「亀田綾瀬」の版間の差分
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儒学者・[[亀田鵬斎]]の一子として[[江戸]]に生まれる。学問を父に承け、学塾・学経堂を設けて子弟を教えた。最初は[[浅草]]の蔵前に、のちには[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]本材木町に開塾し、晩年には[[深川区|深川]]に移る<ref name="#1">{{Cite book|和書|author=村山吉廣|year=2002|title=評伝・中島敦|publisher=中央公論新社|page=33}}</ref>。藩主[[久世氏]]に招かれ[[関宿藩]]の藩校・教倫館の儒官となっている。嘉永6年(1853年)4月14日に死去。享年76。墓は[[台東区]][[今戸]][[称福寺 (台東区)|称福寺]]。後継者は養子の亀田鶯谷。門弟として[[芳野金陵]]・圓山北溟・並木爽山・出井貞順・新井稲亭・[[中島撫山]]らがいる。 |
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「身の丈五尺四五寸、白髪隆準、温顔の中、眼光人を射るを覚ゆ」と弟子の一人に伝えられる<ref name="#1"/>。父・鵬斎が豪快な人柄であったのに対し、綾瀬は温厚篤実の君子として知られ、学問・文章ともに優れ、書は草体に巧みであった<ref>{{Cite book|和書|author=村山吉廣|year=2002|title=評伝・中島敦|publisher=中央公論新社|page=34}}</ref>。 |
「身の丈五尺四五寸、白髪隆準、温顔の中、眼光人を射るを覚ゆ」と弟子の一人に伝えられる<ref name="#1"/>。父・鵬斎が豪快な人柄であったのに対し、綾瀬は温厚篤実の君子として知られ、学問・文章ともに優れ、書は草体に巧みであった<ref>{{Cite book|和書|author=村山吉廣|year=2002|title=評伝・中島敦|publisher=中央公論新社|page=34}}</ref>。 |
2024年11月3日 (日) 13:19時点における最新版
亀田 綾瀬(かめだ りょうらい、安永7年7月10日(1778年8月2日) - 嘉永6年4月14日(1853年5月21日))は、江戸時代末期の日本の儒学者。名は長梓、字は木主、通称は三蔵である。
概略
[編集]儒学者・亀田鵬斎の一子として江戸に生まれる。学問を父に承け、学塾・学経堂を設けて子弟を教えた。最初は浅草の蔵前に、のちには日本橋本材木町に開塾し、晩年には深川に移る[1]。藩主久世氏に招かれ関宿藩の藩校・教倫館の儒官となっている。嘉永6年(1853年)4月14日に死去。享年76。墓は台東区今戸称福寺。後継者は養子の亀田鶯谷。門弟として芳野金陵・圓山北溟・並木爽山・出井貞順・新井稲亭・中島撫山らがいる。
「身の丈五尺四五寸、白髪隆準、温顔の中、眼光人を射るを覚ゆ」と弟子の一人に伝えられる[1]。父・鵬斎が豪快な人柄であったのに対し、綾瀬は温厚篤実の君子として知られ、学問・文章ともに優れ、書は草体に巧みであった[2]。
著書
[編集]- 『綾瀬先生遺文』(嘉永7年(1854年))
- 『学経堂文集』(未刊)