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'''李世哲'''(り せいてつ、生年不詳 - [[524年]])は、[[北魏]]の[[軍人]]。[[本貫]]は[[頓丘郡]]。
'''李 世哲'''(り せいてつ、生年不詳 - [[524年]])は、[[北魏]]の[[軍人]]。[[本貫]]は[[頓丘郡]][[清豊県|衛国県]]。弟は[[李神軌]]。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
[[李崇 (陳留公)|李崇]]の長男として生まれた。性格は軽率で、供回りは派手で贅沢だった。若くして征戦を経験し、将才のあるところを見せた。司徒中兵参軍を初任とし、抜擢されて征虜将軍・驍騎将軍となった。まもなく[[後将軍]]に転じ、三関別将となった。[[514年]]([[延昌 (北魏)|延昌]]3年)、少数民族の反乱を討ってこれを撃破し、[[梁 (南朝)|南朝梁]]の龍驤将軍の文思之や文天生を斬った<ref>『[[魏書]]』世宗紀延昌3年3月の条</ref>。[[洛陽]]に召還されて鴻臚少卿に任じられた。性格は狡猾で、人に良く仕え、賄賂を使って出世した。[[高肇]]や[[劉騰]]が北魏の朝廷で権勢をふるうと、世哲はかれらと親しくつきあったことから、当時の世間に「李錐」と呼ばれた。[[孝明帝]]の末年、[[宗正|宗正卿]]に転じ、平南将軍の号を加えられた。平南将軍のまま[[大司農|大司農卿]]に転じた。さらに[[太僕|太僕卿]]に転任し、鎮東将軍の号を加えられた。まもなく鎮東将軍のまま[[相州]][[刺史]]として[[ギョウ|鄴]]に出向した。世哲が相州に着任すると、零細民を追い出したり、仏寺を移したり、強迫をもってその土地を買うと、自らの広壮な邸宅を営んだ。李崇の北伐の後、世哲は洛陽に召還されて[[太常|太常卿]]を兼ねた。御史[[高恭之]]が世哲の自宅を捜索して、その罪を上表した。後に世哲は鎮西将軍・[[涇州]]刺史に任じられ、衛国子の爵位を受けた。[[524年]]([[正光]]5年)7月、死去した。衛国子のまま[[散騎常侍]]・[[衛将軍]]・吏部尚書・[[冀州]]刺史の位を追贈された。
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== 脚注 ==
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== 伝記資料 ==
== 伝記資料 ==
* 『魏書』巻66 列伝第54
* 『[[魏書]]』巻66 列伝第54
* 『[[北史]]』巻43 列伝第31
* 『[[北史]]』巻43 列伝第31



2019年10月2日 (水) 03:03時点における版

李 世哲(り せいてつ、生年不詳 - 524年)は、北魏軍人本貫頓丘郡衛国県。弟は李神軌

経歴

李崇元恭皇后の兄の李誕の子)の長男として生まれた。性格は軽率で、供回りは派手で贅沢だった。若くして征戦を経験し、将才のあるところを見せた。司徒中兵参軍を初任とし、抜擢されて征虜将軍・驍騎将軍となった。まもなく後将軍に転じ、三関別将となった。514年延昌3年)、少数民族の反乱を討ってこれを撃破し、南朝梁の龍驤将軍の文思之や文天生を斬った[1]洛陽に召還されて鴻臚少卿に任じられた。性格は狡猾で、人に良く仕え、賄賂を使って出世した。高肇劉騰が北魏の朝廷で権勢をふるうと、世哲はかれらと親しくつきあったことから、当時の世間に「李錐」と呼ばれた。孝明帝の末年、宗正卿に転じ、平南将軍の号を加えられた。平南将軍のまま大司農卿に転じた。さらに太僕卿に転任し、鎮東将軍の号を加えられた。まもなく鎮東将軍のまま相州刺史としてに出向した。世哲が相州に着任すると、零細民を追い出したり、仏寺を移したり、強迫をもってその土地を買うと、自らの広壮な邸宅を営んだ。李崇の北伐の後、世哲は洛陽に召還されて太常卿を兼ねた。御史高恭之が世哲の自宅を捜索して、その罪を上表した。後に世哲は鎮西将軍・涇州刺史に任じられ、衛国子の爵位を受けた。524年正光5年)7月、死去した。衛国県子のまま散騎常侍・衛将軍・吏部尚書・冀州刺史の位を追贈された。

脚注

  1. ^ 魏書』世宗紀延昌3年3月の条

伝記資料