「中島登」を編集中
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[[元治]]元年([[1864年]])、新選組に入隊。[[近藤勇]]の命で武州・[[甲斐国|甲州]]・[[相模国|相模]]の地理調査等を秘密裏に行っていたといわれる。[[慶応]]3年([[1867年]])、新選組伍長に就任。慶応4年[[4月3日 (旧暦)|4月3日]]([[1868年]][[4月25日]])、流山で近藤が新政府軍に投降した際には、同行役の[[薩摩藩]]士・[[有馬藤太]]を追尾したが、監視は厳しく虚しく帰った。 |
[[元治]]元年([[1864年]])、新選組に入隊。[[近藤勇]]の命で武州・[[甲斐国|甲州]]・[[相模国|相模]]の地理調査等を秘密裏に行っていたといわれる。[[慶応]]3年([[1867年]])、新選組伍長に就任。慶応4年[[4月3日 (旧暦)|4月3日]]([[1868年]][[4月25日]])、流山で近藤が新政府軍に投降した際には、同行役の[[薩摩藩]]士・[[有馬藤太]]を追尾したが、監視は厳しく虚しく帰った。 |
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[[土方歳三]]や[[島田魁]]ら数名の新選組隊士らと共に、[[大鳥圭介]]ら旧幕府軍と合流して[[宇都宮の戦い]]・[[日光口の戦い]]・[[会津戦争]]に転戦(登は、会津戦争で重傷を負った[[彰義隊]]隊士・[[大島清慎]]を救護所まで運んだと言う)。[[ |
[[土方歳三]]や[[島田魁]]ら数名の新選組隊士らと共に、[[大鳥圭介]]ら旧幕府軍と合流して[[宇都宮の戦い]]・[[日光口の戦い]]・[[会津戦争]]に転戦(登は、会津戦争で重傷を負った[[彰義隊]]隊士・[[大島清慎]]を救護所まで運んだと言う)。[[仙台]]で更に[[榎本武揚]]ら旧[[幕府海軍]]と合流して[[蝦夷地]]へ渡る。[[箱館戦争]]では[[弁天台場]]第2分隊嚮導役となった。 |
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明治2年[[5月15日 (旧暦)|5月15日]]([[1869年]][[6月24日]])、降伏。弁天台場で謹慎後に青森に送検され、同[[6月9日 (旧暦)|6月9日]]([[7月17日]])に[[弘前藩]]、[[7月21日 (旧暦)|7月21日]]([[8月28日]])、青森へ戻り、3ヶ月謹慎。[[10月24日 (旧暦)|10月24日]]([[11月27日]])、弁天台場に戻り、約5ヶ月謹慎した。明治3年([[1870年]])5月上旬、[[駿府藩|静岡藩]]お預けになり、中旬には赦免。多摩に帰還する。 |
明治2年[[5月15日 (旧暦)|5月15日]]([[1869年]][[6月24日]])、降伏。弁天台場で謹慎後に青森に送検され、同[[6月9日 (旧暦)|6月9日]]([[7月17日]])に[[弘前藩]]、[[7月21日 (旧暦)|7月21日]]([[8月28日]])、青森へ戻り、3ヶ月謹慎。[[10月24日 (旧暦)|10月24日]]([[11月27日]])、弁天台場に戻り、約5ヶ月謹慎した。明治3年([[1870年]])5月上旬、[[駿府藩|静岡藩]]お預けになり、中旬には赦免。多摩に帰還する。 |