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'''久留島 通胤'''('''くるしま みちたね'''、[[文政]]11年([[1828年]]) - [[安政]]6年[[11月30日 (旧暦)|11月30日]]([[1859年]][[12月23日]]))は、[[豊後国]][[森藩]]の第11代藩主。第8代藩主・[[久留島通嘉]]の子。第9代藩主・[[久留島通容]]と第10代藩主・[[久留島通明]]の弟。官位は従五位下、[[信濃国|信濃]]守。 |
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[[1852年]]2月16日、兄で先代藩主の通明が病を理由に隠居したため、その後を継いだ。翌年、[[マシュー・ペリー|ペリー]]の来航で国内が混乱すると、通胤は[[江戸幕府|幕府]]に対して諸藩の意見を広く求めるべき、と薦めている。しかしそれが原因で幕府に疎まれ始め、[[1854年]]に勤王的な藩士2名が脱藩すると、幕府から嫌疑をかけられることを恐れて老臣5名を辞任させ、幕府に謝罪するなど、開明的ではあったが小藩さながらの力の無さを露呈させてしまった。1859年11月、32歳で死去し、子の[[久留島通靖]]が後を継いだ。法号は叡泰院。 |
[[1852年]]2月16日、兄で先代藩主の通明が病を理由に隠居したため、その後を継いだ。翌年、[[マシュー・ペリー|ペリー]]の来航で国内が混乱すると、通胤は[[江戸幕府|幕府]]に対して諸藩の意見を広く求めるべき、と薦めている。しかしそれが原因で幕府に疎まれ始め、[[1854年]]に勤王的な藩士2名が脱藩すると、幕府から嫌疑をかけられることを恐れて老臣5名を辞任させ、幕府に謝罪するなど、開明的ではあったが小藩さながらの力の無さを露呈させてしまった。1859年11月、32歳で死去し、子の[[久留島通靖]]が後を継いだ。法号は叡泰院。 |
2006年6月9日 (金) 14:21時点における版
久留島 通胤(くるしま みちたね、文政11年(1828年) - 安政6年11月30日(1859年12月23日))は、豊後国森藩の第11代藩主。第8代藩主・久留島通嘉の子。第9代藩主・久留島通容と第10代藩主・久留島通明の弟。官位は従五位下、信濃守。
1852年2月16日、兄で先代藩主の通明が病を理由に隠居したため、その後を継いだ。翌年、ペリーの来航で国内が混乱すると、通胤は幕府に対して諸藩の意見を広く求めるべき、と薦めている。しかしそれが原因で幕府に疎まれ始め、1854年に勤王的な藩士2名が脱藩すると、幕府から嫌疑をかけられることを恐れて老臣5名を辞任させ、幕府に謝罪するなど、開明的ではあったが小藩さながらの力の無さを露呈させてしまった。1859年11月、32歳で死去し、子の久留島通靖が後を継いだ。法号は叡泰院。