大韓帝国軍
大韓帝國軍 | |
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大韓帝国軍の徽章 | |
創設 | 1897年(光武元年) |
解散 | 1907年(隆熙元年) |
派生組織 |
大韓帝国陸軍 大韓帝国海軍 商務営 扈衛隊 訓錬隊 侍衛隊 憲兵隊 親衛隊 鎮衛隊 |
指揮官 | |
大元帥 |
高宗 純宗 |
総人員 | |
徴兵制度 | 志願制度 |
大韓帝国軍 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 대한제국군 |
漢字: | 大韓帝國軍 |
日本語読み: | だいかんていこくぐん |
大韓帝国軍(だいかんていこくぐん)は、大韓帝国の国軍である。皇帝の統帥権の下に置かれた。兵役制度は志願制度であった。
概要
李氏朝鮮は1894年から1895年にかけて行われた急進的な近代化改革、甲午改革により旧態依然とした朝鮮軍の刷新に取りかかった。1895年2月12日(開国504年1月18日)、親軍四營兵士の中から選抜され楠瀬幸彦ら日本人軍事顧問を教官とする訓練隊が設立された。続いて5月には、アメリカ人やロシア人を教官とし徳寿宮や皇帝の護衛を担う親衛隊と、更にそこからの選抜人員で侍衛隊が編成された。10月に起こった乙未事変によって侍衛隊は訓練隊に吸収されたが、訓練隊も間もなく閔妃殺害の責任をとって解散させられ、親衛隊と鎮衛隊に改編された。1897年1月にロシアの支援で侍衛隊が復活。10月に国号は大韓帝国と改められ、大韓帝国軍は親衛隊、中央軍たる侍衛隊、地方軍たる鎮衛隊の三つの部隊でスタートすることとなった。
1899年、大韓帝国の基本法典である「大韓国国制」第5条によると「大韓国大皇帝におかれては、国内陸海軍を統率し、編制を定め、戒厳解戒を命ずる。」とし、大日本帝国軍に倣った国軍を編成することになっていた。しかし日本軍とは異なり徴兵制度を採用せず、李氏朝鮮時代以来の志願制を採用していた。法制上の兵力は約9000人であった。
1902年、親衛隊は侍衛隊と統合され、2個連隊からなる侍衛渾成旅団が成立。一方、鎮衛隊は1900年9月より全国的編成を展開し、最盛期には6個連隊2万人程度の兵力を有していたが、日露戦争以降8個大隊に縮小された[1]。
解散
1907年(光武11年)7月24日に結ばれた第三次日韓協約に伴う秘密協定(付属覚書)に軍隊解散の規定があった[2]。8月1日、夜明け前から激しい雨が降っていたが、大韓帝国軍将校は非常呼集により、各部隊に配属されていた日本軍将校にともなわれ朝鮮駐箚軍司令官(長谷川好道)官邸の一室に集合させられた。官邸の周囲は武装した日本軍兵士が包囲し、事情を知らない朝鮮人将校たちの前に長谷川好道とともに現れた軍部大臣の李秉武が大韓帝国軍の解散を命じる純宗の詔勅を突然に告げた[3]。
長谷川好道の指示により、大韓帝国軍の一般の兵士は全員が東大門近くの練兵場「訓錬院(フンリョンウォン)」の広場に集められた。2000人を超える兵士が恩給支給と徒手訓練の名目で銃を持たされずに集合したが、これも銃剣で武装した日本軍が包囲した。軍部協弁(次官)の韓鎮昌が軍の解散と恩給の支給[4]を告げたが、兵士の間には動揺が広がった[5]。
侍衛隊第一連隊第一大隊長の朴昇煥は、不吉な予感から病を理由に官邸にも訓練院にも出頭せず、隣接する第二連隊長の具義善(片野2010では呉義善)もそれにならった[6]。朴昇煥は閔妃殺害以来、日本軍への復讐を考えており、部下たちもそれを知っていた。訓練院での騒動を知った朴昇煥は大韓帝国軍が解散となれば本懐を遂げられぬと察し、呼び出しに来た日本軍将校の前で拳銃により自決した。隊長の殉死を知って激昂した兵士たちは武器庫に殺到するとすばやく武装を固め、第二連隊、訓練院にいた兵士たちもこれに集合し、約600名となった兵士たちは兵営を包囲する日本軍とたちまち銃撃戦になった[7][8]。
包囲を突破した大韓帝国軍の兵士たちは鐘路から南大門方面に向かったが、ホチキス機関銃を前面に出した日本軍に対し、大韓帝国軍側の兵士たちの弾薬が尽き旧式銃が降雨の中で発火しなくなると激しい白兵戦となった。大韓帝国軍兵士は制圧され逃亡したが、日本軍は逃げ込んだ民家などをしらみつぶしに探索し、この日、朝鮮側は68名が射殺、100名余が負傷、500余名が捕縛された。日本側は梶原義久歩兵大尉(歩兵第五十一聯隊第三大隊第九中隊長[9])以下、3名死亡、27名が負傷した[7][10]。
この南大門の戦いは、漢城府が首都となって朝鮮王朝が終わるまでの唯一の戦闘となった。
1907年8月1日に国軍としての大韓帝国軍は解散され、数日後、各地の分遣部隊の解散が行われた。しかし武装解除を拒んだ元将兵の一部は丁未義兵など各地で暴動を起こし、武力による抗日運動である義兵闘争に参加した。旧大韓帝国軍の蜂起は各地で続き、義兵化した民間人などによる抵抗活動も行われ、抵抗は日韓併合後の1914年頃に鎮圧されるまで続いた[11]。
解体された大韓帝国軍は皇帝を護衛する小規模な近衛兵として「近衛歩兵隊」及び「近衛騎兵隊」に再編成された[12]。後身である近衛騎兵隊及び近衛歩兵隊は日韓併合後も「朝鮮歩兵隊」「朝鮮騎兵隊」として存続していたが、徐々に縮小され1930年に完全に廃止された。(詳細は近衛兵#日本統治下の朝鮮)
この他の存続組織として、侍衛軍楽隊は併合後李王職洋楽隊に改編されたが、1915年に解散させられた[13]。
組織
以下、注釈のない限り勅令第6号『軍部官制』(光武9年2月22日)、『韓国駐箚軍 韓国軍隊解散に関する件』(1907年8月2日)[14]、および『承政院日記3206冊』[15]に基づく最終編成を示す。義兵参加者は太字。
この他、陸海軍を統括する機関として元帥府があったが、1904年に廃止。
- 軍部(国防省に相当)次官:韓鎮昌
- 侍従武官府(侍従武官長:趙東潤副将[19])
- 陪従武官府(陪従武官長:李根沢副将)
- 将官会議所
- 憲兵司令部(局長:厳俊源参将、憲兵隊長:張鳳煥副領)
- 憲兵部
- 陸軍法院
- 研成学校(校長:金昇圭参将)
- 武官学校(校長:盧伯麟正領)
- 幼年学校
- 軍器廠(廠長:金鼎禹副領[20])
- 衛生隊
- 侍衛渾成旅団司令部(旅団長:梁成煥参将[21]、参謀官:朴栄喆参領)
- 鎮衛歩兵隊
階級
韓国軍人 | 日本軍人 | |
---|---|---|
将校 | 陸軍大元帥 | 陸軍大元帥 |
陸軍副元帥 | なし(廃止) | |
陸軍大将 | 陸軍大将 | |
陸軍副将 | 陸軍中将 | |
陸軍参将 | 陸軍少将 | |
陸軍○○正領 | 陸軍○○大佐 | |
陸軍○○副領 | 陸軍○○中佐 | |
陸軍○○参領 | 陸軍○○少佐 | |
陸軍○○正尉 | 陸軍○○大尉 | |
陸軍○○副尉 | 陸軍○○中尉 | |
陸軍○○参尉 | 陸軍○○少尉 | |
下士 | 陸軍○○特務正校 | 陸軍○○特務曹長 |
陸軍○○正校 | 陸軍○○曹長 | |
陸軍○○副校 | 陸軍○○軍曹 | |
陸軍○○参校 | 陸軍○○伍長 | |
兵卒 | 陸軍○○上等兵 | 陸軍○○上等兵 |
陸軍○○一等卒 | 陸軍○○一等卒 | |
陸軍○○二等卒 | 陸軍○○二等卒 |
海軍艦艇
出典
- ^ “鎮衛隊” (朝鮮語). 国史編纂委員会-我が歴史ネット. 2017年10月7日閲覧。
- ^ 朝鮮王朝史(下) 2006
- ^ 片野次雄 日韓併合 2010, p. 27.
- ^ 下士官が80円、兵卒が50円、一年未満の兵卒が25円
- ^ 片野次雄 日韓併合 2010, p. 28.
- ^ 片野次雄 2010, p. 28
- ^ a b 朝鮮王朝史(下) 2006.
- ^ 片野次雄 日韓併合 2010, p. 29.
- ^ 京城発達史 1912, p. 201-205.
- ^ 片野次雄 日韓併合 2010, p. 30.
- ^ 片野次雄 日韓併合 2010, p. 32.
- ^ 早坂隆 愛国者がテロリストになった日 2015, p. 126.
- ^ “芸術家を探して~洋楽パイオニア白禹鏞の子孫「指揮棒は虎のように恐ろしく楽だ」(藝家를 찾아서 서양음악 선구자 백우용의 후손들“지휘봉 들면 호랑이같이 무섭게 변해” )”. 月刊朝鮮. (2017年6月10日) 2017年10月6日閲覧。
- ^ “韓国駐箚軍 韓国軍隊解散に関する件”. JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C03022884200、密大日記 明治40年(防衛省防衛研究所). 2017年10月7日閲覧。
- ^ “卿 閔丙奭 未受勅。 丞 尹悳榮 進尹憲燮 進李文求 進趙善九 直李佖柱 進。 郎 許萬弼 進朴海昌 進金鶴秀 直金哲洙 未受勅。承政院日記3206冊(脱草本141冊)、高宗44年3月18日己酉” (朝鮮語). 国史編纂委員会. 2017年10月7日閲覧。
- ^ “李煕斗などに官職を除授(이희두 등에게 관직을 제수하다)高宗実録48巻、高宗44年6月9日” (朝鮮語). 国史編纂委員会. 2017年10月7日閲覧。
- ^ “申載永を內藏院卿に任命(신재영을 내장원 경에 임명하다)高宗実録45巻、高宗42年3月1日” (朝鮮語). 国史編纂委員会. 2017年10月7日閲覧。
- ^ “承政院日記3207冊(脱草本141冊)、高宗44年4月3日己酉” (朝鮮語). 国史編纂委員会. 2017年10月12日閲覧。
- ^ “閔泳韶を太醫院卿に任命(민영소를 태의원 경에 임명하다)高宗実録48巻、高宗44年3月18日” (朝鮮語). 国史編纂委員会. 2017年10月7日閲覧。
- ^ “韓国史データベース 金鼎禹” (朝鮮語). 国史編纂委員会. 2017年10月7日閲覧。
- ^ “梁成煥を侍衛渾成旅団長に任命(양성환을 시위 혼성 여당장에 임명하다)高宗実録48巻、高宗44年4月30日” (朝鮮語). 国史編纂委員会. 2017年10月7日閲覧。
- ^ “金德濟” (朝鮮語). 国史編纂委員会. 2017年10月7日閲覧。
参考文献
- 金 容権 (2006), 朝鮮王朝史(下), 日本評論社, ISBN 4535582998
- 片野次雄 (2010), 日韓併合―李朝滅亡・抵抗の記憶と光復, 彩流社, ISBN 4779115590
- 早坂 隆 (2015), 愛国者がテロリストになった日 安重根の真実, PHP研究所, ISBN 4569824439
- 京城居留民団 (1912-06-30), 京城発達史, 京城居留民団, NDLJP:1920125
外部リンク
- 朝鮮後期主要軍営沿革表 - ウェイバックマシン(2014年8月31日アーカイブ分)
- 軍部官制沿革 - ウェイバックマシン