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「尼」の版間の差分

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2010年6月5日 (土) 00:26時点における版

(あま)、または尼僧(にそう)とは、20歳以上の未婚、もしくは結婚経験があっても沙弥尼(しゃみに)の期間を経て出家した女性のこと。比丘尼(びくに)とも呼ばれる。キリスト教修道女も尼と称することがある。

女性が髪を肩のあたりで切ったのを尼削(あまそぎ)というが、そのような髪形の童女を尼という場合がある。また近世以降少女または女性をいやしめて呼ぶときにも尼という語を用いた。

尼の語源

尼の語源は、サンスクリット語の「善良な女性」を意味するambaaの俗語形の音写ではないかと考えられる。本来は比丘尼 (サンスクリット:bhikSuNii) のことであり、男子の出家修行者(比丘=びく)に対して、女性の出家修行者をいう。 伝承では、最初の比丘尼は釈迦の養母の摩訶波闍波提 (まかはじゃはだい、mahaaprajaapatii)と500人の釈迦族の女性たちであった。釈迦ははじめ女性の出家を許さなかったが、彼女たちの熱意と阿難のとりなしによって、比丘を敬い、罵謗したりしないなど8つの事項を守ることを条件に、女性の出家を認めたという。これにより釈迦の元妻である耶輸陀羅(やしょたら、ヤソーダラー)、大迦葉のかつての妻である妙賢(バドラー・カピラーニ)、ビンビサーラ王の妃であった差摩(さま、ケーマ)、蓮華色比丘尼(ウッパラヴァンナー)など次々と出家し尼僧集団が形成された。

日本の尼

日本では一般に、出家得度して剃髪し染衣をつけ、尼寺にあって修行する女性をさす。尼入道、尼女房、尼御前(あまごぜ)、尼御台などと呼ばれた。

日本最初の尼は、584年蘇我馬子が出家させた司馬達等の娘・善信尼ら3人である。彼女たちは百済にわたって戒法を学び、590年に帰国して、桜井寺に住した。仏教伝来の当初、尼は神まつりする巫女と同じ役割を果たしたと思われる。741年(天平13年)、聖武天皇の発願で国分寺が諸国に設けられたが、同時に国分尼寺も置かれた。しかし、鎮護国家の思想が強まるにつれて僧侶の持戒を重んじる立場から、尼を含めて女性が仏教に接することを厭う風潮が生まれた。そのため、尼に対する授戒は拒絶され[1]、当時大勢の尼が存在しながら、仏教界においては僧侶としては否認されるという扱いが長く続く事になる[2]。これに対して淳和天皇皇后であった正子内親王が女性のための戒壇(尼戒壇')を作ろうとするが反対に遭って果たせず、一条天皇中宮であった藤原彰子藤原道長の娘)が自身の出家を機に道長が建てた法成寺に尼戒壇を設置した(万寿4年(1027年))が、同寺の荒廃とともに失われた。中世には貴族出身者は「さげ尼」と称して、髪を肩の辺りで削いで「尼」となることができた(勿論、授戒が受けられないために正式な尼にはなれない)。それ以降この風習が一般に広まり、夫と死別したり、離婚したり、老婆となった時など、姿かたちだけ「尼」となった。源頼朝妻の北条政子は落飾後に藤原頼経の後見として権勢を振い、「尼将軍」と呼ばれた。

鎌倉仏教は、従来の女性軽視の立場を反省し、女性の救済を説いたが、法然は、当時愚か者の代名詞の観すらあった尼入道に深い理解を示した。また、叡尊もかつての国分尼寺の総本山であった法華寺再興の際に同寺に尼戒壇を設置した(建長元年(1249年[3]))。彼の真言律宗の布教の影響によって次第に尼への受戒が許容されるようになった。鎌倉室町時代には、京都鎌倉尼五山が定められた。

民間の巫女は修験の山伏夫婦になって祈祷や託宣を行ったが、剃髪の風習が巫女にも及び、修験巫女は比丘尼とよばれた。このような比丘尼は各地を遊行し、これを背景に八百比丘尼伝説が生まれた。 熊野信仰を各地に広めた熊野比丘尼は六道図や熊野曼荼羅などを絵解きし、江戸時代に入ると宴席にはべる歌比丘尼となり、売春婦に転落するものもいた。

尼は日本仏教のほぼ全ての宗派に置かれたが明治維新以降は儒教的な家父長制の価値観が旧武士階層以外にも広まり、これに加えて国粋主義も台頭した昭和期には日蓮正宗のように尼を廃止した例もある。

脚注

  1. ^ 当時、天下の三戒壇と呼ばれた東大寺薬師寺観世音寺はいずれも女子の授戒を認めておらず、また平安時代に戒壇設置を認められた延暦寺も同様であった。当時の朝廷は戒壇以外での授戒は禁じていた。
  2. ^ 尼の存在自体が否認される以上、国分尼寺も存立の根拠を失い、そのほとんどが国分寺よりも早い時期に廃絶したり同寺に併合されることになった。
  3. ^ 同年2月6日に12名の尼への授戒を行ったという

参考文献

関連項目