「ヘンリー・シーモア・コンウェイ」の版間の差分
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*[[オーストリア継承戦争]] |
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**[[ヴィルヘルムスタールの戦い]] |
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'''ヘンリー・シーモア・コンウェイ'''[[元帥 (イギリス)|元帥]]({{lang-en|Henry Seymour Conway}}、[[1721年]] - [[1795年]][[7月9日]])は、[[グレートブリテン王国]]の軍人、政治家。[[フランシス・シーモア=コンウェイ (初代ハートフォード侯爵)|初代ハートフォード侯爵]]の弟、[[ホレス・ウォルポール]]のいとこであり、[[オーストリア継承戦争]]で軍歴をはじめた後、{{仮リンク|アイルランド |
'''ヘンリー・シーモア・コンウェイ'''[[元帥 (イギリス)|元帥]]({{lang-en|Henry Seymour Conway}}、[[1721年]] - [[1795年]][[7月9日]])は、[[グレートブリテン王国]]の軍人、政治家。[[フランシス・シーモア=コンウェイ (初代ハートフォード侯爵)|初代ハートフォード侯爵]]の弟、[[ホレス・ウォルポール]]のいとこであり、[[オーストリア継承戦争]]で軍歴をはじめた後、{{仮リンク|アイルランド主席政務官|en|Chief Secretary for Ireland}}、[[南部担当国務大臣]]、[[庶民院院内総務]]、[[北部担当国務大臣]]を歴任した。晩年は{{仮リンク|イギリス軍最高司令官|en|Commander-in-Chief of the Forces}}を務めた。 |
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== 出自 == |
== 出自 == |
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コンウェイは |
コンウェイは[[フランシス・シーモア=コンウェイ (初代コンウェイ男爵)|初代コンウェイ男爵フランシス・シーモア=コンウェイ]](コンウェイ男爵の兄{{仮リンク|ポパム・シーモア=コンウェイ|en|Popham Seymour-Conway}}は{{仮リンク|コンウェイ伯爵|en|Earl of Conway}}家の遺産を継承した)と3人目の妻シャーロット(旧姓ショーター)の次男として生まれた<ref name="ODNB">{{Cite ODNB|id=6122|title=Conway, Henry Seymour (1719–1795)|first=Clive|last=Towse|date=23 September 2004}}</ref>。1732年に[[イートン・カレッジ]]に入学、そのときからいとこの[[ホレス・ウォルポール]]と親しい間柄になった<ref name="ODNB" />。 |
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== 初期の軍歴 == |
== 初期の軍歴 == |
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1737年6月27日、[[中尉]]として{{仮リンク|第5王立アイルランドランサー連隊|en|5th Royal Irish Lancers|label=モル |
1737年6月27日、[[中尉]]として{{仮リンク|第5王立アイルランドランサー連隊|en|5th Royal Irish Lancers|label=モールズワースの竜騎兵連隊}}に入隊した{{sfn|Heathcote|1999|p=92}}。1741年2月14日、[[グレナディアガーズ|第1近衛歩兵連隊]]に移籍して{{仮リンク|大尉 (イギリス陸軍と海兵隊)|en|Captain (British Army and Royal Marines)|label=大尉}}に昇進、1742年5月10日に[[中佐]]({{lang|en|captain-lieutenant}})に昇進した{{sfn|Heathcote|1999|p=92}}。 |
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[[オーストリア継承戦争]]では[[ジョージ・ウェイド]]元帥の下で1743年6月の[[デッティンゲンの戦い]]に参戦、1745年5月には[[ウィリアム・オーガスタス (カンバーランド公)|カンバーランド公爵ウィリアム・オーガスタス]]の下で[[フォントノワの戦い]]に参戦した{{sfn|Heathcote|1999|p=93}}。1746年4月6日に{{仮リンク|第48ノーサンプトンシャー歩兵連隊|en|48th (Northamptonshire) Regiment of Foot|label=第48歩兵連隊}}長に任命された後、16日に[[1745年ジャコバイト蜂起]]における[[カロデンの戦い]]に参戦した{{sfn|Heathcote|1999|p=93}}。続いて1747年7月に[[ラウフフェルトの戦い]]に参戦、瀕死の重傷を負ってフランス軍の捕虜になったが、数日後に[[仮釈放]]された{{sfn|Heathcote|1999|p=93}}。1749年7月に{{仮リンク|第34カンバーランド歩兵連隊|en|34th (Cumberland) Regiment of Foot|label=第34歩兵連隊}}に移籍、1751年には連隊が[[ミノルカ島]]の駐留軍の一部になった{{sfn|Heathcote|1999|p=93}}。 |
[[オーストリア継承戦争]]では[[ジョージ・ウェイド]]元帥の下で1743年6月の[[デッティンゲンの戦い]]に参戦、1745年5月には[[ウィリアム・オーガスタス (カンバーランド公)|カンバーランド公爵ウィリアム・オーガスタス]]の下で[[フォントノワの戦い]]に参戦した{{sfn|Heathcote|1999|p=93}}。1746年4月6日に{{仮リンク|第48ノーサンプトンシャー歩兵連隊|en|48th (Northamptonshire) Regiment of Foot|label=第48歩兵連隊}}長に任命された後、16日に[[1745年ジャコバイト蜂起]]における[[カロデンの戦い]]に参戦した{{sfn|Heathcote|1999|p=93}}。続いて1747年7月に[[ラウフフェルトの戦い]]に参戦、瀕死の重傷を負ってフランス軍の捕虜になったが、数日後に[[仮釈放]]された{{sfn|Heathcote|1999|p=93}}。1749年7月に{{仮リンク|第34カンバーランド歩兵連隊|en|34th (Cumberland) Regiment of Foot|label=第34歩兵連隊}}に移籍、1751年には連隊が[[ミノルカ島]]の駐留軍の一部になった{{sfn|Heathcote|1999|p=93}}。 |
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== 初期の政歴 == |
== 初期の政歴 == |
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1741年、コンウェイは対立候補のないまま{{仮リンク|アントリム・カウンティ選挙区|en|Antrim County (Parliament of Ireland constituency)}}で当選して[[アイルランド議会 (1297-1800)|アイルランド議会]]の議員になり、同年12月には[[ロバート・ウォルポール|サー・ロバート・ウォルポール]]の勧めで{{仮リンク| |
1741年、コンウェイは対立候補のないまま{{仮リンク|アントリム・カウンティ選挙区|en|Antrim County (Parliament of Ireland constituency)}}で当選して[[アイルランド議会 (1297-1800)|アイルランド議会]]の議員になり、同年12月には[[ロバート・ウォルポール|サー・ロバート・ウォルポール]]の勧めで{{仮リンク|ハイアム・フェラーズ選挙区|en|Higham Ferrers (UK Parliament constituency)}}から出馬して当選、{{仮リンク|グレートブリテン議会|en|Parliament of Great Britain}}議員になった<ref name="ODNB" />。その後、[[1747年イギリス総選挙]]では{{仮リンク|ペンリン選挙区|en|Penryn (UK Parliament constituency)}}で、[[1754年イギリス総選挙]]では{{仮リンク|セント・モーズ選挙区|en|St Mawes (UK Parliament constituency)}}で当選したが、いずれも[[ファルマス子爵|ボスコーエン家]]の支持を受けての当選だった<ref name="ODNB" />。1755年3月12日、[[少将]]に昇進した{{sfn|Heathcote|1999|p=93}}。 |
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1755年4月、新しく着任した[[アイルランド総督 (ロード・レフテナント)|アイルランド総督]]の[[ウィリアム・キャヴェンディッシュ (第4代デヴォンシャー公爵)|ハーティントン侯爵ウィリアム・キャヴェンディッシュ]]によって予想外に{{仮リンク|アイルランド担当大臣|en|Chief Secretary for Ireland}}に任命された{{sfn|Heathcote|1999|p=93}}。そのため、1755年10月にようやくアントリム・カウンティ選挙区代表としてアイルランド庶民院に登院した{{sfn|Heathcote|1999|p=93}}。当時のアイルランド政界では庶民院議長[[ヘンリー・ボイル (初代シャノン伯爵)|ヘンリー・ボイル]]が{{仮リンク|アーマー大司教 (アイルランド国教会)|en|Archbishop of Armagh (Church of Ireland)|label=アーマー大司教}}{{仮リンク|ジョージ・ストーン (司教)|en|George Stone (bishop)|label=ジョージ・ストーン}}と[[ジョン・ポンソンビー (政治家)|ジョン・ポンソンビー]]が政争を繰り広げており、コンウェイの調停が期待された。結局、[[第一次ニューカッスル公爵内閣]]が受け入れられる妥協がなされ、ボイルが伯爵に叙され、ポンソンビーが庶民院議長になった<ref name="ODNB" />。1757年4月、ジョージ2世と[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]の{{仮リンク|寝室宮内官|en|Groom of the Chamber}}に任命され、1764年まで務めた<ref name="ODNB" />。 |
1755年4月、新しく着任した[[アイルランド総督 (ロード・レフテナント)|アイルランド総督]]の[[ウィリアム・キャヴェンディッシュ (第4代デヴォンシャー公爵)|ハーティントン侯爵ウィリアム・キャヴェンディッシュ]]によって予想外に{{仮リンク|アイルランド担当大臣|en|Chief Secretary for Ireland}}に任命された{{sfn|Heathcote|1999|p=93}}。そのため、1755年10月にようやくアントリム・カウンティ選挙区代表としてアイルランド庶民院に登院した{{sfn|Heathcote|1999|p=93}}。当時のアイルランド政界では庶民院議長[[ヘンリー・ボイル (初代シャノン伯爵)|ヘンリー・ボイル]]が{{仮リンク|アーマー大司教 (アイルランド国教会)|en|Archbishop of Armagh (Church of Ireland)|label=アーマー大司教}}{{仮リンク|ジョージ・ストーン (司教)|en|George Stone (bishop)|label=ジョージ・ストーン}}と[[ジョン・ポンソンビー (政治家)|ジョン・ポンソンビー]]が政争を繰り広げており、コンウェイの調停が期待された。結局、[[第一次ニューカッスル公爵内閣]]が受け入れられる妥協がなされ、ボイルが伯爵に叙され、ポンソンビーが庶民院議長になった<ref name="ODNB" />。1757年4月、ジョージ2世と[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]の{{仮リンク|寝室宮内官|en|Groom of the Chamber}}に任命され、1764年まで務めた<ref name="ODNB" />。 |
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1761年4月、コンウェイは{{仮リンク|テットフォード選挙区|en|Thetford (UK Parliament constituency)}}でイギリス庶民院議員に再選<ref>{{London Gazette|issue=10096|page=2|date=14 April 1761}}</ref>、同年7月4日に[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]]に任命された<ref>{{London Gazette|issue=10118|page=1|date=30 June 1761}}</ref>。彼は[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]{{仮リンク|ロッキンガム派|en|Rockingham Whigs}}の一員として、ジョージ3世による改革派[[ジョン・ウィルクス]]への訴追(1763年)に反対{{sfn|Heathcote|1999|p=93}}、その結果として1764年に寝室宮内官と第1王立竜騎兵連隊長を罷免された{{sfn|Heathcote|1999|p=93}}。これにより政府が政敵を軍から追放すると恐れられ、多くの人々がパンフレットを出版してお互いを告発することとなった<ref name="ODNB" />。 |
1761年4月、コンウェイは{{仮リンク|テットフォード選挙区|en|Thetford (UK Parliament constituency)}}でイギリス庶民院議員に再選<ref>{{London Gazette|issue=10096|page=2|date=14 April 1761}}</ref>、同年7月4日に[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]]に任命された<ref>{{London Gazette|issue=10118|page=1|date=30 June 1761}}</ref>。彼は[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]{{仮リンク|ロッキンガム派|en|Rockingham Whigs}}の一員として、ジョージ3世による改革派[[ジョン・ウィルクス]]への訴追(1763年)に反対{{sfn|Heathcote|1999|p=93}}、その結果として1764年に寝室宮内官と第1王立竜騎兵連隊長を罷免された{{sfn|Heathcote|1999|p=93}}。これにより政府が政敵を軍から追放すると恐れられ、多くの人々がパンフレットを出版してお互いを告発することとなった<ref name="ODNB" />。 |
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1765年7月、[[チャールズ・ワトソン=ウェントワース (第2代ロッキンガム侯)|ロッキンガム侯爵]]の首相就任とともに入閣、[[南部担当国務大臣]]を務めた後、1766年5月に[[北部担当国務大臣]]に鞍替え、1768年1月にさらに無任所大臣に鞍替えした{{sfn|Heathcote|1999|p=93}}。コンウェイは就任中にアメリカ植民地への中道政策を支持、[[印紙法]]廃止にも支持したほか[[財務大臣 (イギリス)|財務大臣]][[チャールズ・タウンゼンド (1725-1767)|チャールズ・タウンゼンド]]の徴税政策に反対した<ref name="ODNB" />。 |
1765年7月、[[チャールズ・ワトソン=ウェントワース (第2代ロッキンガム侯)|ロッキンガム侯爵]]の首相就任とともに入閣、[[南部担当国務大臣]]を務めた後、1766年5月に[[北部担当国務大臣]]に鞍替え、1768年1月にさらに無任所大臣に鞍替えした{{sfn|Heathcote|1999|p=93}}。コンウェイは就任中にアメリカ植民地への中道政策を支持、[[1765年印紙法|印紙法]]廃止にも支持したほか[[財務大臣 (イギリス)|財務大臣]][[チャールズ・タウンゼンド (1725-1767)|チャールズ・タウンゼンド]]の徴税政策に反対した<ref name="ODNB" />。 |
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== 後期の軍歴 == |
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== 家族 == |
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1747年12月9日、{{仮リンク|ジョン・キャンベル (第4代アーガイル公爵)|en|John Campbell, 4th Duke of Argyll|label=ジョン・キャンベル中将}}(後の第4代アーガイル公爵)の娘キャロライン( |
1747年12月9日、{{仮リンク|ジョン・キャンベル (第4代アーガイル公爵)|en|John Campbell, 4th Duke of Argyll|label=ジョン・キャンベル中将}}(後の第4代アーガイル公爵)の娘キャロライン([[チャールズ・ブルース (第3代アイルズベリー伯爵)|第4代エルギン伯爵および第3代エイルズベリー伯爵チャールズ・ブルース]]の未亡人)と結婚した{{sfn|Heathcote|1999|p=94}}。2人は1人娘{{仮リンク|アン・シーモア・デイマー|en|Anne Seymour Damer|label=アン・シーモア・コンウェイ}}をもうけ、アンは後に彫刻家になった{{sfn|Heathcote|1999|p=94}}。 |
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== 脚注 == |
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== 参考文献 == |
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*{{Cite book2|df=ja|last=Heathcote|first=Tony|title=The British Field Marshals 1733–1997|publisher=Pen & Sword Ltd|year= 1999|isbn=0-85052-696-5}} |
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== 関連図書 == |
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== 関連項目 == |
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== 外部リンク == |
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[[Category:アイルランドの枢密顧問官]] |
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2024年10月29日 (火) 03:35時点における最新版
Field Marshal The Honourable ヘンリー・シーモア・コンウェイ | |
---|---|
北部担当国務大臣 | |
任期 1766年5月23日 – 1768年1月20日 | |
君主 | ジョージ3世 |
首相 | チャタム伯爵 |
前任者 | グラフトン公爵 |
後任者 | ウェイマス子爵 |
庶民院院内総務 | |
任期 1765年7月14日 – 1768年10月20日 | |
君主 | ジョージ3世 |
首相 | ロッキンガム侯爵 チャタム伯爵 |
前任者 | ジョージ・グレンヴィル |
後任者 | ノース卿 |
南部担当国務大臣 | |
任期 1765年7月12日 – 1766年5月23日 | |
君主 | ジョージ3世 |
首相 | ロッキンガム侯爵 |
前任者 | ハリファックス伯爵 |
後任者 | リッチモンド公爵 |
アイルランド担当大臣 | |
任期 1755年 – 1757年 | |
君主 | ジョージ2世 |
副知事 | デヴォンシャー公爵 |
前任者 | ジョージ・ジャーメイン |
後任者 | リチャード・リグビー |
個人情報 | |
生誕 | 1721年 グレートブリテン王国、ミドルセックス、チェルシー |
死没 | 1795年7月9日 グレートブリテン王国、バークシャー、ヘンリー=オン=テムズ |
政党 | ロッキンガム派 |
配偶者 | キャロライン・キャンベル |
子供 | アン・シーモア・コンウェイ |
兵役経験 | |
所属国 | グレートブリテン王国 |
所属組織 | イギリス陸軍 |
軍歴 | 1737年 - 1793年 |
最終階級 | 陸軍元帥 |
戦闘 |
ヘンリー・シーモア・コンウェイ元帥(英語: Henry Seymour Conway、1721年 - 1795年7月9日)は、グレートブリテン王国の軍人、政治家。初代ハートフォード侯爵の弟、ホレス・ウォルポールのいとこであり、オーストリア継承戦争で軍歴をはじめた後、アイルランド主席政務官、南部担当国務大臣、庶民院院内総務、北部担当国務大臣を歴任した。晩年はイギリス軍最高司令官を務めた。
出自
[編集]コンウェイは初代コンウェイ男爵フランシス・シーモア=コンウェイ(コンウェイ男爵の兄ポパム・シーモア=コンウェイはコンウェイ伯爵家の遺産を継承した)と3人目の妻シャーロット(旧姓ショーター)の次男として生まれた[1]。1732年にイートン・カレッジに入学、そのときからいとこのホレス・ウォルポールと親しい間柄になった[1]。
初期の軍歴
[編集]1737年6月27日、中尉としてモールズワースの竜騎兵連隊に入隊した[2]。1741年2月14日、第1近衛歩兵連隊に移籍して大尉に昇進、1742年5月10日に中佐(captain-lieutenant)に昇進した[2]。
オーストリア継承戦争ではジョージ・ウェイド元帥の下で1743年6月のデッティンゲンの戦いに参戦、1745年5月にはカンバーランド公爵ウィリアム・オーガスタスの下でフォントノワの戦いに参戦した[3]。1746年4月6日に第48歩兵連隊長に任命された後、16日に1745年ジャコバイト蜂起におけるカロデンの戦いに参戦した[3]。続いて1747年7月にラウフフェルトの戦いに参戦、瀕死の重傷を負ってフランス軍の捕虜になったが、数日後に仮釈放された[3]。1749年7月に第34歩兵連隊に移籍、1751年には連隊がミノルカ島の駐留軍の一部になった[3]。
初期の政歴
[編集]1741年、コンウェイは対立候補のないままアントリム・カウンティ選挙区で当選してアイルランド議会の議員になり、同年12月にはサー・ロバート・ウォルポールの勧めでハイアム・フェラーズ選挙区から出馬して当選、グレートブリテン議会議員になった[1]。その後、1747年イギリス総選挙ではペンリン選挙区で、1754年イギリス総選挙ではセント・モーズ選挙区で当選したが、いずれもボスコーエン家の支持を受けての当選だった[1]。1755年3月12日、少将に昇進した[3]。
1755年4月、新しく着任したアイルランド総督のハーティントン侯爵ウィリアム・キャヴェンディッシュによって予想外にアイルランド担当大臣に任命された[3]。そのため、1755年10月にようやくアントリム・カウンティ選挙区代表としてアイルランド庶民院に登院した[3]。当時のアイルランド政界では庶民院議長ヘンリー・ボイルがアーマー大司教ジョージ・ストーンとジョン・ポンソンビーが政争を繰り広げており、コンウェイの調停が期待された。結局、第一次ニューカッスル公爵内閣が受け入れられる妥協がなされ、ボイルが伯爵に叙され、ポンソンビーが庶民院議長になった[1]。1757年4月、ジョージ2世とジョージ3世の寝室宮内官に任命され、1764年まで務めた[1]。
七年戦争
[編集]1757年のロシュフォール襲撃において、コンウェイはイギリス軍の副指揮官を務め、フーラ砦(Fouras)への攻撃をしきりに支持したが、それ以外の指揮官は夜襲にのみ同意、結果的には夜襲は失敗[1]、遠征隊は何も果たさないままポーツマスに戻った[3]。総指揮官のジョン・モードントは軍法会議で無罪になったものの、2人ともこの失態で名声に影響を受けた[3]。そして、国王ジョージ2世は1758年の戦役でコンウェイの派遣を拒否した[3]。以降次期国王即位(1760年)まで戦場に出られず、1759年にはスロイスで捕虜交換条約を締結しただけだった[1]。1759年4月21日、第1王立竜騎兵連隊長になり[4]、同年8月25日には中将に昇進した[5]。
1761年、ドイツでグランビー侯爵ジョン・マナーズ(フェルディナント・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル率いる軍勢のイギリス部隊指揮官)の副官を務めた[3]。1761年7月のフィリングハウゼンの戦いでは戦列の中央で部隊を率いたが、敵軍に攻撃されなかった[1]。1762年6月のヴィルヘルムスタールの戦いにも参加、7月にはヴァルデック城を占領した[1]。11月にフォンテーヌブローで予備講和条約が締結されると、イギリス軍の大陸ヨーロッパからの出港を監督、翌年3月に帰国した[1]。
後期の政歴
[編集]1761年4月、コンウェイはテットフォード選挙区でイギリス庶民院議員に再選[6]、同年7月4日に枢密顧問官に任命された[7]。彼はホイッグ党ロッキンガム派の一員として、ジョージ3世による改革派ジョン・ウィルクスへの訴追(1763年)に反対[3]、その結果として1764年に寝室宮内官と第1王立竜騎兵連隊長を罷免された[3]。これにより政府が政敵を軍から追放すると恐れられ、多くの人々がパンフレットを出版してお互いを告発することとなった[1]。
1765年7月、ロッキンガム侯爵の首相就任とともに入閣、南部担当国務大臣を務めた後、1766年5月に北部担当国務大臣に鞍替え、1768年1月にさらに無任所大臣に鞍替えした[3]。コンウェイは就任中にアメリカ植民地への中道政策を支持、印紙法廃止にも支持したほか財務大臣チャールズ・タウンゼンドの徴税政策に反対した[1]。
後期の軍歴
[編集]1768年1月に大臣を辞任すると陸軍に戻り、1772年5月26日に大将に昇進[8]、同年10月22日にジャージー総督に任命された[9]。この時期にも庶民院の重鎮であり、イギリスによるアメリカ反乱の鎮圧に反対した[10]。その結果、1782年3月の第2次ロッキンガム侯爵内閣でイギリス軍最高司令官として入閣したが[10]、小ピットの新内閣(1783年成立)に反対したため、1784年イギリス総選挙で敗北して議席を失い、ここにコンウェイの政治生涯が終わりを告げた。以降は軍務に集中してイギリス軍最高司令官を1793年1月に完全引退するまで務めた[10]。1793年10月18日、元帥に昇進[11]、1795年7月9日にバークシャーのレメナムのパーク・プレイスで死去した[10]。
家族
[編集]1747年12月9日、ジョン・キャンベル中将(後の第4代アーガイル公爵)の娘キャロライン(第4代エルギン伯爵および第3代エイルズベリー伯爵チャールズ・ブルースの未亡人)と結婚した[10]。2人は1人娘アン・シーモア・コンウェイをもうけ、アンは後に彫刻家になった[10]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m Towse, Clive (23 September 2004). "Conway, Henry Seymour (1719–1795)". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/6122。 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
- ^ a b Heathcote 1999, p. 92.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n Heathcote 1999, p. 93.
- ^ "No. 9888". The London Gazette (英語). 17 April 1759. p. 2.
- ^ "No. 9924". The London Gazette (英語). 21 August 1759. p. 2.
- ^ "No. 10096". The London Gazette (英語). 14 April 1761. p. 2.
- ^ "No. 10118". The London Gazette (英語). 30 June 1761. p. 1.
- ^ "No. 11251". The London Gazette (英語). 23 May 1772. p. 2.
- ^ "No. 11294". The London Gazette (英語). 20 October 1772. p. 1.
- ^ a b c d e f Heathcote 1999, p. 94.
- ^ "No. 13582". The London Gazette (英語). 15 October 1793. p. 913.
参考文献
[編集]- Heathcote, Tony (1999年). The British Field Marshals 1733–1997. Pen & Sword Ltd. ISBN 0-85052-696-5。
関連図書
[編集]- Hunt, William (1887). . In Stephen, Leslie (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 12. London: Smith, Elder & Co. pp. 51–57.
関連項目
[編集]- コンウェイズ・ブリッジ - パーク・プレイスにかかる橋
外部リンク
[編集]- ヘンリー・シーモア・コンウェイ - ナショナル・ポートレート・ギャラリー
- Conway, Henry Seymourに関連する著作物 - インターネットアーカイブ
- ヘンリー・シーモア・コンウェイの著作 - インターネットアーカイブ内のOpen Library
- "ヘンリー・シーモア・コンウェイの関連資料一覧" (英語). イギリス国立公文書館.