競馬で騎手になることを志して所属厩舎から脱走し、飛び込みで[[京都競馬場|京都]][[武田文吾]]厩舎に入門見習い騎手とな。1956年に騎手免許を取得、以後[[調教助手]]と兼任しながら 1976年まで騎手として活動を続けた。通算成績は1942戦129勝重賞勝利なし

1951年7月、[[営競馬]]日本中央競馬会)で騎手になることを志し、出張先の[[京都長岡競馬場]]から脱走。そのまま[[京都競馬場]]に赴き、飛び込みで[[武田文吾]]厩舎に入門、騎手見習いとなった。1956年に中央競馬の騎手免許を取得、以後[[調教助手]]と兼任しながら1976年まで騎手として活動を続けた。[[中央競馬]]での通算成績は1942戦129勝・うち[[重賞]]2(1964年[[タマツバキ記念]]・ハチミドリ、1967年[[アラブ大賞典]]・オペレツタ)

=== 調教師時代 ===
騎手引退後すぐに調教師免許を取得。1978年に独立し、[[滋賀県]][[栗東トレーニングセンター]]に自身の厩舎を開業した。1980年にアスコットロイヤルで[[中京記念]]を制し重賞初勝利を挙げる1983年には武田から紹介を受けていた[[吉田善哉]]の所有馬・[[シャダイソフィア]]が[[桜花賞]]優勝し、[[八大競走]]覇を果たした。同馬預かる際吉田が「100万ドルの馬を預ける」豪語たと


1985年に[[栗東トレーニングセンター]]に[[坂路]]コースが設置されると、坂路設置推進派であった[[戸山為夫]]らにならい、これをいち早く調教に取り入れた。年間10勝前後で推移を続けていた成績は、1988年の22勝を皮切りに急速に上向き、翌1989年には全国7位となる年間31勝、勝率では2割4厘を記録し、当年の最高勝率調教師となる。1991年には年間44勝で全国1位となり、最多勝利調教師と優秀技術調教師を獲得した。1994年には管理馬[[フジキセキ]]が朝日杯3歳ステークスに優勝。吉田善哉が輸入し、以後50頭近くのGI優勝馬を輩出する[[サンデーサイレンス]]の産駒として、これが最初のGI制覇ともなった。
騎手引退後すぐに日本中央競馬会の調教師免許を取得。 1978年に独立して渡辺栄厩舎を開業した。師匠の武田の助力もあり、1980年にアスコットロイヤルで[[中京記念]]を制し[[重賞]]を初勝利。 1982年には[[シャダイソフィア]]が[[桜花賞]]優勝し、[[八大競走]]制した。1989年には[[JRA賞最高勝率調教師]]を、1991年には勝利数で全国1位なり、[[JRA賞最多勝利調教師]]も獲得


その後、勝ち星が徐々に減少をはじめ、1990年代半ばから2000年代までリーディング順位低迷したが、2001年にジャングルポケットで[[東京優駿]](日本ダービー)、[[ジャパンカップ]]制した。
1990年代半ばを境に成績上位からは遠ざかったが、安定して年間20勝以上の成績を維持した。2000年にジャングルポケットで[[札幌2歳ステークス|札幌3歳ステークス]]を制し、調教師としては史上初となるJRA全10競馬場重賞勝利を達成。同馬は翌2001年に[[東京優駿|東京優駿(日本ダービー)]]を制しダービートレーナーとなる。さらに同馬は同年の[[ジャパンカップ]]制し、当年の年度代表馬となった。


2004年2月に定年により調教師を引退。調教師として通算成績4719戦498勝
2004年2月に定年により調教師を引退。当時現役であった[[スイープトウショウ]]など管理馬、同じ武田門下である[[鶴留明雄]]厩舎等に分散して引き継がれた


== 通算成績 ==
== 成績 ==
※調教師としての成績のみ記載する。
※調教師としての成績のみ記載する。
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*初出走 1978年3月5日ツキノベル(3着)
*初出走 1978年3月5日ツキノベル(3着)
*初勝利 1978年7月2日ポットイーグル
*初勝利 1978年7月2日ポットイーグル
*重賞競走29勝(うちGI級競走4勝)


==== 受賞 ====
=== 受賞 ===
*1989年 JRA賞最高勝率調教師、[[優秀調教師賞]](関西)
*1989年 [[JRA賞最高勝率調教師]]、[[優秀調教師賞]](関西)
*1991年 JRA賞最多勝利調教師、[[JRA賞優秀技術調教師]]
*1991年 [[JRA賞最多勝利調教師]]、[[JRA賞優秀技術調教師]]
*1993年 優秀調教師賞(関西)
*1993年 優秀調教師賞(関西)
*1994年 優秀調教師賞(関西)
*1994年 優秀調教師賞(関西)


=== な管理馬 ===
== おもな管理馬 ==
'''太字'''はGI級競走
*[[シャダイソフィア]](1982年[[函館2歳ステークス|函館3歳ステークス]] 1983年桜花賞、[[サファイヤステークス]] 1985年[[阪急杯]])
*アスコットロイヤル(1980年中京記念)
*[[シャダイソフィア]](1982年[[函館2歳ステークス|函館3歳ステークス]]1983年'''桜花賞'''、[[サファイヤステークス]]1985年[[阪急杯]])
*メモリーバイス(1989年[[新潟大賞典]])
*リリーズブーケ(1989年[[サファイヤステークス]])
*[[サマンサトウショウ]](1990年[[エプソムカップ]])
*[[ヌエボトウショウ]](1990年サファイヤステークス 1991年[[朝日チャレンジカップ]] 1992年[[北九州記念]]、[[愛知杯]] 1993年[[京都牝馬ステークス|京都牝馬特別]])
*[[ヌエボトウショウ]](1990年サファイヤステークス 1991年[[朝日チャレンジカップ]] 1992年[[北九州記念]]、[[愛知杯]] 1993年[[京都牝馬ステークス|京都牝馬特別]])
*トウショウバルカン(1991年新潟大賞典)
*[[ワンモアラブウェイ]](1992年[[カブトヤマ記念]] 1993年[[小倉大賞典]])
*[[エリザベスローズ]](1993年[[セントウルステークス]])
*[[エリザベスローズ]](1993年[[セントウルステークス]])
*[[フジキセキ]](1994年[[朝日杯フューチュリティステークス|朝日杯3歳ステークス]] 1995年[[弥生賞]])
*[[フジキセキ]](1994年'''[[朝日杯フューチュリティステークス|朝日杯3歳ステークス]]'''、1995年[[弥生賞ディープインパクト記念|弥生賞]])
*[[ジャングルポケット]](2000年[[札幌2歳ステークス|札幌3歳ステークス]]、2001年東京優駿、ジャパンカップ、[[共同通信杯]])
*[[メモリージャスパー]](1994年[[阪神牝馬ステークス|阪神牝馬特別]])
*マジックキス(1996年[[北九州記念]])
*[[スイープトウショウ]](2003年[[ファンタジーステークス]]) ※渡辺の定年に伴い[[鶴留明雄]]厩舎に移籍
*[[エアウイングス]](1997年阪神牝馬特別)
*トウショウアンドレ(2000年[[中日新聞杯]])
*[[ジャングルポケット (競走馬)|ジャングルポケット]](2000年札幌3歳ステークス、2001年'''東京優駿'''、'''ジャパンカップ'''、[[共同通信杯]])
*[[ミツワトップレディ]](2002年[[クイーンステークス]])
*[[スイープトウショウ]](2003年[[ファンタジーステークス]]) ※渡辺の定年に伴い[[鶴留明雄]]厩舎に移籍。のちにGI競走3勝。


== 関連項目 ==
== 脚注 ==
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*[[角田晃一]](所属騎手)


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*木村幸治『調教師物語』(洋泉社、1997年)ISBN 4896912926
*『[[競馬ブック]]』1999年10月3日号 p.66-67「[[芦谷有香]]の厩舎探訪記-渡辺栄厩舎編」
*『[[競馬ブック]]』1999年10月3日号(株式会社ケイバブック、1999年)「[[芦谷有香]]の厩舎探訪記-渡辺栄厩舎編」
*『[[優駿]]』2001年6月号(日本中央競馬会、2001年)「[[杉本清]]の競馬談義 - ゲスト・渡辺栄調教師」

== 関連項目 ==
*[[角田晃一]](厩舎所属騎手。デビューから渡辺の引退まで厩舎所属で活動を続けた)


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渡辺栄
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 新潟県北蒲原郡本田村
(現・新発田市
生年月日 (1933-11-16) 1933年11月16日(90歳)
騎手情報
所属団体 日本中央競馬会
所属厩舎 武田文吾(1951年 - 引退)
初免許年 1956年
騎手引退日 1976年
重賞勝利 2勝
通算勝利 1942戦129勝
調教師情報
初免許年 1976年(1978年開業)
調教師引退日 2004年(定年)
重賞勝利 29勝
G1級勝利 4勝
通算勝利 4719戦498勝
経歴
所属 栗東トレーニングセンター
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渡辺 栄(わたなべ さかえ、1933年11月16日 - )は、日本中央競馬会 (JRA) に所属した騎手調教師。調教師時代に2001年度JRA年度代表馬ジャングルポケット桜花賞優勝馬シャダイソフィア朝日杯3歳ステークス優勝馬フジキセキなどを管理した。1989年度JRA賞最高勝率調教師、1991年度同最多勝利調教師および優秀技術調教師新潟県出身。

戸籍上の表記は旧字体が含まれた渡邊 榮だが、JRAでは旧字体等での登録が認められていない為、新字体に修正して登録している。

経歴

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1933年、新潟県北蒲原郡本田村(現・新発田市)に農家の五男として生まれる。幼少期から農耕馬に親しんで育ち、神事の競馬などにも出場していた。中学校卒業後、公営草津競馬場で見習い騎手となり、近畿から中部地方各地の競馬場で活動した。

1951年7月、国営競馬(のちの日本中央競馬会)で騎手になることを志し、出張先の京都長岡競馬場から脱走。そのまま京都競馬場に赴き、飛び込みで武田文吾厩舎に入門、騎手見習いとなった。1956年に中央競馬の騎手免許を取得、以後調教助手と兼任しながら、1976年まで騎手として活動を続けた。中央競馬での通算成績は1942戦129勝・うち重賞2勝(1964年タマツバキ記念・ハチミドリ、1967年アラブ大賞典・オペレツタ)。

調教師時代

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騎手引退後すぐに調教師免許を取得。1978年に独立し、滋賀県栗東トレーニングセンターに自身の厩舎を開業した。1980年にアスコットロイヤルで中京記念を制し重賞初勝利を挙げる。1983年には武田から紹介を受けていた吉田善哉の所有馬・シャダイソフィア桜花賞に優勝し、八大競走初制覇を果たした。同馬を預かる際、吉田が「100万ドルの馬を預ける」と豪語したという。

1985年に栗東トレーニングセンター坂路コースが設置されると、坂路設置推進派であった戸山為夫らにならい、これをいち早く調教に取り入れた。年間10勝前後で推移を続けていた成績は、1988年の22勝を皮切りに急速に上向き、翌1989年には全国7位となる年間31勝、勝率では2割4厘を記録し、当年の最高勝率調教師となる。1991年には年間44勝で全国1位となり、最多勝利調教師と優秀技術調教師を獲得した。1994年には管理馬フジキセキが朝日杯3歳ステークスに優勝。吉田善哉が輸入し、以後50頭近くのGI優勝馬を輩出するサンデーサイレンスの産駒として、これが最初のGI制覇ともなった。

1990年代半ばを境に成績上位からは遠ざかったが、安定して年間20勝以上の成績を維持した。2000年にはジャングルポケットで札幌3歳ステークスを制し、調教師としては史上初となるJRA全10競馬場重賞勝利を達成。同馬は翌2001年に東京優駿(日本ダービー)を制し、ダービートレーナーとなる。さらに同馬は同年のジャパンカップも制し、当年の年度代表馬となった。

2004年2月に定年により調教師を引退。当時現役であったスイープトウショウなどの管理馬は、同じ武田門下である鶴留明雄厩舎等に分散して引き継がれた。

成績

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※調教師としての成績のみ記載する。

通算成績 1着 2着 3着 4着以下 出走回数 勝率 連対率
平地 489 414 420 3,323 4,646 .105 .194
障害 9 8 6 50 73 .123 .233
498 422 426 3,373 4,719 .106 .195
  • 初出走 1978年3月5日ツキノベル(3着)
  • 初勝利 1978年7月2日ポットイーグル

受賞

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おもな管理馬

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太字はGI級競走

脚注

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参考文献

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  • 木村幸治『調教師物語』(洋泉社、1997年)ISBN 4896912926
  • 競馬ブック』1999年10月3日号(株式会社ケイバブック、1999年)「芦谷有香の厩舎探訪記-渡辺栄厩舎編」
  • 優駿』2001年6月号(日本中央競馬会、2001年)「杉本清の競馬談義 - ゲスト・渡辺栄調教師」

関連項目

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  • 角田晃一(厩舎所属騎手。デビューから渡辺の引退まで厩舎所属で活動を続けた)